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2019年12月21日 (土)

宗教は民衆のアヘンである

ーー以下「大紀元時報2019年12月18日掛谷英紀コラム」より抜粋編集

女性はどういう男に惚れるのか、そう聞かれた脳科学者の中野信子女史は、自己愛が強く冷酷で目的のためには手段を択ばないような男であると答えた。

女はそのような男の遺伝子を残したいと思い身を任すのだという。

確かに、世界を動かしてきた男には、例えばナポレオン、ヒトラー、スターリン、毛沢東らは自分の政治目的(独裁)を実現するために民衆の命を犠牲にすることをいとわなかった。

つまり、これらの男たちは自己愛が強く冷酷で目的のためには手段を択ばないような性格の人物ではなかったかと想像させるが、彼らの回りには美女が取り巻いていたことでも知られている。

ーー

歴史上もう一人このような性格を持つ人物を挙げるとしたら、カール・マルクスであろう。

彼自身は資産家(銀行家)の息子で高等教育も受け何不自由なく暮らしながら、彼に仕える女が身ごもっても認知さえしなかった。

そして彼は、資本主義は多くの労働者階級を生み出し、やがて労働者階級による共産主義革命によって資本主義は滅びる、と説いた。

世界史は階級闘争の歴史であるという彼の主張を信じた共産主義者らは世界の歴史を階級闘争史観に合うように変更して書き換えるようなこともした。

ーー

さらにカール・マルクスは「宗教は民衆のアヘンである」とした。

それで共産主義者らは民衆から宗教を奪ったのだった。

しかしいまや共産主義者らがソ連や共産支那で何をしてきたのかが明らかになっている。

ーー

リチャード・ドーキンズ(Richard Dawkins)は著書『神は妄想である』の中で、恣意的に無神論に有利な証拠ばかり並べて、宗教があるから人間は戦争を始めるなど、悪いことばかりすると主張した。

つまり、彼の議論には共産主義無神論者がこれまで行ってきた虐殺を含む悪いことの数々が無視されているのである。

ーー

ソ連や共産支那社会の現状をつぶさに見れば、宗教なくして社会の倫理を保つことはできないのではないかとさえ考えてしまう。

ーー

米国の人気保守系ネット動画チャンネルPragerUの主宰者デニス・プレイガー(Dennis Prager)は、無神論者が個人として倫理的に生きることは可能だが、社会全体で考えるとそれは難しいと主張する。

ベン・シャピーロ(Ben Shapiro)は、西洋における人権思想の起源は、神が自分の姿に似せて人間を作ったという旧約聖書の物語であると語る。

以前紹介した通り、米国の共産主義者・自由主義者(リベラル)らは現在、出産直前まで妊娠中絶を認めよと主張しており、一部には、生まれた後も殺していいと言う人までいる。

こうした極論が生まれるのは、彼らが旧約聖書を背景とした人権思想を破棄した結果であるというのがシャピーロの主張だ。

ーー

旧約聖書は神の怒りが発動される恐ろしい話が多く、日本では評判が悪い。

しかし、プレイガーやシャピーロ、あるいはジョーダン・ピーターソン(Jordan Peterson)は、旧約聖書の物語の登場する神の理不尽な振る舞いは、この世界の理不尽に解釈を与えるためだという。

ーー

この世の中は、理不尽なことに満ち溢れている。

どんな善人でも事故死したり、何の罪もない人々のところに天災が降りかかったりする。

旧約聖書は、そういう理不尽を乗り越えて前向きに生きていくための物語というわけである。

ーー

クリスマスが近づいているが、最近米国の自由主義者(リベラル)らは、公的な場所で「メリー・クリスマスと言うな」と主張している。

これはキリスト教の押し付けで、信教の自由に反するというのが彼らの理屈だ。

代わりに「ハッピー・ホリデイズ」という言葉を使うよう圧力をかけている。

ーー

欧米の共産主義者・自由主義者(リベラル)らはキリスト教を基盤とした西洋文明を敵視し、それを破壊することを目指しているようにみえる。

ーー

私が米国の保守派を擁護する発言をすると、自由主義者らから「おまえは進化論を否定するのか」と言われることがある。

たしかに、米国のキリスト教福音派evangelicalは、学校で進化論を教えるのを禁じようとしている。

しかし、米国の保守が全員福音派と同じような考え方をしていると思っているなら、それは大間違いだ。

ーー

前回取り上げた黒人の論客アンソニー・ブライアン・ローガン(Anthony Brian Logan)は保守派を自認しているが、自分はキリスト教徒ではないと言っている。

また、キリスト教徒であっても、ある種の功利主義的な考えから教会に通っている人も存在する。

ーー

米国人の労働者階級二人組による「ブルー・カラー・ロジック(Blue Collar Logic)」というユーチューブ・チャンネルがある。

そのうちの一人のデーブ・モリソン(Dave Morrison)の話が面白い。彼の父は不可知論者(神がいるかどうかは人間には知りえないという考えの持ち主)だった。

にもかかわらず、彼の父は毎週教会に通っていた。

そこで、モリソンは不可知論者なのになぜ教会に行くのか父に聞いたそうだ。

ーー

すると、父の答えは次のようなものだったという。

「私は人間として良い生き方をしたいと思っている」

「週に一度、そのことを思い出すため、そして地域の人にその自分の思いを知ってもらうために教会に行くのだ」

ーー

続けて、モリソンは自らの考えを語る。

「神がいると仮定した方が人生は豊かになる」

「神がいないとすると、人生が終わったら何も残らないので、人々の記憶に残ることをしようとする」

「一方、神がいると仮定すれば、純粋に良い人生を生きることに集中できる」

ーー

私(掛谷)自身は科学者であり、神の啓示、例えばキリスト教徒の「福音」は信じていない。

不可知論者あるいは理神論者に近い立場である。

しかし、科学が万能であるとは思っていない。

ーー

科学は事実に関する議論のみを守備範囲にしており、価値の議論はできない。

さらに、事実に関する議論に限っても、科学がどれだけ進歩しても人類には知りえない領域があることも自覚している。

たとえば、非線形現象は100%の確率で予測することは不可能なことが知られている(天気予報はその代表例)。

ーー

今年出版されたシャピーロの著書 “The Right Side of History” で、西洋文明の発展はアテネ由来の論理的思考とイスラエル由来の宗教的世界観が両輪になっていると彼は分析している。

西洋では、紀元前からアテネを中心に哲学が花開き、客観性、公平性、公共性を突き詰める習慣があった。

その後、西暦100年ごろから一神教のキリスト教が西洋に広まったことで、西洋人らは「神が作った」世界全体に貫かれる普遍性(科学)に関心が向くようになった。

ーー

この哲学と科学の両者を結び付けたのが13世紀の聖職者トマス・アクィナスである。

その結果、ヨーロッパでは科学的なものの考え方が広まったが、そこで多数の聖職者が貢献したのはそれが理由である。

たとえば、地動説を唱えたニコラウス・コペルニクスや遺伝の法則を見出したグレゴール・ヨハン・メンデルが聖職者であったことは有名である。

ーー

科学者の私から見ると、共産主義者・自由主義者(リベラル)らは非科学的、さらには科学の破壊者に見える。

というのも、彼らがしばしば科学法則の普遍性を否定し、それと同時に人類に知りえない領域があることを否定するからである。

つまり共産主義者・自由主義者(リベラル)らにとっては、自分の思い込みが常に正しいのである。

自分の頭の中にある世界観が全てというその姿勢は、サルトルの実存主義の影響を強く受けているように見える。

ーー

共産主義者・自由主義者(リベラル)らは、自分の気に入らない宗教的教義に対して、しばしば科学を持ち出して批判する。

それを見て、共産主義者・自由主義者(リベラル)らが科学的であると誤解する人も少なくない。

しかし、一方で彼らは、自分の気に入らない科学的知見に対しては、平然と無視するのである。

福島で風評被害をもたらしているデマはその典型である。

ーー

たとえば、トリチウムの性質は、どこで排出されても同じで、その科学的性質には普遍性がある。

だから、福島のトリチウムは危険であり、韓国の原発から排出されるトリチウムはきれいだという彼らの主張は、全く科学的とは言えない主張なのである。

ところが、その種の主張を平然と行う共産主義者・自由主義者(リベラル)らが後を絶たない。

その結果、大阪大学の菊池誠教授のように、もともと政治的に自由(リベラル)な考えを持つ科学者も、共産主義者・自由主義者(リベラル)らの非科学的なデマを盛んに批判するようになっている。

ーー

現代における共産主義・自由主義(リベラル)の本質は、宗教の否定ではないといえよう。

ましてや科学の尊重でもない。

一言でいうと、自分は正しく無謬であり、万能の神であるという自己愛信仰つまり(志位の独裁19年の)独裁者になりたい人たちなのである。

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コメント

›縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>リベラリストの正体 2 
お話を纏めて看れば、結局の処、中世に始まった、キリスト教を代表とする一神教の宗教の信用、則ち、神の信用の失墜が齎し、その代わりとして、自然科学や共産主義の様な、日宗教的奈モノが台頭したが、是等には結局、社会的奈混乱を終息させる様な力は無かった事に成る。

固より、欧州文明自体が、中東文明の亜流・剽窃に過ぎないのに、其れを表向きに認めて居無い点が、この混乱の大きな原因の一つになっていると私は思います。

つまり、彼らは、神と言う存在を、自然と乖離した処に置き、恰も自分達より遥かに優れた異民族が突如現れて、庇護の代わりに服従と信仰を求めたと言う話を、易々と受け容れて居る処に問題の端緒があると思います。 

最初から、異民族に拠る支配を容認して居るのは、彼らの日常そのモノだからですが、其処に、何故、支配されるモノとするモノしか存在できないのか、疑問が提示されて居無いのが、紀元前の中東や地中海沿岸地方の支配者であった青人達が催した社会が、道徳規範を確立できなかった原因だろう。

ギリシャ哲学は、その道徳規範を生み出そうとする胎動に過ぎないのは、道徳規範を確立する為には、道徳を規範する存在、則ち、神が必要だったからです。

だから、十戒と言う、道徳規範を持った神を戴く、ヘブライの民族宗教が注目されたのでしょう、ローマはしきりに、その宗教を取り入れようと諮ったけれども、前述のように、神が異民族であると言う前提なら、自分達はヘブライ族に支配される事に成りかねないわけで、却下されて居たのでしょうね。

其処へ、都合よく、ユダヤ教でも異端扱いされて居たゲッセネ派の士師が、刑死した事を訊きつけ、反ゲッセネ派乍ら、ファイリサイ派にも疑問を抱いて居た、異端の士師パウロに目を付けて、彼に、キリスト教を立ち上げさせた。

処が、流石に、選民主義のヘブライ人だけあって、ロー、有人の風下に立つ事には肯んじなかった、それ故、彼も、刑死する音になって居るし、キリスト教が、ローマに国教として受け入れられるのに約400年懸って居るのでしょう。

然し、是等の話は、飽く迄、亜応神文明の中の話であって、白人とは何のかんけいもないはなしなのです。

白人種の文明への目覚めは、世界でも最も遅く、紀元前10世紀辺りから、起源10世紀迄の、2千年間であるとされて居ます、それは、欧州地域は、高緯度にあって、然も、欧州半島の中央部には4千m級の脊梁山脈が存在して、山岳部に氷河が晩くまで残って居たのです。

そして、その氷河が、溶融して滑落する際に、平野部の表土を残らず削り取ったので、欧州半島は、岩だらけの荒れ地になって終った。

その為、温暖化が進んで、黒海沿岸から移住して来た白人種「=ケルト族は、農業に適した土地が、僅かしか残って居無かったので、欧州での人類の生活基盤は、僅かな耕地を奪い合う事に成り、食糧を失って飢餓に直面した民族は、他を襲って生き延びる事が当然の社会になったのでしょう、ダカラ、彼らにも道徳規範を伴った神が必要だったのです。

でも、青人文明が確立したキリスト教を、支配権を行使する手法の形で引き継いだ為に、その道徳規範が時代を経る毎に、民族宗教の成分に拠る改竄や付加を受けて、中世の中頃には、すっかり、植民地も、神については、道徳規範の依代としているダケの事で、他の歴史が長い民族の様に独特の死生観を持って居ません。

ダカラ、共産主義の様な唯物論を、言い訳にして、既成宗教を否定しているが、その実、その宗教自体が、理念なき為政者や支配者に拠って、散々、利己的な改竄を受けた偽物で有る事に、歴史を軽視している彼らに、何処まで気付けて居るかは、甚だ疑問ですね。

リベラリストの論を聴いて居れば、彼らの死生観なら、人間には肉体しか無く、それが滅びる時が従い、彼らに取って、自分が居無い人類の未来など、どうでも良いと言う事なのです。

すると、彼らの言い形に事を運んで行けば、人類は必ず、滅亡すること以外に、考えられません、彼らには、未来に対する希望溢れるビジョンも、子孫に良きものを遺そうと言う良心すらないのですカラ、其れは当然の話です。 彼らには、固より、自分以外の存在は価値を持たないのですカラ。

人間の寿命は精々100年ですが、人類の歴史は15万~20万年だと言われて居ますから、彼らが死に絶えても、多くの人類は生き延びるでしょう。

そして、更なる科学の発展や、人類が目指して居る、貧困の撲滅や恒久平和の理想が実現して行くかもしれません、然し、彼らは「人類の理想に背を向けて、無駄に生きたつまらない人達」としてしか記憶され無い事でしょう。

 一番良い方法は、人間が創った神では無く、自分にゃ周りに居る生物さの一つ一つさえも、地球の一部である事を認識する事です。 我々人類も、地球の一部、つまり、地球と言う宇宙生命体の欠片である事を知って、全ての魂は輪廻転生すると、自覚すべきなのでㇲ。

リベラリストの話を訊くと、ヤケクソに成って居るとしか思えませんでした。

然し、道徳の規範とは、神が定めし自然の理に拠って、起る、因果応報の法則に則ったもので、悔い改める事が出来無いものは、その裡、人間には転生され無くなる事に成るでしょうね。 その惧れは、皆さん自覚があると思いますが。

 本日も、更新ありがとうございます。
 
『神我と我欲・自己愛(エゴ)の戦い』

人間界の歴史上に於いて、各地域や民族性に合わせた
大霊の遣いが、降下して参りました。
(実際は現世も霊界内に存在しますが、位相が違うために
人間など物質内に魂を留めた霊たちには知覚できないことが大勢。)

要するに、同じ山頂(大霊)を目指すが、道程は数多という状況と
なったのです。

その道程の道標となるべく物質界に降下したイエス、アッラー、
釈迦(シッダルタ)等などは全て大霊の使徒であり人霊に、愛と道を
指導することが目的でした。

地獄の様相状態に毛が生えたような地球では、指導する教師の
必要性があったのです。

劣等生の集まりですからね。

霊性に高低差があるが故に、物質化されたモノしか認識できない
人霊のために、敢えて各高級霊達は肉体を持ち、各地に降下しま
した。

詞で諭した処で、理解できなかろうという判断の下、俗にいう処の
超常現象や、超能力を見せることによって、傾倒させる必要性もあ
ったようです。

見知らぬ人間が、いくら高尚な話をしても素直に受け入れられるほど、
地球上の人間は霊性が高くなかったという、悲しい現実だったという
事ですね。

しかし、それがまた誤解を伝承し、奇跡を起こすことができる者を聖人
として祀り上げる、悪弊が蔓延った。

同じ道を指導しているにも拘らず、伝言ゲームよろしく
変化して伝承されて行くばかりか、我欲や自己愛に脚色された
聖典(?)が各々作成されていった様相でした。
そのように未来への不安的要素を残しながらも、野蛮な行動性に
対する抑制目的としては、多少の功を奏したようですね。

然し乍ら、その不安的要素が大きく悪の華を咲かせて、対立や殺戮、
強奪を生み出す権力者の道具へと変遷していきました。

特に地球の指導グループの代表格であるイエスは、キリスト教なる
宗教に眉を顰める事屡々。
自身が担当した地域から生じる悪弊には、非常にご不満そうです。
(自身も磔られましたしね)

そこで、先日も記述いたしましたが、個人レベルでの「目覚め」という
方法に絞るプロジェクトの展開へと方針を変えたそうです。

日本国内には神社が建立されていますが、ここでは高級な自然霊が
鎮座しています。ほかの修行中の自然霊を従えて、地域を守護する
目的を持ちます。

歴史上、地域で気高いと評判の桜姫殿は、タヒ後、幽界にて先だった
夫君と逢われたのちに、現世で地元の衆が建立した自身を祀る神社
での守護役としての教えを得、守護役としての自身の修行に就かれた
そうですが、桜姫さん曰く、空には龍が対で舞い、雲の上には、雷様が
雷太鼓を身に纏い、鳴らしながら雨を降らせているという、状況をご覧
になったそうです。
言葉に尽くし難い美しさと神妙さが際立っていたようです。

「日本昔ばなし」が思い浮かぶような情景だな、という感想を持ちました。(笑)

日本ではこのように、歴史上に名立たる人物が神社に祭られると、
そこに於いてのその方自身の修行を兼ねて、守護役に就くのだ
そうです。

独特な世界ですね。

日本以外の世界でも自然霊達は日々、頑張っておりますが、
いかんせん物欲にかられた人達は、気づくことさえありません。

他にも多くの自然神が祀られています。竜神、天狗、稲荷。すべて
高級自然霊です。その自然霊達が地域を、そして日本を守護して
いるのです。

まぁ、位相の違う世界の説明は置いて於きまして、
現在、「神我vsエゴの戦い」のひとつが佳境を迎えようとしています。

悪魔とは(=)エゴの最たる状態を表す言葉でしょう。
つまり、神我(=神)vsエゴ(=悪魔)ですね。

物欲と支配欲に駆られて餓鬼と化した集団と、等しく世界の民の
ために平和と安全への途を開こうとする利他愛の者たちとの戦いです。

矢面に立っている方たちはまさに命がけでしょう。
悪魔の使徒となり、邪魔をする者、それに加担する者、目晦まし
にあって認識なく邪魔する者、多岐に亘っていますね。

皆さんはどちらにエールを送る立場ですか?

縦椅子様
 今日も素晴らしいブログ有難うございます。
≪カール・マルクスは「宗教は民衆のアヘンである」とした。≫
アヘンは人を廃人にしてしまう。人々がアヘンを吸って生きていかなければならない社会=共産主義社会が悪いので≪共産主義者らは民衆から宗教を奪ったのだった≫ということになる。
 私の読んだ本:ジャンヌ(ジョルジュ・サンド)の世界を再現してみよう:-まるで狭い基部の上の巨大なキノコのように置かれたこれらの岩塊は古代ガリア人たちのメンヒル、ドルメン、環状列石、つまり巨石式神殿の遺跡なのだ。そして、この近くに、崇高さも、美しさもなく、打ち捨てられ、荒廃した雰囲気に包まれたこの不吉な場所は「ジョマルトルの石」と呼ばれている。このあたりの農民の頭には「宝物がこのあたりに埋められている」という言い伝えがしっかりと入っている。
 そのあたりを3人の若者が通りかかり、天真爛漫に優雅に眠っているドルイド尼僧と思しき美しい乙女の真の美しさに魅せられ、少女の目を覚まさずに、眠っている少女の開いたままの手の中に、一人はナポレオン金貨を、一人は5スーを一人は銀貨をそっとおいて、娘の将来を祝福する言葉をのこして、立ち去った。「悪魔の仕業か、ジョマトルの石のあたりに出てくる妖精の仕業と思うでしょう・・・」とその施しが運命の媒介となることとは予想だにしないで…
 年月が過ぎ、3人の若者から思いを寄せられたり、結婚を申し込まれたりされても、頑なに結婚を拒み、純潔を守る為、身を投げて死に至る。彼女は手の中に3枚の硬貨を見つけた時終生守る誓いをたてていたのだ。
 「悪を理解することができず、彼らは悪を見ない。彼らはまるで無知の雲の中でくらしているようだ。彼らの存在はいわば隠れている。彼らの心だけが生きているようにかんじている。彼らの精神は原初の無知のようにかぎられている。それは『創世記』の神の園の中で眠っている。一言でいえば、原罪が彼らを穢さず、彼らはエヴァの子孫たちと違った種族に属するようだ。
 ガリアのイシスはこんな風だった。周囲の人々の関心事にはまるで現代に運んでこられたドルイド教の巫女のように、無縁に思われた。
 ドストエフスキーは「現代の百姓娘の中に、彼女は突如我々の眼前に、史上人物ジャンヌ・ダルクの姿を復活させ、この崇高な奇跡にも等しい歴史現象の現実的可能をまざまざと立証しているーこれこそ完全にジョルジュ・サンド式課題である。そして  天上の存在がジャンヌの口を通して語っているかのように揺るぎない声できっぱり話す言葉にサンドの理想とした共同体を読み取ることは容易である。
 「地中にたからものがあります。それはだれのもでもありません。それはすべての人々のものです。…私のように…そして聖女テレサのように・・あなたはそれを人々に言ってください。
 それは知恵です。母さんがわたしに与えてくれ、わたしが宝物を見つけた時にはすべての人に与えるようしっかり命じた真実の知恵です。
 ここにはすべての物を独占するような悪魔的な共産主義的独占欲はない。すべて手に入った宝物は、「みんなでわけましょ」という善意に満ちた優しいこころが広がっている。「すごいな」とおもいます。今の大阪都構想のように、ひとを陥れることばかり・・・人が幸福に生きられることをどうして考えないかとおもってしまう。善意の世の中になってほしいと切に願います。

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