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2020年4月19日 (日)

それだけの文学作品が、なんと13世紀にできあがっていたというのですから、これまた日本というのはすごい国です

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

桃の花が咲く4月上旬から4月下旬は、壇ノ浦の戦いがあった月です。

旧暦ですと寿永4年3月24日(1185/4/25)山口県下関の沖合、壇ノ浦で行われた源氏と平氏による戦いです。

治承4(1180)年に源頼朝が平氏打倒の兵をあげて以来5年、屋島の戦いで敗退した平氏一門は、長門国引島(山口県下関市)まで後退して、そこで源氏に最後の決戦を挑んだわけです。

ーー

源氏と平氏は、いろいろに対比されますが、戦い方の手法も、正反対です。

平氏は、弓矢を用いて離れて敵を討つという戦い方を得意としました。

これは特に水上戦で有効な戦い方です。

大量の矢を射かけ、敵を粉砕します。

ーー

対する源氏は、馬を多用した陸上での接近戦が得意です。

ーー

さて、だいぶ春めいてきた3月24日(4/25)、平氏一門は、関門海峡の壇ノ浦に、無数の船を浮かべて義経率いる源氏を待ち受けます。

静かに夜が明ける。

そして朝5つ(午前8時)、いよいよ戦いの火ぶたが切って落されます。

ーー

この時の潮の流れは平氏⇒源氏でした。

平氏は、潮の流れに乗っていますから、櫓を漕がなくても船は前に進みます。

しかし源氏は一定の人数は常に櫓を漕がなければならなかった。

ーー

潮の流れに乗る平氏は、源氏の船に迫り、盛んに矢を射かけます。

潮の流れに逆らう源氏の船は、平氏の射る矢の前に、敵に近づくことさえできません。

船を散開させ、なんとか矢から逃げようとする源氏、密集した船で次々と矢を射かける平氏。

こうして正午頃までに源氏は、あわや敗退というところまで追いつめられていきます。

ーー

ところが、ここで潮の流れがとまる。

追いつめられていた源氏は、ここで奇抜な戦法に討って出ます。

義経が、平氏の船の「漕ぎ手を射よ」と命じたのです。

ーー

堂々とした戦いを好む坂東武者にとって、武士でもない船の漕ぎ手を射るなどという卑怯な真似は、本来なら出来ない相談です。

ところが開戦から4時間、敵である平氏によってさんざんやっつけられ、追い落とされ、陣を乱して敗退していた源氏の武士達も、ここまでくると卑怯だのなんだのと言ってられない。

義経の命に従い、平氏の船の漕ぎ手を徹底して射抜きます。

逆にいえば、気の強い源氏の武将たちに、そこまでの決断をさせるために、あえて義経は明らかに不利な流れに逆らっての攻撃命令を朝5つ(8時)に下したのかもしれません。

ーー

平氏は、狭い海峡に無数の船を密集させて浮かべています。

そこに源氏の矢が、漕ぎ手を狙って射かけられたわけです。

船の漕ぎ手を失った平氏の船は、縦になったり横になったり、回ったりして、平家船団の陣形を乱します。

平氏の軍団は、大混乱に陥いってしまう。

ーー

そこで潮目が変わった、こんどは、潮の流れが、源氏側から平氏側へと変ります。

ーー

潮の流れというのは、勢いの強いもので、まして狭い海峡では一層強くなります。

流れに乗った源氏は、平氏一門の船に源氏の船を突撃させる。

平氏一門は、ここまで約4時間、矢を射っぱなしだったのです。

すでに残りの矢は乏しい。

それを見込んでの源氏の突進です。

ーー

接近戦になれば、源氏武者の独壇場です。

離れて矢を射かける戦い方に慣れた平氏は、刀一本、槍一本で船に次々と飛び移って来る坂東武者の前にひとたまりもない。

平氏の船は次々と奪われ、ついに平氏一門の総大将、平知盛の座乗する船にまで、源氏の手が迫ります。

ーー

平家物語では、このあたりから、まるで錦絵を見るような色彩豊かな描写をしています。

ーー

迫り来る敵を前にした平教経(たいらの のりつね)は、そのときすでに、部下ともども、矢を射尽くしていました。

そこに源氏の兵が潮に乗って迫って来る。

平教経は、今日を最後と肚に決めます。

ーー

そのときの教経(のりつね)は、赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、唐綾縅(からあやおどし)の鎧(よろい)のいで立ちです。

そして厳物作り(いかものづくり、立派に作られた)の大太刀を腰にして、白木の柄の大長刀(おおなぎなた)の鞘を払うと、次々と敵をなぎ倒していきます。

その戦いぶりを目にした総大将の平知盛(たいらのとももり)は、教経に使者を使わし、「教経殿、あまり罪を作りなさるな、そんなことをしても、相手は立派な敵だろうか」とたしなめるのです。

ーー

戦いの最中に、平知盛は、「雑兵(ぞうひょう、身分の低い兵)を殺すことが、武将として立派な戦いでしょうか?」とわざわざ伝えているのです。

ーー

雑兵というのは、日頃はお百姓さんです。

ということは、源氏だ、平氏だと言う前に、彼らは天皇の大御宝(おほみたから)なのです。

源氏も平氏も武門の家柄なのだから、戦いはやむを得ない。

けれど、雑兵となっている民、百姓は、たとえそれが敵であったとしても、すこしでも守ってやり、命をながらえてやるのが、武将の勤めだ、と言っているわけです。

ーー

今の我々など、戦(いくさ)のさなかに、何を能書き垂れてんだ!と思ってしまいます。

けれど、当時の貴族や武将にとって、このことは命を賭けるほどに大事な哲学でもあったわけです。

ーー

平知盛のひとことに、ハッと気がついた教経(のりつね)は、「さては大将軍と組み合えというのだな」と心得(こころえ)、長刀(なぎなた)の柄を短く持つと源氏の船に乗り移り乗り移りして、「義経殿はいずこにあるか」と大声をあげます。

残念なことに教経は、義経の顔を知らない、そこで鎧甲(よろいかぶと)の立派な武者を義経ではないかと目をつけて走り回ったわけです。

ーー

ところが義経は、まるで鬼神のように奮戦する教経の姿に、これは敵わないかもしれないと恐れる。

他方、部下の手前、露骨に逃げるわけにもいかない。

そこで教経の正面に立つように見せかけながら、あちこち行き違って、教経と組まないようにします。

ーー

ところが、はずみで義経は、ばったりと教経に見つかってしまう。

教経は「それっ」とばかりに義経に飛びかかります。

義経は、あわてて長刀を小脇に挟むと、二丈ほど後ろの味方の船にひら〜り、ひら〜りと飛び移って逃げる、これが有名な「義経の八艘飛び」です。

ーー

教経は早業では劣っていたのか、すぐに続いては船から船へと飛び移れない。

そして、今はこれまでと思ったか、その場で太刀や長刀を海に投げ入れ、兜(かぶと)さえも脱ぎ捨てて、胴のみの姿になると、

「われと思はん者どもは、寄つて教経に組んで生け捕りにせよ、鎌倉へ下つて、頼朝に会うて、ものひとこと言わんとぞ思ふ、寄れや、寄れ!」

(われと思う者は、寄って来てこの教経と組みうちして生け捕りにせよ、鎌倉に下って、頼朝に一言文句を言ってやる、我と思う者は、寄って俺を召し捕ってみよ!)

とやるわけです。

ーー

ところが、丸腰になっても、教経は、猛者そのものです。

さしもの坂東武者も誰も近づけません。

みんな遠巻きにして、見ているだけです。

ーー

そこに安芸太郎実光(あきたろうさねみつ)が、名乗りをあげます。

安芸太郎は、土佐の住人で、なんと三十人力の大男です。

そして太郎に少しも劣らない堂々たる体格の家来が一人と、同じく大柄な弟の次郎を連れています。

ーー

太郎は、「いかに猛ましますとも、我ら三人取りついたらんに、たとえ十丈(じゅうじょう)の鬼なりとも、などか従へざるべきや」

(いかに教経が勇猛であろうと、我ら三人が組みつけば、たとえ身の丈十丈の鬼であっても屈服させられないことがあろうか)

と、主従3人で小舟にうち乗り、教経に相対します。

ーー

そして刀を抜いて、いっせいに打ちかかる。

ところが教経は、少しもあわてず、真っ先に進んできた安芸太郎の家来を、かるくいなして海に蹴り込むと、続いて寄ってきた安芸太郎を左腕

の脇に挟みこみ、さらに弟の次郎を右腕の脇にかき挟み、ひと締めぎゅっと締め上げると、

「いざ、うれ、さらばおれら、死出(しいず、死んであの世に行くこと)の山の供せよ」
(さあ、おのれら、それでは死出の山へ供をしろ)

と言って、海にさっと飛び込んで自害するわけです。

ーー

まさに勇者の名にふさわしい最後を遂げたのです。

このとき、教経、享年26歳です。

ーー

このあたり、琵琶法師が琵琶をかき鳴らしながら情感たっぷりに語るのでとても素敵です。

平家物語には、激しい戦闘の中にも、愛や勇気、女たちの涙の物語などが盛り込まれている。

こうして壇ノ浦の戦いで、平氏は滅びました。

ーー

平家物語は、壇ノ浦の戦いで命を救われた平清盛の娘、安徳天皇の母、高倉天皇の后・建礼門院を、後白河法皇が大原にお訪ねになり、昔日の平氏全盛の日々を語り合う場面で、語りおさめとなります。

まさに「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色盛者必衰の理を表す」「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」なのです。

ーー

琵琶法師の語る平家物語は、一話2時間くらいで、12話で完結です。

二時間分の話し言葉というのは、だいたいⅠ万字ですから、法師の語る平家物語は、全部でだいたい12万字、つまり、いまならちょうど本一冊分くらいの分量です。

それだけの文学作品が、なんと13世紀にできあがっていたというのですから、これまた日本というのはすごい国です。

ーー

江戸時代に平家物語は、歌舞伎や講談で、義経千本桜、熊谷陣屋、敦盛最期など、各名場面が興行され、多くの人の喝采を浴びました。

日本は、ほんとうに古くて長い歴史を持った国です。

その日本をご先祖さまは、大切に守り育(はぐく)んでこられた。

ということは、日本は、私たちにとってご先祖からのたいせつな「預かりもの」です。

決して失ってはならないものなのです。

その大切な日本国を戦後、在日・反日勢力によって奪われてしまった、それを我々の手に取り戻さなければなりません。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>平家物語に見る日本文学の原型
昔の私は、コスモポリタン的な考え方が正しいと思いこんで居たので、シナ・韓国の歴史も日本と同じ様な厳密な歴史学者の管理下に置かれた、史実の蓄積だと思いこんで居たので、TVで韓国の歴史ものを良く見て居ました。

然し時々、「あれ? この時代には、こんなものは無かった筈だが?」と言う事が、しばしばあって、更に「朝鮮には、車輪を作る技術も無かった」事を知って、では、戦争の時の兵坦物資はどうして運んだのか? と言う疑問から、おそらく、動かせる兵士の数は千人までで、大方は、百名前後の小競り合いはあっても、万余の軍勢同士の合戦なんて有りえない

すると、韓国で造られた歴史物は全てファンタジィだと気付きました、ならば、荷車を持って居るシナが、万を超す大軍で攻めて来たら、只管、逃げ惑うしか術がなかっただろう、と分り、TVの合戦シーンも全て、妄想の代物だと気づいてから、一切、見なくなりましたね。

それに比して、平家物語に出て来る、近畿一円の出自の
平氏軍と坂東「=関東」武者の源氏軍の特徴の違いや関門海峡の汐の変化を利用した源氏軍の戦法等は、臨場感があって、現代でも通じますね。

でも是は、平氏が滅亡した後、その興亡を描くに当たって、様々な人に拠って語られた史実をつなぎ合わせて、其処に、是亦史実のエピソードを織り込んで行く、この作業は現代でもかなりの難事と思われますし、なにより、史実で有る事に拘る部分が多いので、裏を取るのは大変でしょう、だから、作者は1りっでゃあり得ないので、優れた編集者が必要になります。

亦、戦闘部分の描写では判らない処も出て来るのは、仕方が無い、結局最初から、「物語」にならざるを得なかったのでしょう。

徒然草を書いた吉田兼好は、平家物語を書いたのは、信濃の国守だった、中山行長と言う人だと言っていますが、平家物語自体が、後世の琵琶法師が語る演目で、庶民にも知られる様になったので、その元になったのは確かに行長氏でしょうが、行長氏も生きて居た時代と兼好法師の時代とでは、1世紀の隔たりが有るので、その間に、語り手の琵琶法師他異論唖人達に拠る、色々な付加が有って、結果、12万字の大著になったものと思われます。

でも、行長氏は、最日本版の「戦国史略」の様なモノを遺そうと思ったのではないかと、私は思います。

処で、この行長氏も結局は入道「=僧籍に入る事」になっていますが、日本社会では、固より、僧侶こそ日本社会の非生産者にして、隠遁生活を送る傍ら、哲学者、文学者として活動できる場所で有った様ですね。

こういう、宗教団体が世の中の文芸活動や哲学を育んで行く社会構造は、インド発で、紀元前25~20世紀辺りのアーリア人の侵略から始まって居ると、私は思っています。

所謂、バラモン教にいう「出家」ですね。

でもシナは、長江文明の時代から、宗教関係者を特別扱いにした様な話は残って居ませんが、思想家や戦略を建てる賢人を進んで、幹部に迎え入れて、国の防衛/領土の拡張を図った居たわけですね。

では白人文明はどぅかと目を転じれば、その歴史の浅さに愕然とさせられます。

然も、現代の哲学や政治思想、宗教さえも、全て、ギリシャ・ローマ時代の剽窃に過ぎないので、そこかしこに野蛮な本音が見え隠れして、理想が上滑りして終います。

その上、歴史を軽視しているので、先人が踏んだ誤った轍「=選択」を経験知に出来ないから、「過ち」に至る選択を幾度も繰り返してしまい、結局、その原因に気が着けないのです。

話が脱線しましたが、こうした日本文明の姿を知って、世界文明との水準較差を見れば、現状世界での日本のあるべき姿は、「人類の希望」に、ならなければならないと感じますね

我々、現代日本で、それに気が着いたものは、進んで、日本文明の何足る可を自らさらに学習して、世界に広めて、この世界を、共助と利他愛に溢れた、誰もが安心して暮らせる世界にしなくてはなりませんね。

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