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2020年7月18日 (土)

梅雨の晴れ間の奈良薬師寺・唐招提寺

奈良薬師寺の東塔の平成の修復がこの3月に終わり、10年間覆いの中にあった東塔が姿を見せた。

1300年もの間に、伽藍が失われてもなお東塔が凛とした佇(たたず)まいのまま残ったのには、理由があったのだと、そのさまざまな地震や風雨への対策を熱く語る人たちがいる。

我々はただ、それに感心しながら耳を傾けるばかりである。

が、その東塔があったおかげで、昭和の好景気の時に往時の大伽藍の再建を発願した人物が現れて、写経と寄付を訴え、それに応えるように全国から写経と寄付の申し込みが相次ぎ、伽藍再興が成った。

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この6月中頃から、東塔修復が終わり覆いが取り除かれて、姿が見られるようになったことが報じられて、一目見ようと時期を探っていたのだが、梅雨の雨に邪魔されてなかなかその機会が訪れなかった。

それにおどろおどろしい武漢伝染病による外出を控えなさいというお上からのお触れも耳にしていたこともあって、ようやくこの7月16日に行くことになった。

奈良は当日、珍しく晴れ、真夏の日差しと、蝉の声が聞かれた。

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普段は、クマゼミの騒々しい声なのに、ここ薬師寺では子供の頃によく耳にしていたニイニイゼミとアブラゼミの声がして、思わず、ほらニイニイゼミが鳴いていると従弟に耳打ちしていた。

再興なった藥師寺では、真新しい西塔・金堂・大講堂・回廊で構成された大伽藍の中に、東塔が屹立していた。

東塔の回りは、まだ工事が残っているのかブルーシートで囲われてはいたものの、その三重の屋根とそれぞれの少し小さめの裳階(もこし)に欄干をめぐらした白壁が生える全容は見ることができて、青空を背景にそびえる姿には、さすがに心打つ美しさがあった。

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金堂の中の白鳳時代の国宝たち、薬師如来、日光・月光菩薩は金色の大きな光背の中央で、堂々と座りまた腰をひねっており、もう何度も目にしているのに今回もまた圧倒されてしまった。

かつて金堂完成直後に見た薬師三尊はもっと間近に見ることができたように記憶している。

当時三尊は、火災に会われて金箔が溶け落ちた後の黒々と光沢があるお姿と、如来の台座の青龍・白虎・朱雀・玄武の4神も、見ることができた。

今日は、それほど近くで見ることができず、南面しておられる如来の後ろ側、つまり北側から、如来の台座に浮き彫りにされた玄武のみを確認することになった。

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大講堂の弥勒(みろく)は、弥勒如来(にょらい、悟れし人)としておわす。

弥勒は現在兜率天(とそつてん)内院にいて、菩薩(ぼさつ、修行者)であり、釈迦入滅後56億7千万年後に如来として人類を救うために現れるというのが弥勒信仰のはず。

ということは人々の救われたいという願いが、弥勒を如来にしてしまったのだろうか。

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薬師寺は、興福寺と共に法相(ほっそう)宗の大本山で有り、釈迦入滅後千年の5世紀ごろに、その教義である唯識論を大成した無著(アサンガ)・世親(ヴァスバンドゥ)兄弟を、ブロンズ像で作り、弥勒如来の両脇に安置し弥勒三尊としている。

無著は執着の無いことを意味し、アサンガが神通力で兜率天に行きマイトレーヤ(弥勒菩薩)から大乗仏教でいう空(唯識)を、直接学び会得していたことを示す。

しかしそのブロンズ像は、興福寺にある木造のそれとは違って、見るからに現在でいう外国人の像で有り、残念なことに仏像としては場違いの存在に見えた。

ーー

その後、従弟(いとこ)の希望で唐招提寺にも行くことになった。

武漢伝染病で、案じていた通り周辺の食事処は休業状態で、持参していたコンビニのおむすびを食べた後、薬師寺から約1kmというので秋篠川(あきしのがわ)土手を北へ徒歩で出かけた。

以前来た時には、参拝料を節約して、外から金堂を眺めるだけで帰ったが、今回は一人千円の参拝料を払って参拝することにした。

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金堂は外から金網越しに、内部を間近に見ることができる構造になっている。

中央に本尊・盧舎那(るしゃな、毘盧遮那・光明遍照)仏坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の3体の巨像を安置するほか、本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像、須弥壇の四隅に四天王立像が安置されている。

仏像はいずれも国宝で盧舎那仏、薬師如来ともに巨大だが、特に千手観音には、その535.7㎝という大きさに圧倒された。

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金堂の背後(北側)には、講堂があって、堂内には本尊弥勒如来坐像(重文、鎌倉時代)と、持国天、増長天立像(国宝、奈良時代)が安置されている。

この本尊の弥勒(みろく)も如来になっている。

講堂の北側の小高い丘の上には有名な鑑真和上の像が安置されているお堂が建っている。

その教科書で見るお姿は、丘の下からもガラス越しに見ることができる。

このころには、歩き疲れて、従弟ももう動けないというので、まだ多くを見残したまま帰途に就いた。

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コメント

今から十年余り前のことになりますけれど、薬師寺東塔の平成の修復の前に、参拝に行きました。

奈良には余り行かないのですが、久々の参拝でしたから以前に行ったときとは西塔の出来ていることに、素晴らしく思った記憶があります。
西塔は再建でしたけど、今の時代にこのような歴史的な塔が造られることは大変だと思いましたが、東塔は歴史をそのまま残していますので、この塔を修復できるのは日本の建築技術のすばらしさを誇りたいと考えます。

もう一度薬師寺に行って、両塔が綺麗な姿を残しているを見たいものです。

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>奈良名刹巡り小旅行記
奈良は、自家発電の会社に勤めていた時、御客さんのサイトが3~4軒あったので、結構な数通って居ましたが、根が不信心なもので、御寺巡りなどした事がありません。

ですから、挙げられている建物や仏像の名称やその在り様の精緻な描写は、まるで、TVを見て居るか、その場に居る様な思いが湧き、なんだか得した気分です。ご紹介有難うございます。

唯、私は幼い頃の宗教体験で「偶像は拝んではならない」という、キリスト教の禁忌が,心のどこかに引っかかって居て、伝統美術品以上の評価には、抵抗があります。

でも、自分では、仏教に帰依している心算なんですがね、ええ加減な話ですww

さて単純に考えて、1300年前に建立した木造の建物が、部分的には火災や風水害に拠って被害を受けて、都度、補修した部分はあっても、建物の心材になって居る部分は残って居るのですから、当時の日本の建築技術の高さは、世界有数で有ったと確信しますね。

特に、千年以上の耐久性を持たせる為には、素材にする木材も千年以上の齢をへていなければならないとか、木材を繋ぐ方法も、腐食劣化する金属を使っていないと言うのですカラ、当時の宮大工集団が持つ技術やそのイノベーションの高さ、水準は、現代以上のものすら感じます。

結局、これらの仕事を遺した個人・集団の名前は、何処にも残っていません。 是は、何時の時代の仕事でも同じですので、業界のしきたりだったのでしょう、ここにも、日本人の無私の心、公の利益を尊重する心が見えますね。

私も、若い時分は、WGIP的な教育の所為で、西洋コンプレックスめいたものを持って居ましたが、白人文明の歴史の浅さ、青人文明からの剽窃部分の多さを知るに着け、その道徳的な未熟さ、宗教的な深度の無さが、歴史の軽視、無反省な争いの現世を繰り返しし、遂には、僅か500年で滅びに瀕しているのですから、自然の理の働きは厳しく、且つ、公平ですね。

こうした現実に、気付き始めると、白人文明の幼稚で醜い、選民思想に囚われた、差別的な発言を聞いて居ると、其処には、蒙昧さしか感じませんね。

白人文明は本当に500年の知恵の積み重ねしか持って居無いのだなぁ、と感じるのは、前述の、奈良の名も無い宮大工が現代人を驚かせる様な工夫や加工技術を持つ事が、1300年前の世では、既に当たり前の技術だった可能性が高い事を考えれば、その差は歴然としていますね。

シナにいう民族の分類法で、四蛮「=東夷、西戎、南蛮、北狄」と言うものがありますが、是は、世界の民族の類別に符合して居て、北狄は最古の狩猟採集民、西戎が遊牧民、南蛮が焼畑耕作民、そして東夷が漁労海産・交易を行い農耕迄行う民族と言う事です。

この分類法で行くと、一番戦闘力が高いのは、馬を使える遊牧民で、その次が、集団で狩りをする狩猟採集民ですが、彼らには食料自給力が乏しく、人口が増え過ぎたり、異常気象で、旱魃や冷夏、或いは、豪雨や台風で食料が不足すると、他の部族を襲うという、原始的なママのモラルだったので、一定数以上には中々増えませんから、数的に直ぐに飽和状態になります。

亦、同種の他部族は、基本、敵同士ですカラ、血の多様性が徐々に失われてゆき、、野生の動物種と変わらないレベルになりますね。

処が、焼畑耕作民というのは、狩猟採集民が、偶発的に農耕を始めたケースで、草原や森林の火災の跡には、焼け落ちた植物の灰分は肥料となって、色んな植物が実る事をしって人為的に、種を撒いて自分の意図する作もつを収穫する「栽培」を経験した。

彼らは、こうした経験を多種類の植物を栽培する事で、その後、薬を見い出し、亦、火を自在に使う事出、鉱物の精錬法も物にして居ます。

然し、このやり方では、毎年、焼畑を同じ場所で行えば、地味が枯れて行く事をしったので、移動しなくてはならず、定住出来なかった。

そして最後に、最初は、川で魚をすなどって食糧源にして居たが、ならば広い海の方が、魚も大きいし、数も大いとしり、船を創りだし、更には、貝の存在にも気が着いた。

そして、船で、次第に遠くへ行ける様になると、自分が知とは、別の部族も同じ様に、漁をして居る事に気付いたが、魚の量は、獣の量とは格段に違うし、小さい船では獲れ過ぎても、自分の身が危うくなるので、争いは起らなかった。

後に、魚が集まる浅瀬「=瀬」の場所を共有したり、優先順位を付けたりする様になり、他部族は決して敵同士では、なくなった。それに、船を使った交易も始まり、海流の強さや流向、船の位置を知る為の陸上の山や岩の知も、海で暮らすには、必須になった。

そして、交易を続けて行く裡に、水耕稲作に出遭ったが、持ち帰って試してみたが、うまく育たなかった、其処で、植え方や時期について、工夫して、なんとか実る様になったが、列島は豪雨が毎年あり、川の氾濫や高潮の被害も、今とは比べ物にならない位起ったので、栽培するのにかかる手間に比して収量が過小でしかも不安定だったので、稲作をいったん諦めて居る。

然し当時は、氷期の最中だったので、熱帯厳守の水稲は上手く育てられず、日本で工夫したやり方をシナに伝えた。 すると大陸には大きな台風もこないし、豪雨も少ないので、日本で工夫・改良された水稲は、長江文明を花開かせた。

つまり、日本文明が、死な文明の大元である長江文明の基礎を作った可能性が高いのです。

日本文明の真骨頂は、決して諦めない不屈不撓の強いイノベーションの継続でしょうが、そう言う、前向きで平和的な資質を持つ民族は、残念乍、世界に他にはいませんね。

縦椅子様

 7月16日梅雨の合間に参詣されたという薬師寺と唐招提寺の素晴らしいブログ有難うございます。
 昔、薬師寺を訪れた時、伽藍再興の寄付をつのっており、写経の用紙を持ち帰っていたことを記憶しています。
 伽藍再興が終わった後、又10年かけて東塔の修理を無事終えられ、今回のおめでたいお目見えを格調高い文章でご紹介戴き、その場にいるがごとく、、その神々しさをあじあわせていただき、ひさしぶりに梅雨の合間に晴れやかな、爽やかな気分になりました。心から御礼申し上げます。感謝!!

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