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2020年10月18日 (日)

秀吉の朝鮮出兵は、統一国家を再び形成した日本が、スペインによる東洋の支配から国を守るために下した決断であった

ーー以下「ねずブログ20/10/8」より抜粋編集

日本人にとっての歴史とは記紀をはじめとする過去の記録に基づく物語であり大切にされてきました。

ところが、例えば朝鮮半島や支那大陸では、異民族の侵略により住民がすっかり入れ替わるようなことが繰り返し起こっていて、言語も習慣も変わり、残された記録もその住民のものではないということが当たり前になっているのです。

つまり、今住んでいる人々は、自分たちの過去について記録が何もないので、日本人が考える歴史を何も語れない。

ーー

中国が起こったのは1949年の事だし、南北朝鮮が起こったのは1948年の事です。

それ以前の中国・南北朝鮮の記録はないのです。

それでも彼らは自分たちの歴史は5千年もあると主張しています。

ーー

それは記録に基づかない何者かなのでしょうが一体何なのか。

朝鮮人は自分たちに都合の良い作り話(妄想)つまりファンタジーを、支那人は現支配層に都合の良い政治宣伝つまりプロパガンダを歴史だと言っているのです。

これでは、日本人と歴史について語り合うことなど不可能であると言ってよいでしょう。

ーー

ということは、支那・朝鮮人らが、歴史と主張していることについては、日本人が考える歴史と考えて、そのまま受け入れてはいけないということになります。

つまり日本人的には、残された記録を調べて、そこからファンタジーでもない、プロパガンダでもない歴史を知ることが必要だということになります。

それでは、例えば豊臣秀吉の朝鮮出兵は実際に残されている記録からするとどのように説明できるのでしょうか。

ーー

朝鮮人らの「歴史」つまりファンタジーは、秀吉軍が朝鮮から引き揚げたのは、李舜臣が海上を封鎖し、朝鮮半島への補給路を断ったためなのだそうです。

朝鮮人が、そう「思い込みたい」気持ちも分からないでもありません。

けれど、記録されている内容(歴史)はまるで異なります。

ーー

なるほど李舜臣は朝鮮の海将として文禄元年8月29日(1592年)に釜山港を占領していた日本軍に戦いを挑んでいます。

が、あえなくぼろ負けで敗退しているのです。

また、慶長3年11月18日(1598年)の露梁海戦を指揮していますが、その海戦は停戦協定が結ばれたあとの戦いでした。

日本軍が、停戦協定に従って武装解除して半島から引き揚げる途中に、追い打ちをかけた卑劣なもので、日本軍は武装解除状態であったにもかかわらず、李舜臣もろとも朝鮮軍を返り討ちにしています。

李舜臣によって、日本軍が海上補給路を断たれたという記録は、どこにもないのです。

ーー

それでは秀吉はなぜ朝鮮出兵をしたのでしょうか。

おおかた秀吉の朝鮮出兵は、次のような理由によるものとされています。

・もうろくしていた秀吉の独断
・明国支配を目指す秀吉の野心による
・戦国武士団の数を減らすため

ーー

仮に秀吉がもうろくしていたとしても、当時の日本は、各藩がそれぞれ独立した諸国を経営していたのです。

もうろくジジイの世迷い事で、大枚をはたいて朝鮮までノコノコ出ていくおバカな大名は、日本国内のどこにもいなかった。

秀吉の野心が招いたという話にしても、信長から秀吉と続く体制は、農業重視というよりも流通指向がかなり強く、それぞれの大名は領地が増えなくても、商業による貨幣経済によってかなりの富が蓄積できたわけです。

金持ち喧嘩せずという言葉がありますが、食うに困らない、生活に困らない豊かな生活を満喫できているのに、あえて戦争など、誰も好き好んで行うものではありません。

ーー

では、なぜ秀吉が朝鮮出兵を計画すると、諸国の諸大名たちが、これに追従したのでしょうか。

この問題を考えるには、当時の日本がどのような世界情勢の中で生きていたのかを知る必要があります。

日本国内だけに目を向けていては従来のような答えしか出てこないのです。

ーー

当時の日本を含む東アジア諸国が置かれていた国際的な政治状況を知ると秀吉の行動が納得できるようになります。

当時スペインやポルトガルという世界帝国が、東アジアに拠点を築きその地域を植民地にしていた。

そういう事情を理解したからこそ、東北の大名たちまでもが、秀吉の朝鮮出兵に前向きに協力し、兵を出したのです。

ーー

二度にわたる秀吉の朝鮮出兵(文禄、慶長の役)は、東アジアでの16世紀最大の戦いです。

文禄の役だけでも、日本は約16万人の軍勢を朝鮮半島に送り込み、朝鮮と明国の連合軍は26万人の大軍でこれを迎え撃っているのです。

慶長の役では、日本は再び約14万人を動員します。

天下分け目の関ヶ原の戦いにしても、東軍7万、西軍8万ですから、いかに朝鮮出兵の規模が大きかったかが分かります。

ーー

この時代、スペインが、世界中に植民地を作り、その植民地からもたらされた莫大な富によって「大帝国」を作り上げていたのです。

その帝国は、太陽の沈まない国と形容され、スペインにとっての黄金の世紀を謳歌していたのです。

そのスペインは、東アジア地域の戦略統合本郡である総督府を、ルソン(いまのフィリピン)に置いていました。

そして、東アジア植民地の拡大を着々と進めていたのです。

ーー

スペイン人が日本に最初にやって来たのは、天文18年(1549年)のことです。

宣教師、フランシスコ・ザビエルの来日がそれです。

当時の宣教師の仕事は、表向きはキリスト教の伝道ですが、本当の仕事は、将来その地を植民地にするための情報を収集することや、その地域の支配者層のさまざまな懐柔工作です。

ーー

実際にキリスト教を伝道しながら、ありとあらゆる手段を使い、多くの人を改宗させます。

そしてスペインは、それらの人々を味方につけ、頃合いを見計らって軍隊を送り込み、抵抗する者を殺戮し、その地を植民地にしていたのです。

ーー

内乱に明け暮れていた戦国大名たちは、そんな宣教師の目的を知りません。

最初は西洋からやって来た宣教師たちを、快く受け入れていました。

実際、ザビエルはあちこちの大名に招かれ、なかにはキリスト教の信者になった大名もいました。

宣教師たちの仕事は順調に進んでいるかに思われました。

ーー

ところが、日本がほかの国々と違っていたのは、彼らが持ち込んだ鉄砲という当時の最先端の武器を、日本人は瞬く間にコピーし、それを量産し、さらには改良してしまったことです。

気がつけば、なんと日本は、威力・命中率ともに優れた鉄砲保有数で世界一になっていました。

その数、最盛期には、当時の世界の鉄砲数の半分にあたる約50万丁にもなっていたと言われています。

要するに鉄砲は戦国時代の日本に、ものすごい勢いで広がっていったのです。

ーー

これには宣教師たちも驚いた様子で、イエズス会のドン・ロドリゴ、フランシスコ会のフライ・ルイス・ソテロらが、スペイン国王に送った上書には、次のような記述があります。

「スペイン国王陛下、陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難です」

「よって福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に喜んで臣事するように仕向けるしかありません」

ーー

人口なら、日本より南米やインドのほうがはるかに数が多いわけで、城だって日本は平城が主流ですから、アジア、ヨーロッパの城塞には敵いません。

にもかかわらず、彼らが「日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難」と書いているのは、「威力・命中率共にスペインのものに勝る鉄砲保有数がスペインに勝るので、軍事力で日本には敵わない」とは、国王宛ての上書に書けないからです。

ーー

そして、「福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に喜んで臣事するように仕向ける」ようにと進言しているのです。

こうしてスペインは、日本での布教活動に注力していきます。

ーー

一方、あたりまえのことですが、スペインの狙いは日本だけではありません。

お隣の明国もスペインは植民地化を狙っています。

こちらは鉄砲をコピーするような能力はなく、単に人海戦術、つまり人の数が多いだけです。

ただ国土は広く、その調略には手間がかかります。

ーー

ちなみに当時のスペインにとって、朝鮮半島は対象外です。

朝鮮半島は、明国の支配下だったわけですから、明が落ちれば朝鮮半島は、自動的に手に入る。

それだけのことです。

ーー

スペインは明国を攻略するにあたり、当時、世界最大の武力(火力)を持っていた日本に「一緒に明国を奪わないか」と持ちかけています。

ところが日本は、まるでそんなことに関心がありません。

そもそも信長、秀吉と続く戦国の戦いは、日本国内の戦国の世をいかに終わらせ、国内に治安を回復するかにあったのです。

ーー

信長は、比叡山や本願寺まで攻めたため、当時の知識階級であった僧侶らに、まるで第六天の魔王であるかのように描かれています。

しかし、信長の戦いの目的は、「一日も早く戦乱の世を終わらせる」ことに尽きたのです。

だからこそ、多くの人々が信長に従ったということが、最近になって発見された各種文書から、次第に明らかになってきています。

ーー

これは秀吉も同様です。

しかも、農民の出だから農民の気持ちが分かるのです。

戦乱によって農地が荒らされることを多くの民衆が嫌っていることを、ちゃんと分かっていたからこそ、秀吉は人気があったのです。

ーー

要するに、当時の信長、秀吉にとっては、日本国内統一と治安の回復こそが政治使命だったわけで、お隣の明国になどかかわっていられなかったのです。

ところが、秀吉が日本を統一すると、次第に明国への対策が大きな政治課題となって浮上してきました。

どういうことかというと、これにスペインが関係しているのです。

ーー

スペインが日本を攻めようとしても、遠路の航海を余儀なくされますから、世界の覇権国とはいえ大軍を差し向けることは不可能です。

仮にスペインが海を渡って攻めてきたとしても、数のうえからいえば少数であり、火力、武力ともに日本のほうが圧倒的に優位です。

したがってスペインとの直接対決ならば、日本が負ける心配はありません。

ーー

ところが、スペインが明国を植民地として支配下に収めると状況が変わってきます。

スペインに支配された明国兵が、数の力にモノをいわせて日本に攻め込んできたら、日本は数多くの鉄砲を持っているとはいえ、これは大変なことになります。

まさに、元寇の再来、大きな脅威です。

ーー

この脅威を取り除くには、スペインよりも先に明国を日本の支配下に置くしかありません。

火力、武力に優れた日本には、それは十分可能なことだし、万一明国まで攻め込むことができなかったとしても、地政学的に朝鮮半島を日本と明国の緩衝地帯として置くことで、日本への侵入、侵略を防ぐことができるのです。

このことは、ロシアの南下政策を防ぐために、明治日本が行った政策と、当時の状況が酷似していることをあらわしています。

ーー

さらにいえば秀吉は、すでにこの時点でスペインの誇る無敵艦隊がイギリスに敗れ、スペインが海軍力を大幅に低下させていることを知っています。

ですから、スペインが海軍力で日本と戦端を交える可能性はまずありません。

ーー

一方、国内で秀吉は、長く続く戦乱の世を終わらせようと、全国で刀狩りを実施します。

刀狩りそのものは、日本に太平の世を築くために必要なことであったわけですが、同時に庶民から武器を奪うことは日本の戦力を大きく削ぐことにもつながってしまうのです。

もし日本が他国侵逼の難にあったときは、大きな痛手となるでしょう。

ーー

ならば、武力がまだ豊富なうちに余剰戦力を用いて朝鮮出兵を行い、朝鮮から明国までを日本の支配下に置いてしまうこと。

これは我が国の安全保障上、必要なことであったわけです。

ーー

こうして秀吉は、文禄の役(1592~1593年)、慶長の役(1597~1598年)と二度にわたる朝鮮出兵を行うのですが、同時に秀吉は、スペインとも果敢な政治的交渉を行っています。

何をしたかというと、スペインに対し、「臣下の礼をとれ」と迫ったのです。

最初にこれを行ったのが、文禄の役に先立つ一年前、天正18年9月(1591年)のことです。

ーー

秀吉は東亜地域の拠点、ルソンにあるスペイン総督府に、原田孫七郎を派遣し、「スペイン総督府は、日本に入貢せよ」との国書を手渡します。

大帝国のスペインに対し、真正面から堂々と「入貢せよ」などとやったのは、おそらく、世界広しといえども、日本くらいなものです。

まさに、気宇壮大というべきです。

ーー

対するスペイン総督府にしてみれば、これはきわめて腹立たしいことです。

しかし、隣国であるイギリスの国力が増し、自国の防衛を優先させなければならない当時のスペインの現状にあっては、日本に対して報復的処置をとるだけの力はありません。

悔しいけれど放置するしかありません。

すると秀吉は、その翌年に、朝鮮出兵を開始するのです。

ーー

驚いたのはスペイン総督府です。

日本が明国を征すれば、その国力たるや東アジア最大となり、スペインにとって政治的、軍事的圧力となることは目に見えています。

しかも、海を渡って朝鮮出兵をするということは、兵員を海上輸送する能力があるということですから、いつ、ルソン島に日本が攻めて来てもおかしくありません。

ーー

慌てたスペイン総督府は、当時ルソンに住んでいた日本人たちを、マニラ市内のディオラ地区に、集団で強制移住させています。

これがマニラの日本人町の始まりです。

ーー

さらにスペイン総督府は、同年七月にドミニコ会士、フアン・コーボを日本に派遣し、秀吉に友好関係を樹立したいとする書信を届けています。

このとき、膨大な贈り物も持参しています。

いかにスペインが日本を脅威に感じたかということです。

ーー

けれど秀吉は、そんな贈り物くらいで騙されません。

重ねてスペインの日本に対する入貢の催促の書簡を手渡します。

その内容がすさまじいです。

ーー

「スペイン国王は、日本と友好関係を打ち立て、ルソンにあるスペイン総督府は、日本に臣下としての礼をとれ」

「それが嫌なら、日本はマニラに攻めこむぞ」

「このことをスペイン国王にちゃんと伝えろ」

ーー

ところが秀吉の書簡を受け取ったフアン・コーボは、帰路、遭難してしまいます。

本当に海難事故で遭難したのか、返書の内容が百パーセント、スペイン国王の怒りを買うことが分かって、故意に遭難したことにしたのかは、いまとなっては不明です。

けれどおそらく、これは後者ではないかと私は見ています。

ーー

さて、フアン・コーボの遭難のおかげで、秀吉の書簡はスペイン総督府には届かなかったわけですが、当然のことながら、スペイン総督府からの返書もありません。

けれど、返書がないからと、放置するほど甘い秀吉ではありません。

ーー

秀吉は10月には原田喜右衛門をマニラに派遣し、確実に書簡を総督府に届けさせたのです。

文禄2年4月(1592年)、原田喜右衛門は、マニラに到着しました。

そしてこのとき、たまたま在マニラの中国人約二千人(明国から派遣された正規兵だったといわれています)が一斉蜂起して、スペインの総督府を襲ったのです。

ーー

スペイン兵は応戦しますが、多勢に無勢です。

これを見た原田喜右衛門は、手勢を率いてスペイン側に加勢し、瞬く間に中国兵を殲滅してしまいます。

日本武士強し。

原田喜右衛門らの圧倒的な強さを目の当たりにしたスペインのゴメス総督は、日本の強さに恐怖します。

ーー

けれどゴメスは、スペイン大帝国から派遣されている総督です。

世界を制する大帝国王に、日本に臣下としての礼をとらせるなど、とてもじゃないが報告できることではありません。

ゴメスは困り果ててしまいます。

ーー

そして、翌文禄3年4月(1594年)に、新たにフランシスコ会士のペドロ・バウティスタを特使に任命し、日本へ派遣します。

要するに、特使の派遣を繰り返すことで、少しでも時間稼ぎをしようしたのです。

名護屋(現、佐賀県唐津市)で秀吉と会見したペドロは、スペインがいまや世界を制する大帝国であること、日本とはあくまでも「対等な」関係を築きたいと申し述べます。

ーー

普通に考えれば、世界を制する大帝国のスペイン国王が、日本という東洋の小国と「対等な関係」というだけでも、ものすごい譲歩です。

けれど日本国内で多くの戦闘を勝ち抜いてきた秀吉は聞く耳を持ちません。

ペドロに対し、重ねてスペイン国王の日本への服従と入貢を要請します。

ーー

なぜ秀吉は、ここまでスペインに対して強硬だったのでしょうか。

理由があります。

ーー

第一に、国際関係において、対等な関係というものは存在しないのです。

この時代における国際関係というのは、やるかやられるか、つまり上下の関係しかありません。

たとえ日本が小国であったとしても、大帝国のスペインに日本を攻めさせないためには、日本が圧倒的な強国であることを、思い知らせるしかなかったのです。

ーー

第二に、もし、秀吉が中途半端に「対等な関係」の構築を図ろうとするならば、スペインは当然のごとく平和特使と称して宣教師を日本に派遣します。

そして宣教師たちは、日本の内部から切り崩し工作を行います。

現に、世界のあらゆる国家が、その方法でスペインの植民地にされていたのです。

ですから、日本がスペインの驚異から逃れる道は、ただひとつ、あくまでスペインに対して、強硬な姿勢を崩さないこと。

これしかなかったのです。

ーー

第三に、秀吉が目指したのは、あくまでも「戦のない世の中」であったということです。

武力で日本を統一したあとは、「刀狩り」を行い、内乱の芽をつんで太平の世を実現しようとしています。

けれど、刀狩りをして庶民から武器を奪うことは、一方において日本を弱化させることを意味します。

ならば、日本国内に武器を持たない平和な国を実現するためには、国際的な武力衝突の危険を、日本からできる限り遠ざける必要があったのです。

ーー

名護屋における秀吉とペドロとの会見が物別れになると、スペインのゴメス総督は、日本への軟弱な外交姿勢を咎められ、スペイン国王によって更迭されてしまいます。

そして後任の総督としてやって来たのが、ルイス・ダスマリニャスです。

ーー

ルイスは、アウグステイン・ロドリゲスを使者として日本に派遣し、回答の引き延ばしを図るとともに、日本の戦力を冷静に分析します。

そして、ゴメスの分析どおり、もし日本とスペインが東アジアで正面から衝突すれば、スペイン側に勝ち目がないことを知ります。

そこでルイスは秀吉との直接交渉は避け、一人また一人と、宣教師を日本に派遣するという戦略をとりました。

つまり時間を稼ぎ、その間に当初の戦略どおり、日本に布教をしていこうとしたのです。

ーー

文禄3年(1594年)には、ルイス総督の意向を受けて、ヘロニモ・デ・ヘスス以下のフランシスコ会修道士四人が日本に派遣され、日本での布教を再開しました。

秀吉もこれは認めています。

ーー

ところが慶長元年(1596年)のことです。

スペインの貨物船、サン・フェリペ号が、荷物を満載したまま遭難し、土佐の浦戸に漂着したのです。

救助した船員たちを、秀吉の五奉行の一人である増田長盛が取り調べました。

そこで驚くべき事実が明らかになります。

なんとサン・フェリペ号の水先案内人が、増田長盛に世界地図を見せ、次のような証言をしてしまったのです。

ーー

「スペイン国王はまず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると次は軍隊を送り、信者に内応させてその伝道地の国土を征服するから、世界中にわたって領土を占領できたのだ」

ーー

報告を受けた秀吉は、即座にキリシタン26名を逮捕しました。

そして彼らを長崎に送り、「キリシタンを続けたいなら外国へ出て行け。日本に残りたいなら改宗しろ」と迫りました。

迷う26名に対し、長崎のイエズス会は、この26名の死罪を長崎奉行に申し出ます。

ーー

イエズス会の腹はこうです。

26名の信者をイエスの十字架になぞらえて見せ物にし、間違いなく天国に行くことができたと宣伝する。

こうすることで、キリスト教徒としての栄光に輝く姿を印象づけ、信仰による団結心をたかめる。

まあ、このあたりの話は、本題からかなりそれるので、次の機会に詳しく書くことにします。

ーー

要するに秀吉の朝鮮出兵は、統一国家をやっと形成した日本が、スペインによる東洋の支配から国を守るために下した決断であった、ということです。

ーー

このことは、単に日本や朝鮮の国内事情だけを見ていてもまったく分かりません。

当時の世界情勢、東アジア諸国の情勢を視野に入れなければ、秀吉がなぜ朝鮮出兵を決意したのか、そして多くの大名たちが、なぜその秀吉に従い兵を出し、勇猛果敢に他国に出て戦ったのかが理解できません。

もっというなら、日本が明治という統一国家を形成してから朝鮮半島を領有するまでの動きと、秀吉の朝鮮出兵当時の世界の動きは、スペインがロシアに変わったほかはきわめて似ています。

同じことが歴史上、繰り返されたということなのです。

ーー

もし、秀吉が朝鮮出兵を行わず、日本の国力をスペインに見せつけなければ、どうなっていたことでしょう。

ーー

明国がスペインの植民地になっていた可能性は非常に高いのです。

当然のことながら、朝鮮半島も、スペインの支配地となったことでしょう。

そしてスペインの植民地となることは、どういう意味を持つのか。

そのことは、いまの南米諸国が、見事に教えてくれています。

ーー

現在、南米に南米人の純粋種は存在しません。

白人との混血種だけです。

アルゼンチンやウルグアイでは、先住民族がほぼ完璧に抹殺されてしまいました。

いまこの地域に住んでいるのは、ほぼ白人種です。

ブラジル、エクアドル、ペルー、ボリビアは、全員が先住民族と白人との混血です。

純血種はいません。

ーー

日本も中国も朝鮮も、それぞれに純血種を保ちながら、いまに至っています。

南米のようなことにならなかったのは、秀吉と配下の戦国武将たちが、スペインと真っ向から戦う姿勢を示したためだと言えるでしょう。

ーー

ちなみに、秀吉の死去にともなって、日本は朝鮮半島から撤収し、慶長の役は終わりました。

「だから朝鮮出兵は秀吉の気まぐれで起きた戦争だ」というのは、大きな間違いです。

半島に出兵した武将たちは、自ら進んで真剣に戦ったのです。

ーー

私たちは、スペインという世界最強の帝国に対し、一歩も退かず、むしろ臣従せよと迫った秀吉の壮大な気宇と誇りを、いまこそ見習うべきときにきているのではないでしょうか。

そして「秀吉の朝鮮征伐」は、秀吉がスペインの植民地支配から日本を守るために、「明国と《朝鮮半島で》戦った」事件という意味の言葉であることを、私たちはあらためて理解する必要があるものと思います。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>歴史の見直しの重要性
この歴史の見直しを西洋では「リビジョニズム」と言って嫌いますが、でも、れいせいに考えて看るに、固より、歴史は勝ち残ったモノが支配・管理するモノです。

自分達に都合の悪い事実は、歴史に載せない、あくどい場合は主客を入れ替えて無かった事を捏造してでも、勝者の正当性を維持しようとしています。

例えば、白人が新大陸に来た15世紀には、2500万人もいたインディオをスペイン人が、同じく17世紀にはイギリス人が、同じく2500万人のアメリカ・インディアンを粛滅したのに、後世、指摘を受けるまで、然も、当然の様に、彼らの歴史の片隅に追いやられて居ました。

然し、彼らが現代で主張する人道上の基準で言えば「悪魔の所業」の筈の、ナチス・ドイツの4倍の民間人を「ただ、邪魔なだけ」を理由に殺戮して、恬として恥じて居無い上に、それを主導したのは、なんと、キャソリックの宣教師であり、キリスト教信者です。

こうして出来たのが西洋の「正史」と呼ばれて居るものです、この文明の何処に、同じ人間に対して、示すべきモラルが存在して居るでしょうか? それをやったのは、一部の支配層だけで有ると言う弁解も聞こえてきますが、誰も居無くなった無人の土地から、利益を得たのは、誰あろう、民衆ですから同罪です。

もし、この世に天罰があるのなら、白人文明にこそ下るべきだと私は確信しています。

是に対して日本は、災害の多い国ですから、事象の細やかな部分迄、正確に記録してい無い徒、次に同じ災害に見舞われた時に、有効な対策も、予防措置も打てません。

ですから、歴史は正確な経験知の蓄積で無くてはならなかったのです。 それが故に、全てが歴史と言う形で、後世に事象として遺されると言う社会認識でしたので、自分が歴史に刻まれる様な卑劣な真似をすると、子々孫々の末代に亘る恥辱「=家名を穢す行為」を犯したと言う認識だったのです。

これを雪ぐには、死してでも責任をとる「=割腹自殺」方法が考案されて、制度化していますが、事前の正邪の判定がはっきりしているので、次第に、武家社会で問題の落とし処として、或いは、争いの根を断ち、問題を終わらせる手段として 多用されています。

是が、日本の精神文化と言うものです。

日本人は、経験知の蓄積の為に、厳格な歴史を紡いできたけれども、その時点では正しくても、時代を経て、新たな事実が掘り起されれば、譬え、切腹したり、刑死したとしても、その個人の名誉を回復して、故人に詫び、慰霊を行うのが日本人の常識ですね。

その精神文明の背景には「肉体の生命は有限だが、霊魂の生命は不滅である」と言う姿勢感が有り、更には「この日本と言う国の国土は、祖先の体で出来て居るので、一木一草に至るまで、祖先の魂の宿る場所である」と迄広げられ、日本は魂の国になる。

日本の歴史も、今迄、歴史で隠されて来た事実に脚光が当たる様にになって、既知の歴史を根底からひっくり返す様な、重大な新たな事実も、発見され始めています。

例えば、4千年の歴史を誇っていた、シナの山東省の2500年前の古い地層から、黄色人種の筈のシナ人では無い、コーカソイド種の遺骨が、2000年前の中央草原の遊牧民出自の遺骨が出て来たのです。

遺骨が出た場所は、共産シナに拠って、隠蔽されて居ますが、社会で貴人とされた人の墓からの蓋然性から考えれば、当時の社会の支配層と言う事に成りましょう。2500年前と言えば、シナでは戦国時代後期です、戦国七雄と呼ばれた群雄割拠状態の中に、青人系の遊牧民国家が有ったと言う事に成ります。

もう一つの2000年前の方は、前漢と後漢の間の新王朝の時代ですから、前漢王朝の衰退に乗じて、王朝を建てた王氏の王朝の重要人物であった可能性もありますね。

これに、前世紀の80年代に発見された、長江文明に着いては、明らかに、シナの先文明であり推定される起源は、凡そ、1万6500年以上前で、日本で言えば、先縄文期に亜他李増すが、当時力続きだった、その日本と農業を通した交流があった事も確認されて居ますから、これを隠蔽して居る共産シナは、人類に対する犯罪を冐して居るとすらいえましょう。

日本でも、歴史を為政者がいじって居無いとは言いきれません、それは、こだいしになれば、成程、資料が少なくなる事もありましょうが、俯瞰的な歴史の見方をすれば、九州の加人族の一部族賀、画期的な土地の活用法と製塩砲を発見して、武力以外で国を固めて、他意陸からの外敵に侵入を防げる態勢を創ろうと、始めたのが、神武帝の東征の始まりだった。

爾来、1300年余りをかけて、北海道と琉球を除く列島を纏めたのが、日本の大和朝廷の歴史で有ると言う事で有りましょう。

ダカラ、後世、王朝の維持上で新たな内乱の他根になる「大規模内乱」の記録は、省かれ万世一系の皇統を支持する事で、日本を「争いの少ない国」に保って来たのでしょう、ここでは、何が正しいのかでは無く如何にしたら、和が保てるのかが、問われて居るのでしょう。

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