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2019年10月 3日 (木)

ということは、空海が、唐人と同レベルの会話ができたということになる

ーー以下佐藤任「空海の謎の空白の七年」より抜粋編集

空海が唐から持ち帰った文献や品物を書いて朝廷に上表している。

それが「請来目録」である。

その冒頭には「新請来の経等の目録を上(あげ)る表」とあり、表とは上申書のことである。

しかし単なる目録ではない。

というのも、空海がいろいろな説明を加えているからだ。

ーー

一見して自己宣伝臭の強い文章である。

ーー

最初に、長安に到り西明寺に定住し、青龍寺の阿闍梨、法名恵果和尚にめぐり会い、この和尚を師と定めたと書いている。

初めての入唐で、長安の青龍寺の恵果和尚に出会ってすぐに師と定めた、というのである。

しかも和尚は大興善寺大広智不空三蔵の付法の弟子で、経典と戒律を究め、真言密教に通達している仏法の統理で、国の師とする人物だという。

ーー

恵果和尚との出会いと師事、付法の経過については、次のように書かれている。

(付法(ふほう)とは師が弟子に教法を授けること、この伝授の連続は付法相承といわれ,その印として衣鉢を授けたり,付法の証明書である印信 (いんじん) を与えたりする)

ーー

西明寺の志明、談勝法師ら五人、六人と一緒に同行して恵果和尚の許に行く。

和尚は空海を見ると、笑みを含んで喜んで言った。

「我、先より汝が来ることを知りて、相待つこと久し」

「今日相見ること大いに好し、大いに好し」

「報命(寿命)も竭きなんと浴するに付法に人なし」

「必ず須く速やかに香花を弁じて灌頂壇に入るべし」(原文訓みくだし)

ーー

延暦二十四年(八〇五)六月上旬、空海は灌頂のための支度の法具を準備し、灌頂壇に入って胎蔵界、七月上旬に金剛界、八月上旬に伝法阿闍梨位の灌頂を受けた。

空海は、五百人の僧にお斎(おとぎ)を設けて供養し、あまねく出家の比丘・比丘尼や在家の善き男子・善き女子に供養した。

ーー

そこで恵果和尚は、空海に持ち帰らせるための胎蔵界や金剛界の大曼荼羅図や経典、道具を造らせて、空海に言う。

「この両部の大曼荼羅と、百余部の金剛乗の法と、不空三蔵から転じて付嘱された物と、供養の法具などを本国に持ち帰って、教えを国中にひろめて欲しい」

「汝が来たのをみて、寿命の足らないことを恐れていた」

「しかし今、ここに法を授けることが出来た」

「写経や造像の作業を修了したので、早く本国に帰って、この教えを国家に奉呈し、天下にひろめて、人々の幸せを増すようにしなさい」

「そうすれば、国中平和で、万人の生きる喜びも深くなるでしょう」

ーー

恵果和尚はこの年の十二月十五日入滅している。

空海は、翌八〇六年(大同一)一月、恵果和尚の碑を建て、八月明州に行き、十月帰国、筑紫大宰府に滞在し、十月二十二日、「請来目録」を書いて上進したのであった。

ーー

ということは、空海が、唐人と同レベルの会話ができていたということになる。

しかしたとえ漢文経典に精通していたとしても、発音は現地に行かなければ習得不可能である。

このことは今も昔も変わらないはず。

ーー

この唐語がしゃべれたという事実は、空海が、遣唐使の一員として入唐する以前に、すでに入唐していて唐語を習得していたことを窺わせる。

ーー

それでは当時渡唐(ととう、唐に行くこと)はどのように行われていたのか。

当時のシルクロードの大陸での終着点は日本海に面する位置にある渤海国であった。

渤海(698年 - 926年)は、現東北部から朝鮮半島北部にかけて、存在した国家。

大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、唐からも「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹(遼)によって滅ぼされている。

ーー

「渤海」とは本来、遼東半島と山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである。

初代国王大祚栄が、この渤海の沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。

ーー

つまり渤海から黄河をさかのぼることで、唐の都・長安に行ける。

この道は朝鮮半島の西側を海沿いに北へ行くことから、北路と呼ばれていた。

長江をさかのぼり長安に行く道は南路であるが、日本の博多を出て、長江の河口である楚州へ行くのは海流を逆行するような海路となるため、南路での渡唐はしばしば難航した。

しかし半島西側に沿って北上し黄河を行く北路は近い上に南路に比べ安全であった。

ーー

実際、日本が渤海国からの朝貢を受けていたころの日本僧の恵萼(えがく)が三度以上も入唐した事実は渤海国経由であったから可能であったのだろう。

これは渤海国と日本との両国の頻繁な交流使節船の往来があったことから推測されるものだ。

そうなると、当時私的に渡唐することは、必ずしも不可能でも困難でもなかったことになる。

ーー

弘法大師空海の伝記には、七年間の空白部分がある。

私(佐藤)は、その間に空海は私的に渡唐していた、つまり「空海は二度渡唐した」と考えている。

一回目の渡唐は、私的なもので、その時に唐語を習得し、恵果和尚に師事したのであろう。

昨年の『歓喜』誌に私(佐藤)は、この「空海二度渡唐説」の小文を掲載した。

その同じ『歓喜』誌に森田英覚氏が「普陀山巡拝記」を載せ、その中で恵萼が五回渡唐したと書かれている。

ーー

さらに鎌田茂雄氏は「慧萼伝考」を書き(「松ヶ岡文庫研究年報」1)、恵萼が何度も渡唐したことを述べている。

それによると、恵萼は、空海が高野山で入定した八三五年(承和二)、遣唐使を日本に送り届けた船が唐に帰るのに便乗して、楚州に到り、さらに山西省の五台山を巡り、八四一年(承和八)秋、しばらくの間天台山に滞在している。

恵萼は八四二年に禅僧義空を伴って日本に帰国し、同年か翌年または翌々年に再び入唐している。

この入唐経路は、朝鮮半島の西海岸を北上して山東半島の登州に上陸したと考えられている。

ーー

八四七年(承和一四)九月、恵萼は留学僧円載の弟子仁好と共に帰朝。

その時の船には唐人三十七人が同乗して日本に来たという。

恵萼は八四〇年から二十年間にわたって数度の入唐をしていたことになる。

ーー上田雄『渤海国の謎』講談社現代新書より

八六二年(貞観四)七月、空海の弟子真如親王(高岳親王)は、恵萼ら僧俗合わせて六十人を率いて日本を出発し、九月七日に明州の揚扇山に到着し、八六四年(貞観六)四月、明州から日本に帰ったという説もある。

ともかく恵萼は何度も渡唐したようである。

これらのことは、入唐しようとすれば、遣唐使船だけでなく、渤海使の船や、また朝鮮半島西岸を経て山東半島に至る沿岸航路のチャーター船のようなものもあったと考えられる。

平安時代、大陸との往来は考えられているほど、困難なものではなかったと言えよう。

ーー引用ここまで

七二七年(神亀四)九月、初めて日本に来航した渤海使は、九一九年(延喜一九)まで頻繁に来航し、外交目的を揚げつつも、実態は交易にほかならなかった。

これについては鈴木靖民氏「渤海の国家構造」(月間『しにか』一九九八年九月号、大修館書店の「特集・渤海国」)に詳述されている。

したがって、空海が公式の遣唐使船で入唐(八〇四年・延暦二三)する前に、渡唐していたという仮説は、けっして荒唐無稽なでたらめの話とはいえないのである。

むしろ「空海の謎の七年」を埋める積極的で現実的な仮説と言えよう。

ーー

直感的な私の推理を言えば、錬金術書『大日経』を知った空海は、山々を駆けめぐり、鉱山を探り訪ねて、大量の黄金を得たのだろう。

それを原資に私費で唐に渡り、黄金を用いて長安で恵果に学び、経典や密教道具一式の他、請来目録にあるような宝物を買い求め、一度帰朝した。

そして公式の遣唐使船に乗って、国の留学僧として長安に入り、恵果に密教を伝授され、公人として密教を日本へ伝来したのではないかと。

恵果から密教の伝授を受けることは、公式の入唐の折に既に決定されていたのであろう。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます
>>弘法大師と渤海国の存在
 私は基本神道を日本人の基本として信じていますが、神道は実は、自然の法則であり、即ちあるがママなので、固より説明出来るものではありませんが、其れでは、日本に居無い人には何も伝わらないので、考案されたものの中の一番優れたものが、実は仏の教えである、と思っております。

 Wikiに拠れば、空海が生まれたのは、8世紀の後半(774年)で、入滅したのは9世紀(835年)です。

 その頃の日本の政治状況と言えば、50代桓武天皇の御代が、784~804年迄、20年間続きましたが、その後三代は、色々な理宇五で長く続かず、亦、国内の状況は、決して平穏とは言えない様子だった様です。 

 それ故、宮廷内には明るい話題が無かったのですが、唐に20年勉強に行った筈の修行僧空海が、僅か2年で、帰って来た、是はトピックになりますが、当時の情報が伝わらないのが常識の世界では、風聞の方が、怖かったのでしょう。 数年九州の太宰府に留め置かれたのはその所為だと思います。

 ですが、空海は本物だった、それも、唐の名僧と謳われた恵果和尚から「遍照金剛」と言う、最高の称賛を浴び、様々な貴重な経典や、空海自身も、唐語のみならず、経典の原語の天竺語にも精通して居たのですカラ、やはり、大天才であった事には、間違いないでしょうね。

 彼の帰国してからの八面六臂の活躍は、その天賦の才能をいかんなく発揮したと言えると思います士師、最後は「生き仏」として、師の恵果和尚と同じ年齢で「即身成仏」を為されていますね、当に、師の教え通り、日本の仏教広宣の為に、一生を捧げられた異人だと思います。

 でも、私の興味は、寧ろ、此処で言われている、唐への北路「=半島の西海岸を北上して遼東半島に着き、向かいの山東半島に渡って、後は黄河を遡る」時に、渤海と言う、ツングース系騎馬民族が建てたと思しき国が、親日国で、その往来を大いに援けた、と言う話の方に向いて居ます。

 それは、この時代の朝鮮半島は、統一新羅か高麗王朝だった筈なので、固より、7世紀中葉の天智帝の砌には、半島の百濟を支援して、唐と新羅の連合軍と戦争をした筈。

 当時、無敵を誇った日本水軍が、白村江で大敗(660年)したのではなかったか? そして、その後も今度は党と新羅との戦いになって、結果、新羅が唐を半島から追い払って終ったと言う故事があります。

 ですから、この時代の水運の八足すの程度は、我々が想像するより、発掘されて居無い新事実が明らかになれば、遥かに高いものが有ったと推測も出来ましょう、ですから8~9世紀に懸けて、日本の僧侶恵萼が、この時代としては、驚異的な5度も、唐の長安に云ったと言う事に成るのだと思います。

 不思議に思うのは、ほんの100年前迄は、仇敵の様にしていたのに、この掌の返り方は何だろうと思うし、半島と列島間を船渡し、して居たのは、倭族「=半島南岸に棲む海人族」に違いないと、私は思います。

 日本と渤海との交易が始まって、古くからの大陸と列島との鉄貿易の交易路が復活して、それが、唐に迄及んだのではないか、是が所謂、シルクロードの最終地点が渤海だと言われて居た事にも、つながって行くのでしょう。

 然し、此処で新羅の存在がサッパリ出てこないのはオカシイと、私は訝しく思って居るのです、白村江から約30年後に、渤海国が、大祚栄 (テ・ジョンョン)に拠って建てられますが、彼が戦った青手も、唐で有り、新羅であったのは、ほぼ間違いが無いでしう。

 そこら辺りに、大きな歴史的な空白時期が存在していると私は思うのです。

 昔、韓流歴史ドラマで、この大祚栄を取り上げた、渤海建国士をやって居ましたので、韓流嫌いの私も、見て居ましたが。ドラマ仕立てで、ドラマそのものは、面白かったけれども、辻褄が合わない部分が多過ぎて、歴史としての内容評価は、ゼロでしょうね、唯のファンタジーになって居る。

 この日渤交流状況が続いて居たら、この貿易路は、もっと栄えて居たでしょう。

 実は、交易路は別ルートもあって、当時の日本の東北・北陸の蝦夷族は、渤海との貿易が盛んで、東北の海人族(蝦夷系)には、渤海人「=ツングース系」と思しき、透き通るような白い肌を持った人が居ますからね。

 この交流が大和朝廷を介したものなら、10~11世紀に起った大興安嶺山脈にある長白山の大爆発で、大被害を蒙った渤海が、周辺の蛮族契丹族に滅ぼされる事も無かったのかもしれませんし、或いは、日本から、援軍として出兵して居たかもしれませんね。

 この辺りの歴史も、広義には日本史だと言えると思いますが、戦後の左翼歴史家に拠って、省略されて居ますね、怪しからん事です。

 私は日本とは、3万年前の磨製石器の時代から、列島に棲んで居た人々の総称だと思って居ますので、こう言う渤海人の様に、今は民族として消滅してしまったものでも、日本人の遺伝子の中に、記憶として残って居るのなら、その歴史を詳らかにするのも、古代日本を知る事になると思います

 是は、15世紀に移住して来ただけの、アイヌ族の似非日本人とは、わけが違うと思います。

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