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2020年2月21日 (金)

これが皇族の無私の心得から生まれた生き方です

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

小名木善行(おなぎぜんこう:ねず) 著『ねずさんの奇跡の国日本がわかる万葉集』から

中大兄皇子が、唐に攻め込まれない日本になるため、かなり強引な改革を進めていました。

改革は、もちろん安全保障のために行われるのですが、改革によって利益を得る者もいれば、いままでの立場を失う者も出ます。

そして失う側の人たちは、中大兄皇子(なかのおおえのおおじ、天智天皇)に対する対抗馬となりうるお血筋である有間皇子(ありまのみこ)を次期天皇に担(かつ)ごうとします。

ーー

反中大兄皇子派の人たちは、謀反が成功すれば、自分たちの時代を築くことができる。

けれども内外の情勢は、そのような内紛をしていれるような時期ではない。

有間皇子は、そう考え自分が担(かつ)がれないように、気がふれた様子を装(よそお)います。

ーー

一方、中大兄皇子は645年の大化の改新(乙巳(おっし)の変)で蘇我氏の惣領(そうりょう)の入鹿(いるか)を殺す。

蘇我氏系列の豪族の蘇我赤兄(そがのあかえ)は、なんとかしてこの混乱を利用して、一族の地位向上を図ろうとします。

そして天皇および朝廷の高官たちが牟婁温泉(むろおんせん)に湯治(とうじ)に行幸されている間に有間皇子に近づき、謀反を持ち掛けます。

「自分は有間皇子の味方である」

「天皇と中大兄皇子を行幸先で急襲しよう」

ーーと。

有馬皇子は気がふれた風を装(よそお)っています。

ですから、態度は曖昧、つまり賛成反対どちらの意思表明ともとれるわけです。

赤兄は有馬皇子と面談後すぐに中大兄皇子のもとに行き、「有間皇子謀反(むほん)」と密告します。

これによって有馬皇子は即刻逮捕され、行幸先の紀伊(きい)の牟婁温泉に取り調べのため護送される。

ーー

その護送途中の和歌山県日高郡南部町の海岸で食事休憩となったときに有間皇子が詠んだ歌です。

【有間皇子自傷結松枝歌二首(有間皇子がご自分で悲しまれながら松の枝を結んだ歌二首)】

いはしろの   磐白乃
はままつのえを 浜松之枝乎
ひきむすひ   引結
まさきくあれは 真幸有者
またかへりみむ 亦還見武

護送される途中、和歌山県日高郡南部町の海岸沿いの岩代というところで、浜にあった松の木の枝を結びました。思いが通じるというおまじないです。運が幸いして訊問(じんもん)を見事にかわすことができたなら、きっとこの松の木のもとにまた来ようと思います。

けにあれは   家有者
けにもるいひを 笥尓盛飯乎
くさまくら   草枕
たびにしあらは 旅尓之有者
しひのはにもる 椎之葉尓盛

家にいたなら食器に盛る飯を、草を枕に寝る旅の途中なので椎の葉に盛りつけています。まだまだ評定が定まったわけではないのだから、四角い法定で述べる言い分を、旅の途中のいま、思いのままに考えてみよう。

ーー

これらの歌は、一般に「悲嘆に暮れる有間皇子が、これから処刑される哀かなしみを詠(よ)んだ」とされています。

しかし万葉集の編者はこの歌を「挽歌」に分類しています。

「挽歌」は誰かの死を悼いたむ歌ですから、悪人として処刑されたはずの有間皇子に、万葉集の編者は同情を寄せていることになります。

なぜなのでしょうか。

ーー

はじめの歌は「おまじないまでして必ずこの松の木のもとに帰ってこよう」という歌です。

次の歌は「自分なりに充分に事実関係の言い分を述べて最後まで前向きに戦おうという決意を込めた歌」といえます。

ところが日本書紀によれば、有間皇子は中大兄皇子の「何故謀反《なにゆえ謀反を起こしたのか》」という質問に、たったひとこと、答えただけでした。

「天与赤兄知、吾全不解(天と蘇我赤兄が知っている、私は全容を知らない)」と

そしてそれ以外のことを一切語らずに、従容として処刑されたのでした。

ーー

有間皇子は、枝を結んだ松の木のもとに戻ることはなかった。

歌では「また戻ってくるよ」「ちゃんと答弁するよ」と詠んでいたのにどうして、なにも語らずに処刑を受けられたのでしょうか。

ーー

この時代は唐が新羅と組んで、日本の属国であった百済を狙っていた時代です。

このあと663年には、結局日本・百済軍は白村江で唐・新羅軍と戦い敗れ、百済は唐に奪われてしまうのです。

唐に抗するためには、なにが何でもわが国を統一国家にしていかなければならない。

防衛網も整備しなければならない。

その一方で時代は、701年に大宝律令ができるまで、異論反論が続出するという難しい政局の時代でした。

ーー

改革に反対する人たちは、皇位継承権のある有間皇子を担ごうとする。

けれど国論を分裂させることは、結果として国のためになりません。

ですから有間皇子は暗愚(あんぐ)のフリまでして、自分が皇位継承者に担ぎ出されて政争の具にされないようにしていました。

ーー

しかしそれでも、反対派は有間皇子を政治利用しようとする。

利用された以上、責任は上に立つ者、つまり有間皇子にあります。

蘇我赤兄のせいにはできないのです。

ーー

ですから有間皇子は、利用された不徳を恥じて、一切の釈明をしないまま、処刑を受け入れられました。

そもそも臣下とは、出世のためにそういう裏切りや欺罔(ぎもう)、欺瞞(ぎまん)をするものです。

人の上に立つ者はいちいちそれを恨(うら)んではいけない。

それが人の上に立つ者の在り方であり、皇族の在り方であり、生まれたときから人の上に立つように定められた人の無私(むし)の心得です。

ーー

真実を述べることは、今度は蘇我赤兄以下、多くの人々を罪に落とすことになります。

唐の脅威に抗するための大切な一族とその兵力と、自分ひとつの命と、どちらを採るべきか。

つまり公と私と、どちらを優先すべきかという問いなのです。

ーー

誰だって生きていたいし、理不尽な濡れ衣なら、なおさら生きることを選択したい。

けれど、国の利益を考えたときに自分がどうあるべきかを考えるときの結論は明らかです。

生きたいという渇望と、無私の心で冤罪を受け入れるという葛藤のなかで、おそらく有間皇子は、ひとつの命として「生きたい」という渇望を、この二首の歌に託たくしたのです。

そして託することで、心に踏ん切りをつけた有間皇子は、裁さばきの場では、言い訳をしないで、ただ「天と赤兄が知っている」とだけ述べて刑死の道を選ばれた。

それは有間皇子の、どこまでも国の平穏を想う心のなせる選択です。

これが皇族の無私の心得から生まれた生き方です。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>蘇我氏の出自考
私は昔から蘇我氏の出自の出自について、大きな疑問を持って居ました、

風説では、渡来人との話ですが、では何故、渡来して来てイキナリ、欽明帝のおそば近くに侍り、馬子が聖徳太子の実兄の様な地位を築けたのか、さっぱりわかりません知る必要があると思います。

それ以前に、何處から渡来して来ている、何故に重く用いられていたのかを、明らかにする必要があるでしょう。

然し、この疑問は、6世紀に蘇我氏が全盛を極めて居た時にも、当然あった訳で、それが、今は隠蔽されていると言う事は、大きな日本史の謎の一つに挙げられましょう。

ですから、以下に記述するのは、全て私の妄想で、謬説の人体だと、御笑覧いただける以上の話では無い事を予め断って置きます。

先ずは、彼らの出自を推理する前に、当時迄の日本と半島に棲み着いた蔓延諸民族との関係から、半島最古の国は、紀元前15~10世紀にシナで北狄族が、1万6千年に及ぶ長江文明を建てた東夷族が 黄河流域の長安大地に造った貿易拠点を略奪して、建てた殷王朝でした。

然し、遊牧民が是を乗っ取り、故地を追われた殷王朝の遺臣が、半島に逃れ山間部に、北狄族として、暮らして居た扶余族や濊族を武力で従わせたのが、百濟の興りだといわれています。

この当時が、紀元前9~8世紀出、シナでは、早くも周王朝が不安定となり、各地で土豪や匪賊と居った、武装集団が小競り合いを始めて居手、後世、春秋時代と呼ばれる時代でした。

近年の社会の特徴として、近年、大陸島の反対側に居る筈の、コーカソイド種の青人と思しき、遺骨が出て居る事から、殷を亡ぼした習王朝は、実は、大遠征して来たアーリア人の遊牧民だったのでは無いかと、私は思います。

漢土の戦乱は、殷末か始まった様に思えますが、実は、それ以前の紀元前25~20世紀には、不応んな動きが既に有り、農耕民族の長江人を飢えた遊牧民が襲って糊口を凌ぐと言うやり方は、結構長く続いてい他のではないか、その影響が、長江族にも現れて、呉や越と言った、目先の利益を争う様な国王が続き、国家は精ちゅを止めて、文化も廃れる一方だった。

其処で起こった黄帝率いる黄河族との決選である「択鹿の戦い」で、首魁蚩尤を失った、長江族は、四分五裂して、有るモノは、海路、日本列島や朝鮮半島に、或いは、長江を遡って、故地の現在の雲南地方ににげこみなした。

新羅を創ったのは、この残党一派で、最初は百濟の王が同情して、半島の東端の山岳地帯に匿ったのです。 処が、流石、シナ文明の起源を創った民族だけあって、山の形や流れ出る物質を観察する事で、その山に眠って居る鉱物資源を掘りあてる事が出来た。

早速、山を開削して見事に鉄を掘りあてて、鉄塊を作る迄に至ったが、肝心の鉄を需要者の処まで届けて金に換えるものが居無い。

然し、当時の半島南岸の島嶼部には、交易の民でもある海人族がいた、訊けば、長江遺民の越も、関係していると言う、其処で、海人族に亘りを着け、海人族を介した、大陸との鉄交易が開始したが、面白くないの葉、是を聞いた百濟だろう、なにせ、長江移民が鉄山を開削した場師、慶州は、百濟がタダで与えたた、土地である。

爾来この2国間の消えない「しこり」として、百濟が滅ぶまで続きましたね。

さて、半島の鉄資源は、紀元前5世紀前後~紀元4~5世紀頃まで、約千年間に亘って掘り続けた為に、鉄資源もすっかり枯れ果ててしまいましたが、今度は、日本列島の山岳部でも、同じ事が起り始め、半島から鉱山技術者や労働者が、中国山地の出雲や吉備の国に、招聘されて、次第に豪族化して行きました、その中の一つが蘇我氏だったのではないかと、私は疑って居るのです。

勿論、この話には別の見方もあって、それは、仲介をする海人族側の話です。

宮内庁の資料に拠れば、「倭国大乱」という、日本史のもう一つの謎が、一体、何時、何処で、何が原因で起こったのか?と言う事も、この鉄貿易の仲介利権が絡んでいるのではないかと、私は睨んでいます。

では、倭国大乱について、宮内庁波動見て居るのかと言えば、紀元前5世紀頃、大和王朝出自の九州、北・西部に棲み付いていた、海人族の熊曾族賀、鉄の貿易利権の事で、支配者の大和王朝の重臣久米氏の支配に反乱を起こした。

知らせを受けた大和朝廷は、親交の在った吉備や安芸の軍勢に頼んだが、中々収まらないので、2代目の帝が朝廷を、モゥ一人の重臣、大伴氏に委ねて、九州遠征を行った。

然し、上手く行かない為に、九州に王権を移す事にした、これが「欠史8代」で、紀元前一世紀末に、大和に帰って来るまでの、514年間九州に王朝が移って居らのです。

是が現在の太宰府ですね。 それほど鉄貿易の利権は、略奪に拠って王権を得たのでは無い大和朝廷に取って、大きい収入源であったと言う事でしょう。

この状況はその後も、続いて、仲哀帝と神功皇后の三韓征伐の時も、主敵は明らかに熊曾族だった、この時歯、仲哀帝が到着早々に、薨去されらが、同伴の武内宿祢と新宮皇后に奮戦で、三韓の方は鎮撫したが、熊曽族の方は収まらず、皇后が戦場で生み落とした、応神帝が、成人して40歳になるまで大和には、帰れていませんね。

この朝廷の存在を脅かす原因となったのは、勿論、九州の豪族共が「まつろわぬ」ものどもだったからですg明らかに、それ以上に、大和朝廷に財政基盤が不確かなものだったからで、その点を早急に改革する必要が有りましたね。

2ぞれがこの度、世界遺産となった、「百舌鳥古墳群」で、応神帝の息子の仁徳帝の御代二、吉備や梁ナノ抜民がかいだgた、Kん労働者として移住して来て、,sekaiksanntonatta当時は潟だった、現在の大阪市から南に続く和泉~河pにあった大湿地帯を大開墾事業で、穀倉地帯にする事でした。

この計画が見事に完成して、大和朝廷は国力を増し、以後
シナの劉宋から「倭の五王」と呼ばれる、きゅ国として、怖れられています。

こうした、日本の正史で語られて居無い歴史こそ、我々は、もっと掘り下げて、先人の自分の命に換えても、日本の平穏を願う心をおも地であった、有間皇子の様な人こそ真の貴人だと思います。

蘇我氏は結局、最終的には、皇統を絶やして、大和朝廷を乗っ取る心算があったと、思いますが、其れを阻止したのが、天智帝・天武帝であったと私は思って居ます。

中大兄皇子は長い間私は長男だと思っていたのですが次男何ですね。団子三兄弟の様に誰が天皇になってもおかしくない。

小説細雪の中でなかんちゃんと真ん中のお姉さんを呼んでいたように、中の皇子だから中大兄皇子。長男は古人大兄皇子、この人も中大兄皇子は殺害しています。
さて次の目障りは有間皇子。どうやって取り除こうか?策を練って居たときに良いタイミングで垂れ込まれたらそれが真実か真実でなかろうがどちらでも良いこと。
当時は血で血を洗う壮絶な権力争いだったのでしょうか?

血は争えず天武天皇の后(天智天皇の娘でもある)後の持統天皇は息子の草壁を天皇にするべく姉(同母でもある大田皇女)の息子の大津皇子を矢張難癖を付けて死を宣告します。って死ねよ!ってこと。あら怖い。
大来皇女と大津皇子は二人兄弟で小さな頃に母親(大田皇女)と死に別れ、天智天皇の第一の后で殺害された古人大兄皇子の長女の倭媛に育てられます。

本人にはそんな大それた考えもないけど、矢張見た目も良く頭も良く人望のある人は目立ちます。
持統天皇にとり邪魔以外の何者でもなかったのでしょうね。
でもそんな血で血を争う皇統も藤原不比等が考えた娘を宮中に入れて男子を生ませ自分が後見人となって力を振るう。良く考えたら藤原不比等が男系男子の産みの親?かもしれませんね。

そう考えるとY遺伝子が今まで続き、今上陛下も秋篠宮様も同じ染色体から作られているのか?(設計図は半分一緒)と思うと中々大変な物があります。

因みに有間皇子の歌は古典で習わず、何故か中学校日本史の時間に習いました。懐かしい思いでです。

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