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2019年10月 1日 (火)

どのような人間関係でも、どのようや組織などの社会システムでも、必ずどこかに至らないところがあるものです

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

日本は3万年前の磨製石器の時代から神語りを語り継ぎ、1万4千年の縄文文化を築き、3千年の弥生時代を築き、およそ二千年の古代以降の政治体制(律令体制)を保持してきた国です。

それだけの長期間生き延びた体制というのは、それなりに尊重され、学び直されても良いものであるように思います。

世界に広がったとはいえ、民衆政治democracyは仏革命後にできた選挙制度(1792年)成立以来261年、共産主義などは、マルクスの共産党宣言(1848年)以来171年しかたっていません。

ーー

多様な意見を、最終的に賛成と反対、実行するしないなどのように2つの意見に集約し、これを取りまとめて最後に採決をして、意思決定するというのが現在の議会制民衆政治のあり方です。

こうした現在から、過去の日本を連想し、過去においても二者択一の考えが行われていたと主張する人がいます。

ーー

古事記には最初の創生の神々として、
・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
・高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
・神産巣日神 (かみむすひのかみ)
という三柱の神様が登場します。

これについて、「もともとは高御産巣日神と神産巣日神の二神だったものを、あとから天之御中主神が挿入されて造化三神(ぞうけさんしん)とされた」とし、それは支那の陰陽説や道教に影響されたものだという解釈を述べている本があるのです。

ーー

しかし日本は古来から対立や闘争がないような社会を営んできており、そのような関係を大切にしてきたのです。

つまり日本では、二者の対立関係ではなく、じゃんけんと同じ三すくみの三者関係であった。

ーー

どのような人間関係でも、どのようや組織などの社会システムでも、必ずどこかに至らないところがあるものです。

じゃんけんと同じでそれぞれ勝ちもし負けもする。

二者だけなら、勝った負けたの議論になり、勝者は絶対正しいと言い出す。

ところが、三者になると、絶対正しいという主張がなくなってしまう。

ーー

律令体制では、天皇の直下に「太政官、神祇官、弾正台」という三つの役所が置かれていました。

太政官は政治の意思決定機関であり、政治的意思決定の実行機能を持ちました。

その示達は、もちろん国司を使ったルートもありますが、主に神祇官がその機能を担っていました。

ーー

神祇官は、天皇の祭祀を所轄するとともに、全国の神社を統合していました。

神社には、民衆は氏子となって氏神様のもとに必ず月に一度は集い、そこで一緒に飯を食いながら、互いの交流をはかっていました。

だから、神祇官のもとにある全国の神社は、そのまま全国の庶民への示達と、民衆の状況をつぶさに中央にあげることができたし、それを天皇に上奏することが可能でした。

ーー

そして太政官、神祇官がちゃんと機能しているのかをチェックし、必要があれば武力を用いてでも太政官、神祇官の不埒を排除する役割を担っていたのが弾正台です。

歴史上、この弾正台が動いて、太政官を滅ぼしたといった事件は、幸いにしてひとつも起きていない。

そのため、いまではまるで弾正台がなかったもののように言われることが多いのです。

ーー

が、それは大きな間違いです。

弾正台がしっかりと機能していたからこそ、弾正台が動くまでに事態が至らなかったのです。

というのも、織田信長が弾正忠家を名乗り、天下布武を主張して日本統一を目指したことからもわかります。

ーー

日本は17条憲法の通り、明察功過の国です。

つまり事件や事故が起きてから動くのではなく、事件や事故が起こる前に、先に察して手を打つ国であったことを忘れてはなりません。

いまでは刑事ドラマなどでは、捜査官が正義のために必死で動く姿が放映されます。

明治以降の警察という肩書以上に、弾正という肩書は、その当事者にものすごく影響を与えた肩書でした。

ひとたび弾正を拝命したならば、その生涯は正義のため武(たける)にのみ尽くされる。

そのような誇りと自負を弾正の家系は持することになったのです。

ーー

いまの日本は三権分立といいますが、たとえば国会議員や行政の閣僚には原則として司法権が及びません。

いわゆる議員特権というものです。

そのために、明らかに人心を惑わすような不埒な者が、特定の利権者達の代表となって議会を壟断(ろうだん)し、正常な立法府運営を妨げています。

ーー

政治は、政治権力の行使を伴うものです。

そして権力行使には、それが正しく行われたかどうか調査され、その結果に対して権力を行使したものに対して必ず責任を問わなければなりません。

というのも、その責任を負う仕組みがなければ、権力行使は正しく行われず、私利私欲のために行使される結果となってしまうからです。

(ちょうど支那・朝鮮人の国のように)

ーー

古代の律令制では、賛成と反対、実行と不実行、前進か後退かといった議論が行われたものの、その意思決定者は別に置かれていました。

そしてその意思決定者が太政官であり、同時に責任を負う者でした。

もちろん太政大臣は、天皇によって親任されるものですし、天皇による親任は神による親任と同じ意味を持ちました。

ですから簡単に責任を負わせて首にはできなかった。

ーー

それではどうしたのか。

天皇が退位されると、太政大臣も辞めざるを得なくなるということを利用したのです。

次の天皇が即位されると、新しい太政大臣を選任される。

こうして政治体制が一新された(太政大臣の罷免が行われた)。

だから政治が乱れると、多くの天皇が、きわめて短期間でご退位されています。

ーー

律令体制が構築されたのは645年の大化の改新の時からでした。

その体制が廃止になったのは、明治18(1886)年です。

つまり1240年間も続けられたのです。

これは世界最長の記録を持つ政治体制です。

ーー

律令体制の中身は、貴族政治の時代から武家政治の時代へと変遷しました。

摂関政治となっても、それは律令体制の部分変形であり、武家政治となっても、将軍はそもそも左大臣か右大臣です。

秀吉に至っては関白太政大臣です。

要するに律令体制は維持されていたのです。

ーー

ではなぜ摂関家政治の時代になったり、あるいは武家の台頭による将軍体制になったりしたのか。

それは、かつては神社だけだった国内に、新たに寺院と仏教徒集団という、それまでの日本にない仕組みが生まれたことによります。

このような変化に合わせて、律令体制に必要な改良を施しながら、日本はなんと1240年も、律令制を保持してきたのです。

ーー

問題はその結果です。

いかなる政治体制であれ、その結果が人々の生活の豊かさを奪い、安全や安心を脅かすものであっのなら、それは本来、あってはならない、歪んだ体制ということができます。

けれど千年以上続いた律令体制によって生まれたのは、
・平安時代の平和と繁栄
・鎌倉時代の剛勇
・室町の経済的繁栄
・戦国時代の地方経済の発展
・江戸時代の全国規模の平和と繁栄と民度の高さ

でした。

ーー

この律令制は、選挙によるのではなく、世襲によって行われていました。

この世襲は、あくまでも「私を捨てる、責任を取る」ための仕組みでした。

公家であれ、武家であれ、家名の断絶という責任を負うための仕組みだった。

ーー

町奉行であれば、所轄内に不祥事があれば、その責任をとって腹を切ります。

大名であっても、藩内に不祥事があれば、大名は切腹、藩はお取り潰しになりました。

そして切腹という行為は、生まれたときから、そうしなければならないという教育を徹底して施され、また代々、そのことを名誉と考える血統がなければ、なかなかできることではないのです。

ーー

古代の律令体制を、ただ古いものだからいけないものだったとか、あたかも不出来なものであったように考えて、ただやみくもに否定する人たちがいます。

しかし、たとえば企業の支店の経営なら、支店長が代わって3ヶ月経つと、だいたいその支店の業績結果の傾向がはっきりと現れ、半年経つとその成果業績ははっきりとした数字になって現れます。

つまり支店長が代わって半年経って、支店の業績が下降傾向となるなら、その支店は、その後は何年経っても、業績は下がる一方となります。
逆に上昇傾向なら、その支店の業績は、その後3年間、上がり続けます。

このことは、部下に優秀な営業マンがいるとかいないとかの問題ではなく、要するにトップの力量による影響です。

ーー

同様に県や市町村でも、県長や市長が変わると、同じです。

国の場合は、国家全体の消費行動になりますので、もう少し時間がかかりますが、それでも3年経つと傾向が明らかに出始め、6年経つとその結果が明確に出るようになります。

トップというのは、それだけ責任が重いものです。

ーー

にもかかわらず、責任を負わないトップ、あるいは責任を問えないような政治体制を、あたかも人類普遍の絶対の政治体制のように考えることはおかしなことです。

現実に、他所の国に原爆を二発も落として何十万人もの人を殺戮していながら、その責任を問えないような政治体制が存在しています。

あるいは国民を億単位で殺しまくっていながら、その殺人鬼を英雄として称えるような政治体制も存在しているのです。

自己増殖のために、周囲の正常な細胞を殺していく癌細胞のようなものです。

20世紀の世界は、そんな癌細胞を生み出す政治制度を、絶賛してきたのです。

それこそ見直さなければならないのではないでしょうか。

ーー

何でもかんでも古いものは良いという気はありません。

ただし「繁栄と継続は常にセットでなければならない」と思っています。

今月1千万の売上があっても、来月ゼロでは意味がないのです。

500万で良いから毎月継続させていく。

そしてその繁栄が、未来永劫続いていくことが大事です。

ーー

日本における神社など、千年以上もの昔からずっと繁栄が継続してきています。

なぜ継続するのか。

そのことを私たちはしっかりと考えていかなければならないのだと思います。

ーー

日本は3万年前の磨製石器の時代から神語(かんがた)りを語り継ぎ、1万4千年の縄文文化を築き、3千年の弥生時代を築き、およそ二千年の古代以降の政治体制を保持してきた国です。

それだけの長期間生き延びた体制というのは、それなりに尊重され、学び直されても良いものであるように思います。

民衆政治や共産党政治などは、世界に広がったとはいえ、まだたった300年にも満たないものなのです。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます
>>私の日本の政論。
 丁度、昨日中韓ブログで、複数の方々と政についての話になって、最初は約6300字の戦前からの、日本の政治を、続いて、4千字程度の縄文期カラの政の私論を書いたばかりなので、今日のお題を観て、正直吃驚しました。

 私のは、日本文明論に近いとおも居ますが、下記に、加筆、編集して、開陳して看ます。

 日本は、固より、分業思想が強い社会です。 その根拠は、古事記に云う「我ら神の子にして等しく神聖である」と言う平等思想に在ると思って居ます。

 文明を持った1万4千年前の縄文の昔より、畑を耕し、泥田に入って労働し、食糧を生産する者、其れを消費地に運んで報酬を得る者、仕事をする上で必要な道具や生産機器を考案し、それを創る者、そして、治安を保つ為に、普段は労働に従事しているが、外敵や災害が起これば、敢えて先頭に立って危険に立ち向かい排除する者と、庶民でも色々な役割や立場がその適性に応じてあり、其々が十全に機能してこそ、社会が円滑に回って居た。

 そこに、人の能力の違いに拠って、仕事が与えられるべきなので、その仕事の重要さの軽重は無いと言うのが、暴力では無く冷静な話し合いに永い年月を懸けた、日本的な結論でしょう、是は、ねずさんの「ジャンケン」の理でにも、あたはめてかんがえることができますね。

 唯、人間の生活で一番必要になるのは、毎日食べねば生きて行けない食糧ですカラ、自然に農業従事者が分業化した集団でも、その多数的な存在になって行くのは、発生する労働力の必要性から言って、当然です。

 食糧不足時にその調達を、他からの窃盗・略奪に拠ったものが少なかったと言う原因が、日本の海と山、其れに湿地帯と言う天然の要害の中で、各々が暮らして居たと言う地理的な現実にも要因があるのではないかと思って居ます。

 私は、縄文の社会に戦争が無かった理由の一つは、上記の様な地理的や、列島の風水災害の多さと言う気象的な成分が、大きいと思います。

 其れを俯瞰した言い方をすれば、食糧生産力と人口数が補完限界の状態だったのではないか? 即ち、生産している食糧が養える人口数ギリギリに近かった、と言う事です。

 勿論、気候変動があり、良い条件に恵まれいぇ、人口を増やした時期もあったでしょうが、基本的に、炭水化物を多く含み、人間の活力源となる穀物の大量栽培で有る水耕稲作を、専らにして居無かったからだと言う事が挙げられると思います。

 然し、実はそうでは無く「知って居たが、敢えて避けて居た」と思います。 と言うのは、寡品種大量栽培では、気候変動に影響される部分が大きく、飢餓を起しやすいカラだと1万5千年にも及ぶ、農業の経験則から縄文人が学んだからだと思います。

 つまり、水耕栽培は、其れだけ労働力を必要とするので、一旦始めると、他の作業が出来無くなる、故に、気候変動や規模の大きな風水害に遭うと、簡単に飢餓を惹き起こして終いますが、縄文人はそれだけ、飢餓を怖れて居たと言う事ですね。

 人手を食う水耕稲作を行うには、農業以外の事を、責任を以て、行ってくれる人が必要ですが、問題はその人の食糧を皆で賄わねばならないと言う事です、この問題を解決して、分業社会システムに移行出来たのは、試みに、水耕稲作を始めて成功させ。結果、人口が増えて集落が村規模~町規模に拡大したからであろうと思います。

 こうして郷が出来ると、他の地域の部族との外交・軍事は、固より、山の部族と海の部族の物々交換等を基調とした貿易に関する取り決め、集団としての意思表示を求められる場合の代表答弁等々、集団の長として「分業して他の仕事をしている民が、納得する意見や制度を、社会に反映させる」事を、務めるものが、選出される事に成ります。

 「皆の意見を代表しているのですカラ、皆とは、常に意見を交換してその信任を得て居なくては、以下ませんから、所謂「寄り合い」は、古くから行われて居たでしょう。

 この「集団意志の統一」を諮る「政システム」は、日本では、古くから農村で必要に拠って自然発生し、百姓代「=集落の代表が集まって、水の管理、川の管理、山の管理、荒れ地の管理・・の問題を合議で決めていました。

 つまり、日本人は、西洋に民主主義を自然な形で取り入れて居たのです。

 然し、集団が肥大化すると、政には、外交・軍事や貿易と言った現実には、物事の道理ダケでは、解決しえない事も出てきます。

 その場合、互いに話し合って法や律を定め、其れに違背したモノを、強制力を以て、罰し、従わせると言う法令社会になったのは、小さな集落が国迄大きくなって始めて、法令、律令と言うものの効果が現れる様になるものです。

 其れに、強制力を持つモノが、ねずさんが挙げた鼎立「=三すくみ」の関係に無ければ安定しませんね。 そう言う意味でも、スメラミコトの存在が必要だったのですね。

 でも、日本の場合、災害に対する、広域の団結の必要性が優先されますので、争いを小さな地域で解決して居た処では、寧ろ、規則は最小限で柔軟で良く、発達させる必要も無かったと、私は思って居ます。

 然し、水耕稲作が正式に導入されて、日本中で行われて、人口が急に増え、国が沢山出来始めると、争いが複雑化、多様化し、且つ、大規模化して、ついに、戦う専門職が出来、武力を以て、無法が行われ無い様に、律令が編まれる様になったのでしょう。

 15世紀半ばから、160年近く続いた戦国時代を終息させた、安土・桃山時代には、刀狩りをやり、治安を武士が一手に引き受け、検地を行って、租税の多寡や、徴税の重複や漏れを糺し、検量升や検尺器の統一をして、田んぼの面積とその土壌の質の確定を行って、生産高を推定し、税高を決めた(太閤検地)で、公平な徴税システムの基本を創り、税収の安定を図りました。 

 是も、日本独自のものでしょう。

 そして江戸期には、2度と戦乱の世にしない様に、徹底した分業システムを布く為に、士農工商と言う、職業別の仕分けをして、其々が住む場所を限定して、其々を、最小限の強制力で管理し易い様にしました。

 処で、この中には、当時の為政者に取って、一番問題になって居た僧侶が含まれていません。それは、僧侶は、生産層では無く聖職者だから、と言う理由ですが、其れは言い訳で、直接管理するには、宗教を国教化する必要が出て来るので、敢えて曖昧にして居たのだと思います。

 是が伝統日本の政の集大成とも言うべき事です。 オソラク、是を施行した秀吉や家康は、弾正の信長からその腹案を聞いて居ただろうし、その具体的な、施行法も永年に亘って、部下と諮って試行錯誤されたモノだと思います。

 以上が、私が考えた「日本の政」ですが、日本はこの後、異質で未熟な西洋文化に戸惑いながら、その利己主義の酷さに辟易して、現在に至って居ますが、この日本の原点を、思い出せる様に歴史に学び直さねばならないと思います。

縦椅子様、ブログの更新をありがとうございます。

日本は世界で最も古い国で、それが今も継続しているという事は、残っている理由があるという事です。

そして、日本の国が何時できたのかは、判らない位に古くなっているのですけれど、その間はその時代に合うように、少しずつ修正して直されてきました。

だけど、日本が日本である事を証明するのには、血統の維持が大切になりますから、DNAの検査ができるようになったとは言え、男性天皇の継続が必要だと思います。

その為に、女性天皇が必用なときあっても、女系天皇にが即位するような事は、日本ではできないと思います。

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