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2019年8月14日 (水)

その声に振り返ったときに目が覚めました

ーー以下youtubeより抜粋編集

父は私が生まれてすぐ位に病気で亡くなり、母は私が4歳になった頃、事故死したのだと聞きました。

私には10歳上の兄がいましたが、兄と二人残されて、親戚をたらいまわしにされていたようです。

肩身の狭い思いをしていた兄は高校を出るとすぐに住み込みの働き口を見つけて出ていきました。

私が10歳になったころ、私が世話になっていた親戚の家へ兄が来て、落ち着いたので引き取りたいと言ってきました。

親戚では私をかわいがってくれていて、もめましたが、私は兄の世話になりたいと言って、兄についていきました。

それから兄と二人の貧乏生活が始まったのです。

ーー

私は二人の生活がどれほど大変なものか全くわかりませんでした。

それでいつもわがままを言い兄を困らせていました。

持ってきたランドセルが使えなくなったというと、兄は、中学生の居る家を訪ねまわってランドセルを譲ってくれないかと頼み込んで手に入れてきた。

それを私は気に入らないと言って兄を困らせたりした。

ーー

また人形が欲しい服が欲しいと言って駄々をこねたりしても、兄は困った顔をするだけで叱りはしなかった。

でも私が靴を万引きした時には、すごくしかりつけ、翌日は店に「ご迷惑をおかけしました、もう二度としませんので許してください」と謝りに行かされました。

3日後にはその靴が玄関に置いてあった。

「貧乏に負けて卑しい人間になったらあかん」

と兄は言って仕事に出かけて行った。

どうしてお金を工面したのか、きっと無理をしたのだろうと思うと、もう兄を困らせられないと思いました。

ーー

それからはわがままを言わず、すすんで兄の手伝いをするようにしました。

高校へ進学しないで働くと言うと、兄は悲しそうに私を見て、貯金通帳を見せ、お前の未来をわずかなお金のことで、壊してしまいたくはないと言った。

そこにはいつの間にかお金が貯められていた。

私が高校を卒業し勤めるころには、外食ができるほどの余裕ができていた。

ーー

そんな時に兄は事故で亡くなってしまった。

私は何日も何日も泣いて暮らしました。

そんな私を見ていた職場の少し年上の男性が、兄を失った話を根気よく聞き、共に悲しみ、慰め励ましてくれた。

やがて元気を取り戻すと、その男性を好きになっていて、相手も私を好きだと言ってくれた。

ーー

その男性との結婚が決まり、その結婚式の前夜、兄が来てくれた。

「お前が結婚か~」

とのんびりと話しだしました。

私は夢中でしゃべろうとしましたが、声が出ない。

「今日は謝りに来たんや、寂しい思いさせて、貧乏させて、本当にすまんかった」

「お前がわがままを言わんようになったときにはちょっとつらかった」

私は夢中で「謝らなあかんのは私の方や、お兄ちゃんありがとう、ランドセルも制服も学費もありがとう、靴は今も大切に持っている」と心の中で叫んでいた。

それが聞こえたのか兄の姿は掻き消えた。

ーー

それから眠りについたのか、夢を見た。

住み込み労働者にあてがわれたアパートの前で幼い私は、兄と雪だるまを作って遊んでいました。

そこには母もいて、「じぁあ言ってくるね、外は寒いからおうちに居なさい」と私のほうを見て言った。

私は何のためらいもなくうんと言って、アパートの階段を駆け上がりました。

その後ろから兄が声をかけてきた。

「おい、お前の事迷惑やなんて思たことないぞ、俺の方こそ先に死んでしもてすまんな」

その声に振り返ったときに目が覚めました。

ーー

私は、夢で見た懐かしい母や兄の元気な姿にそれこそ号泣してしまった。

鏡に映った私、花嫁の顔は、パンパンに張れていました。

花婿は私の顔を見て、後でその話を聞きたいと言ってくれた。

後日、結婚式の写真を見せながら、夫にこの話をして、どこかに兄が映っているかもしれないと言い一緒に兄を探しました。

もちろんどこにも兄は映っては居ませんでした。

今日が結婚記念日なので思い出して書きました。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>鎮魂の夏
 私はこのお話を読んで居る裡に、自分も幼少期に、姉と二人で親戚・知人の間を2年余り、彷徨っていたなあと、思い返しました。

 然し、違うのは、私の姉は今もちゃんと生きて居ますし、親父とは生き別れですが、この前91歳で亡くなり、鹿児島の葬儀にも出席できました。 お袋は、病弱でしたが73歳まで生きてくれましたから、私の方が、随分恵まれて居ますね。

 人間の健全な心身の成長には、愛が不可欠なのですが、愛にも色々な形があるものです。 では、幼児期に一番、子供が欲しがっているものとは、一体何かと言えば、それは「悲の心:、つまり、「共に、悲しんでくれる心(愛)」だと思います。

 その役割は、大抵母親が果たして居ますが、時に、男女に関わらず、斯うした心を持って居ない人が居る様です。

 是は他の動物でも、「育児放棄」の例が、普通に見られる事柄、殆ど、数学的な確率論の世界の事に成りますね、つまり、少数だが「あって当たり前」な現象なのです。

 然し、日本社会は「女・子供・老人を民族の宝」として、最優先で護るべき対象として来ました、ダカラ、このお話の様に、父母が早逝し、自身も父には10歳で、母とも14歳で死なれ、途方に暮れて居た筈の少年が、幼い妹を何とか、亡き父母に代わって家族を続けて行こうと決心した心には、胸をうたれました。

 彼が持って居る家族観と言うものは、一体誰から教えられたものでしょうか、亡き父母は勿論の事ですが、是も、阿頼耶識の為せる業、即ち、「祖先から受け継いだ心」では無かろうか、と思います。

 斯うした話は、死んだ幼い弟を背負って焼き場の順番を待つ「焼き場の少年」や、海外ですが、ハリー・ポッターで、亡くなったお父さんやお母さんが、魔法の鏡に現れるシーンにも看る事が出来ますし、シナの話でも幼い弟妹を若い兄姉が、自分を犠牲にしても育てようとする話も多く聞きます。

 つまり、家族愛と言うものは、洋の古今東西を問わない、人類否、生き物には、共通した思いだと言う事ですね。

 近代には、こうした家族愛を嘲笑うかのような表現をするモノが居ますが、大抵は、根っこが唯物論者で、「死んだらゴミに成る人」です。

 私は思うに、斯うした人には、墓は勿論要らないし、葬式など笑止の至りなのでしょう、ペットの犬猫が死んでも、「生ゴミ」に、平気で出せる人達です。

 此の乾いた死生観なら、自分達も、死んだらゴミ扱いされても仕方が無いと思って居ると思います、特に、戦後社会の上層部の人には、「葬式不要」を云って居た人が結構多く、その家族が、「お別れ会」の様な、家族葬ダケで済ませて居た例を沢山知って居ます。 

 ダケド、それって、突き詰めて行けば、先祖の存在、魂の存在すら否定しているのでしから、お盆も正月も関係無い訳で、同じ日本人として、寂しい話ですね。

 人として生まれて来たからには、この人間で造る社会を病貧争災の少ない安寧なものにしようと、努力すべきなのに、自分だけの為にしか生きられないなんて、不幸な事だと思います。 まあ、其れも数学的な確率の中の少数派と言う事なのでしょうか。 

 話を戻しますと、この語り手が、お嫁に行った相手は、多分亡くなったお兄さんと似たタイプの人だったと思います。

 幼児体験は誰しも、経験して居る事ですが、成長して行く裡にすっかり忘れてしまいます。 然し、斯うした話を訊くと、その孤独感や頼りなさからくる恐怖心が、甦ってきます。 ですから、偶にいる「子供嫌い」の母親は、そうした体験時に一種のトラウマを持って居るのではないかと思います。

 育児は、母親の専門の仕事ではありませんが、お乳の出ない」父親は、授乳する事で、母親の方に育まれる母性を感取出来無いと言う点で、育児向きに造られている徒は言い難いですね。ww

 況してや、それを、女性を社会進出させる契機にしようと言うのは、明らかに、共産主義的な男女平等論「=結果平等」で、神の御仕組みを無視したモノだと言えましょう。 ジェンダー(性差)は、自然の法則です。

 明日は、終戦の日です。 多くの先人達が、欧米の「日本人皆殺しの意図」を持った戦いをやっと終わらせる事が出来た日です。

 「終戦じゃなくて敗戦の日じゃないか、欺瞞もいい加減にしろ」と言う、意見や公的・法律的には、ポツダム宣言を受諾したので、「戦闘終了」を告げたので、日本軍は、指揮官が馬鹿正直に「No Side」の心算で、一方的に武装解除した為に、日本兵士は、地獄の目に遭って居ます。

 精強で勇敢な日本軍に、散々な目に遭って居た、英米豪蘭仏支の各国の軍隊は、現地で、丸腰の日本兵を、弁護士も着けない勝手な現地裁判で裁いて、残酷な方法で、死刑にしたり、飛んでいる飛行機から衝き落としたり、動けない傷病兵を殴り殺したり、好き勝手な事をやっても、それが正義だと言って憚らなかったですね。

 彼らにも、自然の理「重々無尽の理:働くと思えば、その後、如何なる人生を送ったかは想像に難くないですね。  斯うした、人間として最低の事をやったのが、所謂、連合国であり、戦後の国連ですから、この国連改革の声が、米国から挙がって居るのは、隔世の観があります。

 ご先祖様、世界はやっと、貴方方の正義の戦いを認め、その是正に一歩を踏み出しそうです。 でも、74年懸りましたね。

縦椅子様 

 今日も素晴らしいブログ有難うございます。
 いつかブログに掲載いただいたー灼熱の暑い夏死んだ幼い弟を背負って焼き場の順番を待つ「焼き場少年」の写真や、本日の幼逝した父母の代わりに十歳年上の兄が妹を引き取り、貧しいながらも一所懸命妹の面倒を見ていく家族愛のお話しには心が打たれました。妹さんが、結婚式の前夜、懐かしい兄さんや母さんの夢を見て、号泣して、目覚めた時、パンパンに顔が腫れあがっていたとの話には、泣いてしまいました。兄さんのような、夫に恵まれよかったことです!
 先日ご紹介いただきましたー「武士の娘」・杉本鉞子著のお話にも強い兄との絆がかかれています。明治6年越後の国、長岡藩の家老の家に生まれた鉞子は、武士の伝統の色濃い家庭の中にあって、武士の娘としての厳しい躾と教養を積まれて成長されました。
 一方父君の跡次ぐべき大切な兄自身の婚礼の日、兄君は突如、家出をされたのです。兄の渡米は、軍隊に入った後、当時沸き立っている貿易熱に煽られ、口車に乗せられて渡米しましたものの、じきにお金を使い果たし、仕事もなく、洗練された優美さもない環境で過ごすうち、不幸な珍事で頭を打ち、3週間入院し、退院後、とある街角で足早に歩いてくる、きびきびした青年にぱったり行き合いました。二人が急に立停りますと、その青年は大声で笑い、蒼白い兄の顔を見ると、そのままくびすをかえして兄について参りました。
 この松雄という」青年は兄をその住まいのアパートにともない、数日後には、自分の会社に兄の働き場を見つけてくださったのでありました。こうして芽生えた友誼は、やがて末永く変わることのない温かいものに育まれたのでした。
 頭の傷がだんだん悪化して、長い仕事に耐えられられなくなり、遂に兄は元道りにはなれませんでした。けれども、松雄の親切には何の変わりもありませんでした。この頃、父の病篤く、帰省を願っていると知らされ、兄は躊躇したあげく、帰省致しました。
 やがて、アメリカの松雄から、兄のもとへ手紙がよこされることが多くなり、家族会議が開かれ、「お前の嫁入り先が決まりました」と母から告げられ、数か月後結納の式が執り行われました。婚約者・松雄の叔父は数日前から京都からまいり、当日習慣どうりに結納の品々がとり交わされました。鉞子がまだ13歳にも満たない時の事でございました。
 結納が済みますと、その日から妻としての躾がはじまりました。14歳の春、東京の学校へ入学手続きをするため、八日路の旅にで、兄が同行し、思い出を共有するのでありました。
 この物語は、祖母君母君父君、兄君をしのぶ家族愛が根底にあり、お世話になった兄の友人のところ縁あって嫁してゆき、さらに縁が広がるというお話であります。
 が、二女をもうけられ、幸福な日々を送られるにつけても、日々お里の母君や懐かしい祖国ことをしのばれて、いよいよお二人のお子様と日本へ向かって出発されましたが、出帆後まもなく、夫君は盲腸をやまれ、不帰の客となられました。当時の夫人のご心中は察するに余りあるものがございます。
 然し、この大きな試練が名著「武士の娘」の生れ出る機縁となったのでした。
 この書の中でp95「九 盂蘭盆」という章があり、その中に、
 「盂蘭盆はご精霊さまをお祀りする日で、数々の年中行事のなかで、一番親しみ深いものでありました。ご先祖さまはいつも家族のことをお忘れにならないものと思い、年毎に御霊をおむかえしては親しみを新たに感じさせられるのでありました。」とあります。
 時まさに、お盆の中日ーすべての精霊が見守ってくださっていることに感謝でございます!

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