杉本鉞子(すぎもとえつこ)著『武士の娘』(ちくま文庫)
ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集
杉本鉞子(すぎもとえつこ)著『武士の娘Dughter of the Samurai』(ちくま文庫)
日本人が、英文で書き広く欧米人に読まれて、日本文化の理解に一役買った有名な本に、新渡戸稲造『武士道』、内村鑑三『代表的日本人』などがあります。
さらにもうひとつ、忘れてならないのが、この本なのであります。
ーー以下著者についてwikipediaより抜粋
1873年(明治6年)、旧越後長岡藩の家老、稲垣茂光(平助)の六女として新潟県古志郡長岡(現長岡市)に生まれる。
名前の「鉞」は、まさかりのこと。
強い精神を持った武士の娘として育ってほしいという願いから命名された。
尼僧になる子として育てられたため、生け花や裁縫といった女子教育のほかに、漢籍も教育された。
父の死後、兄の希望により、兄の友人の杉本松雄(松之助)と12歳で婚約した。
ーー
松雄は福沢諭吉に傾倒し、洗礼を受けた商人で、日本の古い商法を嫌い、アメリカ合衆国のシンシナティで日本骨董の店を開いた。
鉞子はメソジスト系のミッション・スクールの海岸女学校(青山学院の前身)と英和女学院で4年間英語を学び、1898年(明治31年、24歳)、結婚のため渡米した。
ーー
アメリカでは、松雄の店の顧客であり、第28代大統領ウッドロウ・ウィルソンにもつながる地元の名家でメソジスト派の出版社を経営していたウィルソン家の庇護のもと、新婚生活が順調に始まった。
花野と千代野という二人の娘にも恵まれ、平穏に暮らしていた。
しかし、夫の事業の失敗のため、12年暮らしたアメリカを離れ、1909年(36歳)に娘たちを連れて帰国。
その直後に夫が盲腸炎で急死。
ーー
生計を立てるため、1911年(38歳)から日本キリスト教婦人矯風会の矢嶋楫子の助手や普連土学園の英語教師として働きはじめた。
1916年(大正5年、43歳)、孫の躾に厳しかった鉞子(えつこ)の母親が亡くなった。
それをきっかけに、アメリカでの暮らしを懐かしむ娘たちを連れて再渡米。
ニューヨークで暮らしながら、原稿料を目当てに新聞・雑誌に投稿を続けた。
ーー
その活動がクリストファー・モーレー(作家)の目に留まり、彼の勧めにより日本の生活を紹介した『武士の娘』を雑誌『アジア』に連載する。
執筆に当たっては、日本滞在経験のあるウィルソン家の姪、フローレンスの手助けがあった。
それゆえ、清教徒(ピューリタン)的な家庭観に基づいて書かれている。
ーー
フローレンスは、鉞子が新婚時代、ウィルソン家に同居しており、鉞子のアメリカ生活を大いに支えた人物であり、鉞子が娘たちと日本に一時帰国していた際も来日して同居していた。
鉞子は『武士の娘』の共著者としてフローレンスの名を入れることを望んだが、排日運動の只中にあったことなどから、フローレンスの希望により名を伏せられた(没後に鉞子が公表)。
ーー
1920年にはコロンビア大学から日本に関する講座を打診された。
日本領事館から領事官に譲るよう迫られたため、辞退しようとしたが、フローレンスの助言で引き受けることにし、7年間日本語と日本文化の講座を持ち、着物姿の先生として生徒からも慕われた。
ーー抜粋引用ここまで
当時は「この本を読むと日本のことがわかる」といわれ、全米で大ベストセラーとなり、後には欧米8か国で出版されました。
女性でありながら、“まさかり”と名付けられた鉞子には、強い精神を持った武家の娘として育ってほしいという親の願いが込められていたのです。
なにやら最近の教育現場では、封建社会の女性は、身分も地位も低かったかのような印象操作が行われているようですが、この名前をみただけでも、いかに女性が日本で社会的に“強い”存在であったかが知れようというものです。
ーー
鉞子への教育は、6歳から始まりました。
すでに明治にはいっていましたが、教育は完全に武家としての教育が行われました。
子供の頃の教育は、もっぱら儒教の古典の素読(声を出して読むこと)です。
それについて鉞子はつぎのように書いています。
「当時、女の子が漢籍を学ぶということはごく稀れなことでありましたので私が勉強したものは男の子むきのものばかりでした」
「最初に学んだものは四書、すなわち大学、中庸、論語、孟子でした」(p.31)
ーー
学習中は、畳の上に正坐です。
手と口を動かす以外、微動すら許されない。
鉞子は、いちどだけ、ほんのすこし体を傾けたことがありました。
それをみた師匠は驚き、次のように言ったそうです。
「お嬢様、そんな気持ちでは勉強はできません」
「お部屋に引き取って、お考えになられた方がよいと思います」
ーー
鉞子は、「恥ずかしさのあまり、私の小さな胸はつぶれるばかりでした」と書いています。
彼女は、師匠の叱責に「恥ずかしさ」を感じたのです。
どうして恥ずかいと感じたのかといえば、それは師匠の要求に答えられない自分を恥じたからです。
そして自分を制御できなかったことにも、恥じたからでした。
そしてなにより、師匠が、自分を鍛えるために「教え」を説いてくれているということを、幼い彼女自身が、ちゃんとわきまえていたのです。
ーー
実は、こうした「制御の精神」を身につけて育つと、穏やかな中にも、自然と威厳が備わります。
ですから明治時代でも、武家と庶民では挨拶の仕方から、歩き方まで違っていたし、風呂屋で裸になっても、どういう家柄の人なのか子供でもわかったといいます。
ーー
そんな彼女が12歳になると、親族会議によって縁談が決まります。
婚約者は、渡米して米国で日本の古美術を売っている兄の友人。
そこで鉞子は、東京で英語を勉強し、24歳で結婚のため渡米します。
ーー
米国の女性について、彼女がとても驚いたと書いていることがあります。
「婦人が自由で優勢なこのアメリカで、威厳も教養もあり、一家の主婦であり、母である婦人が、夫に金銭をねだったり、恥しい立場にまで身を置くということは、信じられそうもないことであります」
「私がこちらへ参ります頃は、日本はまだ大方、古い習慣に従って、女は一度嫁しますと、夫にはもちろん、家族全体の幸福に責任を持つように教育されておりました」
「夫は家族の頭であり、妻は家の主婦として、自ら判断して一家の支出を司っていました」
「家の諸がかりや、食物、子供の衣服、教育費を賄い、又、社交や、慈善事業のための支出を受持ち、自分の衣類は、夫の地位に適わせるよう
心がけておりました」(p.216)
ーー
米国では、財布の紐は男性が管理しており、妻はわずかのお金も自由にできない。
女性の社会的地位向上だとか、女性差別の撤廃だとか、ジェンダーフリーだとか、米国発の女性人権論議がさかんだけれど、日本では、昔から、男女がきちんと役割分担をしていたのです。
ーー
そして男が外で働き、妻が家計のすべてを預かりました。
男は、自分が外で働いて稼いだカネを全額、女房に渡す。
全幅の信頼です。
ーー
そして女房は、その信頼に応えて、家計をやりくりする。
互いに強固な信頼関係がなせる技です。
夫婦の間でも、親子の間でも、師弟の間でも、上下関係でも、すべてにおいて、信頼が第一です。
一番たいせつなことは、仕組みや社会構造や法的ルールではなく、互いの信頼関係にこそある、ということを、昔の日本人は、普通に行っていたのです。
ーー
こうした相互信頼型の社会や家庭が築けた理由のひとつが、「給料や報酬というのは、その家に支払われた」という点にあります。
ーー
いまでは日本もすっかり個人主義に染まり、給料は仕事をしている夫や妻個人がもらうもの、という考え方になっています。
しかし少し考えたらわかりますが、夫が外で思い切り仕事ができるのも、子育てやら年をとった親の面倒やらを、妻が家庭にいてしっかりと見てくれているからです。
ーー
バカげたことに、いまどきは妻がパートに出るために子供を保育園に預ける。
パートの給料が月10万円で、子供の保育園代が月10万円。
なんとも馬鹿げた世の中になったものです。
ーー
私達はいまいちど、欧米でベストセラーになり、欧米における家庭や仕事のあり方に一石を投じた『武士の娘』を、再度読み直してみる時代を迎えているのかもしれません。
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コメント
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>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>日本女性の素晴らしさ
私は、常々現代の西洋的な男女同権観は、稚拙で遅れた考えだと思って居ます。
其れは、私の母親が「男なんかには負けない」と言う、強い気荘の女性だったのですが、反面、女の子にも男の子にも平等に厳しかったと思って居ます。
そして、所謂、性差の存在を強く意識して居たけれども、日本古来の「同権異質」と言う日本伝統の男女間の「分担制」に関しては「男の癖に・・」と言うセリフは一度も聞いた事が、ありませんが「男は、女子供老人といった『弱いモノ』を護ってこそ、一人前です」と言って居ました。
ですから、喧嘩をして勝って帰ろうが、負けて帰ろうが、拘りませんでしたが、「何故、喧嘩になったか」は厳しく問い詰められましたね。
私は、良く、虐められている子の味方をして、多勢に無勢でも喧嘩で逃げた事は、有りませんでしたが、肝心の護ってやった心算の子が、大人には、自分を虐めた子と私を混同して訴える事が、屡々あって、先生から報告を受けた母が私を叱るので、経緯を話すと、翌日、学校へ行って、先生に反論する様な人でしたねww
そう言う女性が一般的なのだと思って居ましたが、全く違って居て、私が集団暴行に遭いそうに成った時、投げた石が顔に当たった子の母親などは、自分の子供の卑怯さ等、棚に上げて、怒り狂って居ましたが、父親が「子供の喧嘩に、親が出るべきじゃない」と、許してくれたのが、今でも、印象に残って居ます。
思うに、あの頃の鹿児島は、少なくとも「男の子」に関する教育には、共通した「社会を護る精神を身に着けさせよう」その為には、「卑怯な事は、例え、我が子でも許さない」と言う気風があったと思います。
是は、傍観者だった女の子も同じ環境に居たと、考えて居たのですが、3つ上の姉は、母譲りに気は強くても、体が小さく弱かったので、良く虐められて「悔しい」と家で、泣いて居ましたね。
女の子同志では、誰も止めるものが居なかったのでしょうね。 でも、姉もでも流石に、私に助けを求める様な事は、意地でもしませんでしたねww
処が、神戸に出て来て40年余りになりますが、鹿児島と比べて風土が違う所為か、関西の女性は遠慮が無いと言うか、慎みがありませんね。
ちょっと容姿に自信があれば、威丈高な姿勢を取るし、ずけずけモノを言うし、腹黒い部分を見せるのも平気の様で、鹿児島とは、うんと違いましたね、と手も、一緒に暮らして、心安らカニㇲgセルとは思えませんでしたね。
然し、TVを見て居ると、この傾向は、全国的なものの様で、露出度の多い女性に限って、西洋式の男女同権が先進的だと思い込んで居る様に思えます。
中には、自分の旧姓を西洋式に、ミドルネームに取りこんだり、夫婦別姓を主張したりする、オッチョコチョイが居るが、大体は、発言内容を聞いたら、自分の頭で考えたのではない事が分り、ガッカリさせられる場合が多いですね。
然るに、世界を見まわせば、日本の女性程、自由で、尊重され、愛されている、存在は無いと思います。 それは、唯の比較に過ぎないと言う人が居ますが、では、男と比べた時に、男が果たして居る、過酷で危険な労働は、女性がやるべきでは無いと思うから、日本では、やらせないダケで、差別では無い。
それに、きつい分、給料が高いのは当たり前だし、そうで無ければ、誰もきつい仕事をする人間は、居なくなる。 ダカラ、ジェンダーを尊重している日本社会は成り立たない。
女性も働いで、自立するのは良いが、結果、歳を取って体が動かなくなった時に、誰も守ってくれない事態が出来すれば、孤独死しか途は無い。 仕事が面白いのも結構だが、そんな事は男に任せて置けば良い事が沢山あるのではないか、子供は若い裡にしか生めないし、良き伴侶も、時を逃がせば、難しくなる。
i 特にこの先、色んな面がAI化すれば、事務職自体が激減するだろう。 すると、AIでは出来無い部分の人間力を発揮する仕事が、世の主流になるに違いない、例えば、保育士、介護士、看護師、医師、教員と言った、子供や老人に関する仕事は、子育てが終わった、経験豊富な「プロ」の仕事師として、寧ろAIを使いこなす先端職業となるでしょう。
女権向上の活動は、まあ、未だ女性が、家畜扱いの国や「アダムの肋骨」扱いの国は、大いにやって居れば良いのでしょうが、一言、日本は古より、「女性を世界一尊重して来た国」だし、代々、社会秩序を守る事に、官民挙げて命懸けになって来た国です。 ダカラ、江戸期260年の平和があった。
私は、その伝統を断固支持して居ますから、今後目に余る様なら、排除する運動を始めるのにも、吝かでは無い。
今日のご紹介の杉本鉞子さんの話は、オソラクGHQの焚書の対象になったのではなかろうかと思います、彼女の一生は、ジェンダーを守り通した一生でしたが、2人の娘さんが米国贔屓になったのは、家族同然の親交があったフローレンスさんの影響か、其れとも、大正末期~昭和の戦争~戦後日本と言う日本に取って苦しい時代を、米国と日本で過ごした所為かは判りませんが、結局、米国に行って終ったのは、残念ですね。
でも、この「武士の娘」は、新渡戸稲造の「武士道」や内村鑑三の「ある日本人」の様に復刻して世に出すべきで、日本社会の精神性の高さ汰先進性の高さを世界に知らしめて、世界全体の進歩の為に役立てるべきだと思います。
何故なら、日本の伝統社会こそ、3万年の時を懸けて創り上げた、自然の理に即した、世界に2つと無い、極めて平等で、弱者保護や相互扶助、そして危機に際して、皆が団結する奉公心、自分に与えられた役目を果たさんとする自捨の心、社会秩序を尊重する姿勢、何れをとっても理想的だと思うからです。
投稿: ナポレオン・ソロ | 2019年7月29日 (月) 09時42分
縦椅子様、ブログの更新をありがとうございます。
>米国では、財布の紐は男性が管理しており、妻はわずかのお金も自由にできない。
この話を聞きますと、何時も思うことは「米国での男女平等は、何を持って平等というのか」と、言うことです。
日本の場合には、「夫が外で稼いだものを妻が預かって、家庭内の管理を行う。」ので、家庭内のことは役割の分担をしているのですから、其処には対等の関係が生まれます。
しかし、米国の場合には、「夫が外で稼いだものを、妻が必要な都度与えられる」のですから、其処に妻は夫のペットというような感覚を覚えるのです。
此が、男女同権であり、男女平等と言えるのかと、疑問に思うのは日本人だけなのでしょうか。。
話は少し異なるのかも知れませんが、米国の大金持ちがトビキリ美人の女性と結婚したり、スポーツで黒人の一流選手が白人で美人の女性と結婚したりしていますと、妻をとても自慢することがありますが(此は、結構なことです。)、なんか扱い方が愛玩物のように思えることがあります。
そして、女性もそのことをよく分かっていて、自分を商品のように思っているように見えることもあるのです。
ドライな考え方と言うのは構いませんが、二人で生きていて楽しいのかと思うことがあります。
日本は男性優位で女性を蔑視していると、欧米人は考えているそうですが、本当の意味で、女性を蔑視しているのはどちらだろうかと思います。
投稿: ポッポ | 2019年7月29日 (月) 11時32分
縦椅子様
「杉本鉞子(すぎもとえつこ)著『武士の娘Dughter of the Samurai』(ちくま文庫)」のご紹介の素晴らしいブログ有難うございます。
≪女性でありながら、“まさかり”と名付けられた鉞子には、強い精神を持った武家の娘として育ってほしいという親の願いが込められていたのです。≫-との親の願いに恥じない武士の娘としての生き方が書かれている本をぜひ読んでみたいと思います。
≪鉞子への教育は、6歳から始まりました。教育は完全に武家としての教育が行われました。兄の友人の杉本松雄(松之助)と12歳で婚約した。ー鉞子はミッション・スクールの海岸女学校と英和女学院で4年間英語を学び、1898年(明治31年、24歳)、結婚のため渡米した。≫
≪「夫は家族の頭であり、妻は家の主婦として、自ら判断して一家の支出を司っていました」≫の日本古来からあるやり方が米国のやり方と違っていることに違和感を覚え、
≪一番たいせつなことは、仕組みや社会構造や法的ルールではなく、互いの信頼関係にこそある、ということを、昔の日本人は、普通に行っていたのです。≫と認識します。
日本の女性は、自分を生かし切ることができるよう、幼い時から訓練をうけ、運命共同体の中で、信頼されつつ、やるべきことを忠実に心を込めてやっていくことを 自然と身に着けられるよう、社会全体から守られている」のではないかとの実感を強めた次第です。
投稿: ばら | 2019年7月30日 (火) 12時28分