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経済・政治・国際

2017年8月21日 (月)

私は「覚醒した日本人が世の大半を占める」日は、それほど遠くない気がしています

ーー以下「余命ブログ」より抜粋編集

ーー読者「名無し」

弁護士の神原元氏が次のようにつぶやいています。

>■弁護士神原元@kambara7
>民衆の正義は法の正義を乗り越える

民衆が主張すれば大統領でさえ辞めさせられるということなのでしょう。

しかしこの考えは先進国では通用しません。

民衆が扇動されやすく、民衆の行動は必ずしも正しくはないと考えられているからからです。

ーー

また「民衆の正義は法の正義を乗り越える」というのは司法手続きは不要だと言っていることに成ります。

司法手続きを仕事にしている弁護士の言うことではありますまい。

そしてこのつぶやきは、「感情的な『復讐』の許可宣言」になっています。

つまり正義が正義を主張する人の数で決まる、と。

日本の人口は1億3千万弱、その9割以上が日本人のはずです。

その日本人が、「戦後社会が在日・反日勢力によって支配されていた」という事実に覚醒しつつあるのです。

ーー

日本人の多くが覚醒すれば、多くの日本人が、在日・反日勢力から「日本をとりもどす」ためにそれこそ正義の行動をし出すでしょう。

在日・反日勢力が、過去にやってきた事やら、いまやっている事を知れば、彼等に対する、日本人による徹底復讐が止められなくなると思います。

在日・反日勢力には著しい危険が及ぶはずです。

神原元氏は本当にそれで良いんでしょうか・・・。
 
ーー

しかしもう鎌倉時代から、日本人は政府(幕府)を信頼して、その法に従ってきたのです。

余命読者は、「在日・反日勢力の過去と今の行いに腸は煮え返りつつも、冷静かつ合法的に処理出来ればそれで良し」という日本人的考えの人が多いと思います。

しかし公平で信頼に足る政府というものを持ったことのない人たちは、「民衆の正義は法の正義を乗り越える」と言ってしまうのでしょう。

ーー

私は民主党政権誕生前にマスゴミが一斉に「自民党悪い」を絶叫していることに危機を感じました。

そしてマスゴミの世論操作が成功し民主党が圧勝した時にはさらなる危機感を覚えたのです。

実際民主党政権下の3.11震災では、後手後手対応で国民は苦しい生活を余儀なくされた。

更にはイ・ミョンバク韓国大統領に日本乗っ取り完了宣言まで出されてしまった。

ーー

今また「森本・加計報道」でマスゴミは「安倍悪い」を絶叫して、世論を安倍おろしに誘導しようとしていました。

これに対しネット上ではマスゴミ報道のことごとくに疑問が投げかけられていました。

そして、詳細で客観的な解説がなされて、ネット上での安倍さんへの支持は全く下がらなかったのです。

ーー

私は「覚醒した日本人が世の大半を占める」日は、それほど遠くない気がしています。

ーー抜粋ここまで

ーー余命

これ一発で懲戒請求することになっている。神奈川弁護士会も一緒だよ。

ーーここまで抜粋

ーー以下「余命ブログ」より抜粋編集

安倍政権は「(在日・反日勢力から)日本を取り戻す」作戦を進めている。

そして、「テロ等準備罪」が6月15日成立、7月11日に施行され、同日国際的な組織犯罪防止のためのパレルモ条約が締結され、8月10日に有効となった。

これで「綱領に革命による政権奪取を掲げる」日本共産党は、非合法化⇒消滅まで見えてきた。

余命はすべての政党に情報網を持っている。

共産党党員は必死の抵抗をしているが、この実情をシンパの人たちは知っているのだろうか。

ーー

支那・南北朝鮮は安倍叩きに余念が無い。

ということは、支那・南北朝鮮にとっては、それが国益にかなうということだ。

「日本再生」を掲げる余命周辺では共産党支持派は皆無となっている。

趣味の会は現状250名ほどになっているが在日と共産党と公明党が抜けた。

思想的には穏健派ばかりなのだが話をしているとまるで右翼集団である。

ーー

「安全保障関連法案に対して、反対の意志を伝える」

そのような相手は有事には日本人と敵対する集団と認識せざるを得ない。

日本の国益を毀損しようと活動している集団とはもはや折り合いを付けることは出来ない状況にある。

いつ何が起きてもおかしくないので、気をつけよう。

2017年8月20日 (日)

みかど崩御ののちは、和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬(とむら)い奉(たてまつ)る

ーー以下「ねずブログ10/24」より抜粋編集qazx

「仁徳天皇陵」は、正式名称を「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」といいます。

記紀に以下の記載があります。

『古事記』に、大雀命(おほささぎのみこと)が崩御され、毛受之耳原(もずのみみはら)にその陵墓があると、

(ここで「おおささぎ」とは巨大な陵墓を意味しますが、大雀の当て字は「もず」の事です)

『日本書紀』には、仁徳天皇は仁徳天皇87年(399)正月に崩御され、同年10月、百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬(ほうむ)られたと。

ーー

「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」という言葉は、平安時代の法令集である『延喜式』に登場し、

それが仁徳天皇の御陵(みささぎ)であることと、場所と大きさが記述されています。

ーー

「百舌鳥耳原中(もずのみみはらのなか)」という場所を示す名前は、

「ある日、突然鹿が飛び出してきて倒れて死んでしまった。鹿の耳から百舌鳥(もず)が飛び出し、調べると、鹿の頭の中身がなくなっていた」という伝承からきています。

上代において、死者の魂は鳥になって飛び去り、あるいは丹塗りの船に乗って海の彼方へ行き、または坂を越えて黄泉国(よみ)に行く。

日本書紀には、日本武尊(やまとたけのみこと)が亡くなった後、白(大)鳥(しろ・いとり)となって飛び去った。棺(ひつぎ)を開けてみると服だけがあった、とあります。

その伝承が大阪に、「おおとり」「しらとり」という地名を残しています。

「百舌鳥耳原中(もずのみみはらのなか)」は、

「神の使いとされた鹿(仁徳天皇)の魂が百舌鳥(もず)となって飛び去った」

「その大君が開拓された百舌鳥(平野)の盛り土(耳原)の中」と言う意味に成ります。

古来からの伝承が、このようにして、地名に込められたのだと思います。

ーー

仁徳天皇といえば、我が国の施政の根本を教えてくださった天皇です。

「民のかまどは賑いにけり」の物語です。

ーー

仁徳天皇の4年、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられて、

「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」と、

向こう三年の租税を免じられた。

三年が経ち、天皇が三国峠の高台に出られて、炊煙が盛んに立つのをご覧になり、

皇后陛下に、「朕はすでに富んだ。嬉ばしいことだ」とおっしゃると、

皇后陛下「変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」

陛下「よく聞け。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになる」

とおっしゃられたと記録されているのです。

ーー

さらに後日この両陛下のお話を聞いた諸侯が、次のように申し出たというのです。

「宮が破れているのに、民は富み、いまでは、道に物を置き忘れても、拾っていく者すらないくらいです。それでもなお税を納め、宮を修理させていただかないならば、かえって、わたしたちが天罰をうけてしまいます」と。

それでも仁徳天皇は、引き続きさらに三年間、税を献ずることをお聞き届けにならなかった。

そして六年の歳月が過ぎた時、やっと天皇は税を課し、宮の修理をお許しになった。

ーー

その時の民の有様を「日本書紀」は、次のように伝えています。

「民、うながされずして材を運び簣(こ)を負い、日夜をいとわず力を尽くして争いを作る。

いまだ幾ばくを経ずして宮ことごとく成りぬ。故に今に聖帝(ひじりのみかど)と称し奉る」

つまり民(たみ)が、陛下に深く感謝し、誰に強制されるわけでもなく、自ら進んで、材料を運び、荒れた宮(みや)を修理したというのです。

それも、昼夜をいとわず、力を尽くし、競い合って宮の修理にあたったのです。

ですから、いくばくも経たずに、宮は、きれいに修復された。

いつしか仁徳天皇は「聖(ひじり)の帝(みかど)」と呼ばれるようになった。

ーー

仁徳天皇のなさったこととして、

1 難波の堀江の開削

2 茨田堤(まんだのつつみ:大阪府寝屋川市付近)の築造(日本最初の大規模土木事業)

3 山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北~久世郡久御山町)に灌漑用水。

4 茨田屯倉(まむたのみやけ)設立。

5 和珥池(わにのいけ、奈良市)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)を築造。

6 灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し広大な田地を開拓。

7 紀角宿禰を百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録。

などが記録されています。

ーー

みんなが飢えないように、みんなが腹一杯飯が食えて、元気に生きれるようにするためには、それだけの食べ物を作らなければなりません。

そしてそのためには、土地を開墾し、農地を造らなければならない。

農地の中心は、いうまでもなく「田んぼ」です。

「田んぼ」というのは水田ですから水をひきます。つまり、田んぼは水平でなければなりません。

平野部であっても、デコボコしているものです。木も生えていれば雑草もある。岩や石もある。

その平野部に田んぼをつくるためには、地面を均(なら)し、木を伐り根こそぎにし、岩や石を取り除き、水路を引く必要があるのです。

しかも水を引くだけだと、洪水の危険があるので、堤防を築く工事も必要になります。

ーー

開墾工事というのは、ひらたくいえば、土木工事です。これを大規模に行えば、かならず大量の土砂(どしゃ)が出ます。

出てきた大量の土砂は、計画的にどこかに盛り土することになります。

こうしてできたのが現在古墳と呼ばれているものなのです。

ーー

だからこそ古墳は平野部にしかありません。土木工事の結果できる盛り土だからです。

昔の人にとっては、そんなことは常識でした。

特に仁徳天皇陵がある堺市を、上空から写した写真をみたらわかります。

堺のあたりは、広大な平地です。

いまでは、家だらけになっていますが、ほんの数十年前までは、そこは一面の田んぼだった。

そしてその真ん中に、仁徳天皇の御陵(みささぎ)があるのです。

ーー

以前、大林組が仁徳天皇陵を造るのに、どれだけの労力がかかったかを計算しています。

それによると、完成までに要した年月15年8か月、延べ人員796万人でした。

当時の日本列島の全人口は500万人程です。

延べ796万人の人たちが、15年8か月もの間、土盛り作業だけに狩り出されていたとでもいうのでしょうか。

そんなことをしたら、民だけでなく、為政者まで飢え死にです。

ーー

仁徳天皇は、人々とともに広大な水田を新たに拓かれたのです。

民衆のためにです。

規模が大きかった結果、平野の中央に巨大な盛り土が生まれた。

そして、人々の英知を結集して水田を開かれた仁徳天皇に、人々は大いなる感謝をした。

ーー

「みかど崩御ののちは、和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬(とむら)い奉(たてまつ)る」

お亡くなりになると、人々は、和泉国の百舌鳥野の陵(盛り土)に、仁徳天皇の御陵(みささぎ)を作ったと日本書紀に書かれています。

人々は、天皇がお亡くなりになると、その身(むくろ)を「和泉国の百舌鳥野の」盛り土(ささぎ)に「葬(とむら)い奉(たてまつ)」ったのです。

ーー

ちなみに、「みささぎ」の、「み」は敬称です。「ささぎ」というのは、大豆の実を入れている袋・莢(さや)のことを言います。

盛り土は横から見たら、大豆の莢(さや)そっくりです。亡くなられた貴人を、その莢のような場所に埋葬した。

と言うことに成ります。

ーー

みんなが力を合わせて、新しい広い農地を開墾し、みんなが腹一杯飯を食えるようになった。

その象徴のような盛り土(莢)に、その指導者の身(実とも書ける)を埋葬することは、ごく自然な行為だと思います。

ーー

最初は土木工事の単なる盛り土であったものが、御陵(みささぎ)となることで仁徳天皇の聖地となった。

そして、「立ち入るな」の意味で、鹿と百舌鳥(もず)の挿話が生まれた。

この事実は、当時の人たちにとって、常識なのであったでしょう。

ーー

地方に行きますと「◯◯広域農道」と名前のついた道路がよくあります。

それらは、昔、農作業と農産物の運搬のためにと、農家のみなさんが、協力して築いた道路です。

ひとむかし前までは、日本中にあるすべての道路も、その道路脇にある側溝も、全部、

村人たちが総出で、鍬(くわ)や鋤(すき)や”たこ”(盛り土を固める道具)を使って作っていたのです。

ーー

そして道路にせよ、田んぼにせよ、土地を整地すれば必ず行われるのが、切土と盛土です。

デコボコした土地を削ったり盛ったりするから、田んぼや道路ができる。

ーー

同時に、開墾した水田地帯に、必ず必要なのが「水屋」です。

水田地帯は、水を張りますけれど、水を張るということは、大水や鉄砲水による被害も発生するということなのです。

大水が出れば、人々は小高い丘に避難しなければなりません。

そのために、あらかじめ避難場所として、小高い丘を作り、その上に丈夫な仮小屋(水屋)を作っておく。

普段は見晴らしの良い場所ですが、それが万一の場合の避難所になるのです。

ーー

これが仁徳天皇陵のような大型の盛り土になると、大雨の時には、盛った土砂が流れ出してしまう危険があります。

ですから、そうした事態を防ぐために、大型の盛り土では、周囲にお堀を巡らせたのです。

これは土砂が、周囲の田んぼに流れ出さない工夫でした。

ーー

仁徳天皇陵の周囲には、小型の盛り土がたくさんあります。

天皇陵とされているものもあれば、いまだに墳墓であることが証明されていない盛り土もあります。

そこは、大雨の際の避難所だったと考えれば、納得がいきます。

昔の人にとっては、これは常識でした。

ーー

だから、仁徳天皇陵のあたり一帯は、高低差のほとんどない平野になっているのです。

そしてそのあたりでは、排水のこともよく考えられているので、洪水があまり起こらないのです。

ーー

平成20年、文化庁が仁徳天皇陵を世界遺産に推薦する構想を発表しました。

これは、仁徳天皇陵だけではなくて、履中天皇陵・反正天皇陵・仲哀天皇陵・応神天皇陵・允恭天皇陵など「百舌鳥古墳群」も含まれます。

文化庁のこの発表は、もともとはその前年に大阪府・堺市・羽曳野市・藤井寺市が、世界遺産の国内暫定リストへの追加を求める提案書を提出したことを受けたものです。

しかし「我が国の誇る御陵が世界遺産になるというのなら、結構な話じゃないか」と思うのは、浅はかというものです。

ーー

実は、この提案の背景には、次のような「ウラ」事情があるのです。

ーー

世界文化遺産登録には、審査が必要なのです。

その審査とは、「墓であるかどうかを調査させろ」というものなのです。

私に言わせていただければ「頭のおかしな自称学者」たちが、「墓あばきをさせろ」というのが、その背景にあるのです。

そして「墓あばき」が、天皇の権威とその存在を否定したい人たちの目標になっているのです。

ーー

これに対し宮内庁は、断固反対の立場を表明しています。

「陵墓は単なる文化財ではなく皇室の祖先祭祀の場である。よって静安と尊厳を維持すべきものである」と。

当然のことです。

ーー

そもそも日本は、天皇を頂点とする君主国なのです。

日本は、どんなに少なく見積もっても1300年以上の「神聖にして犯すべからざる」天皇のシラス国としての歴史があるのです。

すべての国民とすべての日本国領土が天皇の「おおみたから」なのです。

この原則があるからこそ、日本国民は、国民や国土を私的に支配し収奪する権力者からの自由を得ているのです。

ーー

現在の日本には、この古来からの日本の仕組みを否定する人たちが現れています。

なぜでしょうか。

ーー

天皇は政治権力を持ちません。単に権威として存在されており、領土領民を「たから」とされているのです。

政治権力者にとって、民衆も領土も天皇の「たから」だからこそ、私的に支配できない。

民衆のための政治をせざるをえない。民衆のために働かざるを得ない。

ーー

つまり、天皇の存在を否定している人は、独裁権力を握り、多くの民衆を自由におもいのままに支配したいだけなのです。

ーー

天皇陵は、天皇が「大御宝(おおみたから)」をシラしてきた、日本の君民一体の政治体制を示す証拠となる場所なのです。

証拠の場所だからこそ、聖地なのです。

ーー

陵墓公開要求をはじめ、仁徳天皇陵を「大仙古墳」などと呼ぶ運動は、天皇の権威をなくしたい、

煎じ詰めれば、日本文明を解体し、日本人を自由に支配したいという人達の邪悪な欲望に他なりません。

ーー

御陵(みささぎ)を護ることで、私たちは、君民一体という、これまで我々の祖先が守り通してきた日本の国のカタチを護ることができる。

我々の祖先は、「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」と称し、ここが、天皇の御陵であるとして、「聖地」として守り通してきたのです。

天皇陵は、単なる古墳ではないし、文化財や観光資源ではないのです。

私たち日本人の精神・思考・人生の源泉なのです。

「世界遺産」よりも何よりも、私たち日本人の「聖地」なのです。

仁徳天皇陵をはじめとする陵墓を世界遺産にし観光地にすることなど、私たちは断固反対しなければなりません。

2017年8月19日 (土)

支那人にとって歴史はニセモノの骨董品、贋作なのだ

ーー以下「宮崎正弘ブログ、書評」より抜粋編集

石平(対)いしゐのぞむ『支那が反論できない真実の尖閣史』(扶桑社)

北京は尖閣諸島は支那のものだと主張している。

その根拠は支那が支配してきたという歴史にあるという。

ところが、石平氏が言うように「支那人にとって歴史はニセモノの骨董品」なのだ。

つまり贋作、ということは本物の歴史があるはずなのである。

しかし本物を見極めるためには目利きが要る。

その目利きが、いしゐのぞむ氏なのだ。

ーー

いしゐのぞむ氏は支那の古文書、歴史文献の研究者だ。

そして「明代に皇帝から琉球へ派遣された使節」が残した「上奏文」に「尖閣諸島から琉球がはじまる」と書いてあることを示したのだった。

この事実は産経新聞が2012年7月17日付けの一面で大きく報じた。

石平氏と氏は、ほかにも膨大な尖閣史料と世界航海地図を読み解き、真実の尖閣史とは何かを書いている。

ーー

北京は今インドとにらみ合っている。

シッキム、ブータンの領土を強奪して、ここにバングラデシュに通じる回廊をつくり、インドの東西分断を図ろうとしているようだ。

もしインドが隙を見せたら電光石火、北京はあそこを盗むだろう。

なぜ、この時期なのかといえば、米国がいま北朝鮮問題で忙しく、インド国境の問題に介入する余裕がないからだ。

インドも米国の介入は望んでいない。

ーー

北京は、フィリピンからスカボロー礁を盗み取った。

が、米艦隊は「航行の自由作戦」と称して、その領海に駆逐艦を航行させて嫌がらせをするだけだ。

北京は、そんな米国をなめきっているのである。

ーー

支那共産党は革命後支那を手に入れ、南モンゴルを侵略して内蒙古自治区を作り、東トルキスタンに侵略して新彊ウィグル自治区を作った。

そしてチベット全土を掠奪した。

そして北京は、琉球回収(つまり沖縄奪還)と叫び、台湾まで「支那の不可分の領土だ」と言い張っている。

これら北京が主張する歴史というのは、贋作であることに成る。

ーー

つまり北京が振り回している歴史というのは、口実であり、その実態は帝国主義的侵略にすぎない。

ーー

いしゐのぞむ氏はこんな北京に客観的事実としての歴史を突き付けたのだった。

漢文で書かれた古い文献を収集し、その漢文を読み解いたのだ。

しかし本物の古文書は高価である。

それを自費で購入し、誰の支援も、国の推奨金もなくやり遂げた。

ーー

明代の公文書「皇明実録」には、尖閣は琉球に属し、「明の領土ではない」と明記されている。

そればかりか「台湾の付属島嶼でもない」と書かれていた。

清朝になると「琉球紀行は次第に詳しくなり、琉球人が水先案内をする海域も明確化されてくる。それはなんと大陸のすぐ近くの馬祖列島からなのである」(p47)。

琉球の水先案内人(向導)がいないと「琉球へ出航さえできない」のだ。

つまり明国や清国が尖閣諸島を領有していた歴史はなかったということになる。

ーー

北京は、歴史を持たない周辺諸国に対して、「歴史的に支那のもの」と難癖をつけて、周辺諸国から領土や領海を奪い取ろうとしている。

例えば、南シナ海の岩礁を勝手に埋立て人口島とし、軍事施設を建造して「昔から支那領だ。文句あっか」と開き直っている。

ーー

日本は、これら歴史を持たない周辺諸国とは違う。

尖閣諸島は歴史上日本の固有の領土なのである。

推薦の百田尚樹氏が言うように「尖閣を奪取されたら日本はおしまい」である。

つまりその時点から日本は主権国家とは言えなくなる。

我が国は断固として固有領土を守り抜かなければならない。

ーー

民主党政権は、尖閣で領海侵犯した支那人漁師をさっさと釈放した。

日本は固有領土を守らないという恥を、国際社会に晒した。

この民主党政権の体たらくに、怒髪天を突くような怒りを抱かなかった日本人は居るまい。

2017年8月18日 (金)

この男、足下(貴方)を刺すらしいが、ともかく会ってやってくれ

ーー人見勝太郎略歴

天保14年(1843年)、二条城詰め鉄砲奉行組同心・人見勝之丞(御家人10石3人扶持)の長男として京都に生まれる。慶応3年(1867年)12月に遊撃隊に入隊し、前将軍・徳川慶喜の護衛にあたる。

鳥羽・伏見の戦いにおいては、伏見方面で戦い、その敗退後は、江戸へ撤退して徹底抗戦を主張する。遊撃隊の伊庭八郎ら主戦派とともに房総半島へ移動し、請西藩主・林忠崇と合流するなど、小田原や韮山、箱根などで新政府軍と交戦した。奥羽越列藩同盟に関与し、北関東から東北地方を転戦した後、蝦夷地へ渡る。

箱館戦争においては、箱館府知事・清水谷公考に嘆願書を渡す使者となり五稜郭に向かうが峠下で新政府軍と遭遇、峠下の戦いに参加。旧幕府軍の蝦夷地制圧後は、蝦夷共和国の松前奉行に就任した。明治2年(1869年)5月11日の箱館総攻撃に際しては七重浜に出陣、辞世を揮毫した旗を翻し戦ったが負傷、箱館病院に入院。5月18日、新政府に降伏し、捕虜として豊前香春藩(旧小倉藩)に預けられたものの、翌明治3年(1870年)に釈放。五ヶ月間鹿児島に旅し、西郷隆盛などと交遊している。

維新後は、明治4年(1871年)、静岡に徳川家が設立した静岡学問所で、校長に相当する学問処大長に就任。明治9年(1876年)に大久保利通の推挙により勧業寮に出仕し、製茶業務に従事した。明治10年(1877年)、群馬県官営工場所長、明治12年(1879年に)茨城県大書記官、翌年には茨城県令を務める。その後は実業界に転じて、明治20年(1887年)に利根川と江戸川を繋ぐ利根運河会社を設立、初代社長に就任。その他、サッポロビールや台湾樟脳会社の設立に関与している。

明治30年代よりたびたび史談会に出席し、幕末維新期に関する談話を残している。大正11年(1922年)、死去。享年80。

函館市人見町にその名を残している。

ーー辞世の詩

箱館戦争において、1869年5月11日、七重浜の戦いに臨む前に詠んだもの。
幾萬奸兵海陸来
孤軍塲戦骸成堆
百籌運盡至今日
好作五稜郭下苔(苔は死に場所)

ーー以下「宮崎正弘ブログ、書評」より抜粋編集

中村彰彦『幕末遊撃隊長 人見勝太郎』(洋泉社)

幕末、土佐脱藩の坂本龍馬、長州脱藩の吉田松陰など、脱藩者が数限りなく現れたのだが、徳川脱藩は珍しかった。

人見勝太郎はその珍しい「徳川脱藩」組であった。

しかも剣の使い手であったので、幕府の遊撃隊に加わって、官軍との戊辰戦争を戦いながら、甲府、箱根から江戸へ戻り、榎本武楊らに合流。

やがて奥州へ転戦し、「蝦夷共和国」宣言時には松前で守備に就いた。

死線をくぐりながら近藤勇はもちろん、伊庭八郎(剣豪山岡鉄舟と互角の勝負をした)らと知り合う。

幾多の戦闘に勝ち抜き、五稜郭の生き証人となった。

ーー

同時代を生きた人々の多くが、1853年のペリー来航以来の疾風怒濤に運命を大きく変えさせられたのだった。

ーー

五稜郭で降伏後、西郷、大久保と知遇を得て新政府に仕え、西南戦争では駿河藩から志願兵を募集する役目を与えられた。

人見の中では、幕府⇒蝦夷共和国⇒明治政府への移動が矛盾するものではなかったようなのだ。

だから、勝海舟とも深く交わった。

明治三年五月人見勝太郎は、勝海舟に村田新八への紹介状を書いてもらい、それを持って、鹿児島へ向かった。

西郷の暗殺を企てたのだ。

勝の書状には、「この男、足下(貴方)を刺すらしいが、ともかく会ってやってくれ」と記されていた。

(勝海舟の『氷川清話』にその一節がある)

ーー

その途中、瀬戸内海の海賊・奇兵隊の残党と一戦を交えている。

ーー

薩摩隼人というのも変人ぞろい。

村田新八、桐野利秋らは西郷の刺客・人見勝太郎を歓待したのだ。

人見は実際に西郷を殺そうとして邸を訪ねている。

西郷はちょうど玄関で横臥していた。

人見の来訪を聞くと、起き直って『わたしが吉之助だ』と名乗るや、『わたしは天下の大勢などという難しいことは知らない』という。

そして、『先日大隅へ旅行した。その途中で腹が減ってたまらぬから、十六文で芋を買って食ったが、たかが十六文で腹を養うような吉之助に天下の形勢などわかるはずがないではないか』と言って大口をあけて笑った。

人見は、挨拶も録にせず帰ってきて、『西郷さんは、実に豪傑だ』と話した。(p227)

人見は西郷ら薩摩隼人から大歓待を受けて百日も鹿児島に留まったのだという。

ーー

男同士だと、相手の胆力(度胸)を感じることができる。

当時はまだ胆力が人を動かす時代だった。

人見は剣術の修業過程でこの胆力を身に着け、戦場で磨きを掛けていたのだと思われる。

そんな彼でも、西郷にとてつもない胆力を感じて、これはかなわないと思ったのだろう。

ーー

人見勝太郎の写真を見ると伊達男に見える。

謀略を好む陰惨な策士という印象がない。

それでも人見の胆力は尋常ではなかったようなのである。

誰もが治められないと言われた茨城県の県令(県知事)となったのだが、人見が県令になると治まってしまったのだった。

そして人見勝太郎が、奇々怪々、不思議な波瀾万丈の生涯を閉じたのは80歳、大往生だった。

2017年8月17日 (木)

西郷は詩人だった

ーー以下「宮崎正弘ブログ、書評」より抜粋編集qazx

平泉澄『首丘の人 大西郷』(錦正社)

「死に臨んで故郷を忘れず、元の丘の方へ首を向けて死ぬのが孤のならわしである」

西郷は延岡に敗れて可愛岳を越え、山川を超え、けものみちを歩き、とうとう城山へ帰り着く。鹿児島は故郷、死ぬ場所は決まっていた。

「晋どん(別府晋介)、このあたりでよか」と言って介錯される前に、西郷ははるかの皇居を遙拝した。

ーー

西郷隆盛は熱狂的愛国の精神で真心をこめて維新に邁進した。

平泉氏は水戸学の尊皇思想が維新回転の基礎的思想になったとしている。

その水戸学の源流は古事記と日本書紀にあり、山鹿素行、北畠親房、楠木正成、菅原道真そして義経が英雄として語られる。

越前からでて攘夷派の世論を席巻した天才・橋本左内は開国維新を説き、幕府と鋭角的に対立した。

「ひろく豪傑俊才を集め、皇国日本本来の姿に復して、天皇の御旗の下に、三千万の国民一致団結し、港を開いて万国と交わり、採長補短、慎重に、同時に急速に、欧米の学問文化を採用し、世界に雄飛すべし」

この橋本景岳(左内)の計画は、井伊大老の登場により瓦解した。

橋本左内の思想的源流は藤田東胡などの水戸学であり、西郷もまたその藤田から学ぶことが多かった。

それゆえ西郷は、もっぱら武士道、道徳、尊皇攘夷を語った。こんな西郷にあっては諜報、陰謀、陽動などの軍略は不向きであろう。

西郷の死後、庄内藩士がまとめた『大西郷遺訓』には、謀略優先の孫子と無縁の道義の世界が拡がっている。

平泉氏は橋本左内を吉田松陰より上位に置いたかに見える。だが、2人は安政の大獄の犠牲になって、はやくに世を去った。しかし尊王思想は残った。

西郷はこの安政の大獄を逃れようと僧月照とともに海に飛び込むが一人蘇生する。島津藩は、藩をあげて西郷を匿い、菊池源吾に名を換えた西郷を、奄美大島に逃がす。

一人生き延びたことに天命を感じた西郷の胸裏に去来していたのは尊王へのさらなる確信である。

ーー

西郷に対比される大久保利通は冷血な打算を秘めた実行者である。西郷は先駆者で力まかせの辣腕怪腕をふるったが、維新後の国づくりの先見力、構想力があったのはむしろ大久保であった。

ーー

戊辰戦争のおり、薩長軍の兵力は幕府軍の十分の一でしかなかった。ところが相手を烏合の衆とみた薩長軍には騎虎の勢いがあった。

何よりも将軍慶喜は朝敵に成ることを恐れる人だったのだ。

「承久の乱」でも、北条泰時は途中で鎌倉へ引き返し、天皇が自ら兵を率いた場合の対処を義時に尋ねた。

義時は「天皇には弓は引けぬ、ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。都から兵だけを送ってくるのであれば力の限り戦え」と命じたと言う(『増鏡』)。

将軍慶喜は「天皇には弓は引けぬ」として、一目散に逃げ出した。会津は京都守護職として最悪の貧乏くじを引いた。

これでは幕府軍も戦えない。

一方の薩長は、薩英戦争、馬関戦争をくぐり抜け、自らが血路を切り拓いたという実戦の経験からも火力に富み、それを背景に士気が高い。

ーー

ここで忘れてはならないのが列強の介入である。

幕府にはフランスがテコ入れを申し入れ、薩長軍には英国が絡んだ。

(アーネスト)サトウが、『なんぞ英国へご相談なされたき儀も御座候はば、承知いたし候』と持ちかけてきた。

西郷は之に答えて、『日本政体変革の処は、いずれ共、我々尽力致す可き筋にて、外国の人に対して面皮もなき訳と返答いたし置き候』」と、英国の介入を決然と峻拒した。

インドもシナも、いや朝鮮も、ジャワも、アジアのことごとくは外国が介入し、国内が分断され、あげくは西洋列強の植民地となった。

日本は西郷らの英断によって列強の介入を潔しとせず、自立独立の道を尊んだのだった。
 
ーー

ところが後年、西南戦争で熊本鎮台を囲んだ西郷軍は、戦術論ともいえない、ひたすらの決戦論に傾いた。

桐野利秋は、戊辰戦争とりわけ鳥羽・伏見の戦役を思い出し、官軍の「十倍の兵力はものの数にあらず、吹き飛ばしてみせようぞ」と怪気炎をあげた。

ここには戦争の戦術、戦略が乏しく、また兵站の配慮がなされていない。

おどろくほど稚拙である。
そこには科学的合理性がない。
論理性より情念が先行している。

西郷にはもとより軍略なく、したがって薩軍には軍議らしい軍議もなく、熊本を無視して長崎か小倉を先に陥落させれば、西郷軍の勢いに押されて各地の武士が立ち上がるだろうと期待した。

適切な判断の軍略は桐野、篠原国幹らによってあっさりと退けられた。

ーー

反乱軍には西郷を慕って九州各地から不平武士らが大挙して駆けつけた。

しかし西郷は本陣にあっても殆ど発言せず、側近に判断を委ねた。

まさに「天命に従う」心境なのだ。

反乱側には、勝つための戦略はなく士気と抜刀隊に依拠して勝てるとする精神論が支配していた。

その精神論は、尊王思想というより西郷の「日本精神、武士道、正義の思想」に殉じようというのだ。

西郷隆盛は最後の決戦地となる延岡まで兵士の前に現れることはなかった。

西郷は、親衛隊に徹底的に身辺を守られ、戦闘現場に現れたのは延岡の和田越峠と、自決の城山だけだった。

奇怪とも言える。
 
ーー

振り返れば西郷は、戊辰の役で、にわかに官軍となった薩長軍を統率する最高司令官となっている。

しかし戦闘の戦術は部下が裁定していたのだった。

江戸無血開城のあと、鹿児島を行き来して、越後が苦戦と聞けば駆けつけ、函館が苦戦と聞いてまたも鹿児島から新兵を率いて駆けつけた。

西郷が、戊辰を最後まで見届けたとはいえ、具体的な戦闘の記録はない。

西郷はあくまでも官軍の精神的支柱だった。

ーー

軍神として慕われても、西郷が、実際の戦闘を指揮していたわけではなかったのだ。

江戸の上野寛永寺に籠もった旗本の残党や幕臣らとの戦闘は大村益次郎に任せた。

薩長は時の勢いを加えて江戸へ攻め込む算段をととのえて、すでに甲府は落としている。

この段階で幕府は密使を立てて山岡鉄舟を駿河に陣取る西郷隆盛のもとへ派遣した。

西郷は山岡の提案をこの時点で呑んだのである。

この段取りのあとに、ようやく幕府の正式代表として勝海舟が登場する。

西郷は相手の話を聞き入り、条件をその場で呑み、約束したことを違えなかった。

ーー

勝海舟とて、なんの手も打っていないわけではなく談判決裂のおり、江戸を焦土として、決戦に臨む覚悟と兵力の構えがあった。

新門辰五郎ら火消し仲間は、その段取りさえ済ませ、西郷・勝会談の結果を待った。

危機に直面したときにすこしも慌てず、事態の収拾に悠然として対峙できる人徳は特筆すべきことだ。

我(宮崎)が師・林房雄は、「西郷は詩人だったから(あの偉業が)できたのだ」と常に言っていた。

ーー

平泉博士も、この立場である。

西郷は、「天成の詩人であって、その趣向、その修辞の美しいばかりでなく、本人の人柄と経歴とが詩であり、そこにいわゆる風雅の墨客には決して見られない天来の風韻に接する感じ」があった。

明治維新の三傑とは西郷、大久保、木戸を言うが、西郷を育てたのは英邁な藩主・島津齋彬であり、大久保が活躍の場をえたのは西郷が三年の島流しの間に島津久光の信任を得たからである。

木戸孝允の突出は毛利藩内の内部闘争が激しく人材が払底し、久坂玄瑞も、高杉晋作も斃れ、残るは山県有朋、伊藤博文ら若輩たち、したがって藩の外交を一手に引き受けた。

大久保を背後で支えたのは岩倉という陰謀たくましき公家であり、また小松帯刀の支援が強靭な支えとなった。

西郷の周りから詩が生まれたが、大久保と木戸の合理主義の周囲に詩はなかった。

後者ふたりが残したのは名文の漢詩である。
 
ーー

西郷は「道義国家の建設」という漠然として茫洋たる目標の下に行動した。

が、大久保と木戸には、新国家はいかなる体制で運営するべきかという構想があった。

西郷は維新の達成に貢献したが、新国家建設に対しては大久保と木戸が熟慮しており、西郷にはこれという具体的政策はない。

しかし廃藩置県という荒治療をやりとげるには、西郷が必要だった。

ーー

これが明治六年の政変の伏線である。

なぜ西郷と大久保の親密な風月はすさまじい風とともに去り、ふたりは対立するようになったのか。

しかも西郷は政治的野心なく、主唱した「征韓論」が破れるとさっと故郷へ帰った。

木戸は病気を理由に、征韓論騒ぎから日和った。

大久保から見れば遣欧使節団の帰国までの間に、あたらしい政策決定をしないという取り決めがあった。

にも拘わらず西郷はさっさと、しかも次々と新政策を打ちだして実行に移していた。

約束が反故とされたことに大久保は立腹したという解釈がまかり通った。

文明開化を急ぎ、伝統を台無しにすることに耐えられないとして西郷は鹿児島へ憤怒とともに帰ったとされた。

ーー

ところが、平泉博士は次の分析をされる。

明治六年十月十五日の閣議において、一度は征韓論の西郷の主張が通った。

散会後、舞台裏で、岩倉を中心に陰謀が進んだが、西郷はまったく動こうとしなかった。

ふたりの対決の原因の一つは西郷の天皇への直訴を恐れたからだ。

「宮中に対する態度の相違である。西郷が明治天皇の厚き御信任を戴いていた事は、西郷の病気を御憂慮遊ばされ、侍医およびドイツ人医師を御差遣になり、診察せしめ給うた一事によっても明らかである」

「而るに西郷は、朝鮮遣使問題について、太政大臣を差し置いて、直接天皇に上奏し、親しく天裁を仰ぐことは畏れ多い事、非礼の義なりとして、希望もしなければ考慮もしなかった」

西郷は、「これは天命如何とする能わざるものと観念したのであった」。

岩倉は、「その西郷の無私純忠の精神を理解せず、西郷は直接上奏、すなわち直訴するかも知れないとして恐れた」。

この物証は、十月二十に日に岩倉が大久保に充てた書状で明らかとなっている。

ーー

西郷は詩人だった。

詩は天地(あまつち)を揺らし
人々を全力で走らせ
基幹から国を動かす

平泉博士は最後にもう一度このことを強調して曰く。

「詩を作った人は、明治の功臣に数多くいるが、西郷のは文字を弄び平仄を合わせた程度のものではなく、生命が躍動していて、人間そのものが詩であるように感じられる」

「詩もよいが書簡も面白い。英傑の磊々落々たる気風が書簡に流露しているのは、前には豊臣秀吉、後には西郷、双璧と言って良い」

秀吉はのびのびとした和歌の秀作を残しているので詩人だったかも知れないが、ときに冷血な謀略をしかけ、戦闘には冷酷に対応し、同時に人たらしであり空前の陰謀家だった。

西郷とは気風が異なる。

ーー

本書は評者(宮崎)に大きな感動をあたえたが、読み終えてまだその余韻が胸裡に去来している。

幕末維新を語った歴史評論、歴史書のたぐいは数知れずある。

本書は西郷の熱血と愛国が支配しており、西郷論として、間違いなく名作として残るだろう。

2017年8月16日 (水)

NHKもこのままでは、国民から半ば強制的に金を集めることはもうできなくなるはずです

ーー以下「Ttensanブログ」より抜粋編集

在日・反日勢力は、占領軍の占領政策に協力することで、敗戦利得者となり戦後長い間、政財界・教育界・言論界・メディア・法曹界を支配してきました。

彼等は、敗戦利得者としての利権を守るために、日本の「国軍不保持、交戦権放棄」の憲法と東京裁判史観を国民に強制してきたのです。

在日反日勢力は、日本が軍事的脅迫によって金を出すような国のままにしておきたい。

つまり、日本をいつまでも主権国家にしないために活動してきた。

ーー

ソ連崩壊後の文書流出で、在日・反日勢力の中にはKGBから金銭的、物的両面で支援を得ていた事が裏付けられた人間もいます。

小田実はそんな反日勢力の一人だったのですが、亡くなった時にテレビ朝日の報道ステーションは彼を持ち上げる特集を行いました。

徹底して北朝鮮の味方を続けるなどしていた彼は在日・反日勢力の中ではまだ英雄であるようです。

金を貰って反日活動をし金のために日本人を裏切っていたのに。

ーー

在日・反日勢力は、戦争責任と「国軍不保持、交戦権放棄」の憲法を日本人に強制してきました。

在日・反日勢力は、世界戦2の勝者の立場に立っていることになります。

つまり、彼等は敗戦利得者であり、勝者の立場を手放したくないのです。

だからありもしない被害を捏造して日本人に贖罪意識を植え付けようと躍起になっている。

既得権益を失うまいとして必死になっている。

ーー

ネット環境によって、これまで日本人を黙らせた東京裁判史観さえ、その効力が消えかかっている。

それで在日・反日勢力は、新たに日本人を縛り付け押さえつけるためのネタを作らなければとそう考えたのだろうと思います。

昨日の8月13日に、NHKで「731部隊の犯罪」を取り上げていました。

ところが、その証拠だとして出してきたのが、ハバロフスク軍事裁判だったのです。

4年間も洗脳した人物の証言を証拠にするのですから、「あほバカ最低」というべきで、あきれて物が言えない。

それも音声記録、これでは原稿を読まされているだけ、と反論されて終わりです。

ーー

731部隊は防疫給水部であり、戦場での水の確保と防疫の研究をしていた部隊です。

人体実験だなんだなんてのは森村誠一が「悪魔の飽食」ででっち上げた話です。

森村誠一は「悪魔の飽食」という虚構を実録だとして書きました。

731部隊が人体実験をやっていたとして日本人に贖罪意識を植え付けるのが目的でした。

ーー

ところが、「悪魔の飽食」には内容に明らかな虚偽がそこかしこにあった。

だから森村は、虚偽が指摘される度に修正した。

修正しなければ成り立たない「実録(ノンフィクション)」という恥ずべき作品でした。

「嘘がバレるたびにその都度修正していくノンフィクション」

という最低の作品だったのです。

ーー

が当時は、嘘でも「日本は悪だった」という事にすれば、在日・反日勢力が宣伝してくれ、とりあえず飯が食えた。

ーー

当時は、在日・反日勢力にとってはとても良い時代だった。

それが忘れられない人たちがNHKの中にも居たのです。

彼等は、日本人にあらためて贖罪意識を刷り込もうとしたのだった。

ところがもうどこにもそんなネタは無い、

それで彼らは、誰も相手にしなかった、旧ソ連が行ったハバロフスク軍事裁判なんてものを持ち出してきた。

ーー

「公平性も客観性も合理性も全くない」旧ソ連の軍事裁判を持ち出すなんて、「あほバカ最低」だ。

ーー

特に今の若い世代にはこういうデマはほぼ通用しません。

ですが、日本メディアは「森友や加計」を垂れ流して、主婦層を反安倍に成功しています。

それでとにかく虚報を刷り込み続けるのでしょう。

ーー

しかしそんなことをしていれば、信用されなくなる。

ーー

それで、公共放送としてのNHKに疑問が投げかけられるようになった。

NHKについては完全民営化か緊急災害情報以外はスクランブル化させるということを考えなければならない時期に来ている、と。

しかしNHKは国会で、スクランブル化は技術的に難しいと答弁した。

ーー

ところが、地上デジタル放送というのは、B-CASのユニークIDでユーザーを特定し、特定のIDに対して録画禁止コードを送ったりできるようにしているのです。

つまり、スクランブル化は膨大な作業を要し技術的にも難しいなどというNHKの答弁は確実に虚偽です。

現にBSデジタルの方ではNHKは契約をしていないユーザーには契約を要求する画面を出し続けてユーザーの視聴を妨害しつづけています。

ーー

実はスクランブル化を最初に言い出したのはNHKなのです。

ですがNHKが内部調査を行ったところ、スクランブル化をした場合は解約者が続出するという事がわかった。

それで、スクランブル化は国会で公然と虚偽答弁を繰り返してでも阻止するという方針になったのです。

そして現在は「公共放送でスクランブル化はありえない」とまで言っています。

ーー

しかしNHKはもはや公共放送とは言えないような不公平な報道を繰り返している。

特集番組まで作って韓国企業の製品を宣伝している。

子会社を作って、そこに番組制作を発注することで、お金を回している。

子会社で行われる不正は会計検査院の監査外になっているのです。

ーー

メディア(マスゴミ)は、第4の権力として、司法・行政・律法の権力や既得権益を批判してきました。

ところがメディア(マスゴミ)は、巨大権力と化したNHKや、NHKという巨大既得権益を批判しない。

特権の上にあぐらをかいて、ボロ儲けし続けてきた業界なので、その特権を批判するなんて100%ありえない。

ーー

しかしその特権は国民が与えたものなのです。

それを忘れて、国民に、虚報で贖罪感を植え付けるなどというのはとても許されることではありません。

「戦後」を終わらせるためにも、今のメディア(マスゴミ)の虚報については、罰則と処罰が必要だということです。

NHKもこのままでは、国民から半ば強制的に金を集めることはもうできなくなるはずです。

2017年8月15日 (火)

もうNHKは日本人の敵と言っても良いだろう

ーー以下「正しい歴史認識ブログ」より抜粋編集

戦後NHK会長となったのは東大教授・高野岩三郎だった。

これはもちろん占領軍がおこなった人事である。

彼は5千百名におよぶ日本人検閲集団を統率した。

以来日本の言語空間は完全に占領軍の膝下に組み敷かれた。

ーー

彼等は旧体制を破壊するという占領軍の占領政策に協力したのだった。

まず、旧体制の協力者25万人の名簿を作成し公職・政財界から追放した。

もちろん空席となったところには、追放した人たちに代わって、彼ら占領政策協力者たちが就任した。

これが、彼らが敗戦利得者と言われている理由なのである。

ーー

そして、占領軍の戦争責任教育計画WGIPに従う形で、日本人に戦争責任を強制したのだった。

大東亜戦争という言葉は禁止され、太平洋戦争の呼称が強制された。

スミス企画課長が書く「太平洋戦争史」が日本の全国紙に掲載された。

「日本国民は悪くない・悪いのは日本軍国主義」
「日本は支那やアジアを侵略した」

NHKラジオでは10週連続ドラマ「(戦争の)眞相はかうだ」として日本を悪とする広報・宣伝(プロパガンダ)放送が行われた。

人口20万の都市・南京で日本軍によって30万人が虐殺された、という「南京大虐殺」がでっち上げられ繰り返し放送された。

ーー

旧体制協力者が公職から追放され、言論は検閲によって規制(プレスコード)された。

戦勝国を批判することや、朝鮮人(戦勝国民だと僭称していた)を批判することも禁止された。

支那は日本政府に対し「支那」の呼称の禁止を命令した。

これが1945年から1952年まで続けられたのである。

ーー

こうして占領軍とその協力者が作り上げたのが、戦後体制(rejime)なのである。

ーー

その核心は、憲法九条「国軍不保持・交戦権放棄」である。

交戦権放棄は、例え武力があっても日本は侵略者を攻撃出来ないということだ。

戦後体制とは連合国(戦勝国)が日本(武装解除中)をいかようにでも出来る体制だったということに成る。

ーー

しかし日本の政治家は、1952年にサンフランシスコ条約を締結した後も、「国軍不保持・交戦権放棄」の憲法を改正しようとはしなかった。

むしろこの条項を盾に、朝鮮戦争、ベトナム戦争への出兵要請を拒否したのだった。

しかしいつまでも、「国軍不保持・交戦権放棄」のままでは、主権国家とは言えまい。

それで、安倍政権となってから、集団的自衛権の行使を可能とする安保法制が整えられた。

ーー

しかし、まだ国内には、NHKを始めとするメディアの敗戦利得者(組織)が、戦後体制を維持しようとして工作をしている。

例えば、NHKは証拠の提示が不十分なままに、この8月13日に、旧日本軍の731部隊が人体実験をしたと報じた。

しかし731部隊の行為については、(南京大虐殺をでっち上げた)東京裁判でも審理すらされなかった。

2007年1月18日、米国立公文書館は、731部隊が満州で行った細菌戦研究などに関する米情報機関の対日機密文書10万ページ分を公開した。

この時、石井四郎中将を始めとする731部隊関係者の個別尋問記録や、石井中将が細菌戦研究の成果を1947年6月ごろ執筆し米軍に引き渡したことを裏付ける最高機密文書も明らかになった。

「当面は細菌戦を想定していない」と結論づけた文書も公開された。

奉天(瀋陽)の収容施設で、連合軍の捕虜に細菌実験が行われなかったかが調べられ、日本からの風船爆弾が細菌戦に使われないかが調べられた。

が、731部隊が人体実験を行ったり細菌戦を行った証拠は全くなく、戦後に言われたことは全てでっち上げだったのだ。

ーー

しかし731部隊はハバロフスク軍事裁判(1949年12月25日~12月30日)では審理された。

その際、「人を凍結して復活させる実験とか、心臓を交換する実験」などの証言が得られたのだと言う。

しかも戦後4年もたっている。

ソ連や支那に抑留・拘禁された捕虜は洗脳されたと言われている。

1980年代になると「中帰連」の湯浅謙や推理小説作家の森村誠一らが、731部隊をネタに小説を書き、まるで史実であったかのように宣伝した。

それは、日本軍を悪者にし、日本人に贖罪意識を植え付けるための旧ソ連による工作であった。

ーー

NHKは、敗戦記念日に近い8月13日、旧日本軍の731部隊の犯罪を報道したのだった。

そして東京裁判で731部隊の犯罪が全く問われなかったことについて、

「アメリカは人体実験のデータ提供と引き換えに隊員の責任を免除したのです」と説明した。

これは、アメリカが行った東京裁判や、米国の持つ公文書は正しくないといっているに等しい。

そして、旧ソ連が洗脳した証人に証言させた、ハバロフスク軍事裁判は正しいといっていることに成る。

NHKは、日本人に東京裁判を押し付けるだけでは済まず、ハバロフスク軍事裁判まで押し付けたいようだ。

NHKを始めとするメディアの敗戦利得者(組織)は、日本人に贖罪意識を植え付け、いつまでも敗戦利得者の地位を維持したいのであろう。

もうNHKは日本人の敵と言っても良いだろう。

2017年8月14日 (月)

社会の捕食者は、優しさを捕食しながら富を築き、社会的評価を確実なものにしていく

ーー以下「鈴木傾城ブログ」より抜粋編集

優しい人は自分が我慢すれば丸く収まると思う
不利な条件であっても我慢して受け入れる
損することになってもそれを受け入れる

優しい人は相手を傷つけたくないと思う
相手が間違っていると思っても言い返さない
討論などしないし出来ない

ーー

優しい人はすべて悪いのは自分だと思う
明らかに悪くなくても自分を責める
自分が悪いからうまくいかないのだと自分を責め続ける

優しい人は相手を疑うのは悪いと思う
疑いを持つ自分を責めるので騙される
返すと言われれば断れずに金を貸す

ーー

優しい人は相手の苦境が敏感に分かる
相手を助けるために自分の全力を使ってしまう
そして自分も相手も窮地に落ちる

ーー

優しい人は自分が苦しんだ方がいいと思う
迷惑をかけると思ったらそれだけで休めなくなる
無理をして結果的に身体を壊してしまう

優しい人は「もう駄目だ」と言えない
極限まで我慢し、ぎりぎりまで耐える
やがて自分の心を壊してしまう

ーー

優しい人は黙って不条理に耐える
社会の犠牲になったことを嘆かない
謝罪と賠償など要求しない

自分が潰されても相手に配慮する
そして踏みにじられ使い捨てにされる。

ーー

そんな優しい人と一緒にいると心が洗われる
優しい人と一緒にいると安心できる

ーー

しかし社会は優しい人に決して優しくはない

社会には自分の獲物を狙う捕食者で満ちている
彼らは他者を利用して欲望を遂げようとする

強欲が彼等を突き動かている
優しい人が彼等の獲物に成る
優しさに付け入って収奪していく

ーー

捕食者は優しい人について

「何をやっても我慢するはずだ」と思っている
苛(いじ)めても反撃してこないと考えている
被害を与えてもそれを表ざたにしないと思っている

だから捕食者は優しい人を狙う

ーー

優しさは捕食者の餌食にされる
その光景は残酷だ

大切なものまで奪われ
必要なものも手に入らないし
面倒に巻き込まれつづける

ーー

自己主張力、利害を見極める力、道理を訴える力、これらは、社会を生き抜くために必要とされるものだ。

つまり社会は富(とみ)を求めるという基礎の上に成り立っている。

優しさは富を求めることとは別次元のものだ。
だから社会的には評価されることはない。
つまり現実は優しさだけでは生きていけない。

社会の捕食者は、優しさを捕食しながら富を築き、社会的評価を確実なものにしていく。

捕食者としての生き方も富を基準にすれば間違っているわけではない。

ーー

捕食者は、優しい人たちを理不尽に痛めつけ、恫喝し、攻撃し、搾取し、窮地に落とし、心が壊れるまでいじめる。

「彼はダメだ、優し過ぎる」と嘲笑し、生きるのが下手だと説教し、自業自得だと見捨てる。

そして、自分がいかにうまく立ち回っているのか自慢し、彼がどん底に落とした人たちを尻目に優越感に浸る。

しかしこんな捕食者たちも、油断するともっと強い捕食者の餌食にされてしまう。

だから彼らも、誰もが仲良く、優しい、そんなにこやかな社会で暮らしたいと思う。

優しい世界で生きたい、そんな世界で暮らしたいと強く思っているのである。

2017年8月11日 (金)

日本は、戦後最大の危機に直面している。それが分からないのか

ーー以下「zakzak特ダネ最前線」より抜粋編集

北朝鮮が相次いで日本海に向けて大陸間弾道弾ICBMを発射し米国を威嚇した。

それを受け、ドナルド・トランプ政権は、態度を変えた。

米は、北朝鮮への新たな制裁を求めて国連安全保障理事会の開催を要求し、全会一致で対北制裁決議を採択した。

この8月中旬、米原子力空母2隻が、朝鮮半島近海に展開する。

米軍関係者は「9月危機」を明かす。

そして、安倍首相はいわば制服組の小野寺五典氏を防衛相に選んだ。

ーー以下「加賀孝英氏による報告」より

在京の米軍情報当局関係者は、激怒した。

「いつまで野党やマスコミは『安倍たたき』をやっているのか。日本は、戦後最大の危機に直面している。それが分からないのか」と。

米国から7月末、次の情報が流れて、各国政府が緊張している。

「トランプ大統領は7月末、ついに北朝鮮への軍事行動(先制攻撃)を決断した」

「Xデーは早くて9月」
「米国は作戦行動に入った」

北京は北朝鮮に大陸間弾道弾開発を止めさせられなかった。

米情報当局は、各国からの制裁で「追い詰められた金正恩が、工作員たちに日米韓でテロを起こすよう命令を出す危険がある」とみている。

そうなれば確実に朝鮮戦争再開となる。

ーー

新月の8月22日から朝鮮半島沖で米韓軍事演習が行われる。

それは作戦計画『5015』つまり金正恩体制殲滅作戦だ。

米軍2万5000人、韓国軍5万人が参加。

米からは、ロナルド・レーガンとカール・ビンソンなど、世界最強の連合艦隊が派遣される。

ーー

北の軍と人民は飢えと虐待で暴動寸前だ。
金正恩は米軍におびえ、酒とクスリに溺れている。

トランプ氏は『(そんな)金正恩を野放しにできない』と判断した。

Xデー当日、米軍は数百発の巡航ミサイルなどで軍事施設を徹底的に破壊する。

反撃すらさせない。

そして突入した特殊部隊が金正恩を排除する。

ーー

米共和党の重鎮、グラム上院議員は1日、トランプ氏が『(このままなら)北朝鮮と戦争になる』と語ったと明らかにした。

米国務省は翌2日、『9月1日から米国民の北朝鮮への渡航禁止』を決定、『8月中に北朝鮮から退去せよ』と呼びかけた。

在日米軍は最近、韓国から避難してくる在韓米軍家族の収容施設の設置作業に入った。

ーー

7月28日の北大陸間弾道弾発射を受け、安倍首相は7月31日、トランプ氏と電話会談を行った。

両首脳は52分間も話し合い「今は対話ではなく圧力」で一致したとされる。

ーー

複数の米軍、米情報局関係者によると、

「米工作員が、正恩側近数人に接触し、『国と人民を救うために正恩を倒せ』と口説いている。この情報が漏れ、北は裏切り者を特定しようと、必死で動いている」

「脱北者中心で組織された米側協力者や工作員が、北朝鮮側に捕まり、処刑されている」

「米・金正恩殲滅作戦への妨害工作として関係者から名簿が北に渡されたとして、米は激怒している」

「北京は、支那・朝鮮国境に近い遼寧、吉林両省で7月1日から入国審査を厳格化した。要は、米国の協力者、スパイ狩りだ」

ーー

日本の公安関係者は、こう警告する。

「支那・朝鮮の工作員や協力者らの動きが活発化している。『安倍政権潰し』で動いているようだ。一部マスコミや国会議員らの動きも怪しい」

「『安倍政権を潰せば、日米同盟が弱体化する。米国は動けなくなる』とみている。巨額の工作資金が用意されたという情報もある」

外事警察関係者は「米国の言動のすべてが『9月危機』を示唆している」という。

いま、国民の目の前に国家的危機が迫っている。

国民は、長く続いた「平和」にボケ続けている場合ではない、この危機の克服に全力を傾けるべきだ。

ーー以下「頂門の一針、阿比留瑠比コラム」より抜粋編集

メディアは森友・加計学園関連報道などを通じ、安倍晋三政権の倒閣運動を展開している。

これまでメディアは、レッテル貼り、印象操作、恣意的な誤報、そして「報道しない自由」を行使することで、世論を操作してきた。

ーー

例えば、第1次安倍政権当時、メディアは社会保険庁(現日本年金機構)の年金記録紛失を「消えた年金問題」として報道した。

「消えた年金問題」は、社保庁の長年にわたる体質が引き起こした失態であった。

本来は歴代政権が等しく監督責任を負うべきものだ。

安倍政権は、得権益維持を図る社保庁の労働慣行を改め、「解体的な出直し」を訴えた。

それが、官僚・公務員にとっては気に入らなかった。

官僚は、メディアに年金記録紛失を漏洩し、第一次安倍政権の倒閣運動を展開したのだった。

ーー

年金記録を紛失したのは官僚・公務員なのだ。

平成19年6月7日の「報道2001」による世論調査では

「問題の責任は誰にあるか」との問いへの回答は(1)歴代社保庁長官(64・2%)(2)社保庁職員(14・2%) (3)安倍首相(6・6%)だった。

それをメディアは、安倍政権の所為にし、「安倍悪い」に世論を誘導し、政権を倒してしまったのだった。

ーー

その成功に味をしめたメディアは、2009年世論を「自民党悪い」に誘導し民主党政権を作り上げた。

民主党政権は、円高にすることで企業の支那・南北朝鮮への投資を促し、不況をもたらした。

そして2012年、イ・ミョンバク韓国大統領が「日本乗っ取り完了宣言」を出すに至ったのだった。

ーー

メディアが問題視すれば何でも「巨悪」となった。

現実の「巨悪」はメディアが「報道しなければ」「巨悪」ではなくなっていたのだ。

こんな不条理が長い間続いていた。

ーー

ネット環境を手に入れた国民に、メディアのそんな不誠実な姿勢がばれてしまった。

何故メディアは憲法改正を主張する人たちを悪しざまにののしるのか。

何故メディアは支那・南北朝鮮を非難しようとしないのか。

メディアは、報道に公平性と客観性と合理性を失っている。

今やメディアは「あほバカ最低」と国民から強く批判されるようになった。

2017年8月10日 (木)

赤は共産党を象徴する色でもあり、全体主義の犠牲となって流された夥しい血の色でもある

ーー以下「宮崎正弘ブログ、書評(評者浅野正美)」より抜粋編集qazx

宮崎正弘『日本が全体主義に陥る日』(ビジネス社)

著者は全体主義を以下のように定義する。

「それは自らが信じる絶対的な価値観しか認めず他者の考え方を否定し、排撃し、排斥する、一つの強固な考え方に基づいて全体を統一することだろう」

だから政治思想でいえば、共産主義も社会主義も全体主義であり、ヒトラーのナチスも、軍事独裁的なファシズムも全体主義なのである。

そしてキリスト教もイスラム教もユダヤ教も一神教であるがゆえに全体主義なのである

敵対者には容赦がない。

ーー

「全体主義=共産主義の悪性ウイルスは世界中にばらまかれ、あちこちに愚考が繰り返され」た。

「日本は海洋国家であり、多神教であるがゆえにユーラシアが体験した全体主義とは無縁でいられた」 

ソ連崩壊以降、全体主義はその本質を隠して、世界をグローバリズムという一神教的思考で統一しようとした。

そして今、世界的規模で反グローバリズムの大潮流が起きている。

しかし「全体主義との戦いはまだまだ続く」のである。

ーー

1989年、ポーランドに起こった反革命運動は、瞬く間に東欧諸国に広がり、ルーマニアのチャウシェスクは公開処刑され、ベルリンの壁は破壊された。

その二年後1991年にはソ連邦が崩壊し、自由主義陣営が勝利の美酒に酔いしれた。

レナード・バーンスタインは、旧東ドイツ・ドレスデンでの祝賀コンサートでベートーヴェンの第九交響曲を指揮した。

第四楽章では、歌詞のフロイデ(歓喜)を、フライハイト(自由)と替えて歌わせた。

その場に居たほとんどの人が自由の勝利を無邪気に喜び、平和の到来を信じた。

ーー

このときこれを見た日本の左翼は煩悶したのか。

青春を共産主義社会実現のために捧げた身であるならば、ソ連邦崩壊の様を目の当たりにし絶望したのではないか。

続々と自殺者が出るのではないか、例え死ななくとも心身に変調を来し、ある者は神経症(ノイローゼ)になり、またある者は癈人となる例が続出するのではないか。

しかし彼らは実にあっけらかんとして前言を翻すこともなく、平然とその後の時代を生き抜いた。

(このことからも彼らはサヨクではなく単なる反日勢力であることが分る)

ーー

一方、共産主義を徹底的に批判してきた人たちは、この歴史のドラマに触発され、思索し、行動した。

その内の一人が西尾幹二氏であった。

1989年のベルリンの壁崩壊後から程なくして西尾氏が東欧諸国の知識人と交わした激論は、「全体主義の呪い」と題して一冊の分厚い本に収められた。

そして、本書の著者である宮崎氏は、ベルリンの壁が落ちる前後をベルリンで過ごし、開放のその時をその目で目撃していた。

著者は今回の東欧への旅に西尾氏の「全体主義の呪い」を持参したと書いている。

ーー

本書ではさらに二冊の書物が紹介されている。

それは、「ドナウの旅人」(宮本輝著)と「憂国者たち」(三輪太郎著)である。

ーー

「ドナウの旅人」はこの大河に沿ってドイツの源流からルーマニアを経て黒海に注ぐまでの風景と、その3000kmを旅する人を描いた長編小説である。

不倫の道行物で、朝日新聞に連載された娯楽小説だ。

この小説が書かれたのは80年代の前半であり、まだユーゴスラビアという国が存在していた。

物語はそのユーゴスラビアがあったバルカン半島での描写も多い。

ーー

「憂国者たち」の方は、そのバルカン半島でセルビアの政治指導者として活躍し、最後は投獄されたカラジッチと三島由紀夫とのつながりを、二人の日本人大学生を絡めて描いた小説だ。

宮崎氏はこの書物にほんの少しだけ登場する初老の右翼に注目している。

「純粋な右翼道を求める初老の紳士は高田馬場の小さな雑居ビルに清楚に暮らしながらも日本のあるべき姿を追い求め、日夜、和歌を詠んでいる」

「本棚には三島の最後のテープも納められていた」

「作者(三輪太郎氏)は特定のモデルはおらず、複数の右翼団体を錯綜させて造形したという」

「元「重遠社」代表で三島研究会事務局長だった三浦重周風でもある」

三浦重周氏と著者(宮崎)は思想的同志として、早稲田大学に在籍していた時代から、右派学生運動に挺身していた。

三島由紀夫亡き後は、その思想と行動を継承すべく毎年の命日に開催されている「憂国忌」を二人三脚で支えてきた間柄である。

その三浦重周氏も自決した

ーー

1989年のベルリンには、人類史に特大の活字で記されるであろう歴史の瞬間があった。

宮崎氏には、その現場に立ち会いたいという好奇心もあったであろう。

しかし宮崎氏は、学生時代から一貫した保守思想の持ち主で、三島由紀夫の思想と行動に心酔し、愛国者として生きてきた。

それ故に、氏自身が信じる生きる理由(raison d'etreレゾンデートル)を、確認する意味もあったのではなかったかと思う。
 
ーー

今日のバルカンの悲劇を予感させる小説に、ヨゼフ・ロートの「ラデツキー行進曲」がある。

オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊を、惜別の念をもって歌い上げた、帝国にある種の敬意(オマージュ)を捧げる作品だ。

が、カラジッチもまた、チトーのような融合国家を目指した政治家だった。

そのカラジッチが悪の代名詞のように糾弾され、戦犯の汚名を着せられた。

これは欧米の書いた筋書きによるものだった。

ーー

民族浄化(ethnic cleansing)というおぞましい標語を発明したのは、米国の「戦争広告代理店」であることが本書には書かれている。

そして、大東亜戦争が日本に一方的責任があるとして戦勝国から裁かれた東京裁判と似ていると続いている。

旧ユーゴの章はこんな文章で終わっている。

「絶えず戦雲に覆われるバルカン半島、行方は多難と言わざるを得ない」

ーー

本書の特徴の第一に上げられるのは、なんと言っても豊富な写真の数々である。

多色刷りで31枚と、本文中に挟まれた100枚を越す写真によって、読者は簡単に行くことのできない遠い外国々の様子を見ることができる。

そして、文章からも写真からも、著者の眼差しがそれぞれの地に暮らす庶民に注がれていることが良くわかる。

どんな服装をして、どんな物を食べているかという、人間の幸福の第一条件が実に良く観察されているのである。

ーー

著者の旅はいつでもそうだが、旅行業者が決して案内しないような路地に入り込み、その地に暮らす人々の息遣いを肌で感じて来る。

そして、そうした人々と同じ店で食をし、現地の人に気軽に話しかけもする。

夜の街にも積極的に出掛けては、そこで働く従業員の悩みや夢や希望や絶望に耳を傾ける。

なぜかみな、著者の前では胸襟を開いて本音を語るのである。

案内本には載っていないもう一つのお国振りが、こうした取材によって浮き上がって来るのである。

ーー

二度、三度と訪れた国では、政治体制の変遷と共に、そこで暮らす人々が以前よりも幸福になったであろうかという視点を著者は常に忘れない。

普段から国際政治を果断に分析し、いち早く正しい予測を下す著者の印象とは、冷たい知識人という一面が強いのではないかと思う。

しかし、人間を見つめる氏の眼差しはいつでも暖かい。

そうした資質を著者にもたらしたものとは、膨大な読書であろう。

古今の文学作品を読むことによって、人間性の本質に対する感性が涵養されたのではいかと思う。

ーー

もう一点の注目すべき記述として、「全体主義国家からの転換、成功組、失敗組星取り表」がある。

これは、著者の主観に基づいた30か国における
「脱全体主義のその後」のありさまを、
・政治体制
・市場経済
・言論の自由
・国民の生活水準
の四項目についてそれぞれ・優・良・可・不可・最悪
の五段階で採点した一覧表である。

ーー

終章では、本書の題である「日本が全体主義に陥る日」についての警告が述べられている。

「日本ばかりか世界中で言語空間はおかしくなり」混乱している。

その隙を突くようにして全体主義者らは、「反戦」「反原発」「環境」「男女賃金格差」「同性愛結婚」「ヘイトスピーチ」などいかがわしい(面妖な)言葉を使い、洗脳を継続している。

全体主義者(無国籍者)には本物の芸術作品が生まれない悲劇を指摘した後、本書は次の言葉で結ばれている。

「全体主義の呪いはむしろ現代の日本に残留しているのではないか」

ーー

本書のカバーを外したら、全体が真っ赤に装丁されていた。

赤は共産党を象徴する色でもあり、全体主義の犠牲となって流された夥しい血の色でもある。

表紙の中央には、表にウイーン、裏にはワルシャワの写真が、掛け軸のように縦長に画像加工されてはめ込まれている。

考えすぎかもしれないが、どちらの都市も、近現代の欧州転変を象徴する場所だった。

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