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2019年9月11日 (水)

危害を加える心を持っており、飽食すれば離れ、飢えれば寄ってくる

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

雄略天皇は半島人について曰く、「狼の子のように人に慣れ従わず、ともすれば危害を加える心を持っており、飽食すれば離れ、飢えれば寄ってくる」と。

半島人は、今も昔もまったく変わっていない。

ーー

支那大陸に隋が興り(581年)次いでそれを滅ぼす形で、唐(618年)が興った時代です。

隋が中原を統一するまで支那大陸は戦乱に明け暮れていた。

その間支那は、五胡十六国時代から南北朝時代と呼ばれ、統一王朝はなく、国の内部で殺し合いをしていたわけです。

日本としては(あたりまえのことですが)大陸国に関わらずにいたので、平和な時代であったということができます。

ーー

この時代の日本は支那大陸・半島諸国から、倭国と呼ばれていました。

支那の史書によると、朝鮮半島の南部は倭国の領土でした。

現在の半島の南側の韓国の領土は、倭国の領土だった。

その北側に高句麗、百済、新羅の三国があり、いずれも倭国へ朝貢していた。

ーー

第二十一代雄略天皇の御代八年のとき、高句麗が突然、新羅に攻め込み、新羅は任那(みまな)日本府に助けを求めた。

任那日本府は、援軍を送って高句麗を討ち破りました。

やがて高句麗が何故新羅を攻めたのか、その理由が明らかになった。

ーー

雄略天皇は、紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)と蘇我韓子宿禰(そがのからこのすくね)を呼んで、次のように詔(みことのり)された。

「新羅はこれまで朝貢をしていた」

「それが、朕が即位してからは対馬を奪おうとしたり、高句麗のわが国への朝貢の邪魔をし、あるいは百済の城を奪い、わが国への朝貢さえも怠(おこた)っている」

「狼の子のように人に慣れ従わず、ともすれば危害を加える心を持っており、飽食すれば離れ、飢えれば寄ってくる」

「よろしく(新羅に)攻め伐(き)って天罰をくだせ」

ーー

日本書紀には「宿禰らは新羅に攻め入って、またたく間に新羅を討ち破った」と書かれています。

ーー

まず、「高句麗もわが国に朝貢していた」と書かれています。

これは当時高句麗を含めた朝鮮半島全体が倭国の属国であったことを意味します。

そして高句麗が新羅に攻め込んだことには、はっきりとした理由がありました。

ーー

それは「高句麗が倭国に朝貢のための使者を送ろうとしていた」ということです。

これを新羅が邪魔しただけでなく、高句麗の朝貢使の持ち物を奪うという事件があったのです。

高句麗が怒るのは当然のことです。

ーー

ところが半島の任那日本府長官は、調査しないで、新羅を助け、高句麗を打ち破る。

高句麗は、踏んだり蹴ったりされたことになる。

警察が、犯罪者ではなく被害者を処罰してしまったわけです。

ーー

同じことが、戦前の大陸で繰り返し起きていました。

清国での社会階級は、最上が女真族(満人)、次が漢人、その下が諸蛮でした。

半島人は諸蛮であり、最階層です。

ーー

ところが日韓併合によって半島人は日本人となりました。

当時の日本は世界の一等国であり、日本人は一等国民です。

日本人となった半島人は突然威張りだしたのです。

(日本大戦後に戦勝国民を僭称した朝鮮人らが日本人に対して暴行・略奪・凌辱の限りを尽くしたように)

ーー

女真人や漢人の家を襲って女子を強姦する等の事件を頻発させました。

これに怒った女真人や漢人が半島人を追いかけると、彼らは日本軍の兵舎に「ウリたちは日本人だ、襲われている、助けてくれ」と逃げ込んできました。

ーー

当時の半島人は日本人ですから、日本軍は半島人をかくまい、追いかけてきた女真人や漢人を追い払いました。

このことが、日本が女真人や漢人から恨みを買うことになった。

ーー

古代も同じです。

任那日本府は、あった事実を、ちゃんと中央に報告します。

報告は義務だし、目の前に争いがあれば、それを鎮めるのは日本府の役割です。

ですから、ちゃんと報告を行っています。

ーー

報告内容は「争いを鎮めました」です。

悪気なんてありません。

事実を事実としてちゃんと報告していた。

ーー

問題はこのあとです。

雄略天皇は、任那日本府の報告に不審を抱だかれた。

雄略天皇は、任那の長官に事実関係の調査を命じます。

長官は、調査結果として「高句麗が新羅を攻めたのは、高句麗のわが国に対する朝貢の使者を新羅に拉致され殺されたという原因が先にあった」と報告したのでした。

ーー

調べてみれば、高句麗との今回の事件のみならず、

新羅は倭国の直轄領である対馬を奪おうとした(いまの韓国による竹島占領に似ています)。

あるいは百済の城を強奪した(韓国企業による日本企業への嫌がらせや妨害工作、買収による経営権の簒奪にも似ています)。

わが国への朝貢さえも怠(おこた)っていた。

ーー

まさに、「狼の子のように人に慣れ従わず、ともすれば危害を加える心を持っており、飽食すれば離れ、飢えれば寄ってくる」人たちだった。

(今も昔もまったく変わっていない)

そこで帝は、二人の将軍に、「よろしく攻め伐(き)って天罰をくだせ」と命じられたのです。

ーー

雄略天皇というお名前は、奈良時代にあとから付けられた漢字諡号(しごう、贈り名)です。

和名は「大泊瀬稚武(おおはつせわかたけ)天皇」といいます。

偉「大」な、「泊瀬」に都を置かれた、「稚」若々しくて気力にあふれ、「武」竹のように真っ直ぐに道理を貫く天皇であられた。

ーー

倭国は、三国に対し、国王の跡取り息子、つまり王子を倭国に人質として提供することを求めます。

倭国を裏切るようなことをすれば人質の王子を殺すということです。

ーー

人質は倭国で、父(王)が死ぬまでとどまる。

人質は、父が死ぬまで、おそらく成人し結婚し子孫を残すころまで倭国ですごす。

父(王)の死で、自国に帰り、王となる。

倭国で倭人女性との間に生まれた子は、人質として倭国に残る。

こうして、王族に倭人の血が混じり、また倭国の文化の影響を強く受けることで、互いに争いが起きなくなる。

これは古代における倭国が編み出した制度だった。

ーー

そして日本国内においては、大名や豪族が、娘を天皇家に嫁がせ、桓武・平氏や清和・源氏といった武士団を形成し、天皇の血筋だという権威のもとに武家政権を作っていくのです。

ーー

雄略天皇の時代以降、百済と新羅は、人質を倭国に出すようになりました。

けれども、自分が悪くないのに任那日本付に攻められた高句麗は、これを承知せず、倭国の属国から離れて、独立国を営むように成っていきます。

ここで高句麗は、二度と新羅に軽んじられないようにと、軍事力を徹底強化します。

(まるで北朝鮮をみるようです)

こうして高句麗は、軍事強国となっていきます。

ーー

そこに隋が興るわけです。

隋は、高句麗に何度も攻め込むのですが、そのたびに反撃されてしまう。

やがて隋は、高句麗攻めで国力を疲弊させ、唐によって滅ぼされてしまうのです。

ーー

唐は、高句麗を危険視し、滅ぼすために新羅に近づき、高句麗を挟み撃ちにしようと持ちかけます。

そして協力してくれれば、百済を取ることを許す、と。

こうして唐は新羅に援軍を送り、百済を滅ぼしてしまいます。

わが国の第35代斉明天皇の時代です。

ーー

倭国は百済支援のため、半島に兵を送ります。

ところが3年戦ったのですが、気がつけば、「倭国と唐の戦争」になっている。

百済も新羅も、いつのまにか他人事で知らぬ顔を決め込んでいます。

これでは何のために半島で戦っているのか、わかりません。

(まるで現在の韓国をみているようです)

あまりの馬鹿馬鹿しさに、倭国は唐と話し合い、半島からの退却を決めます。

このとき半島における倭国の直轄領を含めた権益の一切を放棄したのです。

ーー

(これは先の大戦の終戦のとき、日本が半島の権益をすべてそっくり放棄したこととまったく同じです)

ーー

そして倭国は、帰国のために兵を白村江に集めて、兵たちを乗船させました。

ああ、やっと戦が終わったと、鎧兜も脱ぎ捨てて、船で兵たちが酒を酌み交わしはじめたとき、いきなり襲ってきたのが新羅です。

当時の船は木造船です。

火をかけられたらひとたまりもありません。

倭軍は、慌てて出港しますが、兵5万のうちの1万を失ったのでした。

これは古代における大虐殺ともいえる事件です。

ーー

本来ならば「白村江事件」と呼ぶべき大虐殺事件です。

(この半島人の卑怯な行為は必ず子供たちに伝えておかなければならないでしょう)

ーー

こうして半島を手に入れた新羅は、唐に土下座外交をするかたわら、新羅国内では唐の兵たちにあらゆる乱暴狼藉を働きます。

それを唐から咎められると、ひたすらごめんなさいを繰り返す。

一方で、もう悪さをしなくなるかというと、そんなことはなくて、相変わらず悪さを続ける。

ーー

これに辟易した唐は、新羅に朝貢を命じて半島から去っていきます。

こうして新羅は、半島を手に入れてしまった。

そして新羅の貴族らは、元百済の住民、元高句麗の住民、元倭国直轄地の倭人たちを奴隷とし、以来ずっと暴行・略奪・凌辱を繰り返し続ける。

ーー

これが日本書紀に書かれた5世紀から7世紀にかけての日本と半島の関わりの歴史です。

ーー

在日・反日勢力は、戦後の言論・メディアを支配して、7世紀の日本は唐から一方的に学ぶ小国であり、藤原京や奈良の都も、唐の長安を規模を小さく模倣したものだ、と主張してきました。

長安は人口200万の大都市、藤原京の人口は20万、10分の1の規模しかなかったと。

ーー

しかし事実は、長安は城郭都市で有り、その街区図は、いまネットでいくらでも見ることができますが、藤原京よりもひとまわり小さなものでした。

どんなに頑張って、街を満員電車さながらにしても、人口40万がやっと。

おそらく、実際の長安の人口は20万以下であったものと思われるのです。

ーー

つまり、倭国の都は、当時の長安よりも大規模なものであり、恐らく倭国というのは、東アジア最大の超大国であったという事実です。

そして倭国と、隋や唐との最大の違いは、隋や唐が外来王朝であったということです。

隋や唐を興したのは、鮮卑人であり、漢人ではなかった。

ーー

唐は、支那大陸の中原をいわば植民地とし、逆らう者は異民族なのでどんどん殺すことができた。

つまり唐は、殺害をほのめかすことで徴兵がたやすくできた。

一方の倭国は、全国の豪族たちがみな天皇家を介した縁続きの血縁者であって、そうした虐殺はできなかった。

ーー

兵数が、重大な意味を持った古代の戦いにおいて、このことは倭国にとっては致命的な問題でした。

そのために倭国は、虐殺徴兵に代わる、まったく別な兵力増強手段として、国民国の形成を始めるのです。

そして後にいわば志願兵集団である武士団をつくりあげるのです。

武士団と国民国が機能するためには、言葉が通じない半島はむしろ邪魔な存在となった。

これが聖徳太子から天智・天武・持統天皇に至る、7世紀における倭国の一連の大改革につながり、いまの日本の原型になっているのです。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>新たな視点で考える日本と半島の歴史
 私も、日本の縄文最晩期~弥生時代~倭国大乱~三韓征伐~倭の五王時代~白村江の敗戦で半島から撤退する迄の凡そ、千年~千五百年近くの間は、戦前でも歴史資料が乏しいのに諸説あって、歴史の流れが掴めない曖昧な時期でした

 それ故、戦後に東大の江上波夫の様な、インチキ学者も出て来るのだと思いますね。

 其れに近年、戦前から年代推定法として使われて来た、炭素原子の同位体の崩壊時期に拠る年代測定が、同位体をC12→C14に変えた事で、凡そ500年少なく出て居た事が判明しました。

 随い、紀元前200年位が始まりだと思われて居た弥生時代は、紀元前7世紀迄遡る事に成った為に、日本の古代史とシナ王朝との関係性が変わって来る事に成り、周王室が内紛の為に故地を捨てて、日本に逃れて来たと言う伝説が、我然、注目された事もありました。

 例えば、周王室が逃れ来たとされる、大分県の国東半島の姫島は、その上陸地と言われて居ます(因みに、周王室の姓は姫です)が、瀬戸内海の入り口の海面で、姫島の反対側の国は、周を防ぐと書いて、周防の国ですし、その国東には、何故か、宇佐「神宮」もあります。

 然し、周王室自体の事が、良く分っていないと言う事も手伝って、飽く迄仮説の域を脱せるものではありませんでした。

 でも、そうした事は、共産シナがひた隠す長江文明と先縄文時代「=氷期の最中の1万6500年前」に、熱帯植物であるが、浮稲~陸稲~水稲となるのに約1万年を要して居ますが、熱帯性から温帯植物に変化させたのは、人為に拠る可能性が高く、然も、其れを行ったのは、縄文中期の日本原住民であった可能性が出て来ているのです。

 この研究は共産シナの歴史管理とも言うべきものが、働いていて、長江文明の存在自体が認められていません。 経験知の集積である歴史の軽視は、共産主義は全く科学的では無い何よりの証拠でしょう。

 唯、云えるのは、古代の極東におけるぢんsと日本の交流は、我々が考えて居るよりも、遥かに密度の濃いモノだったと言う事は、確かでありましょう。

 私も、ねずさんの様に、自分形に仮説を建てて、日本と半島諸国との関係性をまとめて見ました。

 其れは、半島国の三韓の成り立ちから言いますと、先ず、高句麗は、固より、遼河沿いに勢力を持って居た、靺鞨族と分類される半牧半農の民ですが、定住性が薄く、亦、農業を営むにしても、緯度の高さから考えれば、北海道以上の寒冷地で、冬季には遼河が凍結した事が考えられますから、農業と言って自給程度しか出来無かった筈です。

 百濟は、シナ王朝の殷の遺臣勢力が、半島に逃れ来て、山岳部で狩猟採集をやっていた、扶余族と濊族と言うツングース系の土人を手なづけて、国家を形成して、春秋・戦国時代のシナ王朝の栄枯盛衰を横目に、その争いに関わる事無く、国を維持して居ました。

 新羅は、その国号通り「新しい羅の国」ですが、その「羅」とは何かと言えば、BC20世紀に、中原の拓鹿と言う地で、実は、コーカソイド種の青人の遊牧民の軍団に、大敗北を喫した長江文明の蚩尤と言う英雄の配下の兵士達が、この名を自称して居たとの仄聞情報が有ります。

 つまり新羅の民は、長江遺民だったわけですが、敗残兵の扱いは、何時の世も悲惨で、昔は呉や越と言った、国を持って居た長江民も、バラバラにされて、戦争の無い時は、農奴の様な生活を強いられ、一旦戦争になれば、兵士として駆り出され、前線に立たされて、多くの兵士が落命しました。

 こうした生活を千年以上も続けて居たので、流石に、民族の絶滅が心配される様になり、戦国時代の初期に、山東半島から、向かいの遼東半島に、船で逃れ、百濟王に庇護を求めた処、認められて半島でも大陸から一番遠い慶州の山中に、居住地を与えられました。

 処が、新羅の民は、固より、1万5千年近い歴史を持つ。長江遺民だったのですカラ、山の姿、流れ出る川の堆積物を持て、故の山には、鉄が埋蔵していると見抜き、鉄鉱石を掘りだし、鉄を精錬する処まで辿り着きました。

 当時シナでは、戦国時代ですカラ、武器に使う粗鋼は、金よりも値打ちがあったのですが、シナに自身で持ち込めば、藪蛇になるし。第一重すぎる鉄を陸路で運ぶのは、非効率の上に、危険すぎる。と、誰が考えても分ります。

 其処で当時、半島の南のリアス式海岸を根城としていた、海洋民族の倭族は、既に、シナの王国と、交易関係を持って居たので、彼らに内緒で頼む事に決めて、倭族を仲介した貿易が始まり、戦国時代のエスカレートで、莫大な利益が上がる様になります。

 是が倭族の一部から、情報が百濟に漏れ、起った百濟が、新羅を征伐にすると云いだしますが、鉄山を開鑿し製錬をやっているのは新羅なので、是が止んでしまうと、折角の儲け口が無くなって終う、其処で百濟分け前を貰う事を条件に、倭族の説得の応じる他は無かった、然し、忘恩の行為と言う不信感は、後々の両国の不仲に繋がっていますね。
 
 日本は貿易当事国として、この鉄貿易を最終的に、仕切り最大の開け前を握る様になりますが、両国は、次第に不満を募らせてゆきます、此の件が、九州の別系の倭族である熊曽が新羅と組んで、倭国大乱を誘発している疑いもあるし、その後も、仲哀帝の三韓征伐や磐井の乱、そして隼人大乱にも、新羅の謀略が働いて居ると思います。

 兎に角、長江遺民である新羅の民は、プライドが高い上に、千年以上の弾圧を受けた所為で、考え方が普通では無いし、初期の方は長江遺民の文明力をいかんなく発揮して居ましたが、半島に南下して来る、好戦的で野蛮な遊牧民の勢力に押されて、次第に、消滅したのは、シナ本土と同じ事ですね。

 そして、鉄の鉱脈を掘り尽くして山が廃山になると、今度は、日本に乗りこんで来て、やはり山を掘って、鉄や銅、或いは、金銀を産出し始めますが、もう、独自の国を建てるのには、懲りたのでしょうね。

 私はそれらの人々は、主に北関東~東北、中部・東海、中国山地に、多く移住して居て、既に、日本人化していると思います。 今でも、鉱工業が盛んな処ですね。

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