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2020年10月14日 (水)

7世紀に成立した国号が、現代でも使われているのは、世界でただ一国、日本だけです

ーー以下「ねずブログ20/10/5」より抜粋編集

持統天皇が、689年、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)で日本という国号を発せられた。

それより以前は、外国では倭国、我が国では葦原中国(あしはらのなかつくに)、または大倭(おほやまと)と呼ばれています。

ですから「日本」の読みも、本来はこう書いて「やまと」と読みます。

ーー

「やまと」の表記は、「倭(やまと)」であったり、「大和(やまと)」であったり、秋津島(やまと)であったりしましたが、最終的に持統天皇の御世に、「日本」という表記で確定したわけです。

(秋津(あきつ)というのはトンボの事で日本列島をはるか上空から見るとトンボに見えることから来ている)

このため、いまでも「日本」と書いて「ニホン」と読むのか、「ニッポン」と読むのか確定していません。

結局、どちらの読みも正しいとされています。

ーー

この「日本」という国号が唐の国に伝わり、その後に成立した元朝の時代に、首都の大都にやってきたマルコポーロが、元の言葉で「日・本(ジツ・ポング)」と発音されていたものを、「ZIPANG」と書きヨーロッパに伝えた。

今では、英語で「JAPAN」と呼ばれていますが、7世紀に成立した国号が、現代でも使われているのは、世界でただ一国、日本だけです。

ーー

たとえば支那は、7世紀の国号は唐、19世紀の国号は清です。

つまり7世紀にも19世紀にも中国人は居なかった。

中国人が生まれたのは、中華民国が成立した1912年になってからのことです。

中国というのは、まだ108年の歴史しかないことになり、中国人が中国5千年の歴史などといっているのは、中国人の妄想でしかありません。

ーー

ところが日本の場合、有史(記録が残されている)以前の時代から、一貫して続く歴史が保たれています。

要するに日本はとてつもなく古い。

そして世界において、この「古い」ということが、なによりも大きな権威を持つのです。

その意味で、日本人は自国の古さを、もっと明確に認識する必要があるといえます。

ーー

やまと人は、いまわかっているだけで、3万8千年前には外洋航海の術をもち、2万年前には大洋を往来する海の人であったのです。

それが1万6千年前までの海面上昇によって、地形が現在の地形に近いものとなり、多くの島々が海中に没したため、日本列島を中心に住み着くことになりました。

それでも優れた航海術を持つやまとの人たちは、海洋を東に西にと往来し、この結果、南米や中米、北米、アフリカや中東からも、縄文式土器が出土しています。

もっといえば、古代エジプトの伝説の都であるスサは、文明の中心地であったのだとか。

(スサノオというのはスサの男の意でもあります)

ーー

魏志倭人伝や梁書には、倭人(やまとびと)が住む国は、日本列島から海を遠く1年渡った先にまであったと書かれています。

それがどこの国を指すのか、複数の証拠が、その地を南米のエクアドルかペルーあたりであったことを示しています。

こうしたことが何を意味しているかと言うと、今のような国境など存在しなかった時代、海洋国日本にとっての葦原中国(あしはらのなかつくに)、つまり倭人たちにとっての世界は、いまでいうなら「大海原に広がる世界」を意味していたことになります。

ーー

古事記を読み解くと、どうやらオノゴロ島は「地球」そのものを意味しているようです(『ねずさんと語る古事記』)。

大倭(おおやまと)という言葉も、もしかすると大海原にひろがる倭人たちの国、という意味であるのかもしれないのです。

それ以上に巨大な地球上の海原の世界を意味したのかもしれません。

ーー

そしてそうした人々の国が、飛鳥時代に、日本列島内をあらためて日本としたわけですが、実は、その日本という国号よりも、天皇という呼称の方がさらに古い。

天皇という用語がはじめて外交(国際)文書に登場するのは、608年の隋への国書です。

そこに「東天皇敬白西皇帝」と書かれました。

ーー

これについては、その記録が「720年に成立した日本書紀にしかない」という反論があります。

が、記録を言うなら、銘文として607年に成立した「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」に「池辺大宮治天下天皇」の記述があります。

他にも「野中寺弥勒思惟像台座銘」に、「丙寅年四月大旧八日癸卯 開記橘寺智識之等詣 中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉彌勒御像也友等
人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也」という記述があります。

(666年4月に斉明天皇のご健康のためにこの弥勒菩薩像の開眼供養を118名で行った)

ーー

つまり天皇という呼称は、607年〜666年の頃には、確実に用いられていたわけです。

ということは、日本という国号の記録の初出が689年ですから、「天皇」は「日本」より古いということになります。

日本は、天皇あっての日本なのです。

ーー

では、なぜ大倭や中つ国という表記を、わざわざ「日本」という表記に改めたのでしょうか。

これには663年の白村江事件における敗戦が影響しています。

このときに日本は朝鮮半島における権益を放棄し、朝鮮海峡に国境線を敷きました。

つまり海峡上に、明確な国境線を引いたのです。

ーー

実はこのこともまた、世界において、きわめてめずらしいことです。

なぜなら18世紀に、いわゆる「国民国家」が成立するまで、日本以外、世界には明確な国境線はなかったからです。

ーー

王の居所とその周辺、および、王に従う貴族の支配する領地が王国の領地であって、隣の王国との境のあたりにいる人々にとっては、自分たちがどっちの王国の人なのかなど、ほとんど意識されることはなかった。

早い話、ヨーロッパの王国の領地は、飛び地といって、他所の国の真ん中に、別な王国の領地があったりしたのです。

王国の領地というのは、たとえは悪いですが、いまふうにいえば、ヤクザさんの「シマ」とか「ナワバリ」みたいなものだった。

ーー

「ワシは渋谷の王だ」、「オイラは新宿の王だ」と言う人はいても、では渋谷組と新宿組の境界線がどこなのかは、判然としないし、新宿に渋谷の王のお店があったり、その逆もあったりするわけです。

それが近世までの世界だったのです。

ーー

ところが日本は、7世紀に国境線を引いているわけです。

つまり国境という概念を、これはもしかすると世界で最初に用いたのが、日本であったのかもしれません。

ちなみに、どうして朝鮮海峡に国境線を引いたのかというと、ものすごく簡単に言うと、もうコリゴリだったからです。

ーー

支那に鮮卑(鮮はveryの意)人が建てた唐朝が成立したけれど、唐は問題ばかり起こす高句麗が気に入らない。

そこで唐は、お得意の「遠交近攻」で、高句麗を挟み撃ちするために、高句麗の向こう側にある新羅に兵を送り、百済を攻め滅ぼして、半島南部を(表向きは)新羅の征圧地、実態は唐の領土にしました。

ところが倭国が、百済救援軍を起こして、これに抵抗する。

ーー

これは本来なら、あくまで「百済と新羅の戦い」です。

ところが戦っているのは、なぜか日本と唐です。

これはおかしな話です。

ーー

しかも後ろ押しした百済の王子まで、結局、高句麗に逃げてしまった、これでは戦う意味などありません。

そこで日本は、唐と講和条約を結んで白村江から全軍を引き上げることにした。

ところが、その引き上げの当日に新羅がだまし討ちで(国際条約を破って)日本の船に火を放って日本の将兵1万人を殺害したのです。

これが有名な白村江事件ですが、もう二度と、そんな嘘つきの人でなしたちと付き合いたくない(まるで現在の日韓関係のようです)。

だから日本は、663年に朝鮮海峡に国境線を敷いたのです。

ーー

そして九州の筑前に大宰府を置きました。

太宰府というのは、「おおいに辛い(厳しい)役所」という意味です。

わざわざそんな名前にしたのは、半島からの人など、二度と日本に来てほしくなかったからです。

ーー

さらにいえば、世界のなかで日本だけが、助け合いを軸にして成立した国家です。

世界中、どの国においても、特定の王朝が国内を支配しようとするときは、すべて力による征圧が用いられています。

これは、簡単に言えば、「略奪と虐殺(さからう者は殺す)」ということです。

ーー

ヨーロッパの場合であれば、王や貴族の多くは、もともと北方のバイキングの海賊が、岡に登ってそのあたり一帯を征服した征服者です。

周囲にもとから住む住民とは、民族も言語も違います。

この時代、民族と言語が違えば、相手はただの動物にすぎません。

ですから、略奪に抵抗すれば、殴り、蹴り、殺すだけです。

世界の支配はそうやって行われました。

ーー

支那も同じで、中原で漢族同士が長年紛争を続けていることで迷惑した北方遊牧民(鮮卑人)が打ち立てたのが隋であり、唐だったのです。

「隋」という字は、食肉にナイフを突き立てていることを意味する漢字、「唐」も、肉に手でナイフを突き立てている象形です。

要するに隋・唐の王朝を築いた人たちは、肉食の人たちであって、稲作をする農民民族の王朝ではないことが、その国号から知ることができるわけです。

ということはつまり、外来王朝だ、ということです。

ーー

ところが日本の場合、日本列島に住む万民が、すべて祖先をさかのぼると、みんな血縁者です。

このことは、それぞれの豪族が持つ神話を紐解くと、それぞれニニギノミコトに従って降臨した神の子孫だとか、大国主神の系列の子孫だとか、要するに神代の昔までさかのぼると、どの豪族たちもみな、なんらかの血の繋がりがある。

つまり日本では、豪族たちはみんな親戚なのですから、親戚同士で「征圧」や「征服」をしたら、なんとも後味が悪い。

ーー

だいたい親族間の恨みというものは、幾世代にもわたって、ずっと尾を引くものです。

そこで考案されたのが、わが国独自の、助け合うことで国をひとつにまとめるということです。

これには、日本列島が天然の災害の宝庫であることも関係しました。

ーー

こうして日本は、世界に類例のない、たすけあい国家を築いてきたのです。

これはとっても誇らしいことです。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>日本の成り立ち
大陸島の東の涯に位置する日本列島に棲みついた民族が、我々のご先祖の一つだとかんがえるのなら、先氷期時代「=7万年以上前」迄、遡らねばなりません、何故なら、福井県には、12万年前の人間の生活の後が発見されて居るからですが、残念乍、飽く迄一つしか出てい無いので、参考資料程度にしかなりません。

然し、ねづさんが挙げた「少なくとも3万8千年前には、航海術を身に着けた民族」であり、当時は氷期の海退期で、陸地で有った現在のスンダ列島周辺の島々を含む大陸が存在していて、此処に、凡そ5万年前に、人類発祥の地と言われる、遠くアフリカ大地溝帯から東進して来た一団が辿り着いて、爾来、約2万年に亘って文明を育んでいた、是を、スンダ人と呼びます。

私は、このスンダ人こそ、アジアの諸民族のルーツ二なった人々だと思います、何故なら、スンダ大陸はその後、氷期の終了と共に、海進現象が起こり、海に面した標高の低い処から順に水没し始めたので、移住を余儀なくされた。

その中の北赤道海流がフィリピンのルソン島に当たって流れを北に変え黒潮になって北上する流れに乗って、東シナ海を囲む南西諸島に辿り着いたのが、シナの四蛮にいう、東夷族であり、南西諸島の湊川人や福建省の柳江人で、海人族と呼ばれる南・東シナ海に亘る広大な地域を生活圏にしていた、漁労海産と浮き稲の栽培をせ居勝つの糧にする自給自足の民族です。

この移住は、陸路伝いでも行われて居て、スンダ大陸を流れて居たチャオ・プラヤ川を遡上して源流域に辿り着くと、今度は、長江に繋がる川を下り始め途中で、適当な平地を見つけると、これを焼き払って農耕地にして行く「=焼畑農業」をする、半定住民「=南蛮族」がいました。

この南蛮族も浮き稲が米と言う穀物が炭水化物を大量に産出するのが、氷期中に見ずのある処は限られているので、最初は畑作で栽培出来ないかと工夫しましたが、未だ氷期が明けて居無い時期だったので、上手く行きませんでした。

然し、長江の出口付近で遭遇した東夷族は、その頃、厳しい気候の列島で生き抜く為に、既に、農業技術で有る「品種改良」に手法を身に着けて居たので、これを託しました、これが、1万6500年前の事で、日本では、6~7千年懸けて、熱帯原産の浮き稲を、温帯性の気候に適した陸稲と、水稲を作り出し、何蛮族に戻します。

その当時、列島に棲む人達は、複数の集団がいて、大陸から氷期の海退現象で出来た陸橋を辿って大陸から大型の哺乳類を追って列島に辿り着いた狩猟採集民「=北狄族」やスンダから北上してから、氷期が明けて「=1万2千年前」に、開いた日本海に乗り出した海人族が、沿岸地方の沿海州や日本列島に棲みつき、津軽海峡が開くのを待って、太平洋側にも乗り出したと、思われるのです。

この辺りの口伝の民族史を纏めた物が「津軽外三郡志」や、「ホツマ伝え」等多数のこされていますが、いずれも偽書として、打ち捨てられて居ますが、この辺りは、歴史コンプレックスがある、欧米の歪んだ価値観を感じますね、おそらく「歴史学会」の仕業でしょう。

こうした歴史の再発見があっても、歴史を見直さず、影響がないと言う事は、逆に可笑しいのではないかと感じるのが、科学的だと思いますがねぇ。

まぁ、それは置いておいて、こういう経緯を歩んだのなら、日本人のルーツは、南方からやって来た、スンダ系でも、南蛮系と東夷系があり、東夷系にも、列島の北狄族「=ツングース人」との混血や、もっと古い時代の大陸渡来系の北狄族「=蝦夷族」は、列島に純かする為に、半ば、農耕民になって居ますたから、多種多様ですね、一民族国家と言うには、あまりにも民族が多い。

然し、日本列島が位置する地理から生じる海象・気象条件を考えれば、それが自然でしょう。 事実、大和朝廷が、北海道と琉球を除く領土を制圧するのに、1500~1600年かかっていますし、その後も、国内での戦火は17世紀中頃に天下統一が終わる迄、続いて居ます。

つまり、日本も世界の御多分に漏れず、世の中が大きく変わる時は、大きな戦が起こって居ると言うのが歴史事実でしょう。

然し是は、既得権者と新たに利権者となるものの間の避け難い宿命の様なモノですが、これを災害の一種と捉えて、なるべく熱戦を避けて、戦火の影響を広げない様にしたのが、反省と工夫の日本人たる処なのでしょう。

我々、この日本を受継いだ日本人は、先達の日本社会に対する思いを詳細にまなびな推して、自分たちの世代で一体、世界で公の為に何が出きるのか? を問い直すべきです。

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