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2019年10月22日 (火)

そこで考案されたのが、わが国独自の方法でした

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

大昔には、世界に国境などありません。

従って倭人たちが入植し、倭国の風俗で過ごしているところが倭人の国ということになります。

魏志倭人伝、梁書などによると、倭人が住む国は、日本から遠く海を1年渡った先まで、倭人であると書かれています。

それがどこの国を指すのか、明確な答えはありませんが、複数の証拠が、その地を南米のエクアドルかペルーあたりであったことを示しています。

ーー

これが何を意味しているかと言うと、今のような国境など存在しなかった時代、海洋国家日本にとっての葦原中国(あしはらのなかつくに)、つまり倭人の国は、いまでいうなら「大海原に広がる世界」を意味していたことになります。

古事記を読み解くと、どうやらオノゴロ島は「地球」そのものを意味しているようですし(『ねずさんと語る古事記』)、大倭(おおやまと)という言葉も、もしかすると巨大な地球に対しての小さな人々という意味の言葉であったのかもしれないと思えたりします。

ーー

天皇という呼称が正確にいつ始まったのかは、定かではありません。

文書に登場するのは、608年の隋への国書で、そこには「東天皇敬白西皇帝(ひがしのてんのうにしのこうていにけいはくす)」という記述があります。

これについては、その記述が「720年に成立した日本書紀にしかない」という反論があります。

しかし、銘文として、607年の「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」に「池辺大宮治天下天皇」の記述があるのです。

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また「野中寺弥勒思惟像台座銘」にも以下の記述があります。

「丙寅年四月大旧八日癸卯、開記橘寺智識之等詣、中宮天皇大御身労坐之時、誓願之奉彌勒御像也、友等人数一百十八、是依六道四生人等、此教可相之也」

意味は「666年4月に斉明天皇のご健康のためにこの弥勒菩薩像の開眼供養を118名で行った」というもので、ここにも「天皇」という記述を見て取ることができます。

ーー

つまり天皇という呼称は、607年〜666年の間には確実に用いられていたわけです。

7世紀のはじめころには、すでに「天皇」という用語が用いられていたことがわかります。

ーー

ちなみに「日本」という国号は、初出が689年です。

ということは、「天皇」は「日本」より古い。

このことが示す意味は重大です。

なぜなら日本は「天皇あっての日本」だからです。

ーー

では、なぜ大倭(おおやまと)や中つ国(なかつくに)という表記を、わざわざ「日本」という表記に改めたのでしょうか。

これには663年の白村江事件における敗戦が影響しています。

このときに日本は朝鮮半島における権益を放棄し、朝鮮海峡に国境線を敷きました。

つまり海峡に国境線を明確に引くことで、国の境を明確にしたわけです。

ーー

実はこのこともまた、当時の世界に於いては珍しいことです。

18世紀に、いわゆる「国民国家」が成立するまでの世界には、明確な国境ラインというものはありません。

王国(の領土)というのは、王のいるところと、その周辺、および、王に従う貴族の支配する領地であって、隣の王国との境のあたりにいる人々にとっては、自分たちがどっちの王国に属するのかは、ほとんど意識されなかったのです。

ーー

要するに、たとえは悪いですが、いまふうにいえば、ヤクザさんの「シマ」とか「ナワバリ」みたいなもので、「ワシは渋谷の王だ」「オイラは新宿の王だ」と言う人はいても、では渋谷組と新宿組の境界線がどこなのかは、判然としない。

それが近世までの世界の趨勢だったわけです。

ーー

ところが日本は、7世紀に国境線を敷くということを行いました。

なぜそのようなことをしたのかというと、ものすごく簡単に突き詰めて言うと、半島と関係するのがもうコリゴリだったからです。

ーー

支那に唐が成立したけれど、唐は高句麗が怖い。

そこでお得意の「遠交近攻」で、高句麗を挟み撃ちするために、高句麗の向こう側にある新羅に兵を送り、百済を攻め滅ぼして、半島南部を(表向きは)新羅の征圧地、実態は唐の領土にしたのです。

ところが倭国が、百済救援軍を起こして、これに抵抗しました。

これは表向きは、あくまでも百済と新羅の戦いです。

ーー

ところが気がつけば、実態は日本軍と唐軍の戦いになっていました。

百済の王子も、結局、高句麗に逃げてしまうし、これでは戦う意味がない。

そこで日本は、唐と結んで白村江から全軍を引き上げることにした。

すると、その引き上げの当日に新羅がだまし討ちで日本の船に火を放って日本の将兵1万人が亡くなったというのが、白村江事件です。

ーー

悪いけれど、そんな嘘つきたちと、二度と付き合う必要はない。

ということで、朝鮮海峡に国境線を敷いたのが、663年のことであった、というわけです。

ーー

加えて事件後には、「唐が日本本土に攻め込んでくる計画をしている」という情報などももたらされました。

結果的にこの計画は、唐がチベットとの戦いで大敗し、チベット対策のために東方の戦闘がおろそかになったために実現しませんでした。

しかし、この時代にわが国が自立自存のために、最大限の努力を払うことは、どうしても必要なことであった。

そしてそのことは、聖徳太子の「いつくしきのり(憲法)」の実現のためにも、必要なこととなっていました。

日本は、安全保障上、国内を豪族たちのゆるやかな集合体から、統一国家へと国の体制を改めなければならなかったのです。

ーー

ところが日本には、他の諸国にはない、特別な事情がありました。

世界中、どの国においても、特定の王朝が国内を支配しようとするときは、すべて力による征圧が用いられました。

簡単に言えば、「さからう者は殺せ」ということです。

ーー

ヨーロッパの場合、王や貴族の多くの出自は、北方のバイキング(海賊)であり、彼らは岡に登ってそのあたり一帯を征服した征服者です。

周囲にもとから住む住民とは、民族も言語も違います。

この時代、民族と言語が違えば、相手はただの動物にすぎません。

ですから、言うことを聞かなければ、殴り、蹴り、殺すだけです。

世界では、支配と被支配はそうやって行われました。

ーー

このことは支那も同じで、中原で漢族同士が長年紛争を続けていることで迷惑した鮮卑人(北方遊牧民)が打ち立てたのが隋であり、唐なのです。

「隋」という字は、食肉にナイフを突き立てていることを象形していますし、「唐」も、肉に手でナイフを突き立てている象形です。

要するに隋や唐を築いた人たちは、肉食の人たちであって、稲作をする農民つまり漢人ではないことが、その国号から知ることができるわけです。

つまり、外来王朝だ、ということです。

ーー

ところが日本の場合、日本列島に住む万民が、すべて祖先をさかのぼると、みんな血縁がある。

このことは、それぞれの豪族が持つ神話を紐解くと、それぞれニニギノミコトに従って降臨した神の子孫だとか、大国主神の系列の子孫だとか、要するに神代の昔までさかのぼると、どの豪族たちもみな、なんらかの血の繋がりがあるわけです。

ーー

日本では、豪族たちはみんな親戚です。

さすがに親戚を「征圧」するわけにはいかない。

そこで考案されたのが、婚姻関係を結んで一族に取り込んでいくという、わが国独自の方法だったのです。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>日本と言う国の成り立ち
 日本と言う国号が初めて使われたのは天武帝の御代で、7世紀の後半の事で有るのは、知って居ましたが、その国号にする迄は、大倭(オオヤマト)と言う呼称で有った事は知りませんでした。

 更には、朝鮮海峡に国境を引いたと言う話も初めてですね。 後者は、天智帝の御代の話ですが、その時点では、天武帝は皇弟として、朝廷のNo.2だったので深く関わって居たでしょう。

 否寧ろ、白村江の騙し討ちが関係しているのなら、約1万名の犠牲者を出し乍ら、報復戦もせず、国境線を引くダケと言う兄帝の措置に、皇弟が異議を唱えない筈が無い。

 加えて、犠牲になった海人族は、大海人皇子の名が示す通り、皇弟の支持母体だから、部下たちの無念の声を聴いて居るダケで、胸が張り裂けそうだった筈。

 そして追い討ちの様に、犠牲になった海人族の遺領を、百濟からの亡命貴族3千人に分け与えるとの兄帝の裁可に、激高して、持って居た矛で床を衝いた処、床を突き抜けて終った。 

 是に驚いた天智帝は、急病と称して、寝込み、見舞いに来た弟宮に、帝位を禅譲すると言う話をしますが、兄帝の狷介な性格を知って居る皇弟は、勿論、本気にせず、却って身の安全を確保します、

 この有名な兄弟喧嘩が、骨肉の戦いである、後の壬申の乱に繋がり、爾後、天智系と天武系の高位を巡る暗闘が繰り広げられる原因ともなって居ますが、この皇弟の激高した原因を見て看れば、無理もない話です。

 固より、現在の滋賀県高島市辺りの所謂、北丹波の国は、日本海に面した宮津辺りの天然の港を根城とした、古くから海人族の国であり、現皇室の祖である継体帝の故郷です。

 白村江事件は、継体帝の御代から凡そ150年位後の5世紀末の事ですが、継体帝が宮殿を構えたのは、樟葉宮「=現在の大阪府高槻市」ですから、丹波の海人族は、白村江事件迄は、近江(淡海)1国を全部その勢力下に収めて居たのです。

 処が、天智帝は、遺族に対する救済策も無しに、イキナリ国の半分を外国人に差し出せとは、余りに苛烈・無残な要求であったと思います。

 天智帝にとっては、爾後、剃髪して出家、吉野に隠遁した皇弟でしたが、未だ丹波勢力を始めとする大勢力が背後に居るので、何とか懐柔しようと、娘3人を次々と妃に差し出しましたが、息子の大友皇子が、この様を観て居て、面白かろう筈がない、何回も刺客を仕立てて、皇弟のお命を狙いますが失敗。

 然し、天智帝が薨去為されると、自ら即位して弘文帝となって大海人皇子を逆賊として、追討令を出して終います。

 この事案から、天智・天武両帝は、本当の兄弟では無かったとの説も、かなり有力ですが、血の濃さで、皇統の軽重が諮られた時代で有る事は、考慮に入れなければなりません。

 亦、倭の五王の時代から、大和朝廷は、吉備・播磨・山城と丹波・出雲・北陸の豪族の異なる勢力の支持を背景にして居たと言う事情がありました。 

 どちらにも、渡来して来た長江民の成分が入っており。それが、宿敵同士の、呉と越勢力で有る事は、感慨深い話です。

 ですから、この領地の差配も、吉備・播磨・山城勢力を背景とする天智帝が、主力の丹波勢の力を削ぐ為に、下した政治的な恣意が疑われます。 そういう経緯で、歴史関係者は、寧ろ、激高した天武帝の方に同情的ですね。

 開戦当初迄は、両帝の支持勢力の差からすれば、弘文帝側の勝利が確実視されて居たのですが、百濟からの亡命貴族の勢力と、主力の吉備・播磨勢力との主導権争いが内在したので、軍勢が纏まらず、各所で敗戦して、最終的には、弘文帝が自裁されると言う悲劇的な結末となった。

 この戦いは、同時に仏教支持派の聖徳太子・蘇我馬子連合と神道護持派の物部氏との戦いの延長でもあり、天智帝が擁仏派で、全国に国分寺を建てて居たので、自然、仏教勢力は弘文帝側だったのです。

 然し、天武帝はその点を不問として、国分寺を引き続き各国の行政拠点として利用したので、新たな戦いも起らず、豪族間の対立も、争う理由が消滅したので、心配された新たな戦いは起りませんでした。 見事な戦後処理だと思います。

 其れ迄、天智帝の母君である、皇極・斉明帝の外戚として、権威を揮って居た吉備勢力が衰退、代わりに、天智帝の乙巳の変での朋友、中臣鎌足=藤原鎌足の一族が、天武帝亡き後に即位した妻の持統帝や次代の文武帝も幼少で、補助役としての摂政として、藤原氏が台頭し、是が藤原氏300年の栄華の端緒となります。

 こうして、天武帝の即断・即決と見える、早い措置の所為で、義う族の利権の場であった朝廷が、俄かに政治の場として機能し始め、天武帝は、八色の姓を制定し、分業思想を利用して職階をその名前で定め、貴族・豪族の違いをはっきりさせて、豪族の権限を制限しました。

 そして、東北・北海道の事を考えれば、国を統一したとは、未だ言えなかったのですが、国号を改め聖徳太子の隋の煬帝に宛てた国書の文頭にある「日の出る国の天子」から、「日本」とした。

 更に、蘇我蝦夷が自害した際に、火を放った自宅の書庫に保存されて居た、日本の古代文書、就中,古史に関して復元させる必要を感じて居たので、此の編纂を命じました。

 その一つの古事記は、編纂責任者の稗田有礼の卓抜した記憶力を基にして書かれたが、日本書紀は、その古事記を、政治的成分を加えて、書き直したものだと私は思って居ます。

 是等の殆どは、天武帝の業績だと思われますが、帝は、もう一つ重大な事をなさっています。

 其れは、帝の代迄は、軍事・政治・司法は、オホキミ(大君)が、祭祀は、スメラミコトとして、兼務していたのですが、途中から息子にオホキミの仕事を譲り、自分は、祭祀王であるスメラミコトの御役目に専念されると言う、分業制にしました。

 是が後に、威権分離の政体として、日本に定着し、権力者は変われども、権威の王は、スメラミコトと言う世界に一つしかない、政体として、今も引き継がれているのです。

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