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2019年9月10日 (火)

縄文時代の人々は、死を日常から切り離すことができなかった

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

藤 和彦『日本発 母性資本主義のすすめ』(ミネルヴァ書房)

本の題から内容を想像することは困難であろう。

この不思議な題の本を書いた藤和彦氏は、エネルギー専門家として知られた人なのである。

彼については、中東石油事情とかアメリカのシェールガスの状況を分析しているとばかり考えていた。

そんな人がなぜ、いわば「終活の仕方(人生の終わらせ方)」を書いたのか?

ーー

確かに日本は超が付くほどの高齢化社会になっている。

戦後の経済復興を支えたと自負する大勢の人たち、つまり1947~1949(昭和22~24)年に生まれた団塊の世代が、2025年には75歳以上になる。

つまり、2025年には、5人に一人が75歳以上の年寄りになってしまう。

彼らの間では、もう葬式のスタイルをめぐり議論が盛んなのだという。

ーー

家族に看取られて穏やかに最後を迎えるのを理想的とする、それが母性資本主義なのだという。

この説明でようやく題名も執筆動機も、納得できた。

ーー

評者(宮崎)とて、まもなく後期高齢者となるが、とうの昔に寿墓(じゅぼ、生前にあらかじめ営んでいる墓)を作って自分で戒名も付けている。

まだ元気で毎日一万歩を歩いているうえ、毎年海外や国内の旅と取材に出かけており、非日常を楽しめている。

西行のように「春(はる)如月(きさらぎ)望月(もちづき、満月)(旧暦2月15日)のころ」「満開の桜の下」で死にたいと願っている。

(願わくば花の下にて春死なんその如月の望月の頃)

ーー

各種統計から現代日本人は三人に一人が癌で死んでいる。

「突然の死よりも『長くて緩慢な死』が圧倒的に多数となり、老いの問題は個人の生き方の問題ではなく社会全体の問題に変わりつつある」

ーー

ところが戦後、社会は「死体」を隠した。

「死を社会全体で見ないように蓋をしているうちに、本当に死がみえなくなって」

「死がとてもおそろしいものになり」(P22)

もう充分生きたと思える高齢者が手術や抗がん剤による治療を希望することになる。

重要な指摘である。

ーー

自殺幇助も、殺人を否定するのが難しいため日本では禁止されている。

交通事故、列車事故があっても、メディアは死体の映像を報じない。

唯一触れることのできる肉親の死は、老衰の両親は介護施設で、病人は病院で、他人同席で看取られて死ぬ。

葬儀は「葬儀社」が勧めるまま、知らないお寺で、高い戒名を買わされ、儀式が行われる。

ーー

人は誰でも死ぬので、本来死は身近なものだ。

しかし日本では言論・メディアが死を身近なものとしてこなかったために今では遠い存在になっている。

安楽死議論も長く避けられた。

ーー

それに対してと藤氏は書く。

「縄文時代の人々は、死を日常から切り離すことができなかった」

「死を自分たちの生活空間の中に取り込むほかなかった」

「あの世に送られた人やモノは、再生の儀式や儀礼、お祭りによって、やがてこの世に回帰してくるという死生観を持つに至った」

ーー

弥生時代には半島に渡った縄文人が戦争を体験して、それを内地に持ち帰り、一万年以上続いた縄文の平和が消滅した。

戦争で死はますます身近なものとなったものと思われる。

そして終(つい)に「武士道とは死ぬこと」という境地にまで達していた。

つまりメディアが死を隠す以前まで縄文以来ずっと日本人にとって死は身近なものだったのだ。

ーー

後半、話は、ビットコイン、ブロックチェーンなど暗号(仮想)通貨に飛ぶ。

この暗号通貨とは限られた社会(それに値をつける人たちの間)にだけ通用するものだ。

「暗号通貨による新しい経済圏」(P203)が真剣に論じられる。

ーー

著者はどうやら伝統的な社会を守ろうとする保守主義を資本主義と表記しているようだ。

そして伝統的な「家族に見守られて死ぬ」、そのような死に方を母性資本主義と言っているように思える。

そして著者はさりげなく次のように書く。

「資本主義が考える価値と世の中の人の考える価値あるものの間に大きな溝ができている」

「世界を変えるには、前の時代に塗り固められた社会の共同幻想を壊して、そこに新しい共同幻想を上書きしなければならない」

「問題意識を持つ人たちが、有限だけれども同じ価値観の協同経済圏を造ろうとしている」

ーー

なんだ共産主義が破綻し、自由主義(liberalism)と名称を変えても信用されなくなったから、自分勝手にできる世界を暗号通貨の世界の中に作り出したのか。

それをなんと呼ぼうと、まあ好きなようにすればいいが、多くの人に迷惑をかけるようなことだけはしないでいてほしい。

だがもう正直で賢い人は共産主義や自由主義にはそして暗号通貨には騙されはしない。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>日本人の死生観 
 私は幼い頃から度々死にかけて居て、今迄に、幼少期~小学生迄に4度、歳を取ってから2度と、チョット間違えて居れば、或いは、運がちょっと悪ければ、既にこの様には居無いと言う、綱渡りの様な人生を歩んできました。

 他にも、他動的な要因での死の危険以外にも、決死の覚悟を固めなければ、出来無い事も、2度、3度やっているので、自分の死に対する考え方は、割と落ち着いて考えられる方だと思っています。 

 そうして考えれば、日本の激しい自然の変化と猛威の中で暮らして居た、縄文人は、常に死を隣に意識して居ただろうと言う、著者の推察はその通りだろうと思う、つまりは「明日は、何が起るか分らない」のが現実で有り、「明日も同じ」と言う現代人の考え方とはまるで違うのでしょう。

 でも、ダカラこそ、怖しい自然の他に脅威になる様なモノは、出来るだけ排除し、遠ざけなければならない最大の対象が、往々にして、同じ人間で在るのは、古今東西変わる事は無いでしょう。

 然し、常時自然の脅威に曝されている、列島に棲む日本人に取っては、その最大の敵で有る人間が、時に最大の味方であり、彼らとの団結力こそが、自然の猛威の中で生き延びる、唯一の術であったりするのだから、日本社会は、決して対立と抗争から始まった訳では無い、と言えるでしょう。

 そうで無ければ、災害の絶えない列島は、半島の様な無住の地のママで、極東の歴史は大きく変わっていたでしょう。

 こうした、自然環境が人類に与える影響力と言うのは、その人類が置かれた自然環境が、民族の特徴を形成する原因になっていると思います。

 即ち、固より、自然条件が厳しく、人間はおろか、生物さえも。ギリギリの生存条件で、辛うじて生きて居る様な沙漠や荒れ地、そして、酷寒で、異常な感想で、飲み水が確保出来ない土地に暮らすしか無い民族が居る。

 一方で、降水量豊かで、緑滴る様な、豊かな条件下でも逆に、日本の様に、大自然が齎す大量の降水が、川を氾濫させ、人家を流し去り、田畑を水没させて、非残った人々を飢えさせる。

 この様な、自然環境の違いでも、人類が採る手段は全て「生き延びる」事に、目的が収斂する。

 つまり、人間の考え方の基本は「生存慾」であり、それは「利己的な遺伝子」の延長形であるに違いない。 そして、その欲望を、刺激するのは、人の死を経験する事で有ると思います。

「ついさっき迄、来年の事を話して居たのに、突然、只の肉片になって終い、人間が丸毎消えて終う」と言う経験をしたモノは、「死」と言う誰にでもいつかやって来るモノに対する認識を、どの様に持つのかについて、嫌でも、人間の本質についての疑問を持たざるを得ないでしょう。

 そうして生まれたのが、「魂」と言う考え方で、大陸島の西側のアーリア人は、「輪廻転生」と言う考え方を思い着いたが、大陸島の東端の列島に棲む、日本民族も、霊魂の存在は当然の事として、3万年認識して来たのです。

 是は、旧人のネアンデルタール人も、死者を弔うに、花で、遺体を包んだりして、生を失った霊魂を慰めているかの様だから、肉体は死んでも、魂は生きて居ると言う、魂の存在の仕方も、あの世も、輪廻転生の考えも、ここから発しているのかもしれない。 

 つまり、現生人類の文明の源は、ネアンデルタール人ではないかと言う、無謀な推論になりますがww。

 其れは、兎も角、此処で指摘されて居る様に、「なぜ、マスコミは、死を徹底的に隠そうとするのか?」と言う疑問には、蓋し同感します。

 今年私は、親父を91歳で亡くしましたが、小さくなったその遺体をみても「ああ、あの傲岸不遜な親父が、小さ老人になっちゃたんだなあ」と言う、感慨しか湧かなかったが、葬式の翌日、焼き場で5~6時間、1600℃の高熱で焼いた遺体は、小さな骨片と灰になったのをみて、「こりゃあ、只のゴミだわ」と、少なからずショックを感じました。

 確かに、昔の土葬、風葬や鳥葬になれば、生前の故人への思いが増々募り、中には、後追いで亡くなる人も出て来るのは、残った人々には、色々と都合が悪いのだろうが、私には、例えば、幕末・明治の傑物、山岡鉄舟がガンで死んでしまった時、彼の墓前で後追い自殺をする人が絶えなかったと聞きます、所謂「追い腹」ですが、其れを、禁じる事の何処に正義があるのでしょうか。

 法律で禁じられて居るカラと言いますが、日本人の死生観は、飽く迄、「あの世が有る事は常識」なのです。

 ダカラ、此の禁則は、日本伝統のものでは無く、外来渡来のモノで有る事は、明らかでしょう。 それも、明らかに、死後の世界を否定したユダヤ・キリスト的なヘブライの唯物的死生観の存在が感じられます。 私は近代の法理は、共産主義と同根だと疑って居ますからね。

 「魂は不滅だ」とか、輪廻転生の考えに従えば、死はこの世とあの世を隔てる「区切り」でしかない筈です、そして、極論ですが、この世で得た縁を大事にしたいと思ったら「追い腹」「後追い自死」と言った殉死も行為、赦されてよいと思います。

 霊魂は、この世で得た阿頼耶識を魂に刻んで新しい経験知とし、次の生へと向かい、世の中には、そんな、蔵識「=経験知」を持った人々が沢山出来て、この世を良くする為に皆で力を併せる事に同意する人々を増して行くのが、神様の御経綸成就に仕組まれた、方途なのでは無かろうか、と私は思います。

縦椅子様
 
 今日も素晴らしいブログ有難うございます。
 知らない間に生まれ出て、知らない間にそだって、
知らない間に恋をして、知らない間に年取ったー
これはあきれた驚いた、何が何だかわからない、
これが人生というものか、あなた任せの、風来坊
                     -エノケンの歌
ほんまに呆れるほど早く年を取ってしまいましたが、心はいつも童心で、困った時には、「お父さん、お母ちゃん助けてください」と叫びまくっています。父母は苦労人で、子供たちには苦労をさせたくないと、自分たちのなりふりをかまわないで、一所懸命子供たちを育ててくださったのに、子供たちは皆あなた任せで幸せに年をとったのですが、自分の番が目の前にきて、慌てふためいているところです。「どうしたらよいのでしょうか?」といつも
私も兄弟たちも悩んでいるところなのですが、答えは出ず、「困った困った」で引き延ばしにしております。自分の誇りは「愛されて生まれてきた」という自信だけはあり、父も愛されて生まれてきたという自負があったから、私たちのために頑張ってくれたのでしょう。私も残りの人生ー愛してくれた父母の意に添うようにと祈りつつ日々を大切に過ごしたいと思っております。

縦椅子様、ブログの更新をありがとうございます。

人は生まれ、育ち、子供を作って育て、タヒんで逝くのだと思います。

その最終形がタヒんで逝くのですけれど、生まれたときには誰もが喜ばれる存在でありたいし、タヒんで逝くときには家族に看取られ、悲しまれたいものだと思うのです。


>自殺幇助も、殺人を否定するのが難しいため日本では禁止されている。
交通事故、列車事故があっても、メディアは死体の映像を報じない。

こんな映像を見たいとは思いません。
メディアは映像を報道したいのでしょうけれど、これもプライバシーだと思うのです。
実物を見たことはありますけれど、私がその本人ならば見せたいとは思いません。
どうしても見せなければならないものならば、穏やかに亡くなったものですが、何せ本人の意識のないものですから、本人は嫌も可も表現できる状態ではないのです。

そして、ときには家族も近寄らない場合もあるので、そんなものを第三者に見せるのはいかがなものかと思います。
それなのに、メディアはこれを市庁舎に見せるのが使命だと、酷いグロテスクなものまで公開しようとします。冗談ではないし、放って置いて欲しいものです。


>人は誰でも死ぬので、本来死は身近なものだ。

誰もが一度はタヒぬのですが、出来れば少しでも見苦しくないように、見せたいものではないでしょうか。
テレビドラマでは、目を見開いた目を閉じさせようとするシーンがあります。
あれも硬直すると、閉じさせるのは難しいし、口が開いたままになることもあります。
穏やかなタヒを見せたいのなら、目は閉じていたいだろうし、口も穏やかに閉じていたいと思いますけど、それだって、時間と共に出来なくなると思います。


>そして終(つい)に「武士道とは死ぬこと」という境地にまで達していた。

武士としての生き方が限界に達したときに、「タヒんでお詫びする」ことを精神的に一生に一度しか出来ない覚悟を現すもので、常人に出来るものではないのです。

愛知トリエンナーレでは表現の自由だとして、特別攻撃隊のことを揶揄してテントに彼等が書き残したものを張っていたそうですが、この時の製作者達に特別攻撃隊の方々の思いの百万分に一でも、理解していたものがあるとは思いません。

特別攻撃隊の方々が僅かに書き残したものを、今の日本人に残してタヒんで行ったのですが、この製作者達は揶揄して作った物を避難されただけで退却しました。
製作者達の表現の自由は、誠に薄っぺらいものだと断じざるを得ないし、これを日本人の前に展示したことは日本人を侮蔑する意味しかなかったと思います。

納税者として思うことは、せめて愛知トリエンナーレにかかった費用は全て国に返還して欲しいと言うことです。
好きにやりたい放題をやって、日本の税金をたっぷり貰ったでは、日本国民として納得できないのです。


それをメディアが簡単に騒ぐものではないし、表現の自由だとして特別攻撃隊のことをテントに張って馬鹿にするものでもありません。

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