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2020年10月24日 (土)

甘酒を作ってみた

いつだったのか忘れたが、米麹(こめこうじ)がスーパーの特売のワゴンに乗せられていたので買って帰り、引き出しにしまっておいた。

忘れていたのを見つけ、賞味期限を見ると、5月25日でそれからもう5か月も経っている。

ということは買ってからはもっと、一年くらい経っていることになる。

色も買った時は確か白かったのに茶色がかった黄色に変色している。

ーー

特価で買って得をしたはずが、捨てると丸損になる。

説明文には、黄色くなっていても麹としての効果は変わらないとあった。

それで、10月22日朝8時ごろからこれを使って甘酒を作ることにした。

ーー

まず一合の白米でお粥(かゆ)を作る(60分)。

「米麹」はマルモ「善光寺平 米こうじ」300グラム、これをボウルに入れ、100ccの水道水を加え、それに出来上がった粥を少しづつ加えてかき混ぜる。

何しろ麴菌は60℃以上で失効するらしいので、出来立ての熱い糊(のり)状の粥が、麴菌を殺さないように気を使った。

ーー

良く混ざったので、温度を測ると約45℃、それを炊飯器に入れ、蓋を開けたまま保温にする。

濡れ布巾を掛けて10分ほどして、温度を測ると55℃ぐらいで、50℃から60℃に保つために、30分毎に混ぜ温度を測り保温を入れたり切ったりして、2時間ぐらいすると、つぶ状であったものが液状に変化してきた。

スプーンにとって味見(あじみ)をすると、まだ甘味は薄く「米こうじ」が硬いまま残っている。

ーー

ちょっと端折(はしょ)るが、6時間ぐらいすると、硬かった「米こうじ」が柔らかく馴染み、全体が液状となり甘味が際立ってきたので、7時間後に別容器に取り分け炊飯器を洗った。

ーー

試飲すると、とても甘く、「米こうじ」のつぶつぶ感が食感としていい感じになっており、上出来の甘酒となっていた。

ちょっと甘味がきつすぎるが、これは水で薄めて解決、昔の人はこんなおいしいものを飲んでいたのかと感動した。

しかも発酵学者の説では、甘酒は麴菌による発酵でビタミン類の宝庫になっているそうな、それで昔は夏バテに効く甘い飲み物としてとても重宝されたのだとか。

ーー

それにしても先人らは、50℃から60℃という温度管理をどうして行っていたのだろうか。

キット容器を触って温度を手に覚えさせて、手間を惜しまず、保温や加熱の工夫をして甘酒を作ったのだろう。

この素晴らしい飲み物と「米こうじ」を作り出してくれた先人に感謝だ。

皆さんもぜひ自分で甘酒を作ってみてはいかが、温度管理が面倒なだけで割と簡単に、売っているのとは一味も二味も違う甘酒が作れ、飲めますよ。

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文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>甘酒で甦る祖母の記憶
古代から日本文化は、発酵の文化と謂われている位ですから「米麹から甘酒を作る」のは、面白い試みだと思いますが、何事にも群ら気で、エンジンの懸りが不定性な私には、実際にやれそうにありませんねww それに、そんなに甘いものに対する執着は無いので、モチベーションを喚起するものが無いwww

ですが、読了してみて、昔、祖母に作って貰った甘酒のあの匂いと粒粒の食感、そして甘さを思い出して、懐かしい気持ちになりました、この辺りは、私も日本人なのでしょうね。

祖母は実は後妻で、母方の一家が大連で暮らして居る時に、40代になったばかりの主婦が急死して、まだ小さかった叔母達を抱えて祖父は途方に暮れて居たら、満鉄への出入り業者で有った祖父が行きつけの料理屋でー働いて居たて祖母を見初め、妻にしたのだそうですが、祖母の出自を聞いて吃驚、なんと、出自の薩摩の領主の島津家の姫君だった。

そんな生い立ちなのに、なんで、大連の料理店の仲居なんかやって居たのかは、長くなりますので書きませんが、侯爵家として扱われたのは祖母の父親の代までで、父親が死ぬと忽ち、家は困窮して、長女だった彼女は人に云えぬ苦労をしたと言って居ました。

祖母は良家の出なのに働きもので、日本に還って来るまでやった事が無かった農作業も厭わず、更には、料理の腕前は天下一品、彼女は幼年期から成人になるまで、とうきょうで過ごしていましたから、料理自体が江戸風で、おせちなんて他所とは丸で違いましたね。、

なのに、一体どこで覚えたのかしりませんが、琉球の家庭料理である「豚味噌」まで造って送ってくれて、神戸にいる私の友人の島出身の人達を驚かせていました。他にも煮物は、評判だったし、季節で造る手作りの草餅やちまきは絶品でしたね。

それでも、やはり昔の武家の女で「丸に十の字」の島津家の家紋がTVにでると「他所の家の家紋を勝手に使って・・」と、怒っていましたねww、彼女が継母として家に入った時は、昭和12年位です。

戦局の不穏化に連れ、大連での事業も大きくなっていて、チョットした名士で、薩摩から多くの書生を抱えていた様ですが、終戦とともに、一場の夢と潰えましたから、其れからは苦労の連続です、そんな中、子供達との不仲もあって、彼女も苦しんでいた様ですね。

それに気位がとても高くて、一度、偶然彼女の年下の兄弟からの手紙を読む機会があり、そこには、「あの姉が百姓仕事をするなんて、信じられない」と有りましたから、訪うきょうを出て、大連に辿り着く迄の苦難の時代が偲ばれます。

彼女は、結局、90代の高齢になっても、畑に出て農作業を熟す毎日を、送って居たので、足腰が丈夫で、加えて、毎日山の中腹にある「墓地公園」で、お参りして居た位でしたから、最後の1ヶ月は、意識不明でしたが96歳の天寿を全うしましたね。

あれから、モゥ30年近い歳月が流れて居るのだなぁ、と、改めて思うと、過ぎてしまった歳月の速さは、若い頃はとても想像出来なかったですね、人はこうして、歳を取りやがて、一生を終える野だなぁ、と、両親や親戚がみな、あの世に行き始めた今、自分も、こうして思い出になるのだなぁ、と思い始めています。

生まれながらの下戸で、酒付き合いも碌に出来なかったのですが、今から10年近く前に米麹を使って、調味料の塩麹を作ったことがありました(塩麹はテレビで一時期ブームになったのです。)。
尤も米麹はスーパーにも売っていなかったので、問屋を探して500グラムだけを買いました。

作るのは簡単で、料だけはそれなりに計量器で図りましたけれど、後は大雑把なものでした。家では多少料理もしましたけれど、きっちり図るものもあれば、適当で十分なものもあるようですから、余り考えないことにしていました。
そして、後は毎日軽く混ぜて発効させるのですが、2週間位したら勝手に出来てましてこれを料理の時に加えます。

こんな感覚で作りますから失敗することはなく、妻が必要なときに使っていました。
ただ、私が味音痴なために、自分でそのおいしさはこんなものかなと言う感じでした。

これを保存分がなくなると補充する感じで、5年位使いました。そして、近年はスーパーの棚にも米麹が売られるようになって、購入が楽になりました。

今度は甘酒を、創ってみようかなと思います。

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