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2020年6月30日 (火)

つまり日本書紀が描く話は、西洋史とも、支那史とも違っているということになります

ーー以下過去ログより抜粋編集

もう一つ、GHQに小突かれながらも当時の日本人は、必死になって(日本国憲法の)条文を作ってきたんやということです。

「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」

これが第一条です、そして谷田川さんは、昭和の陛下が昭和52年に那須の御用邸で記者からの現行憲法についての質問に対して「第1条ですね、あの条文は日本の国体の精神にあったことでありますから」と言及されたと、書いてはる。

ーー

そうなんや、陛下はずっと、日本国憲法をしっかり支持して来てはる。

それは今上陛下も上皇陛下も、事あるごとに、お言葉でも繰り返し言うてはるなあ、と気付きました。

平成の陛下は令和に替わる前日(2019/04/30) 国民に向けて「 即位から三十年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした」「象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します」とおっしゃった。

ーー

実は「国体」はずっと守られて来てたんや、これはちゃんと認めんとあかんなあと気付きました。

そして日本国はもう、いつからかわからんような大昔から、天皇を中心にしてまとまって来た国なんや。

(日本は世界最古の国民国、一方支那・半島がかつて国民国だったことはなかった、現在でも国民国とは言い難い)

ーー以下「ねずブログ20/6/29」より抜粋編集

日本を日本らしくした最大の功績者は持統天皇(645〜703年)であると私(ねず)は思っています。

父の天智天皇が公民(おほみたから)という概念をあらためて広げ、夫の天武天皇が壬申の乱によって日本国内をあらためてひとつにまとめられた。

けれども、このお二方とも、手を血で染められてしまわれた。

ーー

持統天皇は、二度と日本が内乱その他で血で血を洗うことがない国になることを希(ねが)われ、天武天皇の名で詔(みことのり)を出された。

それが、我が国初の政治の記録・日本書紀の編纂であり、日本の文化の記録・万葉集の編纂であったのです。

ーー

日本書紀の完成が元正天皇の時代(720年)、万葉集の最後の歌となる巻20の4516番の歌が作られたのが孝謙天皇の時代となる759年(天平宝字3年)です。

また両者とも、制作の開始はいずれも天武天皇の御世ですから、表面上は制作にあたって持統天皇のお名前は出てきません。

けれども発足点における政務の最高責任者は、天武天皇の皇后であられた持統天皇だったのです。

(このことがアマテルカミを女性にした原因?)

ーー

つまり、日本書紀、万葉集ともに、持統天皇の問題意識から出発し、それに従って編纂が行われたといえるわけです。

持統天皇が編纂の方針として示されたのは以下でした。
(1)国としての価値観を明確にする
(2)和歌を通じて文化レベルの高い国にする

ーー

(1)は、日本人とは何かを明らかにすることです。

そのために日本人がどのようにして国を築いてきたのかについて、過去の記録をひとつの意思のもとに時系列に沿って物語にしたのです。

1、稲作をする民衆は天皇の「おほみたから」であること
2、権力の使命は、民衆が豊かに安全に安心して暮らせること
3、全国民が家族のように助け合い暮らせること(八紘一宇)

それを歴代天皇のご事績と、意思を神語(かんがたり)に求めて時系列に沿って記述したものが日本書紀だといえます。

ーー

岡田英弘、宮脇淳子説によると、西洋であれば、ヘロドトスのヒストリアイにみられるように「混乱はあったけれどもひとりの英雄が登場して強大な敵をやっつけた」という英雄譚になります。

支那であれば、司馬遷『史記』にあるように「皇帝の専横が著しいために天命が別な姓の人に下り、新たな王朝が起こった」という話になります。

ーー

つまり日本書紀が描く話は、西洋史とも、支那史とも違っているということになります。

このようにして編纂された日本書紀は、元正天皇に提出された翌年(721年)から貴族の教科書となり、そしてその後全国の豪族やその部下、そして一般の民衆へと広がっていきました。

つまり、日本書紀は、その後の我が国の国体の基礎を築いたことになります。

ーー

このことは、同時に日本が、神話の時代から国民国(Nation State)であったことを示しています。

つまり我が国には、日本書紀が編纂されたころにはもうすでに、国民つまり「価値観を共有する人たち」が居たということになります。

これは今でこそ西欧諸国に普通にみられることでありますが、7〜8世紀の世界では考えられないようなことだったわけです。

ーー

秦の始皇帝は、5つの大国に分裂して内乱を繰り返していた支那大陸の統一を実現しました。

このとき始皇帝が国家の肝として全面的に打ち出したのが法治主義です。

当時の支那世界にあって、始皇帝は、今風に言うなら、法のもとの平等を説いたわけです。

ーー

この思想は、秦と対立する列国の反主流派に広く受け入れられ、秦の始皇帝による支那統一が実現しました。

当然支配階級のみんなが法文を読めなくてはいけないので、文字も統一する必要があり、このときに始皇帝が採用したのが言葉が違っても意味が通じる漢字だったのです。

ーー

始皇帝は、秦氏という民族によって周辺国を征圧した、つまり民族(エスニック)国を目指したのではありません。

民族や言語などの壁を越えて、法による平等という国(ネイション)を目指したわけです。

始皇帝が統一する前の支那の5国というのは、それぞれ民族も伝統もまるで異なる国々でした。

始皇帝は、いかなる歴史を持つ民族であれ、すべての人は漢文で記された法のもとに平等であるという国民国を実現しようとしたわけです。

ーー

ところが始皇帝は、その理想を実現するために、武力を用いました。

結果として始皇帝亡き後、法の強制から自由でありたいという項羽や劉邦によって、秦は亡ぼされてしまう。

結果、現代に至るも支那は、法の上に皇帝(共産党)が存在するという人治主義のまま、国民国を実現できずにいるのです。

ーー

そして人治主義というのは、常にトップに立つ者のみが富を独占するという形です。

現在の中国では共産党員が富を独占しているということになります。

ーー

ちなみに現在の北京共産党政府は、影響力を持つために世界中に工作員を送り込んで世界中で情報戦を繰り広げています。

が、それら政治工作活動に関わる人達は、北京共産党政府と価値観を共有しているわけではなく、彼らは、金になるから、命令されたように工作を行っているに過ぎないのです。

ーー

北京共産党政府は、カネと恐怖による支配を行っているのですが、そのカネが今や問題になっているのです。

世界の通貨は、どの国の通貨であっても、金(GOLD)による裏付けがあるから通貨として機能しています。

米ドルが機能しているのは、GOLDによる通貨の裏付けとともに、もうひとつ、石油の購入権をドル建てで実現したことによります。

つまり米ドルで、GOLDと石油の二つが、入手できるというのが、米ドルが通貨として機能している理由なのです。

ーー

ところが北京共産党政府の政治工作に使われている人民元は、それに価値があるのは、それが米ドルと交換できるからです。

それが、今、米支貿易戦でその価値がどんどん下がりだしている。

仮にもし、人民元とドルの交換ができなくなれば、元は紙くずになるし、人民元の電子マネーも、ただの数字になります。

これが人民元の崩壊です。

ーー

日本の場合、現在770トンの金(GOLD)を保有しています(世界第8位)が、中国が1880トンで世界第6位、1位の米国が8140トンの保有です。

ちなみに米国の保有する金(GOLD)は、外貨準備に占める割合が75%もあります。(日本は2.5%)

ただし、日本にはまだまだ隠れた金鉱脈があり、いまの保有高に埋蔵量を含めたランキングでは、世界のベスト3に入ることも可能と言われています。

しかも日米の緊密な関係もあり、またG7とEUは、上限なしの通貨スワップ協定を結んでおり、日本円が下がることは考えにくい。

一方の人民元は外貨準備とGOLDのみで維持されているので、貿易収支が赤字になれば早速価値が暴落することになります。

ーー

もっとも、北京共産党政府が崩壊すると、1億人規模の難民が日本に押し寄せるとも言われており、それが日本の安全保障上好ましいことかどうかは、また別な議論になります。

ーー

さて、話がものすごく脱線してしまいましたが、要するに民族(エスニック)国を形成しようとしても、現実には困難なのです。

なぜなら、たとえば琉球民族というならば、琉球民族と大和人が5世代前に混血していた場合は、それは大和人なのか、琉球人なのかなど、決められない問題が内在する。

このことがどの民族についても多かれ少なかれ起きるからです。

ーー

7世紀の日本もまた同じで、当時、東亜の蓬莱山と呼ばれた黄金の国日本は、世界中から人の集まる国でした。

ですから日本には青い目や金髪の人もいたし、肌の黒い人もいた、もちろん支那大陸や半島の人たちもたくさんいたわけです。

平安初期に書かれた『新撰姓氏録』には、現在の国や民族とは違ってはいますが、日本に帰化した人々が、日本の人口の3分の1を占めていたと記されています。

ーー

そうした、いわば多民族国である日本は、日本がひとつにまとまるために、どうしても「国としての価値観を共有する人が日本人」という、国民国の道を歩まざるを得なかったわけです。

そしてそのために、では日本とはどのような国柄を持つ国なのか、どういうことを理想としている国なのか。

それらを教条的に述べたり、力で強制したりするのではなく、史書に基づく教育によって、日本人という国民(ネイション)を構成しようとした。

それが持統天皇であられたわけです。

ーー

持統天皇が皇位にあったのは、わずか7年間のことでしかありません。

けれど、政治の中心におられた期間は、皇位にあった期間を除いても30年以上あります。

そしてその30年の間に、日本は日本書紀という史書を通じて、日本の形を明確に定められたのです。

ーー

このように考えると、なぜ神武天皇が初代天皇とされたのかも明確になります。

神武天皇以前にもニニギノミコト以来の皇統があったわけです。

それがなぜ神武天皇が初代天皇となるかといえば、神武天皇こそが、お米を媒体として凶作や天然の災害で食料を失った諸国を、例年通りの収穫のあった諸国で扶けようという、共済国家としての日本の建設を図られた方であるからです。

ーー

そして以後の歴代天皇のご事績を通じて、様々な問題に我々の先輩たちがどのように取り組んできたのかが明らかにされ、最後の巻で、持統天皇の功績を語ることで締められているのが『日本書紀』なのです。

ーー

ではなぜそのような国作りがなされてきたのかという、その遠因を語っているのが『日本書紀』巻1・2の神語の章です。

そこでは神々のご意思が、常に民衆の幸せにあったことが明確に述べられているわけです。

だから神武天皇は、共済国家を目指したのですよ、だから崇神天皇は疫病対策を行われたのですよ、だから仁徳天皇は国を富ませることができたのですよ、等々といった物語が、その後に展開されています。

ーー

要するに日本書紀において大切なことは、神武天皇や聖徳太子が実在されたのかとかの問題ではなく、私たちの祖先が、どのような国作りを目指したのか、そのことを国民になるためにしっかりと学ぶことにあります。

もちろん私個人としては、実在を疑う余地はないと思っていますが、たとえば他の文献史料では、ウガヤフキアエズ朝は、50代以上も続いたとあるわけです。

けれど日本書紀はウガヤフキアエズ朝については1代の天皇と記述しています。

ーー

どちらが本当だったのかはわからない。

日本書紀編纂の目的が、あくまでも日本国の価値観を明確にしようとしたところにあり、これを記述するうえで、必要ないことはある意味、思い切って切り捨てた記述がなされたのかもしれません。

ーー

日本書紀は、どこまでも日本人の精神性や文化(価値観)を明確にするという目的を持って書かれたものであり、それを歴史という物語仕立てにすることで、誰にでもわかりやすい史書(教科書)として世に出されたものであるということができるのです。

いま流行りの『ワンピース』や『鬼滅の刃』に描かれている筋は、史実ではありません。

けれどその話を通じて、多くの日本人が日本的精神性を学んでいます。

大切なことは、そうした学びを通じて、どのような現在を、そして未来を築くかにあります。

そのための学びの場が、日本書紀です。

ーー

さらにいうと、国家を創生するためには、単に学問的な理性の部分だけでは、これを実現できません。

なぜなら人には情感というものがあるからです。

そしてその情感や情緒面から、いかなる血筋であったとしても、日本人となった以上、日本人としての精神性を共有してもらうために編纂されたのが、『万葉集』です。

ーー

日本は、持統天皇の御世以来、1300年以上にわたって、様々な紆余曲折はあったものの、ずっと天皇を中心とした「知らす国」を目指してきた国です。

そしてそこにこそ、我々日本人がどのような未来を開くべきかの鍵があるものと思っています。

持統天皇は、夫の天武天皇とともに、奈良県高市郡明日香村にある檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)に埋葬されています。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>日本人を目指す為の日本書紀
先ず、昭和帝も先帝陛下も日本伝統の国体を保持して来た事を語られています、そして、その御業績は、両帝御自らのお言葉で「国民と共にあった」事を述べられて、日本が伝統の国民国家で有り続けて居る、仰っておられます。

こうした、国の支配層の頂点に立って居た人が、回顧や、或いは、ご退位に際する弁で「国民への感謝の意」を表明なされる様な、国が世界に亦と有ろうか?

御自ら、皇族として、この世に生を受けて、自らのご意志徒は無縁の裡に、即位され其々、124代、125代天皇陛下として、64年間と32年間、御勤めになられた。

その有り難さに涙が止まりません。 両陛下が示された新時代の天皇陛下の在り方、延いては皇族の在り方をその行動でお示しになられた事は、幾ら賛美に言葉を用いても足りません、おそらく将来の日本の歴史に必ず刻まれる偉業だと、私は思います。

こうした皇室の精神の基である「国民国」の発想は、如何にして生まれたのたののか? と昔私も考えた事が有ります。 ウガヤフキアエズの命は、南九州を本拠地にする一号族だった、と言う私の推論から、開陳いたします。

ご存じの通り、南九州は火山の多い地域で、鹿児島県全域が火山灰の地質に覆われた処が多く、その為に人口は多くなかった、食糧になるものの生産が安定していなかったカラです。

然も、固より、この地方に居たのは、漁労海産を生業とする、海人族ですから農業に対して無知では、なかったが、水が潤沢にあって、平地の御多いシナ本土とは、大分事情が子となって居たし、火山灰の土壌は保水性が悪く、水田耕作には不向きだった

然し「人間万事塞翁が馬」とか「災い転じて福となす」と言う俚諺が有る様に、水田耕作も、他の地方とは違った、独自のものがあった様ですし、なにより、千枚田と呼ばれる、カルデラ湖の様に、高い位置に水源のある山の斜面を田んぼにして行き、上からの水を効率よく無駄なく利用するだけでなく、夏に豪雨ヤや旱魃が多いこの地方の治水にも、そして、元来熱帯植物の稲には、その日当たりの良さは、田畑の耕地面積を拡大し、人口を大きく増やしました。

こうした成功体験は、交易の民でもある海人族が外国から輸入し技術、或いは、外国の技術をヒントに応用したものであろうと思います。(フィリピンの千枚田)

そこで、この「水田耕地倍増計画」をひっ下げて、ウガヤ家の息子3人が、宮崎県美々津港から、豊後水道や宇和海地域に棲む海人族「=豊族」の協力を得て、瀬戸内沿岸の国々に、この耕作法と製塩法を伝えて行きます。

効率の良い製塩砲の伝授は、食塩が後の戦国時代でも、貴重品で有った事を考えれば、原料になる怪水は、腐る程wあるわけで、第一、無塩植物の稲は、製塩法とセットで伝わったと言う説も有りますから、海に面した地方では、特産物になったでしょう。

然し、農業と言うものは成が出るまでに、最低でも1年、下手をすれば、数年かかるので、一行が、瀬戸内海を抜けるのに、なんと16年もの歳月が懸っています。

16年という月日は、平均寿命が80歳の現在なら、なんて言う事は無いですが、当時の平均寿命は50歳以下でしょうから、3人が船出の時に、仮に20歳でも36歳、24歳なら40歳になっていますから、体力的にも厳しいものがあったでしょうね。

そして辿り着いたのが浪速の津で、此処には蝦夷族と呼ばれる、氷期もしくはそれ以前から、大陸から地続きの陸橋伝いに獲物を追って、もしくは、新天地を求めて海を超えて、やって来た日本列島の先住民です。

人種的にも文化的にも異民族ですから、当然、侵略者都して遇されて、一行は、今の大阪上の辺りで、長脛彦の軍勢に襲われ、惨敗し手、居の力がら、大阪湾に脱出しますが、上の2の兄を戦いで失います。

紀伊水道を抜け、黒潮に乗って、伊勢湾に辿りつぃたが、此処は黒潮の流域圏出、多くの海人族が棲んで居て、一行を歓待してくれた、その後は紀伊半島の東から勢力を整えて、長脛彦の軍是を破って、大和王朝を建てたと言う、神武東征記になっています。

要は、東の征伐とはあるものの、戦いがあったと記されているのは、長脛彦との戦いと、紀伊半島内の豪族徒の争いだけです。

つまり、民の食糧事情の改善が、国に平和と繁栄を齎す事を、自分だけのものにせず、広めて共有し、多くの民を救い、味方・同志を創り、もって、国と成そうという、熱戦無き国のまとめ方だった徒私は思っています。

ダカラ、大和朝廷の基本からして、相互扶助と共感の和の精神なのです、其処には決して、「今だけ、金だけ、自分だけ」といった「破綻の三要素」はありません。

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