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2021年2月 6日 (土)

唐は、新羅をひとつの県として認識していた、ですから唐が新羅に与えた印章は、県知事を意味する銅印だけです

ーー以下「ねずブログ21/2/4」より抜粋編集

錦江のほとり扶蘇山(ふそざん)にある皐蘭寺(コランサ)に壁画があり、660年の百済(くだら)滅亡の際、略奪、殺戮、強姦などほしいままにする敵軍の前に、貞操を守るため落花岩から百済の宮女達が錦江(白馬江)に身を投げたという伝承を描いたものだと言われています。

身投げした宮女達の魂を慰めるために建てられたのが皐蘭寺だったのです。

ーー

百済は朝鮮半島にありましたが、王も人民も倭人です。

百済は、古事記の神話に以下のようにしるされているのです。

イザナギが黄泉(よみ)の国から帰るとき、追い迫る黄泉の軍勢を桃の実を採って投げ、追い返しました。

このときに「桃(もも)が稔(な)る村」が、後に当て字で「百(もも)が済(な)る」となって、百済(ひゃくさい)という国号になったと。

(のちに観音信仰が盛んになると百済(多く救うの意)は多くの人を救うところ、観音様のお住まいになる地・補陀落とされフダラク→フダラ→クダラと称されるようになった。これは日光が、二柱(ふたはしら)の荒ぶる神のおわすところとされ、それが二荒(フタアラ)→フタラが補陀落に通じたため観音聖地となり、さらに二荒の表記→日光となったのに似ている)

ーー

この時代、朝鮮半島には百済の他に、いまの北朝鮮あたりに高句麗(こうくり)、いまの慶尚道のあたり(朝鮮半島の日本海側)に新羅(しらぎ)がありました。

高句麗の北側は、遊牧民たちが暮らす放牧地帯で、この頃の支那の中原(ちゅうげん)は、五胡十六国が戦乱を繰り広げていました。

時折、そんな中原や、北方遊牧民が、半島まで南下してきたため、これへの緩衝地帯として、倭国が特別に設けた国が、高句麗、百済、新羅であったわけです。

ーー

ですからこの三国とも、日本の属国として日本に朝貢し、また日本に国王の跡取り息子である王子を人質に出していました。

王子は日本で暮らし、日本のご皇室の女性と結婚して子をなしました、そして国王が死ぬと、国に帰って国王の地位を継ぎ、その新国王の息子(跡取り息子の王子)は、日本で生まれて、天皇の娘である母の手で日本で育ちます。

そして父の国王が死ぬと、半島にある国に帰って国王となりました。

ーー

ちなみに古代の日本では、王というのは、天皇の息子のことを言います、だから新羅王、百済王、高句麗王と認識されたわけです。

ところがこのうちの新羅は、もともと濊(わい)族が多く住む地域であったがために、徐々に濊と血がまじりました。

ーー

濊というのは、汚穢(おわい)といって、糞尿を意味する漢字です。

もともと新羅の人たちは、二重まぶたで目鼻口が大きいことが特徴だったのですが、何百年かのうちに濊と血が交じることによって、徐々に頬骨が高く、一重で細目に変わっていったといいます。

濊は伝統的に、働くことよりも奪うことに重きを置いた人々であったことから、徐々に新羅は乱暴者の国となり、たびたび高句麗の日本への朝貢の使者を襲いました。

ーー

やむなく高句麗は、倭国と協議のうえ、日本への朝貢をあきらめ独立自尊の道を歩み始め、北に北方遊牧民、西に戦乱に明け暮れる支那と接する高句麗は、軍事国家として成長していくことになります。

ーー

そんななか、6世紀の終わり頃に、支那が隋によって統一され、軍事超大国隋は、周辺異族を併呑していきました。

隋は、高句麗への攻略のために、数十万の大軍を送ります。

ところが軍事国家である高句麗の備えは強く、隋は度重なる高句麗への侵略のすべてに敗退し、結果、国力を落として国が滅んでしまいます。

ーー

あとに起こった唐は、軍事強国である高句麗を挟み撃ちにしようとして、唐から見て高句麗の後背地にあたる新羅に、「百済を滅ぼして、その財(たから)のすべてを新羅にあげるよ」ともちかけて、新羅に軍を送ります。

そして西の海からと、東の新羅側の両方から百済を挟み撃ちにして、百済を滅ぼしてしまいます。

このときの出来事が皐蘭寺(コランサ)の壁画に描かれた絵だと言われているのです。

ーー

絵には、迫り来る敵軍の兜の上に金属もしくは角製の突起物が描かれていますが、これは当時の唐の軍装で、要するに百済に迫った軍は、新羅軍ではなくて、唐軍であったわけです。

こうして百済を攻め滅ぼした唐は、新羅に唐の軍隊を常駐させ、そのわずか8年後には高句麗を挟み撃ちして滅ぼすことに成功します。

ーー

ところがこの間、何もしてこなかった新羅は、国内においては唐軍に手を変え品を変えて嫌がらせをし、その一方で唐の皇帝には土下座外交を繰り広げていました。

結果、8年後の676年には、唐の将軍が怒って新羅を引き払ってしまい、新羅はまんまと朝鮮半島を手に入れてしまう。

こうして興った新羅王朝は、936年の滅亡まで、260年の長きに渡って半島を支配するのです。

ーー

しかしながら、新羅は、独立国家として半島に存在していたのではなかったのです。

新羅はあくまで唐の属国として、新羅王が置かれていただけであって、唐は新羅を国として認識していません。

唐は、新羅をひとつの県として認識していた、ですから唐が新羅に与えた印章は、県知事を意味する銅印だけです。

ーー

この「新羅が国ではなかった」という点は、歴史を考える上でとても重要なことです。

国でないなら、新羅王朝は何であったのか、答えは、支那の歴代王朝からみたら、半島全体がただの市町村であった。

支那の歴代王朝は、漢代に定められた印綬の制度を踏襲しましたが、半島の歴代王朝に与えられた印綬は、すべて下級官吏を意味する銅印だったのです。

ーー

半島という、ある意味広大なエリアの王朝がなぜ銅印だったのか。

それはものすごくわかりやすくいえば、半島にあった王朝は、単に半島内最大勢力の広域暴力団でしかないという認識に近いものだったからです。

半島という領域があり、そこに人民がいて、そこを根城にして、人民からみかじめ料を取っている暴力団がある。

その名前が新羅であり、後には高麗とか、李氏朝鮮とかわるけれど、その実態はいつも同じであった、ということです。

実際、新羅が王朝であった260年間、いわゆる民政に関することは、何も行われていなかった。

ーー

このことは、そもそも国とは何か、という議論になってしまいます。

日本人は、国というのは、世界中どこでも、歴史を通じて、「為政者がいて彼が、民衆が豊かに安全に安心して暮らすことができるように、最大限の努力を尽くすもの」と認識してきました。

しかしこの認識は、実は世界では非常識であり、そんなことが実践されていたのは日本に存在した諸国諸大名くらいなものなのです。

ーー

世界では暴力団が政権を担ったり、組長さんが王を名乗ったりしていたのです。

とりわけ半島にあった王朝の為政者は、日本人が思い描く国という認識を持ったことがなく、それゆえ自国が豊かになるために、何らかの行動をしたということが、千年以上にわたってまったくなかった。

その意味では、百済は半島における最後の「民衆のための政治」を行った国であったし、だからこそ宮廷の女性たちが、暴行されるよりはと、死を選んでいるのです。

ーー

もちろん今日お話した以外にも、様々な歴史観があることでしょう。

歴史を学ぶということは、そうした多様な歴史観を学ぶことで、多様な価値観を知り、学ぶことでもあります。

そしてそのなかで、もっとも納得できるもの、そしてもっとも再現性があり、証拠の揃うものが、解釈として、最も科学的な歴史認識ということになります。

ーー

朝鮮半島には国があった。
百済は新羅に滅ぼされた。

これらは、証拠に基づく限り、いずれも、そうとはいえなさそうです。

半島には、百済という国は存在したが、新羅という国は存在せず、百済は唐によって滅ぼされたのであって新羅に滅ぼされたのではないといえると思います。

歴史は、記録に常識を当てはめて、疑問点を洗い出して、そこから一番合理的な解釈を得る、そういうものだと思います。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>日韓の古代史の見直し
世界で日本の特異な処は「国民国」が、倭国大乱と言う500年以続いた大戦争はあったにせよ、自然な形で成立してしまった事ですが、この500年にも及ぶ戦争が如何にして戦われたのかは、全く記録が残っていません。

然し、当時の日本列島に暮らしていたのは、多種多様な人々で、日本海や太平洋沿岸には、海岸や島嶼部に海人族が、川を遡った内陸に、先住民の蝦夷族や大陸から逃れて渡って来た呉や越の長江遺民が、一定の武力を保持していました、彼らは土豪と呼ばれる地侍です。

その他、山間部には狩猟採集民「サンカ」や日本海側の北陸~東北~北海道にかけては、沿岸漁業で生計を建てるツングース系の人々も少数いたのです、然し、食糧生産力が無く、然も、火山活動の盛んな土地に好んでで棲むので噴火があると、大きな被害を受けた。

だから何と言っても多かったのは、東シナ海全域に勢力を広げた海人族で、殊に、九州が彼らの根城で、北部九州に豊族、中部に肥(くま)族、曾於族、そして、南九州と島嶼部に隼人族と言う、海人族の支族勢力が割拠して、互いに交流/牽制していました。

大和朝廷を建てたのは、この中から瀬戸内海を渡って、今の大阪に辿り着いた隼人系のウガヤ氏の息子たちで、目的が武力侵略ではなく交易交渉だったから、瀬戸内を抜けるだけで16年を要したのだが、その中身は農業の新技術と製塩法の伝授であった。

BC680年頃は、平野部と言っても、先住民は、農耕民では無いので、治水が為されて居無いので、川の氾濫が絶えない、芦が生い茂る湿地帯が殆どだったから、伝授したのは、先ずは治水で、その技術に拠って荒れ地が水田に生まれ変わった。

是だけでも、毎年、冬には飢えて多くのし者を出していたのが救われたのだから、人口が増え始め国が富む様になったから、一行の評価はうなぎのぼりに上がった、で更に、川の氾濫被害を緩衝する為の工夫により、農耕地を更に広げる事が出きた。

処が、開発が進んで行くと、新たな争いも起こった、原因は川の上流と下流域の水利権だが、農耕地の広い下流域の不満が大きく、中には戦争も辞さない所迄、対立が深まった処も会ったが一行が示したのは製塩法であった。

当時は岩塩が主流だったが産出量が少なく貴重品だった、入り浜式と呼ばれるこの製塩法は、海水が原料だし、広い砂浜がある処なら日照りが続黄、雨の少ない地方の方が、条件が良かったので、下流域の人々は塩を水利権として支払う事で解決した。

この様に古代から日本は、置かれて居る地理的な位置に因って、政治的なもの、気象海象的な条件の全てが、民族の違いを超えて、一致団結して共に援け合わなければ、何れ、共滅する事が分る過酷な自然に直面しているから、今は敵でも一人でも失いたく無かった。

是が、狭い列島に暮らすもの独特の結論である。なのに、何故、倭国大乱が起こったのか、そして、その間大和朝廷は、故地の九州に8代、514年間に亘って、遷座せざるを得無かったか?という、大きな謎が残るのは冒頭に述べた通りです。

有力な説は、幾つかありますが、私はその答えは半島にあると言う説を採りたいですね。

固より、半島は高緯度にあり寒冷にして少雨の地域ですから、植生は育ち難く能子兎には不向きな土地で、BC10世紀迄は、濊族や扶余族と言った大陸から南下して来た狩猟採集民が細々と暮らして居たダケの荒れ地だった。

これを纏めたのが、シナの古代王朝の殷の遺臣で、同じ生業の濊や扶余族の首領を手なずけて、国の様な形を取ったが、黄海を隔てた向こう側には戦乱のシナがあり、狭い半島で逃げる場所は海しか無いので、有力な海人族の国日本を頼り、その庇護下に入った。

日本は、当時九州から日本海沿岸にかけて海人族の支配下にあったが、シナの各王朝の出自は、既に遊牧民だったので、知見の無い渡洋遠征の危険を冒して迄、日本に攻め入る事を考えるものはいなかったから、日本の庇護下に入った国には、手出ししなかった。

処が、倭国内で、内戦が勃発したが、その原因が、戦後期時代の当時は金よりも価値が高かった鉄が産出され始め、その利権を巡っての争いであると、伝えられて居たが、実はこの鉄の産出源は、半島の新羅の慶州鉄山であった。

是を知られると半島にシナ勢力が攻め込んで来る事は判り切っていたので、秘匿されて居たのだろう、そしてその鉄資源も三韓征伐の頃、4世紀には枯れてしまった、それで、子の利権を争っていた肥曾(クマソ)族も鎮静化したが、日本が東北迄支配下に治めたのは、12世紀まで待たねばならない。

然し、この鉄貿易が日本に大きな富を齎し、大和朝廷はそれを元手に、大阪平野で5代の御代に亘る大規模開墾事業を推進し、荒れ地だった大阪平野を穀倉地帯に変えた事で、国力を大きく伸ばして、シナの劉宋王朝から「倭の五王」の時代と呼ばれる強国を作った。

日本ではこうして、国が自然に出来上がって行った様に感じるが、結局の処為政者が、手にした利益を「民族の未来の為に」使ったからで、中には「ダモクレスの剣」の恐怖に耐えきれず錯乱して重臣に弑された武烈帝の様な人物も居たのである。

然しその際も、重臣の大伴氏は、自分が執って替わる様な事はしなかった、何故なら、それに拠って、国が乱れれば、外敵が必ず着けこんでくると、倭国大乱での教訓が、生きて居たのだろう、日本人の「民族の未来を最重視する生き方」の原点ですね。

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