ネット上で、RADWIMPSが歌う「前前前世」 が世界中で再生視聴され続けている。
再生回数は1.9億回を超えた。
2016年9月に公開された「君の名は。」をご覧になっていない方は、大げさで不可解な表現と思われることだろう。
ご覧になった方は、以下の歌詞に思い当たるところがあって心打たれると思う。
ーー以下抜粋一部編集
「遅いよ」と怒る君
これでもやれるだけ飛ばしてきたんだよ
君の髪や瞳を見るだけで胸が痛いよ
同じ時を吸いこんで離したくないよ
遥か昔から知る その声に
はじめて出会って 何を言えばいい?
銀河何個分かの 果てに出逢えた
その手を壊さず どう握ったらいい?
前前前世から僕は 君を探しはじめたよ
その騒がしい声と涙をめがけ やってきたんだよ
君の前前前世から僕は 君を探しはじめたよ
そのぶきっちょな笑いかたをめがけて やってきたんだよ
君が全部なくなって チリヂリになくなっても
もう迷わない また1から探しはじめるさ
この歌を口ずさみながら
ーー以下「megamarsunブログ」より抜粋編集
これから、アニメ映画「君の名は。」が、深みのある背景を持つ歴史に残るべき傑作だと言う話をしたいと思います。
まず、この作品は、「科学の知見に基づく話SF」の枠組みをもった作品であるということです。
しかし、新海さんは、SFお宅であり、一般の人に娯楽作品としてSF作品を提供するには、かなり噛み砕いて出さないといけないという認識があった。
(と私は考えています)
ーー
SF作品は、一般の人には難解なので、たくさんの人に見てもらえない。
そのため科学的正しさについては控えめな作品となった。
つくり手が意図的に科学の難しい議論を控えた作品といえるでしょう。
ーー
そこに科学的に起こりえないなどと突っ込むのは野暮というものです。
ーー
この作品では、糸守(いともり)という架空の町を彗星(すいせい)の一部が直撃し破壊します。
その時の死者数が500人という数字だった事を疑問に思いませんでしたか?
小学校から高校まである町が一つ消えたならもっと死者の数が多くても良いはずです。
そもそも糸守は架空の町ですから、人数は自由に設定できたはずです。
この数字には理由があります。
ーー
3.11の震災がこの作品に影響を与えたことについて、監督は、「震災を意識してないことはない」と述べている。
むしろ、12歳〜13歳くらいの体験からの影響が強いと、NHKでの川上未映子さんとの対談で語っている。
(監督の愛読書のひとつが、コニー・ウィリスのSF作品「航路」であり、著者がタイタニック事件とヒンデンブルク号事件の同時代を生きたことが著作の動機になっています)
ーー
1973年生まれの新海監督が12〜13歳の頃といえば、1985年〜1986年です。
他にもあるかもしれませんが、次の3つが起こっているのです。
・1985年8月 日本航空機123便墜落事故(死者520名)
・1986年 ハレー彗星が76年ぶりの地球接近
・1986年1月 チャレンジャー号爆発事故
ーー
映画をみた人は、二回目に観るときにこれらの事件を重ねて観て下さい。
ーー
なぜ、三葉(みつは)と瀧(たき)の二人は入れ替わったのか?
男女の入れ替わりについては、監督が記者会見で「入れ替わりは物語の導入のための仕掛けであって、入れ替わりである必要は無かった」と述べている。
そして三葉にはある能力が設定されている。
三葉には祖先から伝えられた巫女(みこ)の能力、時空を超えて他人の脳に干渉できる力がある、と。
その能力が、入れ替わりとして現れたという事になります。
ーー
なお、その能力が現れる条件が設定されていることが映画からわかります。
それは二人が実際に出会い、身につけていたもの等を相手に渡す事です。
二人が、始めて出会うのは、三葉が高2、瀧が中2の時です。
その時三葉は瀧に「身につけていた組紐(くみひも)」を手渡した。
このような物理的接触があったから、入れ替わりが生じたのです。
ーー
ちゃんとした理由があって入れ替わりが生じたという話になっているのです。
ーー
映画の中の時間の関係は以下のようになっています。
彗星落下の前日、高2の三葉が中2の瀧に会って組紐を手渡す。
(巫女能力によって、この出来事についての瀧の記憶は消える)
3年後、高2の三葉と高2の瀧が入れ替わる。
彗星落下3年後以後、三葉と瀧の入れ替わりが起こらなくなり、瀧が糸守に居るはずの三葉に会いに行く。
3年後カタワレ時に三葉(死んでいる)は、瀧と入れ替わり、彗星の一部が糸守町を破壊したのを見る。
そして3年前の彗星がまだ落下していない、三葉がまだ生きている時間へと移動する。
ーー
「まだ出会ったことの無い誰かを探している」という三葉の台詞(せりふ)は、「相手を知らないままに東京に行って瀧に出会った」ということです。
映画を見ている観客は、入れ替わりがあった後に三葉が、瀧に会いに東京に行ったと思った(思わされた)。
しかし二人が会った時、三葉は高2であり、瀧は中2だった(瀧の背が低いことで分かる)。
実際瀧は「お前誰?」と、三葉に言い、三葉のことを知らなかったことがわかる。
ーー
本来知らない瀧を認識できたのは、三葉の持つ巫女能力によるものなのでしょう。
ーー
瀧も三葉もおなじようにお互いを探していますが、実際には三葉の能力に感化された瀧という関係になっているわけです。
つまり巫女能力の設定によってタイム・パラドックス(過去の出来事を改変した結果、因果律に矛盾をきたすこと)は解消されるのです。
ーー
なぜ最後に父親を「隕石の直撃から町民を救うように」説得できたのか?
この部分はかなりぼかしてあるので、多くの人が疑問に思ったと思います。
映画から分かるのは、三葉の中身が別人(隕石が落下した後の時間で生活している瀧)であることを、祖母と父親が見破ったという描写があるところです。
巫女能力による「入れ替わりであること」を二人は知っていたのです。
ーー
とくに父親は、妻(三葉の母親)の死が、彗星と関係していることを悟り、三葉が瀧から三葉に戻っていたため、三葉の話を信じたと考えられます。
(隕石が落下した後の時間へ移動した三葉は、彗星の一部が糸守町を破壊した事実を見ている)
そして、町の住人を救おうとして奔走し、ようやく町長(父親)のもとにたどり着く。
映画ではそんな三葉の真剣な表情が映し出されます。
ーー
しかも何の代償もなく糸守町が救われたわけではなかった。
映画からは、瀧が三葉の時間へと移動した時に瀧が見る「三葉の母親の死の光景」から、推測出来ます。
そのとき父親が「(三葉の母を)救えなかった」と言う、この台詞によって、観客は、代償が払われたと思わせられる。
ーー
糸守湖が隕石湖であることをテッシー(坊主頭の兄ちゃん)が指摘する場面があります。
しかしまあ、同じ場所に彗星が分裂してその一部が隕石となって落ちるなんて、不思議な話です。
テッシーが、並行世界を記述しているムーを愛読しているのは、そんな不思議な話を信じてしまう協力者として描写するためでしょう。
ーー
ここは現実味がなさすぎ、不思議な話(オカルト)すぎる!
この作品は純粋なSFではありませんので、ここを現実味の欠如として指摘するのは野暮ってものです。
それでも、どうしても気になる人に解説しておくと、一応この彗星の正体を示唆する設定があります。
ーー
外伝小説の題が、『君の名は。Another Side:Earthbound』、Earthboundとは、【〈宇宙船など〉地球に向かっている】という意味だそうです。
彗星が、宇宙船であるという裏設定は、もっと大きな時間軸から由来すると思われます。
ーー
この作品が「都市と星」という1956年にアーサー・C・クラークというSF界の巨匠によって書かれた小説の枠組みをもっていると考えられるからです。
ーー
「都市と星」は、10億年後の世界を描いた話です。
かつて銀河を支配した人類はすでに衰退して、宇宙を捨て地球の一つの都市に引きこもって暮らしています。
人類は不死を実現しており、作者は不死を実現した人類には、男女の愛は不要だと言う。
そして作者は愛情というのは、哺乳類がもつ特別な感情と定義します。
ーー
不死の人類は、子供を生むことがありません(作中ではへそがないと表現されています)。
不死を実現した人類は、データとして肉体を保存し、データから肉体を再現させます。
セックスだけは形骸的にのこっていますが、それには子供を生み二人で育てるという意味は有りません。
ーー
主人公であるアルヴィン少年(見た目は青年)は、とても好奇心の強い人間です。
アルヴィンは、「不死を実現した人類には、男女の愛は不要だ」と言う事実を、まだ子供を生む能力を有し、死を受け入れている外の世界に住む人々と出会うことで知る。
そして彼は健気で可愛くて聡明で彼を愛している幼馴染の美少女アリストラに対する興味を失ってしまうのです。
ーー
そんな小説を書いたアーサー・C・クラークについて新海さんは日記に書いている。
ーー(2008年3月20日の日記より引用)
それから。アーサー・C・クラークが亡くなったのですね。
いつかはそういう日が来るというのは分かるのですが、でもとても残念です。
僕は中学生の時にテレビの深夜放送でたまたま『2001年』を観て、そこで描かれていることの意味をどうしても理解したくて、クラークの小説版を何度も読み返しました。
『太陽系最後の日』や『幼年期の終わり』や『都市と星』や『宇宙のランデヴー』、そういった作品群を初めて読んだときの興奮は今でも覚えています。
僕の「ほしのこえ」という作品の英語タイトルである「The voices of a distant star」は、クラークの『遙かなる地球の歌 The Songs of Distant Earth』からいただきました。
そういえば「秒速5センチメートル」のロケハンで種子島に滞在していたときに、僕は毎晩寝る前に『都市と星』を読み直していました。
砂漠に哀しくも雄々しくそびえるダイアスパーの塔。
その姿は今でも強い憧憬の対象です。
ーー引用終わり
注目すべき点は、「秒速5センチメートル」を作ってる時に、何度も「都市と星」を読み直したという部分でしょう。
これって、「秒速5センチメートル」で主人公が自分を愛してくれる女性に興味を失ってしまうという話にそっくりじゃないですか?
ーー
それでは、具体的にアリストラが最後どうなったか、小説の引用で観てみましょう。
ーー新訳版「都市と星」本文より引用
アリストラは、去っていくアルヴィンの背中を見送った。
さびしくはあったものの、もう胸がつぶれそうなほどの悲しみに苦しむことはなくなるような気がした。
いまならわかる。
自分はアルヴィンを失うわけではない。
なぜなら、いまだかつて、いちどたりとも自分のものだったためしがないからだ。
その事実を受け入れるとともに、けっして報われない愛を失うことへの悲しみから、アリストラは脱けだせそうな気がした。
ーー引用終わり
まわりくどい描き方になってますが、物語を三分の一ほど残して、女性主人公アリストラが消えてしまう。
ーー
「秒速5センチメートル」では、「なんで恋愛ものであんなに非道(ひど)い終わりをつくるんだ!」と怒った人も多かったと思います。
しかしそれぞれの愛が成就しないが故に観客の脳内にもやもやといつまでも残る。
監督は、成就しないがゆえの強烈な「恋愛(ロマンチック・ラブ)」に憧れがあるんだと思います...
ーー
「都市と星」の影響だとして、まず、最初にわたしが気がついたのはつぎの台詞(せりふ)です。
「東京だっていつ消えてしまうかわからないと思うんです」
映画の終わりの方で、瀧が就職活動の面接でこう言う。
ーー
「都市と星」では、人類は歴史上はじめて、永遠に滅びない都市の建造に成功します。
しかし、それは、もともと都市というものは、いつか消えてしまうものだという前提があって出てきたSF的な夢なのです。
逆に考えれば、どんな都市もいつかは消えるというのが、「都市と星」の主張なのです。
ーー
そのうえ、「都市と星」と「君の名は。」に構造的な類似点を見出す事ができます。
まず、東京と、糸守ですが、これは、「都市と星」におけるダイアスパーとリスです。
ダイアスパーは不死の人が住む都市で、リスは昔ながらの暮らしをする人が住む田舎です。
ーー
リスは田舎ですが、この10億年でダイアスパーの人とは違った進化をしており、テレパシーで人をあやつる能力をもっています。
ーー
そうです、糸守の巫女能力は、リスの人がもっているテレパシーの能力が元ネタになっています。
さらに、御神体のある場所ですが、これも「都市と星」に似た場所がでてきます。
糸守の御神体がある場所ですが、都市と星では、リスの近くにあるシャルミレインという聖地のような場所に相当します。
シャルミレインも糸守の御神体も同じように、外輪山に囲まれた場所なのです。
ーー
このシャルミレインは、「都市と星」では、かつて人類が宇宙の外敵と最後の戦いをした伝説の場所という設定になっています。
しかしその真実は、地球に落下してきた月を破壊するための兵器があった場所という事が後になってわかります。
そうです!糸守に落ちる隕石の元ネタは、「都市と星」における月の落下だったのですね。
ーー
物語としては、「都市と星」と「君の名は。」は全く違っています。
が、舞台やSF的な設定に「都市と星」にかなりの憧憬(オマージュ)をこめてそれから採用した点が見受けられるのです。
ーー
瀧が三年前に死んだ三葉を追って、口噛み酒を飲んで時間移動する場面があります。
これは、先にも説明したとおり、三葉の巫女能力によるものです。
なぜ瀧は三葉の口噛み酒を飲めば時間移動が可能だと考えることができたのか。
というも三葉の口噛み酒を奉納したのが、瀧(の三葉)であり、その時、結びの概念について、一葉から説明を受けていたからです。
とまあ、このあたりは流石(さすが)に普通に観ていても分かると思います。
ーー
そして二人は黄昏(たそがれ)時になって始めて出会い、お互いを確認することができた。
そのカタワレ時(糸守町の方言)は、あの世とこの世がつながる時間、「人ではないものに出会うかもしれない時間とされています」と。
冒頭で、「言(こと)の葉の庭」に出ていた雪野(ゆきの)先生によって説明されています。
また、御神体のある場所が「あの世」にあり、瀧が水堀になっている・この世との境を越え「あの世」に足を踏み入れたことも示唆されています。
瀧は「あの世」に居た三葉と入れ替わったのです。
ーー
三葉が三年前に死んでいるからこそ、カタワレ時に二人は会うことができた。
ーー
この作品の時間移動は、巫女能力によるものであり、SF的な時間移動ではありません。
ですので、このあたりをSF的に突っ込むのは野暮というものです。
人の心というのは、物質ではありませんので、時空を超える可能性は、SF的にもなかなかおもしろい視点だと思います。
ーー
とはいえ、ふたりはカタワレ時に、組紐を返したり(これで入れ替わりができなくなる)、マジックペンでお互いの手に文字を書くという物理的接触までしています。
そして忘れないように名前を書いておこうと言って、瀧は三葉の掌(てのひら)に「すきだ」と書く。
三葉が瀧の名前が思い出せなくなっていくので、掌を見ると「すきだ」と記されていた。
それを見て三葉は、町の人たちを救うため・生きるため(瀧に会うため)の勇気を与えられる。
このあたりはやはり、監督の観客の心をぐっと掴む腕の冴えと言うべきところでしょう。
ーー
なぜ、二人は名前を忘れてしまうのか?
「夢は夢、目覚めればいつか消えてしまう」という三葉の祖母である一葉の台詞(せりふ)があります。
じっさい夢の出来事は目が覚めると記憶から薄るれるものですが、もちろん、夢だって覚えてる事はあります。
しかし、この作品の夢というのは、単なる夢ではなく、未来の危険(隕石の落下)を人に知らせるための巫女能力だと考えられます。
ーー
そのため、もともと、宮水家の巫女には、関わった人から記憶を消すような能力があったと推測されます。
二人だけでなく、一緒に旅をした、友人の司(つかさ)や奥寺先輩の記憶も消されていた。
巫女には、その能力を隠すため(悪用されないため?)に、自らの記憶も含めて宮水に関連するすべての記憶を消す能力があったのでしょう。
ーー
終わりの方で何度もすれ違い、なかなか出会わない二人に、ドキドキしたりヤキモキした人も多いかと思います。
が、この作品の最大の奇跡は、同じ場所、同じ時間に二人が出会うことです。
そして巫女能力でお互い忘れたはずの相手を思い出したかもしれない・・・
新海作品に見られる恋人たちが結ばれないという、いつもの重い話は、三葉の母親の世代が背負ってくれたのです。
ーー
「君の名は。」には、誰にでも楽しめる分かりやすい表面上の筋書き(プロット)とは別に、緻密に計算された設定や、SF的にも新しい工夫が凝らされている。
だからこそ、これだけ多くの人に支持されていると私は思っているのです。
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