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2019年10月20日 (日)

秀吉の明国征伐も、戦いが半島に限定して行われていただけで、その戦った相手は明国軍であって、朝鮮軍ではありません

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

秀吉の朝鮮征伐という言い方は間違いで、本当は明国征伐で有り、そもそもスペインの植民地支配に対するわが国の自立自存のための戦いであった。

この説が多くの人から聞かれるようになってきました。

大事なことは、この説について、誰が言い出したかではなくて、誰が言い出したかさえもわからないくらい「常識化」することにあります。

ーー

実は秀吉は「朝鮮征伐」などという小さなことをしようとしたのではなかった。

秀吉は「明国征伐」に出かけたのです。

その戦いが半島に限定されたのは、秀吉が当時の世界帝国スペインの情勢を横目でにらみながら、政治を行っていたからにほかなりません。

そもそも当時の朝鮮は、明国の「一地方」でしかなかったのです。

ーー

たとえば大東亜戦争で、大日本帝国軍はパラオで戦いました。

日本兵が戦った相手は、パラオの住民や軍ではなく、連合国軍であった。

あるいはいまのベトナムやカンボジアのあたりは、当時はフランス領インドシナと呼ばれるフランス領のエリアでしたが、ここを占領するに際してわが国が戦った相手は、フランス軍であって、ベトナム軍やカンボジア軍と戦ったわけではありません。

ーー

同様に秀吉の明国征伐も、戦いが半島に限定して行われていただけで、その戦った相手は明国軍であって、朝鮮軍ではありません。

以下に世界史から見た朝鮮出兵の真意を考えてみます。

ーー

最近の韓国では、日本人だと分かればいろんな嫌がらせをされる。

歴史上の人の中では豊臣秀吉がもっとも嫌われているのだそうです。

文禄・慶長の役で日本武士団を朝鮮半島に攻め込ませ、朝鮮人らを殺戮させたからだそうです。

ーー

この時、日本武士団と朝鮮半島の海峡で戦った李舜臣は、朝鮮人らの英雄にされている。

ーー

彼らの主張は、李舜臣が、海上を封鎖したため、日本武士団は補給路を断たれ撤退を余儀なくされたと。

しかし記録によると、李舜臣は、朝鮮の海将として文禄元(一五九二)年八月二十九日に釜山港を占領していた日本軍に戦いを挑んでいます。

しかし、戦うことなく敗退しているのです。

また、慶長三(一五九八)年十一月十八日の露梁海戦でも李舜臣は登場しています。

このとき李舜臣は、停戦協定が結ばれたあと半島から引あき揚げる途中の日本の軍船に追い打ちをかけた、卑劣な男でした。

(昔から朝鮮人と協定を結んでも意味がないことが分かります)

卑劣な男・李舜臣は、この海戦で日本武士に返り討ちにあって戦死しているのです。

つまり朝鮮人らの主張「李舜臣が日本軍の海上補給路を断った」という記録はどこにもないのです。

ーー

戦後日本は、7年間にわたって占領軍の支配下に置かれました。

その際占領軍の占領政策に協力することによって敗戦利得者となった者たちがいる。

彼らこそが現在リベラルを名乗っている在日・反日勢力なのです。

彼らは戦後日本社会の政財界、言論・メディア、教育界、法曹界、学会を支配し、日本人に「護憲・東京裁判史観・侮日」を強制してきた。

ーー

その在日・反日勢力にとって秀吉の「明征伐」は「朝鮮征伐」でなければならなかったのです。

というのも、「朝鮮征伐」であってこそ、朝鮮という国があったことになるからです。

このことを知らなければ、「朝鮮征伐」のままでは、当時の世界史の中の日本が見えてこない。

ーー

戦後在日・反日勢力が支配する日本社会においては、徹底的な支那・朝鮮上げそして欧米上げ、日本下げの言論となっていたのです。

それゆえ戦国時代や秀吉を描いた歴史小説においても、秀吉の朝鮮出兵については、次のような理由によるものとされてきた。

・秀吉がもうろくしていたために起こした。
・秀吉の成長主義が引き起こした身勝手な戦いであった。
・武士団を支那、朝鮮に追い払い、数を減らすためだった。

ーー

当時の日本は、各藩がそれぞれ独立した国を経営していた。

もうろくジジイの世迷い事で、大枚をはたいて朝鮮までノコノコ出ていくおバカな大名は、全国どこにもいません。

ーー

信長から秀吉と続く体制は、農業重視というよりも流通指向がかなり強く、それぞれの大名は領地が増えなくても、商業による貨幣経済によってかなりの富が蓄積できたのです。

食うに困らない、生活に困らない豊かな生活を満喫できているのに、あえて戦争など、誰も好き好んで行うものではありません。

ーー

では、なぜ秀吉は朝鮮出兵を行い、世の大名たちも、これに追従したのか。

この問題を考えるには、日本国内だけに目を向けていては答えは出てきません。

つまり、朝鮮出兵には、当時の世界情勢がその背景にあったということなのです。

ーー

当時のアジア情勢を理解したからこそ、東北の大名たちまでもが、秀吉の朝鮮出兵に前向きに協力し、兵を出したのです。

秀吉の朝鮮出兵(文禄、慶長の役)というのは、十六世紀における東アジアでの最大の戦いです。

文禄の役だけでも、日本は約十六万人の軍勢を朝鮮半島に送り込み、朝鮮と明国の連合軍は二十五万人の大軍でこれを迎え撃ちます。

慶長の役では、日本は再び約十四万人を動員しています。

(天下分け目の関ヶ原の戦いは、東軍七万、西軍八万です)

ーー

それでは当時の世界情勢はどうだったのか。

世界中に植民地を獲得した「スペイン帝国」が、植民地からもたらされた莫大な富によって世界の覇権を握っていた。

スペインは太陽の沈まない国と形容され、黄金の世紀を謳歌していたのです。

そのスペインは、東アジア地域の戦略統合本郡である総督府を、ルソン(いまのフィリピン)に置いていました。

(フィリピンの名は16世紀の旧宗主国のスペイン皇太子フェリペ(後のフェリペ2世国王)から)

そして、東アジア植民地の拡大を着々と進めていたのです。

ーー

スペイン人が日本に最初にやって来たのは、天文十八(一五四九)年のことです。

宣教師、フランシスコ・ザビエルの来日がそれです。

当時の宣教師の仕事は、表向きはキリスト教の伝道ですが、本当の仕事は、将来その地を植民地とするために情報を収集することや、さまざまな懐柔工作です。

実際にキリスト教を伝道しながら、ありとあらゆる手段を使い、多くの人を改宗させます。

そして、それらの人々を味方につけ、頃合いを見計らって軍隊を送り込み、抵抗する者を殺戮し、その地を植民地にしていく。

ーー

内乱に明け暮れていた戦国大名たちは、そんな宣教師の目的を知りません。

最初は西洋からやって来た宣教師たちを、快く受け入れていました。

実際、ザビエルはあちこちの大名に招かれ、なかにはキリスト教の信者になった者もいました。

宣教師たちの仕事は順調に進んでいるかに思われました。

ーー

ところが日本人は、彼らが持ち込んだ鉄砲を、またたくまに自製し、改良して量産してしまった。

気がつけば、日本武士団は、ことごとくが鉄砲で武装していた。

日本全体の鉄砲保有数は、世界一になっていたのです。

その数、当時の世界の鉄砲数の半分にあたる約五十万丁だったと言われています。

ーー

これには宣教師たちも驚いた様子で、イエズス会のドン・ロドリゴ、フランシスコ会のフライ・ルイス・ソテロらが、スペイン国王に送った上書には、次のような記述があります。

「スペイン国王陛下、陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難です」

「よって福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に喜んで臣事するように仕向けるしかありません」

ーー

人口なら、日本より南米やインドのほうがはるかに数が多いわけで、城だって日本は平城が主流ですから、アジア、ヨーロッパの城塞の方が堅固です。

にもかかわらず、彼らが「日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難」と書いた。

これは、「鉄砲の数が圧倒的で、軍事力で日本には敵わない」とは、国王宛ての上書に書けなかったので有りましょう。

そして、「福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に喜んで臣事するように仕向ける」ように進言しているのです。

こうしてスペインは、日本での布教活動に注力していきます。

ーー

一方、あたりまえのことですが、スペインの狙いは日本だけではありません。

お隣の明国もスペインは植民地化を狙っています。

こちらは鉄砲をコピーするような能力はなく、単に人海戦術、つまり人の数が多いだけです。

ただ国土は広く、その調略には手間がかかります。

ーー

ちなみに当時のスペインにとって、朝鮮半島は対象外です。

朝鮮半島は、明国の支配下だったわけですから、明が落ちれば朝鮮半島は、自動的に手に入る。

そう考えていたはず。

ーー

スペインは明国を攻略するにあたり、当時、世界最大の武力(火力)を持っていた日本に「一緒に明国を奪わないか」と持ちかけています。

ところが日本は、まるでそんなことに関心がありません。

そもそも信長、秀吉と続く戦国の戦いは、日本国内の戦国の世をいかに終わらせ、国内に治安を回復することにあったのです。

ーー

信長は、比叡山や本願寺まで攻めたため、まるで第六天の魔王であるかのように描かれた。

しかし、実際には、信長の戦いの目的は、「一日も早く戦乱の世を終わらせる」ことに尽きたのです。

だからこそ、多くの人々が信長に従ったということが、最近になって発見された各種文書から、次第に明らかになってきています。

ーー

これは秀吉も同様です。

しかも、農民の出だから農民の気持ちが分かるのです。

戦乱によって農地が荒らされることを多くの民衆が嫌っていることを、ちゃんと分かっていたからこそ、秀吉は人気があったのです。

ーー

要するに、当時の信長、秀吉にとっては、日本国内統一と治安の回復こそが政治使命だったわけで、お隣の明国になどかかわっていられなかった。

ーー

ところが、秀吉が日本を統一すると、次第に明国への対策が大きな政治課題となって浮上してきました。

どういうことかというと、これにスペインが関係しているのです。

スペインが日本を攻めようとしても、遠路の航海を余儀なくされますから、世界の覇権国とはいえ大軍を差し向けることは不可能です。

仮にスペインが海を渡って攻めてきたとしても、数のうえからいえば少数であり、武力(兵数、火力)は日本のほうが圧倒的に優位です。

したがってスペインとの直接対決ならば、日本が負ける心配はありません。

ーー

ところが、スペインが明国を植民地として支配下に収めると状況が変わってきます。

スペインに支配された明国兵が、数の力にモノをいわせて日本に攻め込んできたら、日本は数多くの鉄砲を持っているとはいえ、これは大変なことになります。

まさに、元寇の再来、大きな脅威となります。

ーー

この脅威を取り除くには、スペインよりも先に明国を日本の支配下に置くしかありません。

火力、兵数、戦力・戦略に優れた日本には、それは十分可能なことだし、万一明国まで攻め込むことができなかったとしても、地政学的に朝鮮半島を日本と明国の緩衝地帯として置くことで、日本への侵入、侵略を防ぐことができる。

このことは、ロシアの南下政策を防ぐために、明治日本が行った政策と、当時の状況が酷似していることをあらわします。

ーー

さらにいえば秀吉は、すでにこの時点でスペインの誇る無敵艦隊がイギリスに敗れ、スペインが海軍力を大幅に低下させていることを知っています。

ですから、スペインが海軍力で日本と戦端を交える可能性はまずありません。

ーー

一方、国内で秀吉は、長く続く戦乱の世を終わらせようと、全国で刀狩りを実施します。

刀狩りそのものは、日本に太平の世を築くために必要なことであったわけですが、同時に庶民から武器を奪うことは日本の戦力を大きく削ぐことにもつながってしまうのです。

もし日本が他国侵逼の難にあったときは、大きな痛手となるでしょう。

ならば、武力がまだ豊富なうちに余剰戦力を用いて朝鮮出兵を行い、朝鮮から明国までを日本の支配下に置いてしまうこと。

これは我が国の安全保障上、必要だと考えても非難されるべきことではありますまい。

ーー

こうして秀吉は、文禄の役(一五九二~一五九三年)、慶長の役(一五九七~一五九八年)と二度にわたる朝鮮出兵を行うのです。

同時に秀吉は、スペインとも果敢な政治的交渉を行っています。

何をしたかというと、スペインに対し、「臣下の礼をとれ」と迫ったのです。

最初にこれを行ったのが、文禄の役に先立つ一年前、天正十八(一五九一)年九月のことです。

ーー

秀吉は東亜地域の拠点、ルソンにあるスペイン総督府に、原田孫七郎を派遣し、国書を手渡します。

「スペイン総督府は、日本に入貢せよ」

世界を制する大帝国のスペインに対し、真正面から堂々と「入貢せよ」などとやったのは、おそらく、世界広しといえども、日本くらいなものです。

ーー

対するスペイン総督府にしてみれば、これはきわめて腹立たしいことだったはず。

しかし、隣国であるイギリスの国力が増し、自国の防衛を優先させなければならない当時のスペインの現状にあっては、日本に対して報復的処置をとるだけの力はありません。

悔しいけれど放置するしかありませんでした。

すると秀吉は、その翌年に、朝鮮出兵を開始するのです。

ーー

スペイン総督府は恐らく驚愕したはず。

日本が明国を征すれば、その国力たるや東アジア最大となり、スペインにとって政治的、軍事的圧力となることは目に見えています。

しかも、海を渡って朝鮮出兵をするということは、兵員を海上輸送する能力があるということです。

いつ、ルソン島に日本が攻めて来てもおかしくありません。

ーー

慌てたスペイン総督府は、当時ルソンに住んでいた日本人たちを、マニラ市内のディオラ地区に、集団で強制移住させています。

これがマニラの日本人町の始まりです。

さらにスペイン総督府は、同年七月にドミニコ会士、フアン・コーボを日本に派遣し、秀吉に友好関係を樹立したいとする書信を届けています。

このとき、膨大な贈り物も持参しています。

いかにスペインが日本を脅威に感じたかということです。

ーー

けれど秀吉は、そんな贈り物くらいで騙されません。

重ねてスペインの日本に対する入貢の催促の書簡を手渡します。

その内容がすさまじい。

「スペイン国王は、日本と友好関係を打ち立て、ルソンにあるスペイン総督府は、日本に臣下としての礼をとれ」

「それが嫌なら、日本はマニラに攻めこむぞ」

「このことをスペイン国王にちゃんと伝えろ」と。

ーー

ところがこの秀吉の書簡を受け取ったフアン・コーボは、帰路、遭難してしまいます。

本当に海難事故で遭難したのか、返書の内容が百パーセント、スペイン国王の怒りを買うことが分かって、故意に遭難したことにしたのかは、いまとなっては不明です。

けれどおそらく、これは後者ではないかと私は見ています。

ーー

フアン・コーボの遭難によって、秀吉の書簡はスペイン総督府には届かなかったわけです。

当然のことながら、スペイン総督府からの返書もありません。

けれど、返書がないからと、放置するほど甘い秀吉ではありません。

ーー

秀吉は、十月には原田喜右衛門をマニラに派遣し、確実に書簡を総督府に届けさせたのです。

文禄二(一五九二)年四月、原田喜右衛門は、マニラに到着しました。

このとき、たまたま在マニラの支那人約二千人(明国から派遣された正規兵だったといわれています)が一斉蜂起して、スペインの総督府を襲った。

ーー

スペイン兵は応戦しますが、多勢に無勢です。

これを見た原田喜右衛門は、手勢を率いてスペイン側に加勢し、瞬く間に明国兵を殲滅してしまいます。

日本強し。

原田喜右衛門らの圧倒的な強さを目の当たりにしたスペインのゴメス総督は、日本の強さに恐怖します。

ーー

けれどゴメスは、スペイン大帝国から派遣されている総督です。

世界を制する大帝国王に、日本に臣下としての礼をれなど、とてもじゃないが報告できることではありません。

ゴメスは困り果ててしまいます。

ーー

そして、翌文禄三(一五九四)年四月に、新たにフランシスコ会士のペドロ・バウティスタを特使に任命し、日本へ派遣します。

特使の派遣を繰り返すことで、時間稼ぎをしようしたのです。

ーー

名護屋城(現、佐賀県唐津市)で秀吉と会見したペドロは、スペインがいまや世界を制する大帝国であること、日本とはあくまでも「対等な」関係を築きたいと申し述べます。

(秀吉は明国征伐の拠点として半島と対峙する場所に広大な名護屋城を築いていた)

普通に考えれば、世界を制する大帝国のスペイン国王が、日本という東洋の小国と「対等な関係」というだけでも、ものすごい譲歩です。

けれど秀吉は聞く耳を持ちません。

ペドロに対し、重ねてスペイン国王の日本への服従と入貢を要請。

ーー

なぜ秀吉は、ここまでスペインに対して強硬だったのでしょうか。

理由があります。

第一に、国際関係において、対等な関係というものは存在しないのです。

この時代における国際関係というのは、やるかやられるか、つまり上下の関係しかありません。

たとえ日本が小国であったとしても、大帝国のスペインに日本を攻めさせないためには、日本が圧倒的な強国であることを、思い知らせるしかなかったのです。

ーー

第二に、もし、秀吉が中途半端に「対等な関係」の構築を図ろうとするならば、スペインは当然のごとく平和特使と称して宣教師を日本に派遣します。

そして宣教師たちは、日本の内部から切り崩し工作を行います。

現に、世界のあらゆる国家が、その方法でスペインの植民地にされていたのです。

ですから、日本がスペインの驚異から逃れる道は、ただひとつ。

あくまでスペインに対して、強硬な姿勢を崩さないこと。

これしかなかったのです。

ーー

第三に、秀吉が目指したのは、あくまでも「戦のない世の中」であったということです。

武力で日本を統一したあとは、「刀狩り」を行い、内乱の芽をつんで太平の世を実現しようとしています。

けれど、刀狩りをして庶民から武器を奪うことは、一方において日本を弱化させることを意味します。

ならば、日本国内に武器を持たない平和な国を実現するためには、国際的な武力衝突の危険を、日本からできる限り遠ざける必要があったのです。

ーー

名護屋城における秀吉とペドロとの会見が物別れになると、スペインのゴメス総督は、日本への軟弱な外交姿勢を咎められ、スペイン国王によって更迭されてしまいます。

そして後任の総督としてやって来たのが、ルイス・ダスマリニャスです。

ルイスは、アウグステイン・ロドリゲスを使者として日本に派遣し、回答の引き延ばしを図るとともに、日本の戦力を冷静に分析します。

そして、ゴメスの分析どおり、もし日本とスペインが東アジアで正面から衝突すれば、スペイン側に勝ち目がないことを知ります。

そこでルイスは秀吉との直接交渉は避け、一人また一人と、宣教師を日本に派遣するという戦略をとりました。

つまり時間を稼ぎ、その間に当初の戦略どおり、日本に布教をしていこうとしたのです。

ーー

文禄三(一五九四)年には、ルイス総督の意向を受けて、ヘロニモ・デ・ヘスス以下のフランシスコ会修道士四人が日本に派遣され、日本での布教を再開しました。

秀吉もこれは認めています。

ーー

ところが慶長元(一五九六)年のことです。

スペインの貨物船、サン・フェリペ号が、荷物を満載したまま遭難し、土佐の浦戸に漂着したのです。

救助した船員たちを、秀吉の五奉行の一人である増田長盛が取り調べました。

そこで驚くべき事実が明らかになります。

なんとサン・フェリペ号の水先案内人が、増田長盛に世界地図を見せ、次のような証言をしてしまったのです。

ーー

「スペイン国王はまず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると次は軍隊を送り、信者に内応させてその伝道地の国土を征服するから、世界中にわたって領土を占領できたのだ」

ーー

報告を受けた秀吉は、即座にキリシタン二十六名を逮捕しました。

そして彼らを長崎に送り、「キリシタンを続けたいなら外国へ出て行け。日本に残りたいなら改宗しろ」と迫りました。

迷う二十六名に対し、長崎のイエズス会は、この二十六名の死罪を長崎奉行に申し出ます。

ーー

イエズス会の腹はこうです。

二十六名の信者をイエスの十字架になぞらえて見せ物にし、間違いなく天国に行くことができたと宣伝する。

こうすることで、キリスト教徒としての栄光に輝く姿を印象づけ、信仰による団結心をたかめる。

まあ、このあたりの話は、本題からかなりそれるので、次の機会に詳しく書くことにします。

ーー

要するに秀吉の朝鮮出兵は、統一国家をやっと形成した日本が、スペインによる東洋の支配から国を守るために下した決断であった、ということです。

このことは、単に日本や朝鮮の国内事情だけを見ていてもまったく分かりません。

当時の世界情勢、東アジア諸国の情勢を視野に入れなければ、秀吉がなぜ朝鮮出兵を決意したのか、そして多くの大名たちが、なぜその秀吉に従い兵を出し、勇猛果敢に他国に出て戦ったのかが理解できません。

ーー

もっというなら、日本が明治という統一国家を形成してから朝鮮半島を領有するまでの動きと、秀吉の朝鮮出兵当時の世界の動きは、スペインがロシアに変わったほかはきわめて似ています。

同じことが歴史上、繰り返されたということなのです。

ーー

もし、秀吉が朝鮮出兵を行わず、日本の国力をスペインに見せつけなければ、どうなっていたことでしょう。

明国がスペインの植民地になっていた可能性は非常に高いのです。

当然のことながら、朝鮮半島も、スペインの支配地となったことでしょう。

ーー

そしてスペインの植民地となることは、どういう意味を持つのか。

そのことは、いまの南米諸国が、見事に教えてくれています。

現在、南米に南米人の純粋種は存在しません。

白人との混血種だけです。

ーー

アルゼンチンやウルグアイでは、先住民族がほぼ完璧に抹殺されてしまいました。

いまこの地域に住んでいるのは、ほぼ白人種です。

ブラジル、エクアドル、ペルー、ボリビアは、全員が先住民族と白人との混血です。

純血種はいません。

ーー

日本も支那も朝鮮も、それぞれに純血種を保ちながら、いまに至っています。

南米のようなことにならなかったのは、秀吉と配下の戦国武将たちが、スペインと真っ向から戦う姿勢を示したためです。

ちなみに、秀吉の死去にともなって、日本は朝鮮半島から撤収し、慶長の役は終わりました。

「だから朝鮮出兵は秀吉の気まぐれで起きた戦争だ」

というのは、大きな間違いです、武将たちは、日本国を守るために自ら進んで明国征伐に出かけていたのです。

ーー

豊臣秀吉は、日本国を守るために、世界最強の大帝国に対し、一歩も退かなかった。

むしろ臣従せよと迫った。

秀吉の武力を実際に見せつける形での交渉術こそを、いまこそ見習うべきときにきているのではないでしょうか。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>見直されるべき日本の正史
 「戦国の三傑」は、小学生の頃、伝記ものを片っ端から読んで居ました。戦国時代と言うのは全国的な現象で160年近くも続いたのに、結局、最期は、東海・中部地方出身の3人が天下を取った。その理由について、地の利から考えれば、絶妙な場所だった、と言う解説には、頷く部分は有りましたが、何故、尾張・三河なのかと言う疑問は消えなかったですね。

 そして、このブログで紹介いただく、三傑の話で、秀吉~家康に受け継がれている、農民国家構想は、農耕民象国家の日本独自の優れたものであったと、再評価されつつあるのは、「日本史の再発見」と言う意味で、白眉だろうと思います。

 信長が、戦国の世を武力で平定し「=天下布武」、秀吉が農本国家構想を計画し実行、其れを、家康がちゃんと引き継いで、修正を加え乍ら、完成させた、と、云うのが、近代日本の始まりであると私は評価したいですね。

 然し、この三人が一番苦労したのが、宗教であった事は、あまり触れられてはいません。 特に、信長の仏教に対する弾圧の描写が目立つのは、今となっては、戦国大名の印象を悪くする意図が見え隠れして居る様な気がします。

 日本でのキリスト教に対する規制は、遠くメキシコ迄、鳴り響いて居たと見えて、伊達政宗の命を受け、ローマ法王に謁見して親書を手渡すため太平洋を渡った支倉常長を、メキシコ人は、「クリスチャンを弾圧した国の人間」として冷遇したと言う記録が有るそうです。

 そして、一行はその後、欧州で、明らかに日本人と分る若い女性が大勢、素裸で奴隷市場で売られている光景に遭遇します。

 是をやったのは、日本のキリシタンン大名で有る、高山右近や大友某、鍋島某の大名で、黒色火薬一樽と、民間人の若い女性50人を等価交換した結果であると、言われているそうですが、こんな許し難い話は、伝記処か、歴史でも教えて居ませんよね。

 明らかに、戦後のGHQ関係者に拠る、歴史改竄、若しくは隠蔽・抹消行為でしょう。 この一事でも許し難いのに、秀吉の朝鮮征伐を行う迄の経緯や、その結果について、未だに述べて居る教科書は多分存在しません。16世紀の世界覇権国であった、スペインに拠る東洋侵略を未然の食い止めるためになされた、と言う日本側の価値観で書かれるべきなのです。

 是は「何故日本ではキリスト教布教が上手く行かなかったのか?」と言う、素朴な疑問に、まるで答える気が無い教科書製作者、ひいては、歴史学会の歴史の価値や意義に於いて、日本人無視の、価値観が透けて見えます。

 正に、曲学阿世の徒と言える連中だと思います。こう言う手合いが、口先だけは、保守のふりをして、その実、敗戦利得者の立場を、満喫している場合が多い様ですね。

 曰く「過ぎて終った事なんて、何の価値も無い、将来がどうなるかなんて、誰にも分らない、ならば、今、力の強いモノから求められている事に応えて良い目をして何処が悪い、それが賢く生きると言う事だww」と、馬鹿笑いが、聞こえそうな気がしますね。

 でも、どなたかが云っておられましたが「安倍さんは、タイミングに恵まれた政治家だ」と、で、良く考えれば、この東大の教授ばかりで構成している歴史学会も、高齢者が多いとの事。

 すると、近々、鬼籍に入る方々も増えて行くでしょう。 そして、安倍さんに拠る文科省改革が始められ、戦後行われた日本史の改竄を糺す運動が、民間を中心に巻き起これば、彼らは、後継者を無くして、自然消滅するしか無くなると思いますね。 

 然し、正史と言うものは、飽く迄も、検証された、史実の積み重ねで無くてはならないのなら、その検証を裏付ける、標準は必要かもしれません。但し、長江文明の存在を無視している共産シナの様な権力に阿(おもね)って、学を曲げる様な徒は、要りません。

 歴史に学ぶとは、先人の生き方、処し方、そして、先人が未来へ何を残そうとしたのか、を学ぶことであると思っています。

 秀吉は「上に立つモノ」として必要な事、しなくてはならない事、自分が生きた証として、何を遺せるかを考え実行した。そう言う意味で、秀吉の事績からは多くのことが学べると思います。 

 秀吉の事績を正確に理解する為には、時代背景をできる限り正しく知る必要があります。自分に都合の良い結論を得るために時代背景を改ざんするなどというのは、先人が命懸けで成し遂げようとした行為を無にして終います、是は人類に対する大きな犯罪です。

 そう言う意味で、ねづさんの歴史の掘り起こし運動の意義は、深く、貴重なものが有ると思います。

 残念ながら記録がない事件ではありますが、蘇我入鹿の惨殺の「乙巳の変」~天武帝の「壬申の乱」迄の日本史についても、どこかに眠っている資料を見つけ出し解明してほしい。

 その前の暴君武烈帝の誅殺を行った、大伴金村の継体帝擁立迄の話。 仲哀帝と神功皇后の三韓征伐と応神帝「40年空白の謎」の解明も。そして、日本史最大の謎である、宮内庁資料では、500年以上に亘ったとされている倭国大乱の時代推定と、その顛末についても解明してほしいと思って居ます。

縦椅子様、ブログの更新をありがとうございます。

私は戦後生まれの団塊の世代ですから、秀吉の朝鮮征伐は教科書で習っただけです。母から聞いたのは、秀吉は日本を統一して、この日本は天皇に統治をお願いし、秀吉自身は朝鮮征伐をして朝鮮(又は明国)を統治するというものでした。

ところが、母がこれを教えられたのが何時かが分からないのです。ただ、戦後のGHQは正しいと考えていた人ですから、これがGHQの支持する考え方だとなると、それも異なると思いますから戦前にそんなことを教えていたのかと思う次第です。

しかし、秀吉はねずさんの言う通りでスペインの侵略を恐れて先手を打っていたと考えるなら納得できますし、朝鮮だって朝鮮人が日本の味方をして攻撃に加わり、役所を攻め落としたときには役所の書類を焼くことをしたと聞いたことがあります。

これは、役所の書類を焼けば奴隷の身分を書いた文書がなくなりますから、奴隷達の都合が良くなるとの発想であり、納得できるものです。ただ、朝鮮人は我が身のことで動いても、国のためを思う考えがないので、攻撃を受ければ命が惜しくて直ぐに逃げ出す特性がありました。


秀吉は日本のキリシタンの武将が、火薬を手に入れるために日本女性を奴隷にしたことをしたことを知って朝鮮から明国を攻めようと考えた素晴らしい武将だと思いますが、日本人を奴隷として売ったキリシタンの武将は屑だと思います。

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