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文化・芸術

2020年1月15日 (水)

神武天皇によって、日本の人口は8万人から、短期間のうちに67万人にまで増加しました

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

神武天皇が、橿原で初代天皇に即位される、その物語が記紀にあります。

神武天皇以前が神話の時代、神武天皇以降が伝承の時代です。

つまり実際にあった話として、神武天皇のご事績が語られているのです。

神武天皇の物語は、神話ではなく、語り継がれたご事績(事実)であるということです。

ーー

日本書紀には、神武天皇が、九州の宮崎から瀬戸内に向かわれ、そこで農業指導を行い、3期分のお米を蓄えて畿内に入られたとあります。

そこで長髄彦(ナガスネヒコ)の一団に襲撃されます。

天皇は、日に向かって戦ってはいけない(日の神の子孫である民と戦ってはいけない)と、軍を引きます。

その時、長男の五瀬命(いつせのみこと)が、矢傷がもとで死去、さらに船で紀州に向かわれた際、嵐に遭って、次男の稲飯命(いないのみこと)、三男の三毛入野命(みけいりのみこと)が亡くなられた。

ーー

ちなみに、稲飯は、米のご飯、三毛は御食(ミケ、食料のこと)ですから、要するに長男を失っただけでなく、嵐で食料も失ってしまった。

飢えは病を生み、熊野の荒坂津(あらさかのつ(港))に着いたときには、兵たちも病んで元気を失っていた。

ここで熊野の高倉下(たかくらじ)に救われます。

ーー

高倉というのは、高床式の蔵(くら=倉)のことで、お米を備蓄する施設のことですから、その下(もと)にあるということは稲作をする人という意味です。

つまり、熊野にも稲作をする人たちがいたわけで、その人たちによって、食料を与えられ、元気を回復するわけです。

神々は、高倉下を通じて、神武天皇に韴霊(ふつみたま)の剣(つるぎ)を授(さず)けます。

ーー

「韴」というのは悪を断ち切るという意味で、これは、神々が「断固として戦え!」と意思表示されたことを意味します。

こうして神武天皇一行は、元気を回復し、神力を得たのですが、どうしても大和盆地への山越えができない。

神武天皇が困っていると、アマテルカミが夢に現れて、「これから頭八咫烏(ヤタガラス)をつかわすから、それに付いていきなさい」と詔(みことのり)された。

頭が付いていますがヤタガラスと読むと記されているので、これはヤタガラスのカシラの意でしょう。

ーー

霊剣は、超強力な武器を象徴します。

戦うためには、敵を圧倒する武力が必要だからです。

けれど神々の御意思は以下のようなものだった。

「武器を得たからといって、単独で(ひとり)で戦ってはいけない」

「戦う時は、その戦いによって受益者となるみんなとともに戦え」と。

だから頭八咫烏が派遣されたのでしょう。

ーー

それで付いていくと、山道の中から、長髄彦(ナガスネヒコ)を始めとする盗賊団に食料を奪われて困っている人たちが次々と現れて神武天皇に従いたいと言ってくる。

こうしていよいよ戦いが始まります。

神武天皇が岡山から持ってきたお米は、すでに嵐に遭ってありません。

高倉下の備蓄米も、大軍を養うのに十分なものではありません。

だから戦いのさなかに、食料が失くなって、みんなお腹を空かせます。

そこで神武天皇は、以前に稲作の指導をして、備蓄米をたくさん持つようになった瀬戸内の人々に、お米を運んできてもらうのです。

ーー

そしてこのことが、狩猟採集生活のその日暮らし⇒村々での稲作による災害時の食料備蓄⇒村々の備蓄食料の融通による全国的な相互扶助へと発展し、新しい国つくりの基礎となります。

こうして神武天皇は、橿原宮で初代天皇として即位されたのでした。

ーー

神武天皇の時代というのは、寒冷化による食糧不足で全国で26万人あった日本の人口が、8万人にまで減少した時代です。

人は食べ物の分しか人口を維持することができないからです。

これを心配された神武天皇は、あらためて稲作を中心として食料備蓄のできる国作りを目指されたわけです。

ーー

そして民は地域を越えて相互に助け合うシステムに目覚めます。

天皇は、これを公正に行うために、橿原の地に都を定めて、全国的なお米の管理と流通を実現されます。

これが「四方八方をおおうひとつ屋根の下で暮らす家族のように、日本全国互いに助け合って、災害の多い日本で、誰もが安心して暮らせるようにしていこう」という八紘一宇(はっこういちう)の日本の建国精神です。

ーー

神武天皇によって、日本の人口は8万人から、短期間のうちに67万人にまで増加しました。

人々が食糧不足に苦しむことがないことは、国民にとってとても幸せなことです。

だからその幸せをもたらした神武天皇を民は、崩御の後、神倭伊波礼毘古(カンヤマトイワレヒコ)「やまとの神と呼ばれた男」と呼んだのでした。

ーー

我が国は国家の黎明期において相互扶助を基幹とする国作りをしていこうとされた神武天皇という偉大な指導者を得ました。

それは我が国の国民にとって、まことに幸せなことであったというだけでなく、おそらく人類史においても、偉大で貴重な出来事であったといえると思っています。

2019年12月19日 (木)

そして、ページを読み進めていきながら、フト後ろを見ると精霊が立っているのではないかと思えるような錯覚に陥った

ーー以下「頂門の一針 宮崎正弘書評」より抜粋編集

高田篤臣・著、丸山ゴンザレス監修『亜細亜熱帯怪談』(晶文社)

亜細亜の怪談、幽霊話、悪霊、神霊、死体を巡る奇譚のてんこ盛り、まさに亜細亜熱帯怪談集である。

湿度120%である。

ぞくぞくするほど面白いが、評者(宮崎)の興味は文化的視点(アングル)である。

ーー

宗教がまだ原始的な時代に、人々は何を信仰していたのか。

その原始信仰に、その場所の風土、風習や文化、気候条件などが加味されて、大乗仏教伝来以後も、その国、その地域独特の精霊信仰や幽霊、霊魂の奇譚が語り継がれてきた。

(小乗仏教での興味は個人の悟りにあり、悟りには幽霊や霊は存在しない)

もとより古代ローマにはミトラ教があり、古代ペルシアにはゾロアスター教があった。

その土台のうえに、現在の西欧キリスト世界や、中東イスラーム世界がある。

ーー

本書には、魑魅魍魎について多くの著作をものにしている作家の京極夏彦氏が推薦文を寄せている。

「おそれ、おののき、考える、ぼくらもまた、亜細亜に染み渡る濃密な霊威に浸っている」と。

ーー

カンボジア内戦中、よく聞かされたのはピー(精霊)のことだった。

そこで行われた大虐殺の舞台(キリングフィールド)を、評者は二回ほど訪ねたことがある。

おどろおどろしい処刑場や惨い拷問場所、不衛生な監獄が、いまでは記念物のように飾られて、驚くなかれ、観光スポット且つ、心霊スポットとなっていたのである。

ーー

こうした霊地(スポット)を尋ねる人々を精霊巡礼者「ゴースト・ツーリスト」というそうな。

日本でも霊界に行き来していたと言われる安部晴明が映画や小説でもてはやされた時期があった。

そのあたりから、全国の霊地(パワースポット)が人気となり、とりわけ若い女性が「霊力を得て幸せになりたい」と集った。

粗製濫造の観、なきにしも非ずだったが、各地にそれらしき霊地が誕生した。

ーー

頁(ページ)をめくると、ともかくアジア全域に研究が及んでおり、年季が入っていることがうかがえる。

著者は、いったい何が面白くて、つまりいかなる動機で霊異の研究を始めタイに棲み着いたのか、と興味が尽きない。

そして、ページを読み進めていきながら、フト後ろを見ると精霊が立っているのではないかと思えるような錯覚に陥った。

ーー

評者が聞いたり体験したのは以下のようなものだ。

カンボジアで国連の救援活動に携わっていた竹本忠雄氏からは、南米の古城ホテルに滞在した時に、一晩中、悪霊と戦った体験を聞かされた。

その城では昔、大虐殺があったのだと。

評者も友人の片瀬裕氏とオフィスにいて雑談していた時、こつこつと軍歌が近付く幻聴に、ふたり同時に陥った。

三島由紀夫事件直後の夜であり、三島、森田両烈士の歌う軍歌であろうと興奮したものだが、その興奮から冷めて原因を調べると風呂場で水が滴下して音を立てていたのだった。

三十年ほど前にも評者は、中村彰彦氏と会津若松の白虎隊記念館を見学して帰京した夜、霊に取り憑かれた経験をした。

ーー

不思議なものがどんどん科学によって解明されて不思議ではなくなっていく現代にあっても、なお我々の心は幽霊を見、怪談に恐怖する。

日本人の多くは自然を見ればその美しさや巨大さに圧倒されその中に神を感じる。

それは古事記の神代の神々の物語にもなり、身近には日本全国いたるところにおわす神のための神社が建てられ祀られている。

ーー

神道はしかし、仏教のような経典も経文もない。

いや布教さえしないのだ。

キリスト教やイスラームや仏教を宗教とすれば、神道は宗教とは別種のものといえるだろう。

ーー

にもかかわらず現代日本人の大多数は正月になると氏子であるなしにかかわらず近くのあるいは遠く離れた神社に参詣する。

自動車を買ったら神社に安全祈願に愛車を駆って行くだろう。

建築現場では地鎮祭をやらないと大工さんが工事を始めないのである。

ーー

ピー信仰は大乗仏教の伝来以前からあった。

本書はタイでおきた怪談、怪事件を紐解きながら、ラオス、カンボジア、ベトナム、ミャンマーなどへと精霊巡礼(ゴースト・ツーリズム)が続く。

そしてまさに怪作となった。   

2019年12月 3日 (火)

民主党政権時代のように、「イ・ミョンバクの私兵」である人たちを国会議員に選挙してしまうと、またもや悪夢の時代になってしまう

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

多くの日本人らが、なんとかして日本を少しでも住みよい、良い国にしていこうとしています。

私(ねず)もそのために10年前の2009年に日本の心をつたえる会を立ち上げました。

その8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙で、民主党が第一党になり、鳩山由紀夫内閣が誕生しました。

ーー

ところが民主党政権時代は、日本人にとっては悪夢のような3年間であり、2011年には韓国のイ・ミョンバク大統領は次のように言っているのです。

北朝鮮の復興は心配ない。
日本にやらせるのだ。
私が全てのカネを出させる。
我々はすでに日本を征服しているからだ。
やつらの金は我々が自由にできる。
日本の連中は何も知らない!フジテレビが証拠。
日本人は(犬のように)よだれをたらして見ている。
私にまかせろ。
日本に居るのは私の命令に忠実な高度に訓練された私の兵隊だ。

ーー

イ・ミョンバク大統領に「私の命令に忠実な高度に訓練された私の私兵」と言われた人たちが、危機を知りながら、「盛り蕎麦かかけうどんか」とか、最近は「桜を見るのは違法」といった、議論ばかりしています。

ーー

これまで、日本は、ウサギ小屋と言われた住宅問題、イタイイタイ病などの公害問題など、多くの問題を抱えて苦しんできました。

それが、多くの皆さんの工夫と努力によって、どんどん解決されていきましたが民主党政権前はまだまだ不十分な状態でした。

すると、「もう時間がない、立ち上がろう!」と当時、よくいわれた言葉です。

そして成立したのが民主党政権だったのです。

ーー

民主党政権時代、政権と一緒になってメディアは「コンクリートから人へ」と報道し日本の経済基盤を破壊しようとしたのでした。

そこへ2011.3.11東北大震災が起こり、大津波と福島第一原発事故で国民は多大な被害を被った。

以来、経済基盤を強靭化すべきという議論がおこったのは言うまでもありません。

ーー

2012年の第46回衆議院議員総選挙で民主党政権は国民から見放されてしまいます。

その後は、自公連立政権の時代となり、安倍内閣は憲政史上最長内閣となりました。

では日本は、良い方向、日本人にとって、日本が住みよい国に、災害に強い国になったのでしょうか。

ーー

これから日本は超高齢化社会となります、少子化も進むでしょう。

多くの問題を抱えているのですが、それらはこれまでの日本社会であれば、ゆっくりではありますが確実に対応していくはずです。

つまり、これまでの社会、日本人が客観性、公平性、公共性を失わなければ、必ず日本人は一丸となってそれら諸問題を解決していくはずなのです。

ーー

ところが、民主党政権時代のように、「イ・ミョンバクの私兵」つまり客観性も公平性も公共性も持たない人たちを国会議員に選挙してしまうと、またもや悪夢のようなとんでもない不幸な時代になってしまう。

ーー

これからどうしたら、子や孫に、少しでも良い時代を、すこしでも良い未来をのこしていくことができるのでしょうか。

それは、子や孫を持つ世代にとって、本当は自分が生きること以上にたいせつなことといえるのではないでしょうか。

ーー

企業にたとえてみます。

どの会社においても、現状を憂いて、「このままじゃダメだ」と仰(おっしゃ)る人がいるものです。

しかし、そういう現状憂い型社員ばかりになったら、その会社どうなるでしょう。

そのような社員に会社を委ねるとちょうど民主党に政権をゆだねた時のように、おおよそその会社はダメになってしまうのです。

ーー

そんな社員のほとんどは、客観性、公平性、公共性を欠いていて、自分だけのために会社を思い通りにしようとするからです。

多くの人たちのことを考えないで利益だけを追求していたのではその会社は立ち行かなくなる。

このことは、日本では自分良し、相手良し、世間良しが、商売の極意とされていることからもわかります。

ーー

他者のためにという動機がなければ、何事もうまくいかない。

このことを、つまりみんなのためにと考えていろいろ工夫され実行されてきたからこその現在の日本社会があると言えましょう。

利他心こそが、日本社会が、敗戦後の焼け野原から急速に発展し、現在世界で最も安全で清潔で快適に暮らせる先進社会として注目を浴びている理由なのです。

ーー

それは、所得の比較だけでは決して測れないものでなのです。

例えば平成が始まった頃、日本人と米国人の年間所得はほぼ同じ、そして社会生活に必要な経費、電気ガス水道光熱費やガソリン代などは、米国は日本の半分以下でした。

つまり同じ所得であっても、米国の方が日本よりも実質所得が高いという情況にありました。

それから30年たった現在、日本人と米国人の年間所得の差は、3倍になりました。

しかし、米国人らの多くが、日本で生活すると、米国よりも日本のほうが安全・便利で快適で精神的に豊かに暮らせると口をそろえるのです。

ーー

文化水準がいつの間にか日本のほうが上になっていた。

所得では測れない快適さが日本にはあるということです。

これは、日本人が、米国人以上の利他心を持っていたから築かれたものだと言えるでしょう。

ーー

例えば、共産支那では、2001年の平均所得は193万円でした。

それが2015年には、748万円です。

富裕層と呼ばれる人たちの人数は日本の3.5倍、彼らの平均年収は日本の総理よりも多い2900万円以上です。

ところが、一方で、一日100円以下の生活を余儀なくされている人たちが5億人以上いる。

そして水道水がそのままでは飲めない、空中の粒子状物質PM2.5のために呼吸しているだけで病気になる。

ちゃんとした医療を受けるためには高額の費用が掛かる、年金制度が完備しておらず老いは絶望と同義で有り、商店では平気で下水から採取した油(毒物)などを食用油として売っているのです。

ーー

社会生活の快適さは、所得での比較など無意味であることが分かります。

ーー

しかし、日本社会がこれでよいのかと言えばまだまだ、工夫し改善すべきところがあるはずです。

しかしいまの生活が不便なのは家が老朽化したからだと批判や文句ばかり言っていても何も変わらないのです。

また気象風土の異なる国や地域の家がどんなに便利で快適そうに見えたとしても、災害が多くて高温多湿の日本で、そうした家屋が通用するかは、また別の問題なのです。

つまり日本には日本の風土に合った家を新しく建てないと、結果として快適な生活はできないということになります。

ーー

その国には、その国に住む人々によって育まれた伝統文化がある。

とりわけ日本では、何千年も前から人々が住み育んて来た文化が現実に存在し今なお生きています。

そうであれば、日本を変えるその原動力となるものへの答えもまた、その文化の中にあると言えるでしょう。

ーー

しかし、2009年に「イ・ミョンバクの私兵」が日本の政権に就いたような状況が今も続いているのです。

当時は、ネットでの発信は不十分で有り、多くの人たちが新聞・テレビから情報を得ていました。

それら新聞・テレビが寄ってたかって生み出したのが民主党政権だった。

つまり今も言論・メディアを在日・反日勢力が支配しているということになります。

ーー

戦後、占領軍の占領政策に協力することで彼らは政財界・教育界・言論・メディア、法曹界を支配してきた。

そして、日本人に「護憲・東京裁判史観・侮日」を強制してきたのです。

そして日本の文化を今も貶め続けている。

ーー

例えば、百人一首の名歌の数々が、まるで三流のエロ週刊誌に書かれているような内容に解釈されている。

さらには古事記の天宇受売(あめのうずめ)は、天の岩屋(あめのいわや)の前でまるでカンカン踊りでもしたかのような下品な存在として描かれている。

万葉集は、実弟の妻を、美人だからと、子供までいるのに兄貴が奪い取ったとか、偉大な女性天皇が実は傲慢不遜な女帝だったとか、もう万葉の人々を貶める意図をもっているとしかいいようのない説明がなされている。

ーー

そしてその説明に基づいて、そこから妄想を膨らませて、さらにそれらを貶める。

そういう侮日の努力が戦後の支配者らによって戦後74年間もなされてきたわけです。

これでは、日本人が「日本を変えるその原動力となるものへの答えもまた、その文化の中にある」と考えて古典を読もうとしてもその真意にたどり着けないことになってしまう。

ーー

それで、私(ねず)は、古典の原典を読み始めたのです。

日本人が立ち戻る、文化の原型を再確認しようとしてのでした。

日本の国柄が日本人に認識されたのは、日本人が外圧を前にして傲然と立ち向かった時でした。

そして新たな未来を築こうとした。

ーー

それは大化の改新(645年)のあった7世紀と、明治維新(1868年)を断行した19世紀だったのです。

このうち、明治維新については、「新しい教科書をつくる会」などで、多くの先生方が再検証を行っています。

7世紀については、その時代に、神話が整理統合され、漢字と仮名を併用する新たな文化が生まれているにも関わらず、いまだちゃんとした解析が行われていない。

ーー

それで私(ねず)は、万葉仮名(漢字表記)の万葉集を原文から読み解くことに挑戦したのです。

その際私は、百人一首を読み込んで得た大和言葉の認識方法と、古事記の解析で得た原文の漢字から読み解く手法を用いました。

その結果ひとことで申し上げることができないくらいの、奥の深い万葉の世界を発見しました。

それを書いたものが『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』(12月6日発売)です。

2019年10月25日 (金)

古事記にも日本書紀にも卑弥呼に関して一行の記述もない

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

河上麻由子『古代日中関係史  倭の五王から遣唐使以降まで』(中公新書)

宋書(そうしょ)は、支那南朝の宋について書かれた歴史書である。

宋・斉・梁に仕えた沈約(441年 - 513年)が斉の武帝に命ぜられて編纂した。

本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなる紀伝体。

二十四史の一つ。

ーーとwikipediaにある。

その宋書の中に、「倭の五王、讃・珍・済・興・武」とかが古代日本にいて、宋に朝貢してきたとの記載がある。

五王が天皇なのかは定かではない。

また倭の豪族が海を越えて使いを寄こしたことを『魏志倭人伝』が「邪馬台国の卑弥呼」と書いた。

しかし、記紀には卑弥呼に関する記述が一行もない。

ましてや日本中の何処を探しても卑弥呼の神社がない。

ーー

そもそも「卑」とか「邪」とか侮蔑的な語彙を日本人が宛てるわけがない。

邪馬台国なんぞは実在そのものが疑わしいのである。

だから江戸時代には偽書とされた。

ーー

支那では易姓革命により、王朝が替わるごとに新たに政権を取った王朝が前の王朝のことを書いて、それを『正史』と呼んだ。

本書の基本認識は支那の「正史」を史実であるとするものだ。

さらには、大東亜戦争を無造作に太平洋戦争と書いている。

日本が戦った戦争は大東亜戦争であって、太平洋戦争ではない。

つまり本書は占領軍の占領政策「護憲・東京裁判史観・侮日」の洗脳から抜け出せないまま書かれた書であるといえよう。

ーー

倭の五王についてもその存在についての検証が全くなされてはいない。

記録がないから何を書いてもよいわけではない。

記録があっても朝日新聞記事は誤報と捏造だらけだ。

支那人が、何故「倭の五王が朝貢した」と記しておかなければならなかったのか、古代史の検証が全くなされていないのだ。

ーー

そもそも支那大陸には近代国である「国民が存在する国」が存在したことはなく、征服王朝が交替しているだけである。

中華人民共和国の実態は国民が存在しない共産党独裁政治(古代)国のままなのである。

それが「中国(中心国)」を名乗ること自体も全く相応(ふさわ)しくなく僭越なのだ。

ーー

ちなみに『宋書』は何と書いたかを、著者は以下のように記している。

「光武帝は倭国王に与えた詔で、(倭王の跡継ぎである)興は、代々の(倭王の)忠誠を継いで、中国の外の藩屏となり、(皇帝の)徳化を破って国域を安寧にし、恭しく朝貢してきた」

文中の「中国」は、宋朝とするべきだろう。

そして五王の朝貢の努力が実り「倭国はようやく中国の世界秩序下に編成されるべき国、徳化が及ぶ国として認められた」と。

ーー

ならば聖徳太子の「日出処天子、日没処天子に」という文書解釈はどうなのかと読むと、対等な外交を目指していた日本の立場とは見ず、日中双方に「天子の」解釈が異なったからだとする。

が、これは牽強付会(自分の都合の良いように理屈をこじつける)だろう。

ーー

本書ではさらに遣唐使・遣隋使が、仏典と学問を学ぶために派遣されたのではなく改元ごとの朝貢の挨拶だったとする。

遣唐使も遣隋使も隋と唐に渡って目撃したのは精神の荒れ野だった、だから学べるものなしと判断して帰朝した。

逆に遣日使が夥しく日本にきたうえ、かれらは日本に帰化するばかりだったことには一行も触れていない。

評者(宮崎)は本書を読みながら、次のことを思い出したのだった。

ーー

日中国交回復の時、「台湾は中国の一部である」と中国が主張していることを「日本政府は留意する」とした。

ところが、中国は「日本も台湾が中国の一部であることを認めた」と逆宣伝に努めて既成事実をでっち上げようとした。

台湾に対しても「92年合意をもとに」と台湾が譲歩したような宣伝をしているが、これは李登輝時代のこと、しかも李登輝総統自身が「そんな合意は存在しない」としている。

ーー

ありもしなかった南京大虐殺の偽情報と宣伝は、当初、国民党が西側のスパイ、代理人を駆使してでっち上げたものだ。

いま中国共産党がこれを便利に使っていることは周知の事実だ。

ことほど左様に、「宋書」とか、「魏志倭人伝」とかの誤報(フェイク)に近い歴史偽造もしくは改竄の文書をもって、これが真相に近いなどとやっている。

日本の歴史学会(アカデミズム)はまだ、こんなことをやっているのかというのが読後の感想である。

嗚呼、この著者の歴史には虹がない!

ーー

いまも中国の情報戦に負け続けているのは、政治家や外交を司る外務省ばかりではなかった。

中国史観を軸にする歴史学界も同じ穴の狢(むじな)だ。

本来、「中国」とは世界の中心だから日本人であればそれは「中国(なかつくに)」つまり日本の意味であり、北畠親房は「神州」、山鹿素行は「中朝」とした。

日本の歴史学者も、支那人の情報戦に負けていないで、もそっと日本人の立場に立った歴史を発信して欲しい。

2019年10月21日 (月)

ハロウィンはケルトの宗教儀式が起源である

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

鶴岡真弓『ケルト 再生の思想』(ちくま新書)
井村君江『ケルトの神話』(ちくま文庫)

鶴岡真弓『ケルト 再生の思想』(ちくま新書)によれば、ハロウィンとは、「祖先や、逝った親しい仲間と、魂を交流させて、闇の季節の安寧と、闇に沈んだ者たちが、「闇に光りを見出す」ことを願う夜」だったのである。

慰霊ばかりか

「『死者たちから生命力を贈与される』、惠の夜ともなる」

ーー

シーザーの『ガリア戦記』に描かれているガリアとは、地理的には南フランスからスイス、ベルギーを指す。

民族的にはケルト人を意味するのだという。

したがってケルトの末裔は欧州全域に分散し、スペインにもドイツにもいる。

ーー

ケルトの起源はインドとする説が有力で、ケルト人らは欧州各地を流転し、国を建てず、統一王朝を持たず、彼らは『移動する民』であったようだ。

ケルトの最大の王といわれたタラ王は、権力の象徴ではなく、一種ケルト人の宗教的な収斂作用としての存在だったと考えられる。

タラ王の眠るタラの丘には石棒が屹立している。

わが縄文遺跡からも夥しい数の石棒が発掘されてきた。

恐らくこれら石棒は、縄文人にとっても、ケルト人にとっても祭器だったのだろう。

ーー

ケルトは数千年にわたり欧州各地を移動した。

そのなかにアイルランドに住み着いた種族がいた。

ケルトの移住したアイルランドはローマの侵略はなかったが、中世にはヴィキングが侵略しており、ケルト人はそれと戦った。

ーー

それゆえケルトはアイルランド各地に痕跡を残し、ケルト語が残る。

例えば、中世アイルランド語で聖女は「ブリギッド」(現代アイルランド語は「ブリード」)、英語に転じて「ブリジッド」となった。

B・Bこと、ブリジッド・バルドーは、ケルト語で聖女のことであった。

評者(宮﨑)の英国の友人の奥さんの名前がブリジットであったことを、思い出した。

ーー

語源的にインド・アーリア系であることは地名、人名が共通する場合が多いことで分かる。

たとえば、北アイルランド北西部にデリーと、ロンドンデリーいう街がある。

インドの首都の名前はニューデリーだ。

英国をたまにグレートブリテンと呼ぶことがあるが、この語源も『ケルト語系のブリトン語をはなすケルトの人々』を意味したのだと鶴岡女史前掲書は言う。

ーー

ケルトは自然崇拝、そして輪廻転生を信じていた。

アイルランドでのキリスト教は、この地元の信仰の土壌、その習俗のうえに覆い被さるようにして拡大した。

だからケルトの十字架は中央部に日輪がかぶさる。

三つ葉のクローバを尊重する伝統がある。

ーー

日本人は春の彼岸には「ぼた餅」を、夏至(お盆)には「夏野菜」を、秋の彼岸には「おはぎ」を、そして冬至には南瓜を食して自然の力を感謝し体内に取り込んできた。

天皇は収穫の秋になると新穀を捧げ、五穀豊穣を願う新嘗祭を行い、改元となれば天皇家の田と庶民の田から収穫された新穀とで大嘗祭を司る。

古代ケルトは狩猟、牧畜も兼ねたが、農耕民族であり、基本が自然崇拝であり、日本人同様、四季を尊ぶ儀式を尊重した。

そのケルトがもっとも重視した祭礼が、秋の収穫祭ハロウィンであった。

ーー

キリスト以前のケルトの宗教は多神教であり、井村君江『ケルトの神話』(ちくま文庫)によれば、274の神々がいたという。

ヒンズー教は多神教だが、神々には序列がある、ゾロアスター教も数こそ制限されるが多神教であり、日本は八百万(やおよろず、無数)の神々(アマテル神以外平等)がいる。

ーー

ケルトは日本の三種の神器(みくさのかんだから)のように『四種の神器』がある。

日本のそれは剣、鏡、勾玉だが、ケルトのそれは無敵の「魔剣」「魔の楯」、打ち出の小槌のような「魔の釜」そして『運命の石』(戴冠式で上に王がのる)である。

ーー

ケルトの神話のなかに『侵略の書』という写本(AD800年~1200年)があり、トァンという人物の物語が記されている。

トァンはある日、雄鹿に変身していた。

それから猪の王になり、つぎに海鷲、そして鮭に転生して数百年を生き延び、その鮭をカレル王の妻が食して子を産んだ。

その生まれた子がトァンだと、まさに輪廻転生しているのだ。

ーー

フランツ・カフカの小説『変身』は、ある日、目覚めたら主人公のザムザは巨大な害虫になっていた。

これもケルト神話の影響があるのかも知れない。

ちなみに『変身』は高橋義考訳が一番古いが、以後九人もの文学者が翻訳しており、なかには池内紀、多和田葉子訳もあるほど人口に膾炙された。

ハロウィン10月31日の季節を迎えて、二冊を本箱からだして読み直したのだった。

2019年5月21日 (火)

三島由紀夫は自己の深部に蟠る衝動や欲動を胡麻化さないで直視した

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

佐藤秀明編『三島由紀夫スポーツ論集』(岩波文庫)

本書はスポーツに絞りこんで、三島が遺した名文を集めるという、文庫新装版である。

しかし版元の岩波書店と三島由紀夫は、政治的に相容れないはず。

これまでなら連想さえ出来ない組み合わせだ。

ーー

岩波が、文庫に三島の業績を編集し直して市場の出すのは、これが三冊目である。

こうなると、岩波なら決して編集しないであろう政治論文集もひょっとして考えられないことではない。

(例えば『文化防衛論』『反革命宣言』『革命の哲学としての陽明学』などを一冊に収める)

売れる点からすれば、潜在的に岩波書店が狙うのは三島全集ではないか、と評者はかねてから邪推してきた。
 
ーー

そんなことを考えながらも、改めて三島のスポーツ論を通読してみると、戯曲や小説や、ほかの文化論にはなかった、三島文学の真髄、その人生への姿勢が浮かび上がってくる。

青年時代の三島は兵役検査で不合格となるほど虚弱であった。

それを、どこで変えたか。

三十歳で、習い始めたボディビルからである。

ーー

その後は、ボクシング、剣道、空手、合間に乗馬も水泳もやった。

しかし、ゴルフには手を染めず、マラソンとも無縁ではあった。

そして三島は東京五輪を皮切りにスポーツ観戦が好きで、報知新聞などに短文を無数に寄稿した。

ーー三島の書き出しはこうだ。

「私は病弱な少年時代から、自分が、生、活力、エネルギー、夏の日光、等々から決定的に、あるいは宿命的に隔てられていると思いこんできた」

「この隔絶感が私の文学的出発になった」 

ーーしかしスポーツを始めてから、昭和31年10月7日の毎日新聞に次のように書いた。

「私の人生観も芸術感も変わってきた」

「幼少年時代に失ったものを奪回しよう」

ーー

作家の高橋源一郎は、スポーツ観戦記などを石原慎太郎や大江健三郎のものと比較してみて、「三島だけが『芸術』している」と比喩した。

というのも、三島はスポーツ観戦記の中に、単なる肉体の物語ではなく、文明論をちりばめたからである。

ーー

編者の佐藤秀明(三島文学館館長)の長い、長い解説が巻末に付いている。

が、これは秀逸な三島由紀夫論である。

ーー佐藤教授はこういう。

「三島由紀夫のスポーツが身体の鍛練や健康を目指しながら、遂に死を希求するところに行ってしまった」

「いつからかスポーツすることが死の準備に変化したのである」

「三島のスポーツ論には、構えない文明批評があり、希望や喜びもあり、何より小説や戯曲ではあまり見ないユーモアがある」

「書くときの眼の位置が、普通の人と同じか、やや低いところにあるからだ」

「諧謔は自己の客観視から生まれるが、そこにはスポーツでの周回遅れの気安さも手伝った」

ーー

つまり「三島由紀夫は自己の深部に蟠(わだかま)る衝動や欲動を紛らさずに直視する術に長けている」ゆえに「天与の芸術家」なのである、と。

ーー

さて、本書を通読したなかで、評者がもっとも印象深い箇所は次の三島の予言である。

「このまま行けば、男らしさは女性の社会的進出によってますます堕落させられ、ついにはペニスの大小及び機能的良否以外に、男らしさの基準がなくなるのではあるまいか?」

「そして順応主義の時代は、男の精神をますます従順に、ますます古い意味で『女性化』して、こうなると、小説家なんぞは、臍曲がりで個性を固執するという点だけでも、相対的に男らしくなるのではないか?」

いまのLGBT、女性優位、価値観の逆転を目撃すれば、あまりにも的中しすぎている。

2019年4月24日 (水)

縄文人は抽象的思考や表現そして言語能力を私たちと共有していた?

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

江坂輝彌『日本の土偶』(講談社学術文庫)

夥しい縄文遺跡の発見と、出土した無数の土偶。

こうした縄文土偶は草創期から製作されていたことが近年の縄文考古学でひろく認定された。

しかも縄文土偶は世界的な考古学者、美術史家の関心を集めている。

序文にはセインズベリーの以下の文章が見られる。

ーー

「土偶を作ったのは私たち同様近代的な人間だった」

「縄文人は抽象的思考や表現そして言語能力を私たちと共有し(ていた)」

「また私たちと同じように精巧な職人技や奇抜さを評価していた」

ーー

本書は、300点を超える図版を用いて、縄文土偶を提示し、一万年以上前の日本人の生活や祈り、食事、その文化を考察。

著者は学者だけに推理も想像もなく、淡々と客観的事実だけを列記した。

そして、それとなく推理小説のような解釈をした梅原猛らを言外に批判している。

ーー

三十年前の名書が、折からの縄文時代への熱狂とともに学術文庫に入った。

ーー

評者(宮崎)は中学時代の歴史教科書で、静岡の登呂遺跡が日本で最古の遺跡と教わった。

それが固定観念のように脳裏にこびりついて離れず、高校時代に無銭旅行であちこち旅をしたときにわざわざ登呂へ見学に行った。

近くの小・中学は遠足のコース、遠くからも観光バスで来る人たちもいて、もの凄い人出があった。

連日、登呂遺跡は超満員で周囲にはお土産や、レストランができていた。

自動車で来た人たちは、駐車場が足りないと悲鳴を挙げていた。

ーー

過日、新幹線を静岡で降りて、登呂遺跡を再訪してみた。

前に来てから歳月は流れじつに半世紀以上経ってしまった。

驚いたのはレストランも土産店も閉鎖され、そもそも見学者がほとんど居ない。

駐車場はがら空き、寂れ果てているではないか。

ーー 

地元のタクシーの運転手曰く、「あれから縄文遺跡があちこちに発見されて、登呂遺跡は弥生時代の『新しい』遺跡とされ、いまじゃ、駐車場はいつもあいている」と。

ーー

本書は、全国の縄文遺跡から出土した土偶を中心に、専門家が装身具や祭器などを分析し、その用途に思いを馳せる。

羅列形式で、文章に綾もなく、ひたすら淡々と土偶や装飾品の出土場所、発見日時、発見者、出土したときの状態と形状、寸法などが記述されている。

一万年にわたった縄文時代は草創期から前期、中期、後期に別れる。

その時代の移行に伴って、土偶の形の変化としてあらわれている。

ーー

評者(宮崎)は歴史学者でも考古学者でもないから、素人の発想から以下の個所に注目した。

「1940年頃、奈良県橿原神宮外苑、現在の橿原公苑地区の遺跡の発掘調査に(亀岡遺跡の遮光土偶の影響を受けたと思われる)多数の土偶が出土した」(p191)

「多くは破損していたが、出土品のなかには「耳の位置に小円孔のある土偶」が含まれており、縄文後期のものと認定される」(p211)

装飾品はペンダント、腕輪、イヤリング。

つまり縄文女性はピアスをしていたのである。

ーー

このさりげない文章には重要な意味がある。

橿原神宮は畝傍山麓にあって、神武天皇が祀られている神社であり、同敷地内には神武天皇陵、綏靖(すいぜい)天皇陵がある。

『古事記』によると、神武天皇の即位は紀元前660年であり、世界史的にいえば同時代にはバビロニア帝国が築かれたネブカドネザル大帝の時代に重なる。

日本史では縄文後期から弥生時代の重複期にあたる。

ーー

林房雄が『天皇の起源』のなかで「天皇の原型が縄文中期に成立したという仮説」を述べた。

橿原公苑地区の遺跡から発見されたこれら縄文の遺物は、神武以前の統治者たちの存在を傍証するものと思われたのだ。

集落の長、そして地方の豪族の長を統一していった王、大王、スメラミコトと変貌した統治者が神武以前から何代も続いていたと考えられる証拠の存在に興奮させられた。

2019年4月 6日 (土)

「令和」が採られた万葉集の歌を詠んでみる

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

「令和」という元号が、『万葉集』から採られたことが話題になっています。

それは、万葉集巻五、梅花の歌32首併せて序から採られたのだそうです。

以下に原文をお示しし、日本語として詠んでみたいと思います。

ーー

 「初春令月 気淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香」

この歌は、大伴旅人が太宰府の長官だった天平2年(730年)正月13日に、旅人の屋敷で行われた歌会で出詠された歌です。

歌の作者は、大伴旅人とも山上憶良ともいわれていますが、はっきりと特定はされていません。

つまり、作者不明の歌ということになります。

万葉仮名で記録されており、日本語で、恐らく五七調で詠まれているはず。

ーー

令月・・「令」は天命を授かる意があり、旧暦2月の異称で、何事をするにもよい月とされる。
気淑・・「淑」は、しとやかとかおだやかという意味で、気がおだやか。
梅披・・「披」は披露宴などにも用いられる漢字で、訓読みは「ひらく」
鏡前之粉「粉」は鏡の前の粉とあるので、この場合お化粧用の白粉(おしろい)のこと
珮後之香「珮(おびだま)」は、女性が着物の帯や胸につける飾りの玉。

ーー

旧暦の正月ですから、いまでいうとまだ寒い2月の初め頃になります。

その寒い時期に、この歌は「初春令月(しょしゅんれいげつ)」と歌いだしています。

旧暦2月は今の3月中旬で、春の始まりを迎えるという表現がなされ、それはちょうど梅の花が開花する頃になります。

その旧暦2月のことを、当時の人たちは「令月(れいげつ)」と呼称していました。

ーー

「令(れい)」は「りょう」とも読みますが、令嬢、令息という言葉の意味通りに、ひらたくいえば「良い月」という意味になるのです。

しかし「良月」と書かずに「令月」としているので、「令」に特別な思い入れがありそうです。

ーー

「令」という字は、神々の意思のもとに傅(かしづ)く姿の会意象形文字です。

ですからこの字には『神々の御意思」として「良い」いう語感があります。

つまり2月(いまの3月)に花が開くのは、素晴らしい神々の御意思なのだ、というわけです。

ーー

そして「令月」というのは、古くから「何をするにも良い月」とされてきたのです。

ーー

続く「気淑風和」の「気淑」の「気」は、運気とか大気とかで、それが「淑」と書かれています。

「淑」という字は、しとやかとかおだやかという意味ですから、「気淑」は、大気がおだやかである、という意味になります。

「風和」は、そのまま「風(かぜ)、和(やわら)ぐ」で、それまでの冬の冷たい風が、暖かい風に変わったことを示します。

従って「気淑風和」は、「大気はおだやかで、風が温かくなっている」といった意味になります。

ーー

「梅披鏡前之粉」にある「披」は、披露宴などにも用いられている漢字で、訓読みは「ひらく」です。

つまり梅が何かをひらいているわけです。

それを「鏡前之粉」、鏡の前の粉と書いている。

これは「白粉(おしろい)」のことです。

(平安貴族同様このころから貴族は男女ともに化粧をしていた?)

従ってこの梅は白梅で、白粉をつけたように咲いているという意味になります。

ーー

「蘭薫珮後之香」は、歌い出しの「蘭薫(らんかほ)る」は、白梅の良いかおりがしているしている状況を読んでいることがわかります。

「珮」というのは、女性が帯などに付ける匂い玉のことで、乾燥させた花などを小さな袋に入れて、その香りを楽しむものです。

これは「におい袋」のことで、今でも有りますね。

におい袋を忍ばせている女性が動くと、やさしい香りが後にただよいます。

つまり、におい袋を忍ばせた女性が通ったあとのように白梅の良い香りがしている、という意味になります。

ーー

以上の情景を考えて、詠んでみます。

初春(はつはる)の 令(よ)き月(つき)うらら 風なご(和)み 白粉(おしろい)のごと 咲く梅かほる 

ーー

「白粉(おしろい)のごと 咲く梅」は白梅ですが、「白梅」が咲くのは、まだ雪が降るときもある、冬の寒さが残っている、そんな時期です。

けれどそうした時期に咲く白梅の花は、春の到来を確信させてくれる。

ーー

「令和」は、この歌から「令(よし)」と「和(なごみ)」の二字をとって元号にしたものです。

初春の令月は、寒さが和(やわら)ぎ、梅の花が咲き、その香りが春を告げる。

「令和」は、日本人に春の到来を、(日本人が在日・反日勢力から日本を取り戻す時代になることを)確信させてくれる、見事な元号だと思います。

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