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2020年9月29日 (火)

天皇が政治権力を持たないことは神話に由来します

ーー以下「ねずブログ20/9/27」より抜粋編集

「孝明天皇殺害説」というものがあります。

「攘夷派だった父の孝明天皇が殺害された結果、明治天皇は開国に踏み切ることができた」というのです。

ーー

私(ねず)がその時代生きていたわけでも当事者でも関係者でもないので事実はわかりません。

ーー

しかし日本のこれまでの歴史は、日本人であれば納得できる出来事でありました。

日本人にとって日本の歴史というのは論理的整合性を持っているのです。

その意味で、「孝明天皇は攘夷派だったから開国を目指す薩長によって殺害された」という説は、日本人的には論理的整合性を持ちません。

なぜなら我が国において、天皇は、諸外国の王や皇帝と違って、政治権力者ではないからです。

ーー

この時代は、開国と攘夷に意見が分かれて揺れていた時代でありました。

孝明天皇は、開国か攘夷かの政治判断を行う国政機能よりも上位にある国の最高権威です。

我が国の国体というのは、天皇が政治に口を挟まないというもので、天皇はそれを固く守ってこられた事は言うまでもありません。

もちろん天皇ご自身の意見をお持ちであったでしょうけれど、天皇は自らが任命された権力者の行政を承認するお役目を果たしてこられた。

従って、権力者が開国を決断すれば、それに従われたわけで、開国するために孝明天皇を殺害する理由は、全く無いのです。

ーー

つまり孝明天皇殺害説は、我が国の国体をまったく理解せずに、我が国の天皇の御存在を、諸外国の王や皇帝と同じ、国の最高の権力者であるものと履き違えたところに起因する暴論でしかないのです。

ーー

このことは、「明治天皇替え玉説」についても言えます。

(1) 孝明天皇が攘夷派で、子の明治天皇が開国派なのはおかしい。
(2) 明治天皇の皇太子時代と天皇時代との御尊影の顔が異なる。
(3) 明治天皇は長州藩田布施出身の大室寅之祐の顔立ちと似ている。

というのがその根拠として挙げられています。

ーー

しかし天皇の意思はわが国では政治的意志ではないので、(1)は否定され、(2)、(3)はただの主観なので「明治天皇替え玉説」の根拠にはなりえません。

そもそも天皇のお仕事を誰かが代わりに果たせると考えるほど天皇のお仕事(国事行為)は簡単ではないのです。

例えば大勢の人と延々と会釈をし続けるなとどいうのは小さい時からの訓練無くしてはとてもできるものではありません。

ーー

日米修好通商条約の無勅許調印を受け、安政5年8月8日(1858年9月14日)に孝明天皇が水戸藩に幕政改革を指示する勅書(勅諚)を直接下賜された。

これが世に言う戊午の密勅(ぼごのみっちょく)事件で、これを根拠に孝明天皇は攘夷派であったのだと言う方がおいでになります。

ーー

幕末当時の国内世論は、開国か攘夷かで、真っ二つに割れていました。

朝廷内にあっても、それは同じです。

ですからその時々で、開国派が朝廷の要職にあれば、朝廷の意向は開国になるし、反対なら攘夷になります。

それだけのことです。

ーー

「決める」ということには、日本人的には必ず責任が伴なう。

そして政治上の意思決定は、そこに必ず利害得失が生じます。

害を被ったり利権を失った者たちはその決定を必ず非難し、下手をすると政治決断をした政治家を殺害に及びます。

民を「おほみたから」とするお立場の天皇が、毎回そうした政治責任を負うのであっては、天皇の御存在そのものが失われかねません。

ーー

ですからこれを防ぐために、神話の時代に考え出された仕組みが、国の最高権威と最高権力を分けるという、我が国の統治の根幹になっている天皇が「シラス」という仕組みなのです。

ーー

孝明天皇による「戊午の密勅」なるものも、それが出た時点の、朝廷内の勢力を示すだけの意味しかなかった。

それが天皇のご意向であるとは、当時の人たちに(すくなくとも大名クラスの、藩政を取り仕切る責任ある人たちの間では)理解されていません。

つまり相手にされなかった。

ですからこの「戊午の密勅」は、各藩に回送されていますけれど、これに応じて兵を出す藩はどこにもいなかったし、急進派とされる薩摩や長州藩でも、まったく相手にしなかったのです。

ーー

もしこれが本当に孝明天皇の勅令であったとするならば、全国の諸藩は、出兵どころかすぐにでも京の都に兵を繰り出して禁裏の御用を勤めなければならないし、実際にそれを行っていたことでしょう。

要するに、それが行われなかったということは、それが単なる朝廷内の攘夷派貴族たちの意向とされ、諸国諸大名の誰も相手にしていなかったということです。

また幕府の大老の井伊直弼にしても、「戊午の密勅」が朝廷の一部の貴族たちの暴走であると知っているからこそ、攘夷派の処罰(安政の大獄)を実施したり、水戸の徳川斉昭を謹慎させたりしているのです。

ーー

朝廷の中には、律令体制時代から続く政庁としての政治権力機構があります。

ですから、そこにある政治家としての貴族たちの中には、攘夷派もあれば開国派もありました。

そして朝廷内で、攘夷派の力が強くなれば、朝廷の意向は攘夷になるし、開国派の意向が強くなれば朝廷の意向は開国に傾きます。

ーー

幕末というのは、幕府も朝廷も、日本全国の大名たちも、開国か攘夷かに揺れた時代です。

朝廷の中の強硬な攘夷派の貴族たちが、孝明天皇の名のもとに「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」を出すと、その一方で、開国派の人たちは、間をとって幕府と朝廷と一体となって国難を乗り切ろうと、公武合体を進めたのです。

だから皇女である和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)が徳川家茂(第14代将軍)のもとに嫁ぐということが行われた。

ーー

ちなみにこの皇女和宮様の江戸下向に際しては、中山道をなんと3万人で行列しています。

さらに御輿の警護に12の藩、沿道の警備に29の藩が動員されています。

もちろん幕府が諸藩に命じたのでしょうが、これが朝廷の持つ歴史と伝統の力です。

ーー

ただし、政治上の実権は、あくまで徳川将軍家が担い、そこに朝廷の入り込むすきはありません。

すきがないということは、天皇は、あくまでも国の最高の権威者であるということです。

そうであるならば、開国か攘夷かという政治上の意思決定に際しても、天皇の替え玉など、まったく必要がなかったのです。

ーー

天皇が政治権力を持たないことは神話に由来します。

「天の石戸」の神話(かんがたり)では、高天原で、天照大御神が須佐之男命と直接対決され、結果、天照大御神は、責任をとって天の石屋戸にお隠れになります。

すると、古事記によると「高天原だけでなく、中つ国もみな闇に閉ざされた」のです。

そこで八百万の神々が立ち上がり、そして政治責任を伴う政治的意思決定については、八百万の神々が自分たちで責任をもってこれにあたることにした・・・

これが我が国初の国会であり、かつ、天皇が政治的意思決定者ではなく、政治上の意思決定は政府の高官たちが責任をもって行うことになった始めなのです。

ーー

神話に基づくというのが不服なら、天智天皇から持統天皇に続く飛鳥時代にもそれが確立していたことを記録にみることができます。

天智天皇の時代に公地公民が行われ、天武天皇の時代に史書の編纂が命ぜられています。

これらを主導されたのが、天智天皇の娘であり、天武天皇の正妻でもあった持統天皇です。

持統天皇は、それまで皇位継承者をめぐり、様々な思惑がからみ、優秀だとされた大友皇子や大津皇子が不遇のうちに処刑されるという事態がありました。

ーー

同じことが三度繰り返されてはならない。

だから持統天皇は強い意思を以て、皇位継承者は霊統(アマテルカミの霊(ひ)を継ぐもの)に従って初めから定められた者がなることとされ、さらに天皇のお役目は神々と繋がる祭祀を行うこと、政治的意思決定は、政治の組織が行うことと定められたのです。

そしてこれ以降、歴代天皇は、政治的な意思決定を行わず、どうしてもその必要があるときは、天皇位をご譲位されて、太上天皇となってこれを行うとされた。

我が国における太上天皇(上皇)の、最初のひとりが、まさに持統天皇であったのです。

ーー

「そんなことはない、昭和天皇は終戦の御聖断を下されたではないか」という方もおいでになるかもしれません。

これもまた間違いです。

そうではなくて、終戦を決めるとき、政府の見解は二分して、まったく意思決定ができない情況となりました。

だから時の鈴木貫太郎内閣は陛下に御聖断を求めたのです。

だから「御聖断」なのです。

このことが戦後、明確に語られないのは、それが国の非常大権を意味するからです。

ーー

国の交戦権は、実は憲法を越えます。

「人を殺してはならない」は法ですが、襲撃されて防御するのは正当防衛です。

これと同じで国の非常時に実力を行使することは、法や憲法の枠組みを越えた非常大権です。

ーー

早い話、米国は、度々戦争を行っている国ですが、合衆国憲法に、「このような場合に戦争を行う」あるいは「このような場合には戦争を行ってはならない」などの条文はありません。

ないのになぜ戦争ができるかといえば、それは国の非常大権が大統領にあるからです。

ーー

我が国の終戦の御聖断は、この裏返しで、原爆使用によって、すでに日米戦争はいわば良識を持った戦争が、国際法をも無視した場外乱闘の様相を呈したことに憂慮された天皇が、揺れる政権の求めに応じて御聖断を下されたというものです。

非常時だから、天皇の非常大権が行使された。

もし平時に陛下が御聖断を下されれば、その時点で反対派は粛清の対象になります。

それほどまでに御聖断というのは重いものなのです。

ーー

大統領を意味する「President」は、ラテン語の「pre(みんなの前に)sid(座る)人」です。

要するにトップの椅子に座る人がプレジデントで、その人がすべての人のオーナーとなります。

エンペラー(Emperor)の語源は、最高の命令権を持つ者というのが語源です。

つまり王よりも上位にある最高司令官だからEmperorです。

ーー

これに対し日本の天皇は、政治権力を持ちません。

我が国の天皇をエンペラーと呼ぶのは間違いであることが分かります。

なぜなら天皇に命令権はないからです。

ーー

その意味では、仮にもし英語に訳すなら教皇や法王を意味する「The Papa(ザ・パパ)」に近いかもしれません。

「Papa(パパ)」というのは、父のことで、これに「The」が付くことで、すべての人の父を意味します。

しかしヨーロッパでは、教皇は各国の国王の下に置かれました。

ーー

我が国では、王の上にあって、王の任命権を持つ人という位置づけになります。

ーー

権力による支配は、日本の古い言葉で「ウシハク(大人支配)」と言いますが、我が国は、その「ウシハク」を「シラス」の中に内包させたという点が、諸外国の歴史との大きな違いです。

諸外国では、「ウシハク」の中に「シラス」があります。
我が国では、「シラス」の中に「ウシハク」があります。

この違いは、民衆が権力者の「動産」とされるのか、それとも国家最高権威の「おほみたから」とされるかという点において、天地ほどの違いとなります。

ーー

個人的な意見としては、欧州における王朝の最大の誤りは、国王がローマ法王によって王冠を授けられていながら、その地位をローマ法王よりも上だというようにしたことにあると思っています。

もしヨーロッパの王朝の国王が、あくまでもローマ法王の下僕という形を尊重し、かつ王国の民がすべて神の民であり、その神を代理するローマ法王の子であると規程したならば、おそらくヨーロッパの歴史は大きく違った方向に向かったのではないか。

ただ、ヨーロッパの特に中世は、とにもかくにも暴力が支配した力の世界でしたから、こうした哲学による国家の生成が成立せず、結果として現代にいたるまで、軍事力が国の象徴であるかのようにされている。

あくまで個人的見解ですが、このことは、(ヨーロッパの人々にとって)たいへんに残念なことであったといえるのではないかと思っています。

ーー

神話ではなく歴史つまり記録されている持統天皇の御世(7世紀の終わり頃)以来ずっと、我が国では、天皇は意思決定に関わらない、意思決定を行うのは、天皇によって親任された政治責任者の役割とされてきたのです。

ーー

幕末における開国か攘夷かという二択は、日本国の命運を担うたいへん重く大きな政治問題でしたが、この時代、朝廷の内部でも、開国派と攘夷派が、政治責任者として度々入れ替わっています。

それは孝明天皇の御意思とは何の関わりもありません。

このことは明治天皇におかれても同じです。

ーー

つまり政治方針を変えるために「孝明天皇を殺害」する必要もなければ、「明治天皇を替え玉」にする必要もなかったのです。

ーー

とりわけ幕末は、いまよりも、ずっと尊皇思想が強かった時代です。

むしろ日本人のほとんど全てが尊皇思想を持っていた時代であったのです。

(識字率が世界一だった)

ですから、幕末の動乱について「尊皇攘夷派」と「開国佐幕派」の争いという視点で描くのは間違いです。

なぜなら、幕府も全国の諸大名も民衆も、すべて「尊皇」であったからです。

ーー

ですから「攘夷派vs開国派」は成り立ちますが、「尊皇派vs佐幕派」という関係式は成り立ちません。

あえていえば「尊皇攘夷派vs尊皇佐幕派」の戦いが戊辰戦争であったわけで、これを「尊皇か佐幕」という視点で見るのは、人心を惑わす曲学と断じざるを得ません。

そうした時代背景にあって「替え玉」説は、尊王そのものを否定するものであり、説自体成り立ちようがないのです。

ーー

要するに「孝明天皇殺害説」や「明治天皇替え玉説」などを述べる人は、日本の天皇を知らない人たちだと断言できるでしょう。

我が国の天皇を、諸外国の皇帝や王と同じ、最高権力者と理解している人たちと考えて間違いないのです。

もしそれが日本人であれば、我が国の天皇の御存在のありがたさを見失った、ちょっと可笑しな人と言えると思います。

ーー

天皇は、日本国の最高権威であって、その権威は一切の権力を行使しないことによって保たれているのです。

ーー

江戸時代であれば、国権の頂点にあったのは、機能的にも実質的にも徳川将軍家です。

しかし将軍は、天皇によって親任(天皇が任命すること)される、天皇の部下です。

このことは、それ以前の時代の太政大臣や左大臣、右大臣も同じです。

そしてひとたび天皇が親任すると、それは神によって任命されたことと同じ意味合いを持ちますから、一切の変更ができません。

つまり、解任することができません。

ーー

では、太政大臣や将軍の解任は、いつ行われるのかといえば、それは次の天皇が御即位されたときです。

新たな天皇が、次の将軍や太政大臣を親任するのです。

それまで解任はありません。

つまり天皇の親任に朝令暮改はありません。

ーー

天皇は、いわば日本国最高の大神官であって、神にもっとも近いお立場です。

その天皇が親任するということは、神によって親任されたと同じ意味合いを持つのですから、人による解任などありえないわけです。

ですから太政大臣や将軍は、自分から辞任するか、逝去するかでなければ、生涯、天皇によって解任されることはありません。

ーー

孝明天皇が崩御されたのが、慶応2年12月25日です。

明治天皇の御即位が慶応3年1月9日です。

その将軍であった徳川慶喜が明治天皇に大政を奉還したのが、慶応3年10月14日です。

つまり慶喜将軍が大政奉還したのは、孝明天皇が崩御され、明治天皇がご即位された後の出来事なのです。

つまり、倒幕派にとって孝明天皇が不都合な存在であったということになりません。

ーー

朝鮮半島は上下関係だけの自由・法治・民衆政治democracy、言い換えれば客観性、公平性、公共性が機能しない「古代」が現代まで続いている国です。

政治的に上に立ちさえすれば、法に従わなくてもよく、どのような不正も許され、人を支配して自分の贅沢を得ることができるというのが、彼らの考え方なのです。

朝鮮半島人からすると、天皇はまさに「法に従わなくてもよくどのような不正も許され、人を支配して自分の贅沢を得ることができる」ような存在なのでしょう。

ーー

しかし我が国は、朝鮮半島とは文化も歴史も人の考え方も全く異なる国であり、「孝明天皇殺害説」や「明治天皇替え玉説」はおかしな妄想デッチアゲだとすぐにばれてしまう。

なぜならそれは、我が国における天皇の御存在の重さを軽視して、西欧や東亜の王朝と同一視するものでしかないからです。

王朝なら現に諸外国で起こっているように改廃や易姓革命が有りえたはず。

それがなかった我が国の天皇は、どこまでも万世一系の最高権威です。

ここを履き違えて議論や説を唱えるような人物は、それは彼が日本人ではないからなのです。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます
>>孝明帝暗殺説の完全否定
この幕末の謬説は、勿論、私も知っていましたが、大抵は、保坂某と言う歴史系の学者が昔書いた、幕末謀略説の一つに過ぎませんが、これを忘れた頃に取り上げるのは、ねづさんが指摘する様に、大半が非日本人的思考の持ち主で、天皇陛下の御存在を不安定なものにして、日本を攪乱して革命を起こそうと企む共産主義者も関与しているでしょう。

まぁ、私が知る限り、保坂姓の人で保守的な考え方の人はいませんから、家代々、外国人の血統で、日本に対して恨みを抱いて居るとしか思えません。

日本の風土では、寧ろ、外来の人や文化を貴ぶ処が有りますから、渡来人の日本嫌いは、起り難い筈ですが、これが重複すれば、先に辿り着いたものが後着民を誹しる事で、自分の優位性を保とうとする事は、あの民族で無くとも、大いに考えられる事でしょう。

半島経由の大陸民は、殆どが難民出自なので、大陸に帰るべき場所を喪失しているので、最終的に日本を乗っ取る野望を持って居ると見るべきですね。

最近の朝鮮族は、大阪都構想などみれば、そう言う意志を隠さなくなって来ていますが、「対等な社会」という事が理解できない彼らは、日本人の上に立って、日本人を奴隷化する心算で居るようですね。

この様に、古くは蘇我氏や中臣氏の様に「日本社会に浸透した外来族」は、昔も今も、日本社会に不安を撒き散らかす、劣化分子である事には、代わりがありません。 我々日本人は、今こそ、日本の「威力分離」の政治体制を他文明人に説明出来る水準迄、理解を深めて行かねばなりませんね。

とは言え、日本文明は地理的に言っても、海象気象的に言っても、外来文明の文物や脅威の影響で、都度、国内の文明に新たな化学変化を起して、亦、その強い消化力と改善への意欲で、独自の文明を発展させて来た事に、異論は有りません。

ただ、俎上に上がって居る、孝明帝暗殺説に続く、明治天皇替え玉説は、渡来族出自の日本人が、日本人を混乱させる為に悪意を以て、創作した謬説に過ぎないが、こう云う謬説でも、真剣に信じて居る人が居るのは、日本の伝統に対する無知・無関心は、勿論、例えば、明治帝の傍に仕えた人々も、少なくあるまいに、その人達の口を塞ぐのにどの様な手段を採ったのか、そんな無辜の官女の大量殺人が 宮中で行われたれた記録等無いのだが?

でも私は、幕末の謎を語る時には、当然ながら、薩長軍に短期間に行き渡って、瞬く間に戦力が逆転したのだから、何故、幕府軍は銃の近代化を図らなかったのだろう。

そこに、将軍家の躊躇いがあるのは、そうして戦争規模を拡大すれば、当時、日本を取り巻いて居た、西洋列強の思うツボに嵌まるのは、見え透いていたからだろう、将軍家も原則的に、日本の威力分離の政体を支持していた証拠ですね。 ダカラ、大政奉還は、この時既に、既定の事であったと思われます。

私は、その大量の外国製の鉄砲を武器商人グラバーから、仕入れた坂本龍馬は一介の浪人でしかないが、何故、言葉も通じないし、字も読めない状態で、巨額の商取引を成立させる事が出来たのか? の方に興味があるのは、この外国勢力と言うのが、今で言うDS勢力だと、思われるカラです。

まぁ、当時は西欧列強の日本の国力認識も、おそらく、シナ(清朝)以下でしょうから、英国が薩摩で、艦砲射撃で街を焼き払えば、容易く降参するだろうと甘くみていたが、奇襲攻撃をかけられて、危うく艦隊の半分を失う処で有ったから、罷り間違えて、白兵戦になれば、全滅の危険があると読んだと思われます。

だから、以後、日本の事は日本に任せる作戦に切り替えたでのでしょうが、もし、大阪湾で是をやられて居たら盛っと違う展開になっていたでしょうね。

日本と全面戦争をすれば、西欧列強も、全滅覚悟で懸らねばならないのは、16世紀に、当時、世界最強のスペインが、日本に手出しが出来ないまま衰亡した事で、その優れた施ン略国家で有る事は分っていたでしょうから、深入りは避けたのでしょう。

「相手の身になって考える」事は、物事を客観的に見る事に繋がると同時に、戦略的な思考の基本ですが、その事を、日本人は古代のシナの文献から読み取ったのですから、本家本元のシナ人に出来ないわけが無いのに、日本と戦争をして勝った試しがない野じゃ、民族に連続性が無いからであると言う説明が一番正鵠を得て居ると思いますね。

つまり、従来の様に「シナ文明は日本文明の恩師ではない」のです。

其れが分った以上、自分に都合が良い古代~中世の常識に、未だに囚われて居る、シナ・朝鮮人の類に、日本人が惑わされて終うのは、戦後の歴史教育が間違っているからで、文科省の改革は、戦後の歴史教育の見直しから再出発する事を切望します。

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