神武天皇によって、日本の人口は8万人から、短期間のうちに67万人にまで増加しました
ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集
神武天皇が、橿原で初代天皇に即位される、その物語が記紀にあります。
神武天皇以前が神話の時代、神武天皇以降が伝承の時代です。
つまり実際にあった話として、神武天皇のご事績が語られているのです。
神武天皇の物語は、神話ではなく、語り継がれたご事績(事実)であるということです。
ーー
日本書紀には、神武天皇が、九州の宮崎から瀬戸内に向かわれ、そこで農業指導を行い、3期分のお米を蓄えて畿内に入られたとあります。
そこで長髄彦(ナガスネヒコ)の一団に襲撃されます。
天皇は、日に向かって戦ってはいけない(日の神の子孫である民と戦ってはいけない)と、軍を引きます。
その時、長男の五瀬命(いつせのみこと)が、矢傷がもとで死去、さらに船で紀州に向かわれた際、嵐に遭って、次男の稲飯命(いないのみこと)、三男の三毛入野命(みけいりのみこと)が亡くなられた。
ーー
ちなみに、稲飯は、米のご飯、三毛は御食(ミケ、食料のこと)ですから、要するに長男を失っただけでなく、嵐で食料も失ってしまった。
飢えは病を生み、熊野の荒坂津(あらさかのつ(港))に着いたときには、兵たちも病んで元気を失っていた。
ここで熊野の高倉下(たかくらじ)に救われます。
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高倉というのは、高床式の蔵(くら=倉)のことで、お米を備蓄する施設のことですから、その下(もと)にあるということは稲作をする人という意味です。
つまり、熊野にも稲作をする人たちがいたわけで、その人たちによって、食料を与えられ、元気を回復するわけです。
神々は、高倉下を通じて、神武天皇に韴霊(ふつみたま)の剣(つるぎ)を授(さず)けます。
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「韴」というのは悪を断ち切るという意味で、これは、神々が「断固として戦え!」と意思表示されたことを意味します。
こうして神武天皇一行は、元気を回復し、神力を得たのですが、どうしても大和盆地への山越えができない。
神武天皇が困っていると、アマテルカミが夢に現れて、「これから頭八咫烏(ヤタガラス)をつかわすから、それに付いていきなさい」と詔(みことのり)された。
頭が付いていますがヤタガラスと読むと記されているので、これはヤタガラスのカシラの意でしょう。
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霊剣は、超強力な武器を象徴します。
戦うためには、敵を圧倒する武力が必要だからです。
けれど神々の御意思は以下のようなものだった。
「武器を得たからといって、単独で(ひとり)で戦ってはいけない」
「戦う時は、その戦いによって受益者となるみんなとともに戦え」と。
だから頭八咫烏が派遣されたのでしょう。
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それで付いていくと、山道の中から、長髄彦(ナガスネヒコ)を始めとする盗賊団に食料を奪われて困っている人たちが次々と現れて神武天皇に従いたいと言ってくる。
こうしていよいよ戦いが始まります。
神武天皇が岡山から持ってきたお米は、すでに嵐に遭ってありません。
高倉下の備蓄米も、大軍を養うのに十分なものではありません。
だから戦いのさなかに、食料が失くなって、みんなお腹を空かせます。
そこで神武天皇は、以前に稲作の指導をして、備蓄米をたくさん持つようになった瀬戸内の人々に、お米を運んできてもらうのです。
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そしてこのことが、狩猟採集生活のその日暮らし⇒村々での稲作による災害時の食料備蓄⇒村々の備蓄食料の融通による全国的な相互扶助へと発展し、新しい国つくりの基礎となります。
こうして神武天皇は、橿原宮で初代天皇として即位されたのでした。
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神武天皇の時代というのは、寒冷化による食糧不足で全国で26万人あった日本の人口が、8万人にまで減少した時代です。
人は食べ物の分しか人口を維持することができないからです。
これを心配された神武天皇は、あらためて稲作を中心として食料備蓄のできる国作りを目指されたわけです。
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そして民は地域を越えて相互に助け合うシステムに目覚めます。
天皇は、これを公正に行うために、橿原の地に都を定めて、全国的なお米の管理と流通を実現されます。
これが「四方八方をおおうひとつ屋根の下で暮らす家族のように、日本全国互いに助け合って、災害の多い日本で、誰もが安心して暮らせるようにしていこう」という八紘一宇(はっこういちう)の日本の建国精神です。
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神武天皇によって、日本の人口は8万人から、短期間のうちに67万人にまで増加しました。
人々が食糧不足に苦しむことがないことは、国民にとってとても幸せなことです。
だからその幸せをもたらした神武天皇を民は、崩御の後、神倭伊波礼毘古(カンヤマトイワレヒコ)「やまとの神と呼ばれた男」と呼んだのでした。
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我が国は国家の黎明期において相互扶助を基幹とする国作りをしていこうとされた神武天皇という偉大な指導者を得ました。
それは我が国の国民にとって、まことに幸せなことであったというだけでなく、おそらく人類史においても、偉大で貴重な出来事であったといえると思っています。
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コメント
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>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>記紀に記された神武帝のご業績
約10年位前に、私は仮説で「神武東征は、米作や製塩法を伝える農業指導に旅で、、決して、武力侵攻では無かった」と言う説を然るブログに書いた事があります。
まさかそれが、記紀に書いて有るとは、ついぞ、知りませんでした。 白状しますと、マトモに記紀を読んだ事がありませんww
唯、神武一行が、瀬戸内を通過するのに、16年を要していると言う事、更には、陸路で進軍したら、侵略と同じ結果しか生まない事、武力で平定するには、援軍・増派の要が生じた時に本拠地から遠すぎる事、同じ理由で、兵站が追いつかないが、其れを現地での略奪で間に合わせれば、民のレベルから、深く恨まれて、平定しても、後顧に憂いを遺す事に成ります。
第一、大勢の人間が毎日泊まる処、生活する処としては、乗ってきた船があるが、造船技術、就中、鉄材を使った工作工具が、どの程度発達して居たのかわからないので、20年以上も持つ、大型の木造船が当時作れたのだろうか?と言う疑問が有りましたね。 この辺りの解明が、是からの私の課題です。
然も、その検証を始めるのに、一体、神武東征が行われた時代とは、西暦何年の事なのかと言う基礎的な事居ないのは、致命的でしたね。
唯逆に、先に挙げた理由カラ、神武東征は「農業技術の伝道の旅」であり、目的も、小寒冷期にはいって、作物が実らず飢えた人々を救う為だった、ことは 確かな事だと思います。
就中、中国地方の安芸や吉備、更には丹波と言った、大国は、食糧を得る為の村々同士の争いが、常態化し始めて、このママなら、共滅しかないjぴたいにまでぴつめられていたと思います。
ダカラ、神武一行の指導の中に「飢饉や危急に備えて、備蓄せよ」という、教えを活かして、収穫期には恒例になっていた、村同士の争いも治まり、人口も増え、その人口を養う為に必要な開墾地も増やす必要が出来て、その労働力を補填する為に、今まで争って来た、村同士で婚姻が行われて、郷が出来、郡になって、さらには国が出来たのでしょう。
因みに吉備と言う名前は「食糧を備える事が、吉を齎す国」と言う意味では無かろうか?
吉備の国では、固より日本としては、3本有る河川の夏~秋にかけての豪雨の襲来による氾濫以外は、火山が無い事で自然災害が少なく、然も、神武帝の指導で治水事業も進んで、耕地も人口も増えて、みるみる大国になりました。
この様に神武帝のご業績とは、シナの三皇五帝中の、治水を成し遂げた帝兎ぬ粗糖するモノだと言えましょう。 その恩恵を賜った吉備は、歴史を見ると、神武帝一行が大和の樫原に政権を持って後も、長らくその支持勢力として歴史に登場しますね。
特に有名なのは、吉備の出身ですが、欽明帝の妃で、帝の崩御を受けて、帝位を刑処されて、皇極帝になられたが、推古帝・聖徳太子の御代から太子の仏教布教に併せて勢力を広げれ来た、蘇我氏の専横に、危機を感じた2人の皇子とその支持勢力に拠る、クーデター「=乙巳の変」が起りました。
皇極帝は在位3年にして、帝の座を軽皇子に譲り、自らは上皇となり、孝徳天皇が誕生します。
このころの王朝内は、皇極帝の吉備勢力を筆頭に、様々な国内の豪族勢力、それに、蘇我氏や中臣氏といった外来勢力等、複数の勢力の争いが潜在していました。
抑々、この元になったのは、40年もの不在の後、九州から帰って来た応神帝が始めた、大阪平野の干拓~大水田地帯への大開墾事業であり、この事業を当時、人口の増加で、人口を支えるダケの耕地の数が不足し始めて、逆に困り始めて居た吉備や播磨からの移民であったモノと、私は思います。
九州を平定したが、未だ大和朝廷の力不足を感じて居た応神帝は、九州からの帰途の際に、吉備勢力から、この事情を聞いて、その大規模開墾事業の献策に心を動かされたのでしょう。 ダカラ、自ずと朝廷内での吉備系豪族の発言権が、従来の大伴氏や物部氏を抑えて、強くなっていったものだと思います。
この事業は、歴史上から消されて居ますが、この度、「世界最大のお墓群」として、世界遺産に登録されて居ますが、それは、この大開墾事業を指揮した、歴代の帝の
墓陵だからです。
思うに、凡そ、150年5代の帝を数えたが、この帝達の恩恵に対する、民衆の感謝の思いがこうした古墳群を造らせた理由ですが、 陵を造る材料は、開墾工事の残土と労働力がありますので、比較的に楽に作れたものの様で、是に倣う古墳が、日本全国、朝鮮半島にまであります。
この開墾事業に拠って大和朝廷の力は、飛躍的に上がり、当時のシナは、所謂、「五胡十六国」の時代ですが、その中の王朝である、劉宋から「倭の五王」として、怖れられていました。 私は、是が正史だと思って居ます。
投稿: ナポレオン・ソロ | 2020年1月16日 (木) 13時34分