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2020年2月 9日 (日)

自国に歴史(記録)がないからでたらめを言ってそれが通っても日本には記録があるので馬鹿にされるだけだ

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

秀吉の「唐入り(朝鮮出兵)」が行われたのは400年以上も昔のことです。

それを非難する人たちがいます。

日本人は元寇で多大な損害を被りましたがそのことを理由に、いまのモンゴル人を悪く言う人はいません。

日本人とは違うのでしょうが、その「しつこさ」にはあきれます。

ーー

日本に残されている記録からすると、秀吉軍に、半島の多くの人達は、むしろ協力したのです。

抵抗したのは、半島の民衆を食い物にしていた朝鮮軍と明軍(朝鮮軍を支援)でした。

記録に無い嘘を主張しても、日本に残されている記録から反論され馬鹿にされるだけです。

ーー

1948年に興った韓国でもっとも嫌われている日本人のうちの一人が豊臣秀吉なのだそうです。

その理由は、秀吉が文禄・慶長の役で朝鮮半島に攻め込んだからとか。

このとき対馬海峡で秀吉軍と戦った李舜臣は、韓国の英雄になっています。

ーー

韓国人の言い分は以下です。

「秀吉軍は李舜臣によって海上を封鎖され、半島への補給路を断たれ、撤退を余儀なくされた」と。

韓国人がそう「思い込みたい」気持ちも分からないでもありません。

しかし、韓国側には記録が残されていないので、彼らの妄想ということになります。

ーー

日本の記録によると李舜臣は、朝鮮軍の海将として文禄元(一五九二)年八月二十九日に釜山港を占領していた日本軍に戦いを挑んでいます。

しかしあえなく敗退していたのです。

また、慶長三(1598)年11月18日の露梁海戦(ろりょうかいせん)では、彼は、停戦協定が結ばれたあと、半島から引き揚げる秀吉軍に追い打ちをかけるという卑怯極まりない行為をし、返り討ちにあって戦死している。

李舜臣が、秀吉軍軍の海上補給路を断ったという記録はどこにもない。

ーー

それではなぜ、秀吉は「唐入り(朝鮮出兵)」をしたのでしょうか。

おおかた次のような理由によるものとされています。

・秀吉がもうろくしていたために起こした。
・秀吉の成長主義が引き起こした身勝手な戦いであった。
・戦国武士団の数を減らすためだった。

いずれも「木を見て森を見ず」つまり的外れです。

ーー

1、秀吉がもうろくしていた?

当時日本は、戦国時代であり、各大名がそれぞれ独立した国(領地)を命がけで経営していたのです。

もうろくジジイの世迷い事で、大枚をはたいて朝鮮までノコノコ出ていくおバカな大名は、全国どこにもいません。

2、秀吉の成長主義が招いた?

信長から秀吉と続く体制は、農業というよりも商業(流通)指向がかなり強く、それぞれの大名は領地が増えなくても、商業による貨幣経済によってかなりの富が蓄積できたわけです。

金持ち喧嘩せずという言葉がありますが、食うに困らない、生活に困らない豊かな生活を満喫できているのに、あえて戦争など、誰も好き好んで行うものではありません。

3、武士団の数減らし?

商業が栄えている社会では、人口を減らせば消費が減り経済力を失うので、貴重な消費者である武士団の数減らしなど、常識的にそんな馬鹿なことはしません。

ーー

では、なぜ秀吉は「唐入り」を行い、世の大名たちも、これに追従したのでしょうか。

ーー

この問題を考えるには、日本国内だけに目を向けていては答えは出てきません。

秀吉が朝鮮出兵をするに至った背景には、当時のアジア情勢という国際政治が大きく影響していたのです。

そしてそういう国内外の事情を理解したからこそ、東北の大名たちまでもが、秀吉の「唐入り」に協力し、兵を出したのです。

ーー

そもそも、二度にわたる秀吉の文禄、慶長の役というのは、16世紀における世界最大の戦いです。

文禄の役だけでも、日本は約16万人の軍勢を朝鮮半島に送り込み、朝鮮と明の連合軍は25万人の大軍でこれを迎え撃ちました。

慶長の役では、日本は再び約14万人を動員した。

天下分け目の関ヶ原の戦いにしても、東軍7万、西軍8万ですから、いかに規模が大きかったかが分かります。

ーー

そしてこの時代、世界全体を見渡せば、世界中に植民地を獲得した「スペイン帝国」が、植民地からもたらされた莫大な富によって覇権を握っていました。

スペインは太陽の沈まない国と形容され、黄金の世紀を謳歌していたのです。

そのスペインは、東アジア地域の戦略統合本郡である総督府を、ルソン(いまのフィリピン)に置いていました。

そして、東アジア植民地の拡大を着々と進めていた。

ーー

スペイン人が日本に最初にやって来たのは、天文十八(1549)年のことです。

宣教師、フランシスコ・ザビエルの来日がそれです。

当時の宣教師の仕事は、表向きはキリスト教の伝道ですが、本当の仕事は、将来その地を植民地とするために情報を収集することや、さまざまな懐柔工作です。

ーー

実際にキリスト教を伝道しながら、ありとあらゆる手段を使い、多くの人を改宗させます。

それらの人々を味方につけ、頃合いを見計らって軍隊を送り込み、抵抗する者を殺戮し、その地を植民地占領していくのです。

ーー

内乱に明け暮れていた戦国大名たちは、そんな宣教師の目的を知りません。

最初は西洋からやって来た宣教師たちを、快く受け入れていました。

実際、ザビエルはあちこちの大名に招かれ、なかにはキリスト教の信者になった者もいました。

宣教師たちの仕事は順調に進んでいるかに思われました。

ーー

ところが唯一、日本がほかの国々と違っていたのは、彼らが持ち込んだ鉄砲という武器を、日本人は瞬く間に自作し、改良し量産してしまったことです。

気がつけば、なんと日本は、鉄砲保有数で世界一になってしまいました。

その数、当時の世界の鉄砲数の半分にあたる約50万丁。

もっともこれは、最盛期の数ですが、鉄砲は戦国時代の日本に、ものすごい勢いで広がっていったのです。

ーー

これには宣教師たちも驚いた様子で、イエズス会のドン・ロドリゴ、フランシスコ会のフライ・ルイス・ソテロらが、スペイン国王に送った上書には、次のような記述があります。

「スペイン国王陛下、 陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、 日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難です」

「よって福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に喜んで臣事するように仕向けるしかありません」

ーー

人口なら、日本より南米やインドのほうがはるかに数が多いわけで、城だって日本は平城が主流ですから、アジア、ヨーロッパの城塞には敵いません。

にもかかわらず、彼らが「日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難」と書いているのは、「鉄砲の数が圧倒的で、軍事力で日本には敵わない」とは、国王宛ての上書に書けないからです。

ーー

そして、「福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に喜んで臣事するように仕向ける」ように進言しているのです。

こうしてスペインは、日本での布教活動に注力していきます。

ーー

一方、あたりまえのことですが、スペインの狙いは日本だけではありません。

お隣の明国も、スペインは植民地化を狙っています。

こちらは鉄砲を自作するような能力はなく、単に人海戦術、つまり人の数が多いだけです。

ただ国土は広く、その調略には手間がかかります。

ーー

ちなみに当時のスペインにとって、朝鮮半島は対象外です。

朝鮮半島は、明国の属国だったわけですから、明が落ちれば朝鮮半島は、自動的に手に入る。

それだけのことです。

ーー

スペインは明国を攻略するにあたり、当時、世界最大の戦力(火力)を持っていた信長に、一緒に明国を奪わないか、と持ちかけています。

ところが信長は、まるでそんなことに関心がありません。

そもそも信長、秀吉と続く戦国の戦いは、日本国内の戦国の世をいかに終わらせ、国内に治安を回復するかにあったのです。

ーー

信長は、比叡山や本願寺まで攻めたため、まるで第六天の魔王であるかのように描かれることが多いですが、実際には、信長の戦いの目的は、「一日も早く戦乱の世を終わらせる」ことに尽きたのです。

それが天下布武です。

だからこそ、多くの人々が信長に従ったということが、最近になって発見された各種文書から、次第に明らかになってきています。

これは秀吉も同様です。

ーー

しかも、農民の出だから農民の気持ちが分かるのです。

戦乱によって農地が荒らされることを多くの民衆が嫌っていることを、ちゃんと分かっていたからこそ、秀吉は人気があったのです。

要するに、当時の信長、秀吉にとっては、日本国内統一と治安の回復こそが政治使命だったわけで、お隣の明国になどかかわっていられなかったのです。

ーー

ところが、秀吉が日本を統一すると、次第に明国への対策が大きな政治課題となって浮上してきました。

どういうことかというと、これにスペインが関係しているのです。

スペインが日本を攻めようとしても、遠路の航海を余儀なくされますから、世界の覇権国とはいえ大軍を差し向けることは不可能です。

仮にスペインが海を渡って攻めてきたとしても、数のうえからいえば少数であり、火力、武力ともに日本のほうが圧倒的に優位です。

したがって、スペインとの直接対決ならば、日本が負ける心配はありません。

ーー

ところが、スペインが明国を植民地として支配下に収めると状況が変わってきます。

スペインに支配された明国兵が、数の力にモノをいわせて日本に攻め込んできたら、日本は数多くの鉄砲を持っているとはいえ、これは大変なことになります。

まさに、元寇の再来、大きな脅威です。

ーー

この脅威を取り除くには、スペインよりも先に明国を日本の支配下に置くしかありません。

火力、武力に優れた日本には、それは十分可能なことだし、万一明国まで攻め込むことができなかったとしても、地政学的に朝鮮半島を日本と明国の緩衝地帯として置くことで、日本への侵入、侵略を防ぐことができるのです。

このことは、ロシアの南下政策を防ぐために、明治日本が行った政策と、当時の状況が酷似していることをあらわします。

ーー

さらにいえば秀吉は、すでにこの時点でスペインの誇る無敵艦隊がイギリスに敗れ、スペインが海軍力を大幅に低下させていることを知っていました。

ですから、スペインが海軍力で日本と戦端を交える可能性はまずありません。

ーー

一方、国内で秀吉は、長く続く戦乱の世を終わらせようと、全国で刀狩りを実施します。

刀狩りそのものは、日本に太平の世を築くために必要なことであったわけですが、同時に庶民から武器を奪うことは日本の戦力を大きく削ぐことにもつながってしまうのです。

もし日本が他国侵逼の難にあったときは、大きな痛手となるでしょう。

ならば、武力がまだ豊富なうちに余剰戦力を用いて朝鮮出兵を行い、朝鮮から明国までを日本の支配下に置いてしまうこと。

これは我が国の安全保障上、必要なことであったわけです。

ーー

こうして秀吉は、文禄の役(1592〜1593年)、慶長の役(1597〜1598年)と二度にわたる「唐入り」を行うのですが、同時に秀吉は、スペインとも果敢な政治的交渉を行っています。

ーー

何をしたかというと、スペインに対し、「臣下の礼をとれ」と迫ったのです。

最初にこれを行ったのが、文禄の役に先立つ一年前、天正18(1591)年9月のことです。

秀吉は東亜地域の拠点、ルソンにあるスペイン総督府に、原田孫七郎を派遣し、「スペイン総督府は、日本に入貢せよ」との国書を手渡します。

世界を制する大帝国のスペインに対し、真正面から堂々と「入貢せよ」などとやったのは、おそらく、世界広しといえども、日本くらいなものです。

まさに、気宇壮大というべきです。

ーー

対するスペイン総督府にしてみれば、これはきわめて腹立たしいことです。

しかし、隣国でるイギリスの国力が増し、自国の防衛を優先させなければならない当時のスペインの現状にあっては、日本に対して報復的処置をとるだけの力はありません。

悔しいけれど放置するしかありません。

ーー

すると秀吉は、その翌年に、「唐入り」を開始するのです。

驚いたのはスペイン総督府です。

日本が明国を征すれば、その国力たるや東アジア最大となり、スペインにとって政治的、軍事的圧力となることは目に見えています。

しかも、海を渡って「唐入り」をするということは、兵員を海上輸送する能力があるということですから、いつ、ルソン島に日本が攻めて来てもおかしくありません。

ーー

慌てたスペイン総督府は、当時ルソンに住んでいた日本人たちを、マニラ市内のディオラ地区に、集団で強制移住させています。

これがマニラの日本人町の始まりです。

さらにスペイン総督府は、同年七月にドミニコ会士、フアン・コーボを日本に派遣し、秀吉に友好関係を樹立したいとする書信を届けています。

このとき、膨大な贈り物も持参しています。

いかにスペインが日本を脅威に感じていたかということです。

ーー

しかし秀吉は、そんな贈り物くらいで騙されません。

重ねてスペインの日本に対する入貢の催促の書簡を手渡します。

その内容がすさまじいのです。

「スペイン国王は、日本と友好関係を打ち立て、ルソンにあるスペイン総督府は、日本に臣下としての礼をとれ」と。

そして、

「それが嫌なら、日本はマニラに攻めこむぞ」

「このことをスペイン国王にちゃんと伝えろ」

というのです。

ーー

とこが秀吉の書簡を受け取ったフアン・コーボは、帰路、遭難してしまいます。

本当に海難事故で遭難したのか、返書の内容が百パーセント、スペイン国王の怒りを買うことが分かって、故意に遭難したことにしたのかは、いまとなっては不明です。

けれどおそらく、これは後者ではないかと私は見ています。

ーー

さて、フアン・コーボの遭難のおかげで、秀吉の書簡はスペイン総督府には届かなかったわけですが、当然のことながら、スペイン総督府からの返書もありません。

けれど、返書がないからと、放置するほど甘い秀吉ではありません。

秀吉は、10月には原田喜右衛門をマニラに派遣し、確実に書簡を総督府に届けさせたのです。

ーー

文禄2(1592)年4月、原田喜右衛門は、マニラに到着しました。

そしてこのとき、たまたま在マニラの明国人約二千人(明国から派遣された正規兵だったといわれています)が一斉蜂起して、スペインの総督府を襲ったのです。

スペイン兵は応戦しますが、多勢に無勢です。

これを見た原田喜右衛門は、手勢を率いてスペイン側に加勢し、瞬く間に明国兵を殲滅してしまいます。

ーー

日本の侍、強し。

原田喜右衛門らの圧倒的な強さを目の当たりにしたスペインのゴメス総督は、日本の強さに恐怖します。

けれどゴメスは、スペイン大帝国から派遣されている総督です。

世界を制する大帝国王に、日本に臣下としての礼をとらせるなど、とてもじゃないが報告できることではありません。

ゴメスは困り果ててしまいます。

ーー

そして、翌文禄3(1594)年4月に、新たにフランシスコ会士のペドロ・バウティスタを特使に任命し、日本へ派遣します。

要するに、特使の派遣を繰り返すことで、少しでも時間稼ぎをしようしたのです。

名護屋(現、佐賀県唐津市)で秀吉と会見したペドロは、スペインがいまや世界を制する大帝国であること、日本とはあくまでも「対等な」関係を築きたいと申し述べます。

普通に考えれば、世界を制する大帝国のスペイン国王が、日本という東洋の小国と「対等な関係」というだけでも、ものすごい譲歩です。

けれど、秀吉は聞く耳を持ちません。

ペドロに対し、重ねてスペイン国王の日本への服従と入貢を要請します。

ーー

なぜ秀吉は、ここまでスペインに対して強硬だったのでしょうか。

理由があります。

第一に、国際関係において、対等な関係というものは存在しないのです。

この時代における国際関係というのは、やるかやられるか、つまり上下の関係しかありません。

たとえ日本が小国であったとしても、大帝国のスペインに日本を攻めさせないためには、日本が圧倒的な強国であることを、思い知らせるしかなかったのです。

ーー

第二に、もし、秀吉が中途半端に「対等な関係」の構築を図ろうとするならば、スペインは当然のごとく平和特使と称して宣教師を日本に派遣し、そして宣教師たちは、日本の内部から切り崩し工作を行っていたことでしょう。

現に、世界のあらゆる国家が、その方法でスペインの植民地にされていたのです。

ですから、日本がスペインの驚異から逃れる道は、ただひとつ。

あくまでスペインに対して、強硬な姿勢を崩さないこと。

これしかなかったのです。

ーー

第三に、秀吉が目指したのは、あくまでも「戦のない世の中」であったということです。

武力で日本を統一したあとは、「刀狩り」を行い、内乱の芽をつんで太平の世を実現しようとしています。

けれど、刀狩りをして庶民から武器を奪うことは、一方において日本を弱化させることを意味します。

ならば、日本国内に武器を持たない平和な国を実現するためには、国際的な武力衝突の危険を、日本からできる限り遠ざける必要があったのです。

ーー

名護屋(九州)における秀吉とペドロとの会見が物別れになると、スペインのゴメス総督は、日本への軟弱な外交姿勢を咎められ、スペイン国王によって更迭されてしまいます。

そして後任の総督としてやって来たのが、ルイス・ダスマリニャスです。

ルイスは、アウグステイン・ロドリゲスを使者として日本に派遣し、回答の引き延ばしを図るとともに、日本の戦力を冷静に分析します。

そして、ゴメスの分析どおり、もし日本とスペインが東アジアで正面から衝突すれば、スペイン側に勝ち目がないことを知ります。

そこでルイスは秀吉との直接交渉は避け、一人また一人と、宣教師を日本に派遣するという戦略をとりました。

つまり時間を稼ぎ、その間に当初の戦略どおり、日本に布教をしていこうとしたのです。

ーー

文禄3(1594)年には、ルイス総督の意向を受けて、ヘロニモ・デ・ヘスス以下のフランシスコ会修道士四人が日本に派遣され、日本での布教を再開しました。

秀吉はこれを認めています。

ーー

ところが、慶長元(1596)年のことです。

スペインの貨物船、サン・フェリペ号が、荷物を満載したまま遭難し、土佐の浦戸に漂着したのです。

救助した船員たちを、秀吉の五奉行の一人である増田長盛が取り調べました。

そこで驚くべき事実が明らかになります。

なんとサン・フェリペ号の水先案内人が、増田長盛に世界地図を見せ、次のような証言をしてしまったのです。

「スペイン国王はまず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると次は軍隊を送り、信者に内応させてその伝道地の国土を征服するから、世界中にわたって領土を占領できたのだ」

ーー

この報告を受けた秀吉は、即座にキリシタン26名を逮捕しました。

そして彼らを長崎に送り、「キリシタンを続けたいなら外国へ出て行け。日本に残りたいなら改宗しろ」と迫りました。

迷う26名に対し、長崎のイエズス会は、この26名の死罪を長崎奉行に申し出ます。

ーー

イエズス会の腹はこうです。

26名の信者をイエスの十字架になぞらえて見せ物にし、間違いなく天国に行くことができたと宣伝する。

こうすることで、キリスト教徒としての栄光に輝く姿を印象づけ、信仰による団結心をたかめる。

ーー

要するに秀吉の朝鮮出兵は、統一国家をやっと形成した日本が、スペインによる東洋の支配から国を守るために下した決断であった、ということです。

ーー

このことは、単に日本や朝鮮の国内事情だけを見ていてもまったく分かりません。

当時の世界情勢、東アジア諸国の情勢を視野に入れなければ、秀吉がなぜ朝鮮出兵を決意したのか、多くの大名たちが、なぜその秀吉に従い兵を出し、勇猛果敢に他国に出て戦ったのかが理解できません。

もっというなら、日本が明治という統一国家を形成してから朝鮮半島を領有するまでの動きと、秀吉の朝鮮出兵当時の世界の動きは、スペインがロシアに変わったほかはきわめて似ています。

ーー

同じことが歴史上、繰り返されたということなのです。

ーー

もし、秀吉が朝鮮出兵を行わず、日本の国力をスペインに見せつけなければ、どうなっていたことでしょう。

明国がスペインの植民地になっていた可能性は非常に高いのです。

当然のことながら、朝鮮半島も、スペインの支配地となったことでしょう。

ーー

そしてスペインの植民地となることは、どういう意味を持つのか。

そのことは、いまの南米諸国が、見事に教えてくれています。

現在、南米に南米人の純粋種は存在しません。

白人との混血種だけです。

ーー

アルゼンチンやウルグアイでは、先住民族がほぼ完璧に抹殺されてしまいました。

いまこの地域に住んでいるのは、ほぼ白人種です。

ブラジル、エクアドル、ペルー、ボリビアは、全員が先住民族と白人との混血です。

純血種はいません。

ーー

日本も支那も朝鮮も、それぞれに純血種を保ちながら、いまに至っています。

南米のようなことにならなかったのは、秀吉と配下の戦国武将たちが、スペインと真っ向から戦う姿勢を示したためです。

ーー

ちなみに、秀吉の死去にともなって、日本は朝鮮半島から撤収し、慶長の役は終わりました。

だから、「唐入り」は秀吉の気まぐれで起きた戦争だというのは、大きな間違いです。

半島に出兵した武将たちは、自ら進んで真剣に戦ったのです。

ーー

世界史の視点から秀吉の「唐入り」の真意をあらためて確認し、スペインという世界最強の大帝国に対し、そうとわかっていながらも、秀吉は一歩も退かず、むしろ臣従せよと迫った。

この秀吉の壮大な気宇と誇りは、むしろ、いまこそ見習うべきではないでしょうか。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>秀吉に学ぶ日本防衛
ねずさんの秀吉の朝鮮出兵の真相が、スペインに拠る東洋侵略の阻止に有った事は繰り返して読んで居るので知っていますが、その歴史の教科書で習った内容やNHKの大河ドラマで藻、度々取り上げられる「文禄・慶長の役」の出兵理由はして、一貫してねずさんが挙げた3つの中に入って居ますが、わたしもこれらはすべ手間違いだと確信して居ました。

その代わりに、半島は当事、李氏朝鮮が建国して国内で、野蛮な女真族の末族が苛烈な階層間差別の社会を造り始めた頃ですので、平民からイキナリ奴隷に落とされた、先住民でもある農民達の怒りは強かった、

特に半島の南岸地方の雰囲気は、とても、悪く、不穏ですらあったのに、朝鮮政府は内訌に明け暮れて居て、国家としての治安維持の責務も果たせないで居る状態だった。

だから、漁民の中には、九州や山陰、四国迄、生活圏を広げて居るものも居て、民間ベースで交流があった柄、日本の情勢も良く知っていて、天下を統一し他、豊臣秀吉が平民上がりだときいて居たのでしょう。

だから、秀吉宛の朝鮮の暴政に苦しめられて居る現情を記した書簡を、秀吉宛に送り,出兵依頼をしたのではないかと、スペインの東洋侵略の魔手か迫っていた事を知るまでは、私は思って居たのです。

事実、文禄の役の時派、上陸した日本軍に呼応して、農民が一斉蜂起して、地方の役所を襲って、蔵ってあった人別帳を全て焼き払った、と有ります、

然しその後遼東半島の国境まで逃げて、明に助けを求めた国王は、明の円郡で形勢を盛り返した後、膠着状態になりましたが、このタイミングで、お定まりの政変が起って、新政権が誕生し、民衆に対する暴政は、より一層苛烈なものになったそうです。

朝鮮の歴史なんて、出鱈目の妄想に過ぎませんが、普通の歴史なら、如何に温厚で時の高い為政者であろうと、異常気象が多発して、飢饉が起れば、それに対応しなくてはなりなせん。

江戸期は世界的に小寒冷期にあったので、緯度低い日本ですら、100万人を超す大飢饉を3度も経験している事を考えれば、緯度が高く、拠り、旱魃や低温現象がy多発したであろう、半島で、飢饉が起っていない筈が無いのだ。

然し、そうした歴史の記述がない又は、極めて簡略にしか書い居無い事に、朝鮮金人の歴史家は、学問的な疑問を持たなかったのだろうか、其れで良く日本に向かって「歴史を隠蔽する民族は滅ぶ」等と云えたものですね。

加えて、150万人にも及ぶ、農民の虐殺を、未だに隠蔽のでは、彼らに民族愛の欠片も無い、否、固より、農民は同じ民族だとは、思っていないのだろう。 是では、国が消滅するのも致し方ないと思います。

さて、では、日本のNHKを始めとするマスコミや言論出版界葉、何故に、スペインの東洋侵略の事を言わないで、秀吉野百々としたであろう国防施策や当事世界の大帝国として怖れられていたスペインに対し、互角以上に渡り合い、その一環が朝鮮出兵であったと言う史実を、必死に隠しているのは、何故か?

思うにそれは、ローマ法王が、あのイエスズ会の後継団体の長、つまり、中世の侵略者であり、アジアアフリカも無辜の民の虐殺者であり、世界に人種差別の悪習を広めた張本人だと言う事を、ひた隠しにするのと良く似て居ますね。

その事実は、日本に、米国服従型の戦後体制を布き、それを利用し手、戦後の利得を貪って来た「反日・侮日、東京裁判史観、護憲」派は、有意識/無意識に関わらず、既に日本人としての矜持も、誇りの意味すら理解できないのであろう。

特に、女性は、戦争に行かなくても良いという、暗黙の慣習があると思って居るが、どっこい、今の戦争は兵士の体力や戦闘力に拠らず、科学力で決まる、

それは、あのイランのすれいまにしれいかんをばくさつしたのが、グレイ・イーグルと言う名の衛星誘導の無人爆撃機だった事で、是からの戦争には、兵士は殆ど必要なくなるかもしれないのである。

現在日本は世界でも、有数の科学先進国にして、同時に、世界の開発途上国から、或いは、凋落し始めた先進国からも、産業の核心部分の開発、生産について、頼りにされる存在で、だから、日本を訪れる外国人茄年円増加して居ます。

でも、だからこそ、民間防衛力の向上が重要になるので、国土防衛の意識を高めて行かねばなりません、勿論、今回の武漢肺炎の様な、未知の伝染病の侵入も、新たな脅威として、認識しなくてはならないでしょう。

然し、今から4百年も前に、粗地球の歌が倭に位置する国の陰謀から、にほんをまもりとおした、戦国大名の英邁さは、同じ日本人として、是非知って、白人は青人文明の野蛮さ、狡猾さを知り、何より「対応するにも、相手を上回る戦略が必要である」と言う認識を持つたねばならない。

最終的には、大規模熱戦を回避する方向で対処出来無ければ、今の人類が持って居る武器の威力なら、人類は幾度も絶滅します。

こうした認識を是からの日本人が持てるような教育、そして、民間防衛力の水準が高い社会体制を目指して、日本を変えて行きましょう。

秀吉の朝鮮出兵について、親からは日本を統一した秀吉は日本を天皇に統治していただいて、自らは朝鮮と明国を統治するつもりであったと聞いたことがありました。

教科書と言うか学校では、
>・秀吉がもうろくしていたために起こした。
で、あったように思いますが、記憶は定かではありません。
でも、もうろくは精神的なもので発想ではないので、今思うと理由にならないと考えます。


近年の私の歴史感覚は、ねずさんに教えられたことが基本になっています。ねずさんの歴史観は当時の世界情勢を大きく見ていますから、説得力があるのです。

この時代はスペインが世界制覇をしていた時代ですから、日本が狙われても不思議はないし、明国を狙っても不思議はないのですから、その手先の宣教師が日本で行動するのも当然のことと思います。

そして、ポルトガル人によって伝えられた鉄砲は、日本の鍛冶によって複製されて世界一に保有国になりましたが、火薬の生産ができなかったため、これをスペインから輸入しなければならなかった。
これは、日本の少女を奴隷として火薬と交換することで手に入れることになりましたけれど、日本の少女が奴隷として売られていることを知った秀吉が、これを知ったことに加えて西欧人の考え方に怒ったことが、朝鮮出兵につながったと教えられました。

これは、説得力がありますし、当時の大名も賛同できることだと思います。
しかし、このようなことは私達の教科書には書かれていなかったので、理由の不可解な朝鮮出兵となったのです。
ここで思うことは、戦前の日本の歴史教科書には、このことが書かれていたのかと言うことです。
終戦後は、WGIPとプレスコードで日本は占領統治をされましたから、このことは教えられませんでした。


李舜臣のこともええ加減なものです。
>秀吉軍は李舜臣によって海上を封鎖され、半島への補給路を断たれ、撤退を余儀なくされた
明治時代に東郷平八郎元帥はあるとき、朝鮮人に「朝鮮人には優秀な将軍がいない」と嘆いたものを、「慰めに李舜臣がいた」と言ったら、その後は朝鮮でもそれ程評価されていなかった将軍が、一気に史上希に見る大将軍になったのです。

それ程素晴らしい将軍なら、撤収する敵軍に襲いかかろうとしないで、敵が撤収するときの約束も守ると考えます。
素晴らしい将軍は、作戦だけでなく人格的にも優れているものですし、約束を守らなければ人として尊敬されず、素晴らしいとの尊敬語は使われないのです。
ですから、李舜臣の実態は、約束に従って引き上げる敵に隙があれば襲うという、こすっからしい小者なのだと思うのです。
おまけに、その攻撃を反撃されて、返り討ちになるのでは・・・・・・いやはや。


それを考えるとき、秀吉という人は数少ない情報から戦略を編み出しえて、当時は世界の覇権国であったスペインを手玉に取った武将だと思います。
これで、もう少し長生きするか、弟が健康に恵まれていたら、日本の国の歴史はどのように変わっていたかと思います。

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