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2019年11月 3日 (日)

この国(朝鮮)を目して野蛮と評するよりも、寧ろ妖魔悪鬼の地獄国と云わん

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

宇山卓栄『韓国暴政史 文在寅現象を生み出す社会と民族』(扶桑社新書)

戦後日本社会はいわゆる在日・反日勢力の支配下にあった。

この事実はネット環境ができてからようやく日本人に知られることとなった。

在日・反日勢力とは占領軍の占領政策に協力することにより、敗戦利得者となった人たちである。

そして戦後日本社会の政財界・教育界・言論・メディア・法曹界を支配し、言論を検閲し統制をして彼らの利権を維持してきたのだった。

ーー

ネット環境の存在がなければ未だに彼らの思いのままの言論環境が維持されていたに違いないのだ。

ネット上では、かつて司馬遼太郎が「日本人の祖先の国」が半島だと書いたことに対して、それは虚言だと証拠を上げて指摘されている。

さらに司馬遼太郎史観の虚構がつぎつぎと暴かれている。

ーー

また在日・反日勢力が支配する大手メディアは今も「渡来人が日本にきて弥生式文化をもたらし」「縄文人と混血して現在の日本民族が生まれた」という証拠のない俗説を広めている。

ネット上では、これらがすべて嘘であることが近年の科学、医学、遺伝子探求などで鮮明になったと伝えた。

これによって溝口優司や八幡和郎らが言ってきた説もまた嘘の列にあることが晒された。

ーー

くわえて近年の邪馬台国を巡る珍説、奇説、愚説の洪水のなかでも「邪馬台国が東征し大和朝廷がはじまった」という井上光貞や井沢元彦、武光誠、古田武彦、上田正昭らの説も正しくないことが傍証される結果となった。

ーー

かつて福沢諭吉は『脱亜論』を世に問うたが、主宰した『時事新報』(1885年2月26日付)の社説でこう書いている。

「この国(朝鮮)を目して野蛮と評するよりも、寧ろ妖魔悪鬼の地獄国と云わん」

この福沢の主張が正しかったことが、今や次々と実証されつつある。

ーー

というのも、ネット上で、在日・反日勢力が支配する言論・メディアでは到底知りえない朝鮮人らの事実を知ることができるようになったからだ。

ネット上では毎日のように、朝鮮半島の「妖魔悪鬼の地獄国」が克明に報道されている。

そして半島では例えば南で、日本企業に大法院の判決に従えとインテリ層が大真面目で言ってくる、いわゆる「反日」の暴走がとまらない。

(知識人(インテリ)が狂っていればその国は終わる)

ーー

その暴走をネットで視聴している日本人らは、朝鮮人の国際条約を守れないその後進性にあきれ果て批判し罵倒している。

こんな声が嘗てない高まりを見せているのだ。

一方で、多くの批評家、歴史家、学者、報道記者(ジャーナリスト)らの朝鮮研究の深化によって、これまでの朝鮮史観がひっくり返った。

同時にこれまでの在日・反日勢力が支配する言論・メディア・歴史学者が書いてきた現代朝鮮史が嘘だらけだったことが明らかにされた。

ーー

第一は稲作をもたらした弥生人が朝鮮半島から来た渡来人であるという証拠のない説に対して多角的な歴史検証がなされ、虚説であることが立証された。

評者(宮﨑)も、拙著『神武天皇以前』で触れたが、稲作はむしろ日本から半島に伝えられたことが証明されたのだった。

というのも縄文後期6千年前から稲作が日本で定着していたことが、発掘されたその遺構から明らかとなり、誰も反論出来なくなったからだ。

ーー

第二に医学の進歩によって民族のDNAが明らかにされ、日本人と朝鮮人との遺伝子に共通性が低いことが判明した。

体細胞DNAやミトコンドリアDNAなどで、日本人と朝鮮人、支那人、モンゴル人がまったく人種的に異なることがわかった。

在日・反日勢力が支配する考古学者らが、この事実に対して知らん顔をしているのは、自分たちのこれまでの「学説」が崩壊するからである。

しかし日本人と朝鮮人が全くの別人種であることは言語学の研究でも明らかになっていることだ。

(日本語と朝鮮語は全くの別言語である)

ーー

第三は、支那の正史が記述した倭は、半島の南を含めていた事実が再認識されたことである。

かくて戦後の歴史教育が隠してきた史実が浮かんだ。

『魏志倭人伝』における「倭」の意味は北九州の豪族による地域政権だけではなく、朝鮮半島南部を包括しての総称だった。

ーー

本書が改めて指摘する下記のポイントがとくに重要だろう。

北朝鮮と韓国を「一つの民族」と喩え、統一朝鮮と叫ぶのは間違いだということだ。

漢江を挟んで北は遊牧の満州族が主体、南は農耕民族の韓人だが、その「韓人」とて、一括(ひとくく)りには出来ず百済、新羅、任那のように「三韓の地にいた人々」だとする。

ーー

本書は言う。

「世宗は『貢女』と呼ばれる性奴隷を中国に積極的に差しだして」清国のご機嫌を取ってきた。

「(自国)民を売り飛ばすようなことは朝鮮では日常的に行われていた」

だから、日本も同じだろうという浅慮から世界各地に「慰安婦像」を建てることになる。

見方によっては、あれは朝鮮人自らを貶(おとし)める材料になるのではないのか?

ーー

朝鮮人らは、自らの劣等性を、日本を侮ることによって代償し、精神の安定を得ているだけなのだ。

ーー

「日本書紀の雄略紀や欽明紀では、日本(大和王権)が任那をはじめ伽耶を統治していたことが記されています」

(中略)

「『広開土王碑』には、倭が新羅や百済を臣従させたと記されています」

「新羅と百済は王子を日本に人質に差しだしています」

ーー

それゆえ前方後円墳が半島南西部にまで分布している。

つまり半島南西部は、確実に日本の統治下にあったことになる。

ーー

さらに白村江の戦いに関する戦後の歴史認識も、改められる。

つまり任那日本府があったように、朝鮮の南は日本の統治下にあって、唐が新羅を攻め立て、ついで百済を侵略した。

唐の大軍に対して日本にいた王子が大和朝廷に救援を求め、斉明天皇自らが大軍を率いて瀬戸内海からの出軍、途次の福岡で急逝する。

防衛路線を継いで日本は出兵したが、白村江の戦いで敗れた。

ーー

この歴史の真実は「百済の滅亡が日本にとって、『遠い外国の話』ではなかったからです」「事実上の自国の領土を侵犯されたという当事者意識とその国辱に対する憤激が日本を突き動かした」と見るべきだと著者は強調するのである。

ーー

そして新羅が裏切り、唐の属国となって以来千年以上、彼らには奴隷根性が染みついた。

それが朝鮮人のDNAである、と著者は言う。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>続々と更新される極東史
 ダイジェスして頂いた、この本の内容で、特に目を惹いた事が2点ありました。

 一つは、私も前から疑問に思っていた、大和朝廷成立以前の日本の姿で、「魏志倭人伝」と言う、三国志に出て来る、曹氏の魏王朝の時代に書かれた書物ならば、3~4世紀出遭った事に成ります。 

 処が、その書にも有る、日本で起こったとされる倭国大乱は、弥生と言う、水田耕作を行う民族が、日本に渡来して、俄かに人口が急増して、安定して居た、生産食物と人口の比率が狂い始めた結果、起こったと、説明されてきましたし、当初の測定に使って居た、炭素原子の同位体を12→14に変えた事で、観測年代が、500年遡る事が、判りました。

 すると、最新の水田耕作が、大陸から伝わって来たのは、紀元後などでは無く、紀元前6~7世紀で有ろうと言う話に成って来たのは、既知のはなしです。

 然しならば、倭国大乱の原因を今まで通りの原因だとすれば、その乱が起ったのは、紀元前4~5世紀の話で有る事が、宮内庁資料に拠って、推定されて居ますから、魏志倭人伝緒を基にした推定とは、凡そ、千年のギャップが有る事に成ります。

 宮崎さんのダイジェストに拠れば、この魏志倭人伝の記述に拠る推定は、この書で、完全否定されているとの事で、歴史ファンの私として派胸のすく思いでした。

 もう一点は、白村江の戦いの顛末に関する事で、茄ず、原因から言って、日本が、仲哀帝の御代に、即位して間もない帝が、身重の皇后と祖の父君である武内宿祢を伴って、大和から遥々、九州に遠征し、三韓「=新羅・濟・任那」と連動して謀反を起した、熊曽族の征伐を始めましたもにです。

 然し固より、この地は大和朝廷にとっては、本拠地(故地)では有るモノの、譜代の重臣である久米氏に任せて居たのですが、任那まで背いたとなれば、久米氏の身に異変が有ったと考える他は無いので、帝の父君である日本武尊の名誉も懸って居るので、若い帝、御自らがご出陣あそばされたのだと、推察いたします。

 然し、現実には、帝は、着いて早々に、熊襲が放った矢が当たり、その傷が元で薨去されます、すると、岳父の武内宿祢が、熊襲を抑える一方で、身重の皇后が軍を率いて海を渡り、実は劣勢にあったダケの任那軍と共に、敵の主力の新羅勢力を打ち破って、軍半分を遺して、任那の軍勢を強化岐路に着きますが、この時、産気づいて目出度く男児を出産。是が後の応神帝ですね。

 然し、九州に帰っても、熊曽族の反乱は収まっておらず、武内宿祢と神功皇后は、爾来、男児を育て乍ら、40年の長きにわたって、熊襲を平定し、久米氏の勢力を復活させます。

 でも、この後も、磐井の乱が起って、九州は。不知の地でしたが、雄略帝の時に本格的な介入を行い、熊襲よりもっと南の、然も、寧ろ、大和朝廷の祖とも言える隼人族との親交を取り結んでいました。

 近畿に屯倉(みやけ)「=皇室の食糧庫」を護へ伊として、隼人族を赴任させたので、京田辺の辺りには、この兵士達の隼人舞が能子っているし、苗字も。宮家、三宅、そして、犬飼と言う名前が残って居ますね。

 余談が過ぎました、スミマセン

 白村江ですが、固より、新羅と百濟を任那を使って収めて居たのですが、この2国が内訌を繰り返すので、その隙に付け込んだ唐が、大軍を送って、裏切った新羅と共に、百濟を攻め落としたのです。

 是を聴いた日本に居た、百濟の嗣王子が、斉明帝に哀願して帰国を許されますが、その時に、よもや女性の斉明帝が、御自らご出陣為されて、然も途中の福岡で、薨去されて居たとは、初めて聞きました。

 この後は、世間知らずの王子が、籠城を主張する重臣たちを切り捨てて、勝手に軍を動かした為に、百濟・日本の軍派大敗を喫して、王子は一人、高句麗に逃れて居ます。

 母帝の死を受けて、即位した天智帝は、是を汐に、半島に居た、勢力を全部引き揚げて、絶縁しますが、生き残って居ry百濟の王族・貴族も3千人次期連れて帰って来た為に、壬申の乱の原因を造って終います。

 是等2つの疑問点の解明は、未だいくつか残って居る疑問点は有りますが、画期的な事だと思います、私は全面的に支持したいですね。 

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