縄文時代、日本列島に住む我々の祖先は、およそ武装することがなかった
ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集
我が国では縄文晩期に人口が急減(26万人→8万人)しています。
その経験から、備蓄食料の確保のために、稲作を中心に据えた文化が始まります。
その中心的役割をなされた初代神武天皇が、まさにカンヤマトイワレヒコ(大和の神と呼ばれた男)となって、以後の天皇の世紀を築いたのでした。
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人口の激減「大掃除」のようなことが、3000年前に起こっていたわけです。
このときは神武天皇の御出現によって、なんと日本の人口は、わずかの間に67万人に増加。
26万人→8万人→67万人なのですから、人口は最低期の8倍になったわけです。
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こうなると、村々には子供たちの声がこだまするようになります。
大人の数より、とにかく子供の数が多い。
そうなると、子供たちの間に、子供同士のきびしい競争が始まります。
戦後の団塊の世代と同じです。
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食事をするときにも、おいしいものを我先に食べないと、兄弟や仲間たちに、おいしいところを全部先に食べられてしまう。
自然と、競争が生まれるわけです。
そしてそうなると、必ず起きるのが、外の世界への冒険です。
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おそらく、この時代に、多くの若者達が、冒険心と新天地を求めて、半島や大陸に出掛けたことでしょう。
ところが半島も大陸も、遊牧民(人が人のものを奪い合う)文化を持っていた。
誰もが武器を持ち、人を殺して自分が生き残ろうとしていた。
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そういう姿を目の当たりにして帰国してきた若者たちは、国内にあっても日常的に武装したことでしょう。
国内における若者たちの競争関係が、そうした武装に一役買ったであろうことも見過ごせません。
これは、縄文時代の日本を考えるとき、実に驚くべきことでした。
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というのは、縄文時代は1万4000年も続いたわけですが、この間、日本列島に住む我々の祖先は、およそ武装することがなかったのです。
このことは、全国にある縄文時代の遺跡において、小動物の狩りのための弓矢や石斧は出土しても、剣や槍などが出土しないことから証明されています。
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ところが弥生時代の遺跡から出土する埴輪などは、明らかに武装した武人の姿をしたものが出土するのです。
つまり弥生時代の人口急増期に、日本人は武装をするようになったわけです。
これはどうしたことでしょう。
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何かの影響を受けて、武装することがかっこいいこと、あるいは、武装しなければならない事情が、その時代に起きたということを意味します。
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ただ、ここで日本では不思議なことが起こるのです。
西洋、東洋を問わず、人が武器を持つようになると、必ず武器を持つものが、弱い相手を叩きのめし、その者が持っている食料や、女性を奪い蹂躙するということが、起こっているのです。
ところが日本では、そうはなりませんでした。
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なぜならなかったのかには、理由があります。
人口減少期に、神武天皇は九州から畿内までをめぐり、農業指導を行われました。
このことは古事記、日本書紀の両方に記述があります。
そして橿原の地に都を定められたとき、日本全国天下万民がひとつ屋根の下に暮らす家族のように暮らすことができる国を築こうと詔(みことのり)を発せられました。
これが我が国の建国宣言です。
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神武天皇が、天孫降臨した迩々芸命(ににぎのみこと)の直系のお血筋にあられながら、日本の建国宣言、ならびに日本の初代天皇とされるのも、ここに理由があります。
つまり、3人に2人が亡くなるという不幸を日本全国が経験したあと、農業を元にして、決して飢えることがない国作りをする。
それだけでなく、天下万民がひとつ屋根の下に暮らす家族として、困ったときには互いにお米や野菜を融通し合う。
家族であれば、それは当然行われることです。
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日本という国は、誰もが家族のように、互いに助け合っていく、そういう国つくりをするのだ。
ということを神武天皇は明言され、それを実行されたわけです。
日本建国の原点は正にここにあるわけです。
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畿内が凶作に見舞われたら、中四国や九州がこれを助ける。
九州が凶作に見舞われたら、畿内や中四国がこれを助ける。
これを合理的、機能的に行うために、都が存在する。
このことが、我が国の形(国家)になったわけです。
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やがて日本全国天下万民がみんな家族なのだという思想が、しっかりと腰をおろした。
ですから、若者たちが外国の影響を受けて武装するようになっても、その基礎には、互いに助け合うためという考えが、あったわけです。
だからこそ日本では、武は、どこまでも人々の暮らしを守り、その国柄を守り、また世の中の歪みを正すために用いるものだと考えられた。
武を、人の道とする思想が、国家の黎明期に完全に定着したのです。
ーー
このことは、世界史、あるいは人類史上、まさに奇跡と呼んでも良いことであろうと思います。
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そして武は、ただ剣を振り回したり矢を射て、やみくもに敵を殺す単なる技能技術ではない「世の中の歪みを正す」武道となった。
武は、人格(心技体)を陶冶(とうや)するための武道に進化したのです。
さらに武術は、まるで芸術といって良いほどの密度を持った武芸へと、発展するに至っているのです。
ーー
まさしく、そういう意味においても日本は「奇跡の国」といえるのです。
« 彼らが国のために何かをするなどという、まるで日本人のような行為をするとは考えられないからです | トップページ | しかしこの作家の発言は、戦後の言論・メディアの支配者である在日・反日勢力が作り上げた「誤った定説」である »
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コメント
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>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>日本の農業が水耕稲作主体に切り替えた理由
私も水耕稲作の存在は、縄文人は早い時期から知って居たと思って居ましたが、其れを受け容れ採用しなかった理由は、主に、2つあると思います。
1つは水耕稲作は、今でこそ水温を諮る事が出来ますし、季節変化のタイミングも分りますが、そう言った知見無しには、非常に難しった事、そして2つ目には、列島の風水害の多さだったでしょうね。
何せ、日本中の人口が、今の0.2%程度しかいなかったのですカラ、幾ら住める所や稲作を出きる処が、限られて居るカラとは言え、シナの様な天然の湿地帯が膨大に有る様な、処は日本には有りません。
其れだけ労働力を必要とするのに、1回の風水害で、全く収穫できなくなる可能性もあるのですカラ、冬の飢餓を考えれば、水耕稲作に踏み切るのはリスクが大きかったと思って居ました。
然し、3千年前と言えば、黒海周辺でも、ゲルマン族が欧州北部に向け、移動を開始した時期ですカラ、地球規模の天候異変を起こす要因「=火山の終局的噴火や天体の衝突などで、地球が舞い上がった塵に覆われて、一遍に寒冷化する」が起って居るのでは無いでしょうか。
兎に角、26万人の人口が8万人になる「=7割の人が死んだ」現象は、戦争であってもそうそう起る話ではありません。
是が、伝染病が原因なら、その後の急速な人口の回復は説明が出来ませんので、やはり、食糧不足に拠る飢餓や栄養不良が原因でしょう。
すると死んだのは、乳幼児~低年齢の子供、老人、成人女性の順番に多かったのでしょうから、民族に取って大きな悲劇だった事は間違いないでしょう、中には、小さな規模の村なら全滅して終った例もあったでしょうから、問題は深刻ですね。
「このママでは、全滅する」と言う危機感を共有した人々は、村の境を超えて情報を交換し合い、なんとか、次の冬は餓死者が出ない様にと、皆が固まって棲み、残った食糧を持ち拠って凌ぎつつ、今後の事を真剣に話し合った。
生き延びた古老の中カラ、水耕稲作の話が出たが、十分な知見を持つモノは居無かったし、苗処か陸稲用の種籾しか無かったでしょう、ダカラ、最初の数年間は、飢えに耐え乍ら、皆で食糧を分け合って、支え合って居たのだと思います。
そんな或る日、吉報が舞い込みます。 その話の出元は、漁労海産だけでなく、海流の流向を超えて、シナ大陸と交易をして居た海人族からでした。
彼らとは、農産物の五穀や野菜と、魚介類の等価交換でを通じて交流が有った」のですが、その吉報とは、水稲の苗が手に入る、と言う事で有り、望むなら、シナに水田の作り方を習いに行く事も、或いは、そういう人を移住させる事も出来ると言う話だったのだと思います。
10年ほど前迄は、弥生の初めは、紀元前2~3世紀であろうと言われて居ましたが、年代測定に使って居た、炭素のアイソトープ(同位体)をC12~14に変えたら、今迄の検出年代が、500年以上遡る事が判明して、騒ぎになった事が有りました。
すると、弥生の始まる「=水耕稲作の開始でえあり、人間のエネルギ―源となる、炭水化物を多く含む穀旅の大量栽培は、人口を急増させます。
加えて、シナ大陸からも、農耕民が」流入して来ましたが、彼らの多くは、約千年前に、青人系遊牧民である、後世、黄河文明人や漢民族と称せられる、コーカソイド種の遊牧民に、追われた長江遺民だったのでしょう。
勿論、農奴扱いされて来た千年の間に、混血も進んで居たでしょうから、遺伝子はかなり変わって居た筈ですが、現在のシナ・朝鮮人に多い、N系でもCF系でも無く、縄文人と同じ、DE系で有った可能性が高いと思います。
つまり、紀元前7~8百年前に、列島に大量移住して来たのは、長江遺民で、其れも、越系の東夷族であったと私は推定して居ます。
彼らは、最初は九州や中国と言った温暖な場所に棲んで居ましたが、縄文人の人口が増えて来るに随い、もっと未開拓の東へと移動を余儀なくされましたが、原住して居る蝦夷族にも、水田耕作以外(当時の水稲は、未だ、温度耐性が不十分で、東北では、難しかった)の農業技術を伝える事で、彼らを飢えから救ったので、逆に地域の指導者的な立場に立ちって、農業指導を行う様になったので派内でしょうか?
処が九州では、同じく原住民の熊曽族や隼人族と言った、海人族も水田耕作を習い覚えて、人口を着々と増やして居ったが、彼らには「九州は固より、自分達の土地である」と言う意識が強かったので、晩くまで、大和朝廷に「まつろわぬ」人々で有った様ですね。
弥生人との交流もあまりなく、平地や海岸に棲んだ縄文人とは別に山岳部で、海に漁に出ない時は、山岳地帯に棲み分けて居ましたので、自然、水田稲作は、余り熱心ではありませんでした、是が、後年言われる「森の人」であり、北狄族の一種だと思います。
唯、九州では、長江遺民「=弥生人」の流入で、俄かに人口が増えた縄文集団の中カラ、更なる、農業の新技術で有る「棚田耕作法」の普及・伝授を目指し、東へ向かう集団が居ました。 是が、神武帝だと私は思います。
神武東征と言いますが、その実態は、農業技術の伝播であり、人助け名のですが~征伐ではありません、是は後付けの話でしょう。
農業の結果が出るには、1年間を要するので、1箇所に数年かかることもあって、中国地を通過するのに、16年を費やして居ます、、然し、その結果、安芸・吉備・播磨は、穀倉地帯となって、その後、開闢した大和朝廷の、講演勢力になって居ます。
つまり神武帝は、大和朝廷を建てるに、外敵と見做されて棚田耕作法の伝授を拒否された、近畿の長脛彦以外には、武力を用いずに、土地の豪族を従わせる事が出来た事に成ります。
だから、東征群の中には、戦好きの長江遺民は入って居無かったと言う事にも有りますね、神武帝が、もし武力での制圧を行って居れば、戦火が広がって、棚田耕作法の伝授処では無かったでしょう。
ですから、最も、平和てきな制圧法こそ、「闇を上から救う、農業技術の伝授」だったわけで、是も、世界に他例の無い事ですが、人間の敵は人間では無く、人はお互いに援け合ってこそ、繁栄する」と言う、冷静に考えればごく当たり前の事を。実践した神武帝は、偉大だったと綿所は思って居ます
投稿: ナポレオン・ソロ | 2019年11月 8日 (金) 18時23分