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2020年2月 7日 (金)

ゼロになるからだが 耳をすませる

ーー以下過去ログ18/11/29より一部変更して再掲

宮崎駿監督作品に映画「千と千尋の神隠し」がある。

この映画は多くの人に支持され興業成績の記録を作った。

そして主題歌の一つとなった「いつも何度でも」が多くの人に愛唱された。

ところがその歌詞が全く意味不明なのである。

ーー「いつも何度でも」歌詞

呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心踊る 夢を見たい

悲しみは 数えきれないけれど
その向こうできっと あなたに会える

繰り返すあやまちの そのたびひとは
ただ青い空の 青さを知る  

果てしなく道は続いて見えるけれど 
この両手は光を抱ける

さよならのときの 静かな胸
ゼロになるからだが 耳をすませる

生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんなおなじ

ーー

呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも何度でも 夢を描こう

悲しみの数を 言い尽くすより
同じくちびるで そっとうたおう

閉じていく思い出の そのなかにいつも
忘れたくないささやきを聞く 
こなごなに砕かれた鏡の上にも
新しい景色が 映される

はじまりの朝 静かな窓
ゼロになるからだ 充たされてゆけ 
海の彼方には もう探さない

輝くものは いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから

ーー歌詞ここまで

この主題歌は、木村弓女史が作った曲に合わせて作られたのだという。

つまりちあきなおみが歌う「喝采」と同じで、詩より曲の方が先に作られたことになる。

その事情をこの歌詞を作った作詞家の覚和歌子女史が以下のように述べている。

ーー以下抜粋編集

歌い手の木村弓さんとは8年来の仲です。

彼女は20数年前に脊椎を痛めてその治療に必死になって生きてきた人なんです。

そんな理由からほとんど遊ぶための外出もしない。

たまたま「もののけ姫」を見に行ったらひどく感動して、その感動のままに宮崎駿監督に自分の自主制作CDやテープを添えて手紙を書いた。

そしたら一週間後にご本人からお返事をいただいた。

ーー

監督のもとには多いときで一日に大きな段ボール3箱分の手紙が来るのだそうです。

それに目を通すこと、まして返事を書くことの確率の低さは天文学的だと後から聞き、ああよほどのご縁だったのだと思いました。

ーー

返事には、「いま進行している企画の音楽をお願いするかもしれないが、期待しないで待っててください」とあった。

木村さんはその手紙を私に見せてくれながら言ったんです。

「今ずっと頭の中で鳴っていて消えない曲があるの、もしかしたらこれのための曲かもしれない」と。

その作詞を木村さんから依頼されてテープを預かったんです。

ーー

私は3ヶ月間、テープを放置したまま曲を聞きませんでした。

なぜだかすぐに詩をつけるのがもったいない感じがしたんです。

さすがに催促を受けるようになったので、ようやく机に向かって書き始めたらそれこそ12.3分でできてしまった。

ちょっと普通じゃない感じでした。

ーー

木村さんはとても喜んで歌ってくれて、それをテープに採り宮崎監督に送ったのです。

ーー

3ヶ月後、監督から「企画自体が潰れました、ごめんなさい」という返事をいただきました。

私はまあ、そんなもんだろうと思い、木村さんとは、いい曲が出来ただけでよかったじゃん、と言い合いました。

木村さんはその歌をとても大切になさって、ライブで何度も歌われました。

ーー

もう曲がお蔵入りになった映画『煙突描きのリン』の主題歌のために作られたなんてことさえ忘れかけた頃。

作ってからほぼ2年半後、ジブリから電話があり「あの曲を宮崎監督が忘れられないので、『千と千尋の神隠し』で使わせて欲しい」と申し出を受けたんです。

これ、ちょっとないような、珍しい話でしょう、運命的というか(笑)。

ーー

さよならのときの静かな胸
ゼロになるからだが耳をすませる
生きている不思議死んでいく不思議
花も風も街もみんなおなじ

この4行を書いているとき、何故だか泣けて仕方なかったんです。

自分でも変だなと思いました。

自分で書いているのに、自分が書いていない感じ。

そういう状態で書いた詩はあとから何度読んでも、たった今初めて出会ったみたいに新鮮なんですよね。

ーー抜粋ここまで

しかし何度考えても覚女史が感動した内容がわからない。

この歌で著名人となってから、覚和歌子女史は、「ゼロになるからだ」という題名の本を書いている。

しかし、何が言いたいのかわからないのだ。

ーー

生きている不思議 
死んでいく不思議
花も風も街も
みんなおなじ

さよならのときの
静かな胸

ゼロになるからだ
充たされてゆけ

こなごなに砕かれた
鏡の上にも 新しい景色が 映される

はじまりの朝 静かな窓

ゼロになるからだが 耳をすませる

ーー

覚和歌子女史の上記のような何か深い意味ありげな言葉の羅列を省いてみると小生的にすっきりとしたのでお目にかける。

以下抜粋編集・縦椅子

ーー

いつも心踊る
夢を見るたび人は
あやまちを繰り返す 

悲しみは
数えきれず
ただ青い空の
青さを知る 

けれどこの両手は 光を抱ける 

呼んでいる 胸のどこか奥で

道は果てしなく続いて見える
その向こうできっと
あなたに会える

ーー

悲しみの数を言い尽くすより
同じくちびるでそっとうたおう

閉じていく思い出の
そのなかにいつも
忘れたくない
ささやきを聞く

いつも何度でも 夢を描こう 

呼んでいる 胸のどこか奥で 

海の彼方には もう探さない

輝くものはいつもここに
わたしのなかに見つけられたから

ーー編集終わり

しかし多くの読者にとっては、これもまた全くの意味不明であろう。

「輝くものはいつもここに わたしのなかに」は、禅でいうところの「直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)」つまり辞書的な意味として、次のようなことを考えている。

真理は自己の心の外にあるのではなく,自己の心のなかにこそ発見される,真理であるその自己の本性をみるならば,仏(覚者、悟れるもの)となることができる,と。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>直指人心見性成仏
魂の世界の事は、阿頼耶識があると言っても、それは、他の生きモノがそうで有る様に、生き物としての命題である「種の保存」の為の知見でしかない。

思うに、肉体が生き代わり、死に変わりする毎に、新たな肉体には、記憶装置である脳も更新されリセットされるので、更新された肉体には新らな経験が訪れ、新たな知見が積み重なって行く、是が命の循環の姿なのだろう。

然るに、神様が地球上の生物に求めているものが「ただ生き延びる以上の何か」であれば、地球生物の食物連鎖の頂点に立って居る人類は、大きな別の課題を抱えて居ると、気付かねばならない

処で、この題のお話を読むのは、確かに2回目ですが、前の回の時は、生の限界ギリギリで生きて居る人の中に流れる旋律の出自が何であるかを類推する事に紙幅を費やした様な気がします。

尤も、詩の価値とは、固より、感性中心で有るべきだと理解して居るので、詩の意味する処では無く、心に染み入るかどうかだと思って居たので、考察は敢えてしなかった様に覚えています。

其処を読み説いて、直指人心見性成仏に辿り着くとは、その仏教に対する縦椅子様の知見の広さと深さに感嘆して居ます、是で一昨日に続いて、また一つ法門を開いて頂いた様に思います、有難うございます。

聴くに、釈迦牟尼が、菩提樹の下で説話を始めると、沢山の鹿が集まって来て、話に聞き入り、小鳥や他の獣たちも、説話を聴きに集まったと聞きますが、それは、釈迦牟尼が説いていたのは、人間界だけの事では無く、自然界で生命の循環の中に居る生きモノすべてに共通する話だったからでしょう。

そして、釈迦牟尼は、自然に起こっている現象の意味とその原因を自然の法則に従って説いているから、日々生存競争の中に居る獣たちも素直に聴けたのでしょう。

そうして考えれば、獣達の方が心の感性が優れて居る様に思えますが、実は、さに非ずで、勿論、人間の心にも、そういう感受性は有りますが、普段は、言語で表現できるので、無意識の裡にスイッチを切って居るのでしょう。

然し、生存限界ギリギリで生きて居る人達には、その能力が必要な事態が頻繁に起っていると、私は思います。

「求める真理は、決して、自分の外の世界に有るのでは無い、自分の裡に有るのだ」と言う、釈迦牟尼の言葉で「求める真理」とは、一体何でしょうか?

生物に共通して居て、皆、宿命として背負っている問題とは何かと言えば、「一体、我々は何の為に生まれて来て、生き延びる為に、心ならずも他の生きモノの生命を奪っている、つまり、生は罪であり、苦でしかない、何故、こんな苦を味合わねばならないのか?」と言う事、つまり、生命の循環を続ける理由ですね。

然し、こうした疑問を持つモノは。既に、自分の生への執着心に疑問を持ち始めたと言う事だろう、肉体は、生き死にを繰り返すが、魂は不滅だと言う。

ならば、生老病死の四苦は、何の為に経験しなくてはならないのかと、考えて行けば、それは、魂つまり、霊性の向上にあると言えるだろう。

この宇宙を創られた神様は、この地球上によっれ、生物の霊性を高める事に拠って、互いに援け合い、困難を乗り越えて行く、相互信頼に拠る団結力と集合知の力で、地上天国の顕現を望まれていらっしゃるのでは、無いだろうか?

その為には、世界に40/77億人もいる「神を見失った人々」の「自発的気付き」を促すしかないが、現在でも相当数の人々が現状の宗教の状態に、疑問を持って居ると私は確信して居ます。

然るに、彼らが行動を起こすには、先ず、自然こそが、延いてはこの地球こそが、惑星と呼ばれる宇宙生命体の一つであり、地球上に生きとし、生けるもの全てが、地球を構成する地球の欠片であって。 太古の昔に、宇宙をお創りになられた神様の分け御霊を戴いて居るので、魂レベルでは生物は全て平等で有る事を、学ばねばなりません

お題に戻りますと、詩の冒頭にある、呼んで居るのは、一体誰なのかと言えば「何時かの自分であり、前世の縁者の誰かかもしれない。

然し、肉体を失えば個人の区別は、次第に曖昧になるのは当然で、其れでも、同じ考え方や価値観のものは、その裡に混ざり合って同一化するが、そうでなくとも、新しい命に入る時には別々でも、共鳴現象を起こすので、出遭って直ぐに仲良くなれるし、その逆もあるのです。

でも、この場合は、魂の何処かに息づいている、「いとしい貴方」なのでしょうね。 他の魂を愛おしむ魂に刻まれた強い記憶が、その正体かと、思います。 是も自然な事ですね。

然し、東洋の宗教観の殆どは、自然由来ですが、西洋のものは、地球外生物で、自分に従わない人間を遠慮呵責無く罰する神様ですから、悪魔と紙一重の面がありますので、実は、西洋の神は人類を亡ぼしてもちっとも困らないのです。

地球が滅んだら、別の星を探しに行くダケの事です、つまり、地球は、地球外生物の彼らに取って植民地と同じですね、だから、信じない方が良いと思いすね

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