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2020年4月20日 (月)

敵対する相手にこの大切な孫を、みすみす殺されると分かっていて何故引き渡したのか

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

寒い冬から春の訪れとともに梅の花が咲き、桜が咲き、桃の花が咲きます。

それらはとても華やかです。

それらの華やかな花が咲き終わったころに、野にオダマキ(苧環)が紫色の可憐な花を咲かせます。

源義経は、静御前(しずかごぜん)を、このオダマキ(苧環)の花に例えました。

ーー

静御前は日照りが続いて飢饉が心配され「雨乞い神事」が行われた際に、「舞を奉納し」ただひとり雨を降らせることができた。

後白河法皇は、それをご覧になり、「神に届く舞」を踊れる白拍子として、「都一」の称号を与えられた。

源義経は、この神事のとき、後白河法皇の側(そば)にいてその「舞」を見ていました。

そしてその場で静御前を妻に娶りたいと法皇に願い出ます。

ーー

京の都で雅(みやび)な生活をする義経は、鎌倉にいる兄の源頼朝に疎(うと)まれ、朝敵とされてしまう。

ーーwikipediaによると、

兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。

その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって頼朝の怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。

全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。

しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。

ーー引用ここまで

京を逃げ出た義経一行は、まず尼崎から船に乗って九州を目指すのですが、暴風雨に遭って船が難破してしまい、一行は散り散りになってしまいます。

嵐の中でも、決して手を離さなかった義経と静御前は、一夜開けて芦屋の里に漂着します。

九州落ちが不可能となったため、生き残った弁慶や源有綱、堀景光らと一緒に、陸路で大和へと向かいます。

目指すは奥州平泉の藤原秀衡のもとです。

ーー

大和の吉野山に到着した義経らは、吉水院という僧坊で一夜を明かします。

そこからは、大峰山の山越え路です。

ところが問題がありました。

大峰山は神聖な山で、女人禁制なのです。

ーー

女の身の静御前は立ち入ることができません。

やむなく義経は、静御前に都へ帰るようにと告げます。

「ここからなら、都もさほど遠くない」

「これから先は、ひどく苦しい旅路ともなろう」

「そなたは都の生まれ、必ず戻るから、都に帰って待っていておくれ」

ーー

それを聞いた静御前は、「私は義経さまの子を身ごもっています」「別れるくらいならいっそ、ここで殺してください」と涙ぐみます。

このときの静御前は、鎧をつけ大薙刀(おおなぎなた)を持っています。

鎧姿に身を包んだ美女が、別れを嘆き泣き崩れる、泣かせる場面です。

ーー

たしかに静御前は女性ですが、大峰山に入る姿を誰かに見られているわけではありません。

関所があるわけでもありません。

つまり、女人禁制とはいっても、女性を連れて入ろうとすれば、いくらでも入ることができる状態でもありました。

ーー

昔の日本では、人が見ていようが見ていまいが、約束事は約束事、決まりは決まりです。

たとえ口の堅い部下しかそこにいなかったとしても、誰も見ていなくてもお天道様が見ている。

そう考え、行動したのがかつての日本人です。

ーー

だから義経は静御前に「都へ帰りなさい」と言ったのだし、御前もその義経の心中が分かるからこそ、禁制を破るより「殺してください」と頼んでいるのです。

義経は泣いている静御前に、いつも自分が使っている鏡を差し出します。

「静よ、これを私だと思って使っておくれ」

「そして私の前で、もう一度、静の舞を見せておくれ」

それにこたえるように、静御前は別れの舞を舞います。

ーー

静御前が舞ったときの歌です。

 見るとても嬉しくもなし ます鏡 恋しき人の影を止めねば

(見ても嬉しくありません、鏡にはあなたの姿が映らないのですから)

ーー

義経一行は、雪の吉野山をあとに大峰山にはいっていきました。

その姿を、いつまでもいつまでも見送る静御前。

一行の姿が見えなくなった山道には、義経たちの足跡が、転々と、ずっと向こうのほうまで続いています。

文治元(1185)年十一月のことです。

ーー

この月の十七日、義経が大和国吉野山に隠れているとの噂を聞いた吉野山の僧兵たちが、義経一行の捜索のために山狩りを行いました。

夜十時頃、藤尾坂を下り蔵王堂にたどり着いた静御前を、僧兵が見つけます。

そして執行坊に連れて行き尋問しました。

荒ぶる僧兵たちを前にして、静御前はきりっと顔をあげ、説明します。

「私は九郎判官義経の妻です」

「私たちは、一緒にこの山に来ました」

「しかし衆徒蜂起の噂を聞いて、義経様御一行は、山伏の姿をして山を越えて行かれました」

「そのとき、数多くの金銀類を私に与え、雑夫たちを付けて京に送ろうとされました」

「しかし彼らは財宝を奪い取り、深い峰雪の中に、私を捨て置いて行ってしまったので、このように迷って来たのです」と。

ーー

翌日、吉野の僧兵たちは、雪を踏み分け山の捜索に向かいました。

一方、静御前は鎌倉へと護送されます。

鎌倉に護送された静御前は、厳しい取り調べを受けますが、義経の行き先は知りません。

知らないから答えようもありません。

やむなく頼朝は、彼女を京へ帰そうとしますが、このとき彼女が妊娠五カ月の身重であることを知ります。

このため出産の日まで、静御前を鎌倉にとどめ置くことにします。

ーー

年が明けて四月八日、鎌倉幕府で源頼朝臨席の花見が、鶴岡八幡宮で盛大に執り行われることになりました。

この日頼朝は、幽閉されていた静御前に、花見の席で舞を舞うことを命じます。

なにしろ静御前は当代随一の舞の名手なのですから。

ーー

八幡宮の廻廊に召し出された静御前は、舞うことを断ります。

「私は、もう二度と舞うまいと心に誓いました」

「いまさら病気のためと申し上げてお断りしたり、わが身の不遇をあれこれ言うことはできません」

「けれど義経様の妻として、この舞台に出るのは、恥辱です」

ーー

それを聞いた将軍の妻、北条政子は、たいへん残念に思います。

鎌倉幕府を守護する鶴岡八幡宮での大花見大会なのです。

「天下の舞の名手がたまたまこの地に来て、近々京に帰るのに、その芸を見れないのは残念なこと」

政子は頼朝に、再度、静御前を舞わせるようにと頼みます。

頼朝は、「舞は八幡大菩薩にお供えするものである」と静御前に話すよう命じます。

ーー

単に、花見の見せ物として舞うのと、鶴岡八幡宮に奉納するということでは、舞う意味がまったく違います。

神への奉納となれば、これは神事です。

静御前は神に捧げる舞を舞う白拍子です。

神事といわれれば断ることができません。

ーー

静御前は着替えを済ませ、舞台に出ます。

会場は鎌倉の御家人たちで埋め尽くされています。

静御前は一礼すると、扇子をとり舞いはじめます。

ーー

曲目は、白河法皇より奇跡の舞と絶賛された「しんむしょう」です。

歌舞の伴奏には、畠山重忠・工藤祐経・梶原景時など、鎌倉御家人を代表する武士たちが、笛や鼓・銅拍子をとりました。

満員の境内の中に桜が舞います。

その桜と、春のうららかな陽光のもとで、静御前が舞う。

ーー

素晴らしい声、そして素晴らしい舞です。

ただ、何かものたりない、静御前が心ここにあらずなのが見ていてわかるのです。

どこか心の入らない静御前の舞に、場内がざわめきはじめます。

「なんだ、当代随一とか言いながら、この程度か?」

「情けない。工藤祐経の鼓がよくないのか、それとも静御前が大したことないのか?」

ーー

会場は騒然となりました。

敵の中にたった1人いるので、普通なら、足が震えて立つことさえできないほどの舞台なのです。

その静御前は、二曲を舞い終わり、床に手をついて礼をしたまま、舞台でかたまってしまいました。

そのまま、じっと動きません。

ーー

「なんだ、どうしたんだ」

会場のざわめきが大きくなりました。

それでも静御前は動きません。

ーー

このとき静御前は何を思っていたのでしょう。

このとき静御前の脳裏には、義経の姿が、はっきりと浮かんでいたのかもしれません。

『義経記』はこのくだりで、次のように書いています。

「詮ずる所敵の前の舞ぞかし、思ふ事を歌はばやと思ひて」
(どうせ敵の前ではないか、いっそのこと、思うことを歌いたいと思って!)

ーー

そう心に決めた静御前は、ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと立ち上がりました。

なにが起こるのでしょうか。

それまでざわついていた鎌倉武士たちが、静まりかえっていきます。

ーー

しわぶきひとつ聞こえない静寂が訪れたとき、静御前が手にした扇を広げました。

そして歌いはじめます。

 しづやしづしづのをだまき 繰り返し 昔を今になすよしもがな

 吉野山峰の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき

(静、静、苧環の花のような静と呼んでくださった義経さま、幸せだったあのときに戻りたい、吉野のお山で、雪を踏み分けながら山の彼方に去って行かれた、あとに残された義経さまの足跡が、いまも恋しい)

ーー

歌いながら、舞う、舞いながら歌う、美しい、あまりにも美しい。

場内にいた坂東武者たちは、あまりのその舞の美しさに、呆然として見とれるばかり。

その姿は、まさに神がかって見えたとも伝えられています。

ーー

静御前は、苧環(おだまき)の花にたとえられました。

背景は、満開の桜の花、薄桃色一色に染まった背景の中で、白い小袖のひとかさねに唐綾をひきかさね、菱に十字模様を刺繍した水千(すいかん)、白い長い袴という装束で真紅の扇をもち舞うのです。

このようにして物語を立体的な総天然色の世界として読み手にイメージさせるのが日本の古典の特徴です。

ーー

静御前が舞い終えました。

扇子を閉じ、舞台の真ん中に座り、そして頭を垂れました。

会場は静まり返っています。

およそ芸能の達人と呼ばれる人には、瞬時にして聴衆の心をぎゅっと摑んでしまう凄味があります。

ーー

その静御前が、義経を思って舞ったのです。

敵陣で、いわば女一人で戦いを挑んだのです。

源氏の棟梁である源頼朝と、名だたる御家人たちの前で、静御前が敵方の大将であり、逃亡中の義経を慕う歌を歌い、舞ったのです。

会場には、またもうひとつの緊張がありました。

ーー

静寂を破ったのは頼朝でした。

「鶴岡八幡の神前で舞う以上、鎌倉を讃える歌を舞うべき、にもかかわらず、謀叛人である義経を恋する歌を歌うとは不届き至極である!」

このとき、日ごろは冷静すぎるくらいの頼朝が、珍しく怒りをあらわにしています。

このままでは静御前は、即刻死罪となるかもしれません。

けれど頼朝の妻の北条政子は、これを制した。

ーー

「頼朝様、私には彼女の気持ちがよく分かります」

「私も同じ立場であれば、静御前と同じ振る舞いをしたことでしょう」

「ならば」と頼朝は言います。

「敵将の子を生かしておけば、のちに自分の命取りになる、そのことは、自分が一番よく知っている、生まれてくる子が男なら殺せ」

ーー

このとき静御前は妊娠六カ月、お腹の子は、もちろん義経の子です。

母親となる身にとって、生まれて来る子を殺されることは、自分が殺されるよりつらいことです。

ーー

北条政子は言います。

「では、生まれてくる子が女子ならば、母子ともに生かしてくださいませ」

同じ女として、政子のせめてもの心遣いです。

頼朝は、これには、「ならばそのようにせよ」と言うしかありませんでした。

ーー

それから四カ月半後の七月二十九日、静御前は男の子を出産します。

その日、頼朝の命を受けた安達清常が、静御前のもとにやって来ました。

静御前は子を衣にまとい抱き、かたくなに引き渡すことを拒みます。

武者数名がかりで取り上げようとしたけれど、静御前は、断固として子を手放さない。

ーー

数刻のやり取りのあと、安達清常らはあきらめて引きあげます。

安心した静御前は疲れて寝入ってしまう。

初産を終えたばかりで、体力も限界だったでしょう。

ーー

けれど御前が寝入ったすきに、お寺の磯禅師(いそのぜんじ、磯禅尼)が赤子を取り上げ、使いに渡してしまいます。

子を受け取った安達清常らは、その日のうちに子を由比ヶ浜の海に浸けて、殺してしまう。

ーー

目覚めて、子がいないことに気づいた静御前の気持ちはいかばかりだったことでしょう。

「どうせ殺すなら、私を殺してほしかった」

御前の悲しみが伝わってきます。

ーー

産褥の期間を終えた静御前は、九月十六日、鎌倉から放逐されることになりました。

このとき、御前を憐れんだ北条政子は、たくさんの重宝を御前に渡し、京へと旅出するよう言ったといいます。

その後の静御前については、はっきりしたことは分かりません。

北海道乙部町で投身自殺したというもの、由比ヶ浜で入水したというもの。

義経を追って奥州へ向かうけれど、移動の無理がたたって死んだというもの等々、列挙すればきりがないほど、たくさんの物語が存在します。

ーー

なみいる鎌倉御家人たちの前で、彼らの目を釘付けにするほど美しい舞を舞うことが、義経の名誉を守ることになる。

逆に、「大した舞などできないじゃないか」となれば、それだけ義経は軽い存在でしかなくなる。

彼女は、自分が殺されることを覚悟のうえで、義経を慕う歌を歌い、舞ったのです。

ーー

この物語は、いまから千年も昔の物語です。

義経を慕う静御前の心、戦う勇気、子を思う親としての気持ち。

敵側でありながら、静御前に深く同情を寄せる北条政子。

義経の物語は、千年の時を超えて、いまも昔も日本人の心は変わらないものであることを教えてくれます。

ーー

ここで私(ねず)はこの物語からどんなことが推察できるかを書いてみたいと思います。

赤ん坊を取り上げた磯禅尼(いそのぜんじ)は、静御前の実の母です。

その母が、娘の子を殺そうとする安達清常に、赤ちゃんを引き渡してしまう。

このことが意味することは何か。

ーー

そもそも母が娘の子を殺すのにてを貸すでしょうか。

孫というのは、祖母にとっては、とても可愛いものです。

しかも高貴な血を引く孫です。

ーー

祖母にとって娘の子(つまり孫)ですが、それをおめおめと渡した?

そうであるとするならば、絶対に裏(うら)があるはずです。

物語に書かれていない背景がほのめかされている、それが日本の物語の特徴です。

何があったのでしょうか、答えは、赤ちゃんは死んでいない(殺されていない)、です。

ーー

まず、子を取りあげたのは磯禅尼ですが、これは静御前の実母です。

当代一の白拍子にまで育て上げた娘を、母親が可愛くないはずはありませんし、生まれてきた赤ん坊は、高貴な血を引く初孫です。

可愛くないはずもない。

敵対する相手にこの大切な孫を、みすみす殺されると分かっていて何故引き渡したのか。

ーー

一方、引き渡しを求めてきた鎌倉方の安達清常は、頼朝の側近である堂々たる鎌倉武士です。

武門の柱として、刃向かう者には容赦はしないけれど、生まれたての赤子を殺せるような鎌倉武士は、悪いけれど誰一人いるはずもない。

仮にそれが頼朝の命令であったとしても、安達の家名に泥を塗り、末代までの恥さらしとなります。

武士が名誉を重んずることは、江戸時代も鎌倉時代もかわらない。

ーー

つまり安達清常は、赤子を殺さなかったであろうということです。

その意味では、由比ヶ浜に浸けて殺したという表現もおかしなものです。

赤子を殺すには、首を締めても良いし、刀で刺すこともできるのです。

それをわざわざ由比ヶ浜というのは、これは「謎掛け」だと私(ねず)は考えているのです。

海に沈めて殺したとなれば、遺体は海に流されて見つかりません。

つまりこの話は、「殺したことにした」というだけのことであると読むことができるのです。

ーー

「殺した」というのは、「○○だったと日記には書いておこう」というのと同じ建前です。

ーー

もちろん静御前にそのように話すことなどできません。

話したところで静御前が生まれたばかりの赤ちゃんを手放すはずもない。

そこで安達清常は、静御前の母に、「ワシが責任をもって赤ん坊の面倒をみる、そして後日、必ず赤子を静御前に引き渡そう」と、自身の名誉にかけて誓い、赤ん坊を引き渡してもらったのであろうと思います。

噛んで含めて赤子を引き渡させ、海に沈めたことにして、乳母を雇って赤ん坊を育てた。

ーー

一方、静御前は、北条政子らから黄金をもらって鎌倉を解放されたとはいっても、自分が眠っている間に大事な赤ちゃんは拉致され、由比ヶ浜で殺されたという。

しかも引き渡したのは、自分の母だというわけです。

もうそうなれば人間不信でしょう。

義経には二度と会えない、大切な子は、いわば母によって殺されたとあっては、この先いったい誰を信じて生きて行けばよいのか。

産後の肥立ちの弱った体に、激しい悲しみが追い打ちをかけた、おそらくは、もはや生きる気力をまったく失って、生ける屍のような状態になっていたことでしょう。

ーー

そのような抜け殻になってしまった静御前を、鎌倉方がいつまでも養っておく理由はありません。

ですから財宝を与えて、母の磯禅尼とともに「京に帰りなさい」と鎌倉を放逐します。

表向きは、こうして赤ちゃんは由比ヶ浜で、海水に漬けられて殺され、遺体もそのまま海に流されたことになっています。

ーー

けれど、よくよく考えてみれば、

母とともに街道を歩いても、静御前にしてみれば自分を裏切った人と歩いているようなものです。

この世でもっとも憎む相手が自分の母親だなんて、考えただけでもつらい話です。

母を殺して自分も死ぬか、けれど親殺しはこの世で最も重い重罪です。

ーー

そんな乱れる心で街道をたどって、ようやく鎌倉を抜けたとき、街道に馬を降りた安達清常が立っています。

安達清常は、静御前母子に真顔で近づきます。

普通なら、静御前にとって安達清常は憎んでも憎み足りない敵(かたき)となるところです。

けれど我が子を失い、すでに心が死の淵に行ってしまっている静御前にとって、もはや目の前にいる安達清常は、ただの物体でしかありません。

ーー

その安達清常が言います。

「静殿、お待ちしておりました、母様の磯禅尼殿に、ほだされましてな」

「『武士が赤子を殺すのか!』と、それで委細を承知つかまり、由比ヶ浜で海に漬けたことにして、こうしてひそかにお育てしてまいりました」

ーー

見れば、安達清常の後ろに立っている女性が赤子を抱いています。
(生きていれば私の子も、この子くらいだったかもしれない)

静御前には、まだ事態が飲み込めません。

安達清常は、女性が抱いている赤子を静御前に抱かせます。

ーー

「ほら、若様ですよ、大切にお育てしてまいりました」

「ささ、お顔をよくご覧ください、若様、母様ですよ」

ーー

腕に抱いた赤子の重み、母というのは不思議なもので、どんなにたくさんの赤ちゃんがいても、そのなかからひと目で我が子を見つけます。

このときの静御前もそうでした。

そのとき、静御前の胸の中で、すべてがつながりました。

母は知っていながら、心を殺してまでしてそのことを自分に黙っていた。

ーー

娘が傷つき、心が死の淵をさまよう状況にまで至っても、それでも自分を信じていてくれた。

鬼と思っていた安達清常も、こうしてみれば、真っ直ぐな武士です。

そしてこれまで乳母をしてくれていた女性の笑顔、静御前の目からは、いつしか涙がこぼれ落ちます。

ーー

私(ねず)は、これが実際にあった出来事であろうと思っています。

頼朝にしても人の子、弟の子を殺したとあれば、死ぬまで後悔します。

けれど政治の事情で、そのように決断しなければならなかったし、将軍の決断は、そのまま実行に移されなければなりません。

ーー

しかしそこが政治なのです。

静御前の赤子を取りあげに誰を行かせるか。

ちゃんと事情を飲み込んで対処できて、しかも口にチャックを締めて誰にも言わずにいられる男。

だから安達清常を静御前のもとに向かわせたのです。

ーー

安達清常というのは、一般の庶民の出で、京の都で元暦年間から頼朝に仕えた、武士階級の出ではない頼朝・子飼いの側近(近習)です。

しかし同時に安達清常は、頼朝の気持ちを察して行動できる信頼できる優秀な男でもありました。

そしてこの安達清常によって、土地持ちの御家人でなくても、才覚と努力で武士となる道が開かれています。

そしてその要件は、ただ上司の言うことだけを聞く男ではなく、近習として上司の考えを察して責任を持って行動できる男とされていったのです。

ーー

ただ赤子を殺すだけなら、小物を派遣すれば足りるのです。

けれども、頼朝は、近習の信頼できる安達清常を派遣した。

「安達清常なら、この問題をきちんと処理してくれる」という期待が頼朝にあったからです。

ここが他所の国と日本の武士文化の異なる大事なところです。

ーー

命令されたからと言って、何の感情もなく、ただ人を殺せるような痴れ者は、鎌倉武士の中にはひとりもいない。

そう断言できるだけの武士文化を、頼朝は構築したのです。

だからこそ、江戸時代に至っても、武士の模範は、常に鎌倉武士に求められたのです。

ーー

「察する」ということを大切にした日本の文化においては、物語であっても時代への配慮を欠かしません。

ですから物語そのものは「○○と日記に書いておこう」と同じで、いわゆる建前で記述されます。

しかしそのようなものは、どこかおかしなところがあるもので、前後の経緯や事態の流れから、容易に実際にあった出来事を察することができるように書かれているものです。

ーー

それを洞察し、見抜くことは、人が生きていく上において、とても大切なことだと思っています。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>言外の意を察するのが日本の文化
この静御前のお話は、シェークスピアの三大悲劇にも、けっして負けない要素をたくさん持って居ると思います。 なのに、この話が、今は、決して一般的では無いのは、どうした事でしょうか。

この話には、世の中が大きく変わる中で翻弄された兄弟愛、夫婦愛、親子愛の破綻が描かれて居ますが、其処に、静御前という、当代随一の舞の名手にして美しい、悲劇のヒロインがいて、
その要件を備えて居る様でㇲが、是は決して捜索では無食うべてウィ自他🈮である処に、日本の文明の深さがあります。

雪の大峰山での悲しい別れでの舞を今生の限りにしようと、思って居たに違いない静さんの胸中は、義経一行の旅が死出の旅で有る事を感じていたであろうと、察する事が出来ます。

そして、大峰山で僧兵に捕まり、鎌倉に送られて、尋問を受け、何も知らない事が判ると、後は、鎌倉に居る実母に下げ渡されるばかりであったであろうが、折しも、桜が満開の鶴岡八幡宮で、当代一の舞手徒の呼び声高い静御前がいるのなら、舞を所望されるの無理からぬ話です。

然し、本来であれば、弟の嫁で有る自分が、しかも身重の身で、過酷な仕打ちを受けて居るのには、理解し難い憤りをあったでしょうが、自分は、固より、神のみ前に舞を捧げる役目の白拍子ですから、其処を衝かれると已む無く舞を奉納します。

然し、観衆の反応に、彼女の舞手としての矜持に火がついたのでしょう、ならば、無礼討ちを覚悟の上で、更に、一刺し魂魄の舞をみせ、その意味を即興の和歌にして、義経への思いを謳って見せたのですから、これは、明らかに戦いです。

追い詰められた身重の女人が、最後の抵抗として、自分の思いの丈を舞と歌で表現したのです。

その舞には、鬼気迫る緊張感があったに違い無く、その歌も、今や、天下の大罪人である義経を恋い慕うものダカラ、観衆がその静の思いに気付かない筈が無いが、この宴を主催した頼朝は、大恥をかかされたわけです、激怒して亡無ければ、逆に可笑しいでしょう。

この辺りに、昔の日本人の「殊を上手く治める知恵」が働いて居ると思いますね、何故なら、この時の観衆は、誰もが、舞手の静御前の美しさに魅了され、頼朝の手前、拍手喝采こそ出来なかったが感動していたのは、頼朝も、御お台所も、分かったに違いありません。

然し、表向きの処分は、厳正で無くては、将軍の、否、幕府の威光に関わります、だから腹心の安達清常に、処分を託したのでしょう。

そういう、筋書きを頼朝も御台所も承知して居たから、静に相当の財物を与えて、京で母親と暮らして行けるように取り計らったのでしょう。そして、この話が、後世に美談として語り継がれる事が無かったのも、如何にも秩序を重んじる日本人的で有る様に感じますね。

ダカラ、頼朝の創った鎌倉幕府は、実質源氏の支配は3代で終わり、後は北条氏が執権として幕府を動かして行くのですが、頼朝の悪口は不思議と聞こえてきません。

それ故に、義経は実は衣川館を抜け出して北海道に渡り、序に、大陸に渡ってチンギス・ハーンになったとか、時代を無視したトンデモ話迄あるわけですが、実際に秋田や青森では、義経伝説が残っていますね

それは、世間の日本人が、頼朝は「情を表には、決して出さないが、それは、幼少時から源氏の御曹司として、命を狙われ続けて来た苦労人だからで、実は、思いやりのある人間だった」と、考えて居るカラでしょう。

その実例として、薩摩の島津氏の始祖の島津忠則は、頼朝が最初に結婚する心算だった女性との間になした子供で、幕府開幕の時に、今の越前の守護に任じて居ますね、頼朝の死後、北条氏に煙たがられて、九州の果ての大隅守に国替えさせられました。

この地には、神武帝の昔から、地元の吾平族や対岸の薩摩の豊族といった隼人族や、祁答院という曾於族が「まつろわぬ」蛮族として、蟠踞して居たので、島津氏は一から、自分の武力で支配地域を広げるしか無かったのです。

けれども、それが却って、鎌倉から着き従ってきた坂東武者の家来たちの結束を高めた結果、77万石の大国二なって、維新までその命脈を保ちました。

因みに、私の父方の祖母の家は、この大隅島津家の奥祐筆(殿様の側近で書類を代筆する役目)だったようです。

この静御前のお話は、おそらく、日本人には好まれえる話でしょう、それは、逆境の中でも、己を曲げず、自分の一分を貫く生き方こそ、自分が生きたと云える生き方と思うし、子孫の明日に繋がる生き方で有る事を、皆、感じて居るカラでしょう。

日本人が目指しているのは、常に、拠り良い明日なのです

縦椅子様

 本当に素晴らしいブログ有難うございます。
 女人禁制の大峰山が立ちふさがり、義経と静御前は今生の別れをする。その別れの光景の辛さは、「舞は八幡大菩薩に奉納する」と頼朝に請われて、面前で「しづやしづしづのをだまき…人の跡ぞ恋しき」と義経への思いを舞ったことが、頼朝の怒りをかい、生まれた愛の結晶の赤子まで殺されるという・・・千年の長きに亘り語り継がれている悲話が、「本当の悲劇の真相はこうでなかったか」という願望を、「ねず」さまは心をこめてブログにしたためてくださっており、深い情愛のお話に涙せずにはおれません。ありがとうございます。こころから感謝致しております。感謝!!

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