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2019年9月22日 (日)

半島というところは、単一民族ではありません

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

戦いではなく、どこまでも和(わ)と結(むす)びによって国を大きくし、国力を増していくことが大事だ。

古事記はこれを神々の知恵であると、上つ巻の文字数の3分の1を割いて、描写しています。

それはとてもありがたい、大切な教えです。

ーー

古事記の文字数は、上つ巻、中つ巻、下つ巻の三巻合わせて、約5万5,000字です。

このうち上つ巻(うわつまき)が神話の時代で、文字数は約1万9,000字です

上つ巻の構成は次のようになっています。

(一)序文
(二)創生の神々(そうせいのかみがみ)
(三)伊耶那岐命と伊耶那美命(いざなきといざなみ)
(四)天照大御神と須佐之男命(あまてらすおほみかみとすさのをのみこと)
(五)大国主命(おほくにぬしのみこと)
(六)葦原中国の平定(あしはのなかつくにのへいてい)
(七)迩々芸命(ににぎのみこと)
(八)海幸彦と山幸彦(うみさちとやまさち)

ーー

なかでも、特筆すべきが(五)の大国主神話です。

約7000字が割かれ、上巻の文字数のおよそ三分の一を占めています。

考えてみると、これは不思議な話です。

大国主は、出雲一国の神様だからです。

ーー

この時代の「国」がどういう概念であったのかは諸説あります。

参考になるのは『宋書倭人伝(そうじょわじんでん)』です。

そこに、西暦478年の「倭王武の上表文」が転載されています。

これは、倭王武(おそらく雄略天皇であろうといわれている)が、宋の皇帝に提出した国書です。

宋書というのは、古代支那、宋の国の正史です。

ーー

支那の史書は、その時代に興った征服王朝が自国の歴史を書くので、以前の王朝の歴史について正邪がひっくり返っていたりします。

つまり全面的に信じるわけにはいかないのですが、周辺国からの国書などは、客観的事実と考えてよいのではないかといわれています。

ーー

もっとも戦後の言論・メディアを支配した在日・反日勢力は、「護憲、東京裁判史観、侮日」を日本人に強制してきました。

その中の侮日の手段として、日本書紀を誤りとして、周辺国の史書を正しいとしてきたのですが、それはまた別な話。

ーー

この『上表文』に次の記述があるのです。

「封国は偏遠にして、藩を外に作(な)す、昔より祖禰(そでい)躬(みずか)ら甲冑をめぐらし、山川(やまかは)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず、東方五十五国を征し、西のかた六十六国を服し、渡りて海の北、九十五国を平らぐ」

(我が国は貴国《宋》から遠い、昔から我が皇室の祖先は、みずからヨロイを着てあちこちを征伐し、東の方角に55カ国、西の方角には66カ国、そして、海を北に渡って95カ国を平定して国を統一した)

ーー

ここにある「海を北に渡って」というのは、「朝鮮海峡を渡って」という意味です。

この文から、倭王武当時までに、倭国(わこく)は、国内で121カ国、朝鮮半島で95カ国を統一して倭国を形成したとわかります。

倭国は、日本本土から朝鮮半島にいたるまでの合計216カ国を統一していると言っているのです。

ーー

倭王武が国を統一するまで、つまりそれ以前の神代における「国(くに)」という言葉は、いまでいうなら村落共同体を示す言葉ですが、この記述から、古代の朝鮮半島に、倭国は広大な領地を持っていたことがわかります。

ーー

日本書紀では、いま韓国のある朝鮮半島南部は倭国の直轄地であり、38度線のあたりに百済と新羅があり、いまの北朝鮮のあたりは高句麗であって、この三国とも、倭国に朝貢をしていたことが書かれています。

つまり、古代において、朝鮮半島は倭国の一部だった。

ーー

半島というところは、単一民族ではありません。

いまでも後三国時代にまでさかのぼるといわれる全羅道(百済系)と慶尚道(新羅系)の対立があります。

が、これに加えてツングース系の北朝鮮、名前が表舞台に出てきませんが、濊族(わいぞく)系があります。

また、古くからの倭人系の人たちもいます。

ーー

村落共同体から、国家への発展が顕著になった7世紀において、倭国では天皇を中心とする国家統一がなされていた。

支那では鮮卑人による外来王朝、隋や唐が形成された。

そんな時代に、半島では、結果として濊族系が新羅を乗っ取り、裏切りと嘘による国家形成が行われ、以後、単なる収奪王国となっていったのは、不幸なことであったと思います。

ーー

そういう意味で、日本は極めて特殊ともいえる発展を遂げてきたことがわかります。

このときに、大きな役割を果たしたのが、実は大国主神話です。

大国主神話の出雲王朝と、高天原の天孫族との間で、大規模な戦闘があったと主張される方もおいでになります。

が、そのようなことが書かれた記録も、それを示す考古学的な証拠もありません。

今となっては事実はもうわかりません。

ーー

古事記には、大国主が、艱難辛苦の上国を統一し、その国を発展させるために、周辺諸国と血縁関係を結びながら、大いなる国を形成したと書かれているのです。

ーー

戦いではなく、どこまでも和と結びによって国を大きくし、国力を増していくべきだ。

それにはお互いが約束を守り、お互いが信用できなければなりません。

古事記は、「約束をまもり、信用できる関係」これが神代からの日本の知恵であるとしている。

上つ巻の文字数の3分の1を割いて、これを神々の知恵であると描写しているのです。

私(ねず)は、これをとてもありがたい大切な教えであると考えています。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>読み解く古代日本の歴史
 倭王武「=雄略帝」の時代背景は5世紀中葉ですが、シナでは、西暦AC300年代の初期に、魏の曹氏の家臣だった司馬氏が禅譲で晋を興しました。

 日本では、紀元前4~5世基に始まった、シナ本土と半島との鉄貿易の仲介と言う、半島権益を守る為の三韓征伐を行い、遠征した仲哀帝が薨去為され、身重の神功皇后が三韓征伐を成し遂げましたが、未だ乳飲み子で有った筈の応神帝も、神功皇后も帰郷したとは書かれて居ません。

 宮内庁監修の「天皇家系図」では、爾後、70年後に応神帝が凱旋帰国したと言う、その年代には、現実との合理性が無く、良く分らない事が多い時代です、ですから、応神帝は、所の出自を疑われているのです。 問題になるのは、70年の空白です。

 私は、この空白期は、仲哀帝が三韓征伐の時に、直ぐに渡海しての三韓征伐よりも、先ずは、九州の熊曽族の討伐を優先した事を重視したいですね。

 つまり、半島勢力の鉄貿易に対する不満は、固より有った事ですが、其れに乗じた形で、仲哀帝の父君である日本武尊に討伐された、川上タケルの一族が、半島の百濟・新羅を嗾けて起した乱で有る事は、最初から明白だからです。

 大和朝廷の本貫地である九州北部の留守を預かっていた、譜代の重臣久米氏の責任は重かったが、反乱を起こした熊曽族の力が強く、九州を平定する為に、三韓征伐から九州に帰ってから、実に70年近くを費している。

 否、日本武尊の時代を、紀元1世紀と起算すれば、最後の隼人大乱が720年ですから、凡そ、700年懸って居る事に成ります。

 それ程九州は難治の地で、この後も、磐井の乱や隼人大乱が起っている。 ダカラ、大和に凱旋した応神帝は、実は、応神帝の孫に当たる人であったと私は考えて居ます。 然すれば、年齢の辻褄は合いますね

 雄略帝は、其れより5代「=約150年後」の時代で、この間にシナでは、東晋も滅び、5胡16国時代と呼ばれる混乱期に入っていました。

 ですから、ここで出て来る「宋」は、この約八百年後の11~13世紀に南北朝を築いた趙宋ではなく、五胡十六国の中の劉宋ですね。

 この時代のシナ王朝は、野蛮な遊牧民の王朝なので、開墾事業と言う、「武力を使わず、国力を増して行く方法」を知っていても技術が無いので、出来無かったから脅威に感じたのでしょうね。

 日本の歴史の三つの謎の時代は、先ず、神武以前、そして、倭寇大乱。そして、この三韓征伐ですが、この遠征の本当の目的は、九州の平定に有った筈なのに、飽く迄、半島の平定に重きが置かれているのは、理解し難い事です。

 倭国大乱については、前500年頃に、是亦、九州で始まったと思われる、海人族の反乱を引き金にした起った大戦争で、凡そ、500年続きました。

 その当時は、小さな集落が集まって、国を形成し、その国が年毎に変わる農作物の出来/不出来の影響は、今より遥かに深刻だったでしょう。 特に水田耕作に食糧を依存する様になってから、雨のふりが少ないと、冬に飢えると言う現象が常態化して、耕地面積が少ない地域では、生き残る為に、已む無く、他の村落を襲うと言う事が頻発して、農民が武装する事に繋がって行きます。 その延長が、戦争です。

 こうなると、限定的な人口を保って居た頃の方が、平和で良かったと言う話も出て、特に、寒冷地では、水田耕作を止めて、縄文の様に木の実や、天然の野菜を栽培用に改良したりして、暮らし始めた処もあったでしょう。

 然し、水稲が齎す炭水化物の十分な補給は、人類を活動的にし、体格も大きくなり、力仕事も熟せるようになるので、100年も経つとその差は歴然で有った。

 結局、収穫したコメを貯蔵して、浮遊を凌ぐ事に成り、人々には格差は生じた。

 それ故、天候不順に見舞われても、援け合いが行われ、共同体の団結意識も芽生え、食糧の貯蔵量が、即ち収穫量が、立場の優劣を決める様になって、貯蔵米が増やすには、多くの人手を必要とするので、土地が余って居る人は、人手が足りなくなり、自分の田んぼを人に貸す人間が現れ、それが、一般的になり、終いには、地主と言う立場が生まれた。

 もう、こうなると、西洋と同じで、地主が自分の財産を守る為に、武装した兵士を雇う、雇われた兵士も、その働きに拠って分け前が大きくなるので、武力に勝るモノが、優位になり、弱い立場の武力を住部bbン持って宇ないモノが、彼らを頼り始める、その延長には、武力を持った武士階級が出現する。

 然し、日本では「武とは、曲がったものを糺す事で有る」と教えて居る、つまり、武は、自分の利己的な様欲求を満たす為に用いてはならない、と言う規範があったが、是はオソラク経験知なのだと思う、その原点が、倭国大乱であると私は、思います。

 武力を持つモノが現れるまでの展開は、人類の歴史1万年で、変わらない図式である、然し、ならば、大量寡品種栽培の水稲が、全ての原因なのだろうか?

 縄文時代には、何故武力が必要で無かったのか、と考えれば、第一に、人口が少なかったからだろう、と言う事、第二に、争うまでの食糧の貯蔵が出来なかったから、第三に、日本列島は南から北まで、自然災害が大きいので、いざと言う時に援け合おうと言う心が自然に芽生えたからだと結論ずけます。

 つまり、力の弱い人間同士でも、皆で力を併せれば、・・と言う団結力が生まれる必要性があったからでしょう。

 だから西洋の様に、「足りないモノは有る処から奪って来ればよい」と言う論理は通用しない位、防災設備が未発達な日本は、自然災害で受ける悪影響がが大きく、人々は等しく貧乏だったのです。ww

 この、等しく貧乏な部分を皆でカバーする為に、為政者が、お助け米と言う制度を創ったり米の収量を増やす為に、新田開発費を拠出したり、「鍬下年季」と言う、定期の免税措置を導入するちか、現金収入の途を創る為に、綿だとかサトウキビだとか新種の換金作物の栽培~市場形成迄を、導入したりしましたね。

 江戸幕府もねずさんの仰有る様に、「武力を使わずに国力を増加させて、飢えや貧困の心配のない社会を作ろう」として居たのですね。 こうして、日本は、次第に豊かな国になって行く途上にあったと、私は思います。 

 そう言う意味で、日本の江戸時代の政治は、概ね善政であったと言えると思います。

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