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2019年12月19日 (木)

そして、ページを読み進めていきながら、フト後ろを見ると精霊が立っているのではないかと思えるような錯覚に陥った

ーー以下「頂門の一針 宮崎正弘書評」より抜粋編集

高田篤臣・著、丸山ゴンザレス監修『亜細亜熱帯怪談』(晶文社)

亜細亜の怪談、幽霊話、悪霊、神霊、死体を巡る奇譚のてんこ盛り、まさに亜細亜熱帯怪談集である。

湿度120%である。

ぞくぞくするほど面白いが、評者(宮崎)の興味は文化的視点(アングル)である。

ーー

宗教がまだ原始的な時代に、人々は何を信仰していたのか。

その原始信仰に、その場所の風土、風習や文化、気候条件などが加味されて、大乗仏教伝来以後も、その国、その地域独特の精霊信仰や幽霊、霊魂の奇譚が語り継がれてきた。

(小乗仏教での興味は個人の悟りにあり、悟りには幽霊や霊は存在しない)

もとより古代ローマにはミトラ教があり、古代ペルシアにはゾロアスター教があった。

その土台のうえに、現在の西欧キリスト世界や、中東イスラーム世界がある。

ーー

本書には、魑魅魍魎について多くの著作をものにしている作家の京極夏彦氏が推薦文を寄せている。

「おそれ、おののき、考える、ぼくらもまた、亜細亜に染み渡る濃密な霊威に浸っている」と。

ーー

カンボジア内戦中、よく聞かされたのはピー(精霊)のことだった。

そこで行われた大虐殺の舞台(キリングフィールド)を、評者は二回ほど訪ねたことがある。

おどろおどろしい処刑場や惨い拷問場所、不衛生な監獄が、いまでは記念物のように飾られて、驚くなかれ、観光スポット且つ、心霊スポットとなっていたのである。

ーー

こうした霊地(スポット)を尋ねる人々を精霊巡礼者「ゴースト・ツーリスト」というそうな。

日本でも霊界に行き来していたと言われる安部晴明が映画や小説でもてはやされた時期があった。

そのあたりから、全国の霊地(パワースポット)が人気となり、とりわけ若い女性が「霊力を得て幸せになりたい」と集った。

粗製濫造の観、なきにしも非ずだったが、各地にそれらしき霊地が誕生した。

ーー

頁(ページ)をめくると、ともかくアジア全域に研究が及んでおり、年季が入っていることがうかがえる。

著者は、いったい何が面白くて、つまりいかなる動機で霊異の研究を始めタイに棲み着いたのか、と興味が尽きない。

そして、ページを読み進めていきながら、フト後ろを見ると精霊が立っているのではないかと思えるような錯覚に陥った。

ーー

評者が聞いたり体験したのは以下のようなものだ。

カンボジアで国連の救援活動に携わっていた竹本忠雄氏からは、南米の古城ホテルに滞在した時に、一晩中、悪霊と戦った体験を聞かされた。

その城では昔、大虐殺があったのだと。

評者も友人の片瀬裕氏とオフィスにいて雑談していた時、こつこつと軍歌が近付く幻聴に、ふたり同時に陥った。

三島由紀夫事件直後の夜であり、三島、森田両烈士の歌う軍歌であろうと興奮したものだが、その興奮から冷めて原因を調べると風呂場で水が滴下して音を立てていたのだった。

三十年ほど前にも評者は、中村彰彦氏と会津若松の白虎隊記念館を見学して帰京した夜、霊に取り憑かれた経験をした。

ーー

不思議なものがどんどん科学によって解明されて不思議ではなくなっていく現代にあっても、なお我々の心は幽霊を見、怪談に恐怖する。

日本人の多くは自然を見ればその美しさや巨大さに圧倒されその中に神を感じる。

それは古事記の神代の神々の物語にもなり、身近には日本全国いたるところにおわす神のための神社が建てられ祀られている。

ーー

神道はしかし、仏教のような経典も経文もない。

いや布教さえしないのだ。

キリスト教やイスラームや仏教を宗教とすれば、神道は宗教とは別種のものといえるだろう。

ーー

にもかかわらず現代日本人の大多数は正月になると氏子であるなしにかかわらず近くのあるいは遠く離れた神社に参詣する。

自動車を買ったら神社に安全祈願に愛車を駆って行くだろう。

建築現場では地鎮祭をやらないと大工さんが工事を始めないのである。

ーー

ピー信仰は大乗仏教の伝来以前からあった。

本書はタイでおきた怪談、怪事件を紐解きながら、ラオス、カンボジア、ベトナム、ミャンマーなどへと精霊巡礼(ゴースト・ツーリズム)が続く。

そしてまさに怪作となった。   

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文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>精霊信仰と宗教の違い
 私論ですが、精霊信仰と宗教は全く別物に発して居て、後発の宗教画、精霊現象の不思議さを説明し、人々を納得させるのに用いられたが、霊の存在を信じて居たのは、セカイの人類すべてに亘るし、釈迦やキリスト出現以前にも有った事で有る。

 だから、その宗教的な説明だけでは、納得出来無い様な、強い霊の存在の確信にとらわれた人や、強いエネルギーを感じる現象が起こる場合が報告されるので、世には、心霊スポットとか、霊場と呼んで、特別視して居るのでは、ないだろうか。

 思うに、霊の感受性と言うものは、人其々で差あって、幾ら説明しても恐怖心を抜け出せない人も居る可と思うと、逆に、何を訊いても、亦観手も怖がらない人も居るものです。

 私は、未だ勉強が足りない所為で、上手く説明できませんが、こうした記憶は、実は、阿頼耶識に刻まれたモノに由来するのではないかと思います。

 この説は、先ず霊魂は不滅で、肉体は霊魂の乗り物であると言う説を受け容れる人である事を前提とします、つまり、仏教の唯識論やバラモン教の輪廻転生を減少として、信じて居る事に成ります。

 阿頼耶識とは、現世で受けた人の本体である霊魂に迄、深く浸透し刻まれる様な、激越な体験や感動が、その多くは、恨みや呪いとなって現世に残る、或いは、転生してからも、支配される様な強いモノで有るから、受けた体験の違いに拠って、感受性にも差が出て来るのでは無いのかと思うのです。

 因みに、仏教と言うのは、こうした自然の理「=宇宙の真理」を解き明かして、人間がより良く生きる為に、延いては、社会が、皆が助け合い、他を思いやり、弱いものを強いモノが庇い援け、援けられたモノは、謙虚に感謝をする安寧な世の中にする方法を、説いたものだと思います。

 こうした現実の世を糺して行こうと言う考え方「=大乗仏教」は、釈迦が説いたものより、後世の人間が斜かん考えを敷衍して、生み出したものでしょう。

 仏教は、ダカラ、千変万化する世の中に併せて変化し、成長して居るものでもありますが、それは、教理が固定されているのでは無く、釈迦は、自然の理を説いたに過ぎないカラです。。

 然し、西洋の1神教と呼ばれる、ユダヤ、キリスト、ムスリムは、明らかに自然とは勇利した存在の神で、人間と、信仰の契約を交わし、信仰の代償として庇護を約束すると言う、古代の民族宗教そのままの信仰形態、即ち、非自然の存在を神とする考え方に基づいたものです。 

 是では、宇宙人を神にして居る様なものです。

 故に、神は自分達だけを優先して幸わい、自分達の生存権を脅かすものは、即ち、神の敵で有り、民族の敵で有ると言う等式が成り立って、自ずと、排他的になって終いますが、其れで、世界を平和に纏められるとしたら、覇権しか考えられませんね。

 ダカラ、西洋の1神教を、日本語に訳すときに、該当する日本語が無く、已む無く、「宗教」と言う、言葉を造って宛てたとの話です。

 ですから、勿論以前からある、神道や仏教、儒教や道教の類も、宗教ではありません。

 処が、世界の現状と言えば、先に挙げた三宗教の信者が、世界の半数を超える信者を獲得して居る様な状況ですが、其れで世界が平和になったかと言えば、全くの逆でしょう。

 人類はその戦争の残虐性、破壊力を極限にまで高めて、今やボタン一つで、地球が死の星になって終う状況に有ります。

 つまり、三宗教は、世を平和にするのではなく人類を滅ぼす為に使われているのですが、こんな簡単な事に、欧米人は気付くくそぶりも見せませんね、邪悪な事をしても、◜神に告解すれば、全ての罪が許されると信じて居るが、こんな都合の良い話はありません。

 精霊現象が、生物全般の本体である霊魂に拠る現象であるとすれば、そして、阿頼耶識と言うモノの貯蔵先が、DNAであるとすれば、遺伝情報こそその貯蔵場所で有り、それが霊魂の持つ役割の一つなのだと言えると思います。

 固より、「全ての人類は、精霊の存在を知っており、その存在がある限り人は、肉体えても.霊魂まで滅する事は無い」のだから、霊魂は、身近に存在する。

 例えば、身近な人の霊魂が自分達を、主にタイミングをずらすとか、予兆を見せて、知らせると言う、色々な方法で、子孫を危機から護ってくれていると言う、直感や実感を伴った「祖先信仰」を持って居たのだと思います。 

 今人類は、宗教信仰の誤った方向性に目覚め、「人が創った神では無く、自然に在らせられる神の信仰へ」と、原点回帰するべきなのでは、ないでしょうか?

 その指標として、日本の神道やインドのヒンドゥー教が残って居るのだと思います。

 固より世に降ろされた聖雄、聖者は、自然の理を判り易くといて、争うのではなく、共に助け合わなければ、人類に未来は無い事を言って居たのに、後世の、為政者が、勝手に、神の名を借りて、自分の都合の良い敵を創りだした事に、宗教崩壊の端緒があると思居ます。

  だから、是を改めるには、聖書に頼るよりも、先ず、看脚下、己の足許に当たる民族史を調べて、先祖が如何なる神を信じて居たのかを知るべきだろう。

 其処に足りなかったものはが何で有るのか、に、気付く事が、この先の人類全体にとっても、重要な一歩になると、私は信じています。

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