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2019年7月 6日 (土)

縄文晩期に、突然人口が8万人程度にまで減少しました

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

縄文時代の人口は、日本列島全体で概ね26万人であったとされています。

ところが縄文晩期に、突然人口が8万人程度にまで減少した。

このことは遺跡の検証から明らかになっています。

この時期急激な寒冷化が進み、そのために木の実などの収穫が落ち込み、多くの餓死者が出たと推測されています。

ーー

この人口減少のあとの弥生時代になると、人口はいきなり60万人に増加します。

一般的に言われている理由は、稲の水耕栽培によって食料が増産されたとするものです。

ーー

しかし

1、日本での稲作の開始時期

なるほど従来説は、稲作は弥生時代に始まるとするものでした。

しかし縄文遺跡から、稲のプラントオパールが発見され、また発見された縄文土器にコメ粒が付着していた。

これらから、我が国ではすでに8千年前には稲作が開始され、4千年前には水田を持つ集落があったことがわかった。

人口減が起こるより前に、稲作が開始されていた。

つまり、人口増の原因は稲作の伝来ではなかった。

ーー

2、栽培されていた稲の種類が支那大陸や朝鮮半島の稲とは異なっていた

稲のDNAを調べ、支那大陸、朝鮮半島、日本列島のそれを比較すると、日本の稲は、支那大陸や朝鮮半島のものとは違っていることが分かった。

朝鮮半島よりむしろ支那大陸のものに似ており、もし外国由来だとすれば、半島由来というよりも大陸由来としたほうが合理的であることもわかった。

従来の説つまり大陸から朝鮮半島を経由して日本に稲作が渡来したという説は成り立たなくなった。

20190701 稲作

ーー

3、米食をしていたのであれば急激な気温低下による植物体系の変化にも適応できたはず。

なぜなら稲は保存に適した品種だからです。

狩猟採集生活をしていて、急激に気温が低下し木の実等が採集できなくなり飢え死にした。

しかし以前から稲の栽培が行われていたなら、この理屈は通用しません。

ーー

これらの事実は、稲作渡来による人口増を否定するものです。

ではどうして縄文晩期に人口が減少したのか。

人口がいきなり3分の1になっている。

これはたいへん大きな出来事です。

ーー

この時期、火山の破局噴火もありません。

破局噴火はひとつ起これば日本列島全体の人口を激減させるどころか地球規模での人口の大激減をもたらします。

小さな(普通の)噴火はいくつもあったことでしょうが、それら小さな噴火が日本列島全体の人口低下をもたらしたということには無理があります。

地震も同じです。

局地的な人口減少をもたらすことがあっても、日本列島全域での人口低下をもたらしたとするには無理があります。

26万人が8万人に減少しているのです。

ーー

はっきりしているのは、この時期、年平均気温が2℃ほど低下したことが様々な資料でわかっています。

気温が1℃低下すると、鹿児島は現在の仙台の気候になってしまう。

2℃下がると、鹿児島が樺太の気候になる。

つまり日本列島全体に、たいへんな寒冷化がもたらされたということです。

ーー

これでは、稲作はもともと稲が熱帯性植物であることでもあり、大凶作どころか、栽培自体ができなくなる。

一般に指摘されている通り、寒冷化によって森林の体系さえも異なっていく。

それまでの広葉樹林帯は枯れてしまい、木の実の採集も困難になったことでしょう。

食べ物は、もっぱら海産物に頼らざるを得ません。

しかしその海さえも、冬場は流氷で漁ができなくなったことでしょう。

ーー

しかしそれだけでは、26万人が8万人に減少する事態を説明することができません。

ではこの人口の急激な減少は何が原因だったのか。

ーー

そこでひとつの前提があります。

縄文遺跡には神津島由来の黒曜石(矢じり、石斧とうの石器の材料)が出土しているということです。

神津島へ行くには黒潮を横断できなければならない。

つまり3万年前の縄文人は、神津島との間を往来できたほどの航海技術を持っていた。

これは縄文時代が開始された1万6500年前の、さらに倍ほども古い昔のことです。

そういう人々の子孫が、日本列島全体に広がり、26万人ほど住んでいたわけです。

ーー

日本列島全体で26万人です。

もちろん土地に所有権なんてありません。

船を持つ海洋民族であれば、寒くなれば村ごと南に移動するし、暖かくなれば村ごと北に移動します。

ーー

とりわけ海中の魚は、気温の変化に敏感で、最近でも多少の温暖化が進んだ結果、半世紀前には御前崎あたりでよく採れたイシモチが、いまでは九十九里沖で採れるようになりました。

つまり水温の変化に応じて、魚たちは移動するわけで、そうなればその魚を食べていた人たちも、魚と一緒に移動する。

これはごく自然なことです。

ーー

ただし、縄文人の生活は、単に魚を採っていただけではなく、農耕も営んでいましたから、そうなると村の引っ越しはある程度制限されることになります。

それでも鹿児島の気温が現在の樺太の気温になったら、もう引っ越ししなければ従来の生活を維持することはできなくなる。

引っ越しを決断する事態になったというのは、当然考えられることで有りましょう。

ーー

人は食べなければ生きていくことができません。

そして何を食べて生きてきたかによって、それぞれの民族の体質に変化が及びます。

たとえば日本人の多くは、乳糖不耐症で乳製品を体内で分解することができません。

牛乳を飲むと下痢をする人がいるのはそのためです。

ーー

一方で日本人は海苔(のり)が消化できます。

ーー

日本人の食生活は、お米と小魚と豆と葉っぱと根っこ(大根やレンコンなど)が基本です。

肉食も実は苦手です。

肉を食べると元気がでるといいますが、日本人の場合、食べたすぐ後に瞬発力は出ますが、継続的な力仕事に肉食は向きません。

このことは幾度となく実験によって証明されています。

ーー

ちなみに最近では肉食系、草食系という言葉が流行っています。

肉食系というのは半島人がモンゴルに支配されて以降肉食になっていたことを指し、草食系というのはもともと菜食薄味の日本人のことをいうのだそうです。

肉食だから元気が良いと言いたいのでしょうが、明治のはじめに来日した外国人が、握り飯とたくあんだけで、馬よりも早く江戸から日光まで旅する日本人を観て、あきれるほどにびっくりしています。

草食系の持つ力は、実は肉食よりも持続力に優れる特徴があることは、いまでは完全に立証されていることです。

ーー

要するに日本人は日本古来の普通の食事のほうが、実は力が出ます。

逆に日本人が肉食を中心に据えた食生活にすると、日本人の場合、一時的な元気だけで持続力と集中力がなくなり、物事を深く考えることができなくなり、キレやすくなる。

つまり半島人と似てくるという報告もあります。

体調がいまいちで、なんだか体がだるくて元気が出ない。

そんなとき日本人の場合はトンカツを食べに行くよりも、メザシと納豆に漬物でご飯を食べると、意外と元気が出て集中力も戻るものです。

ーー

そもそも日本人の腸は植物を消化するために長くなっています。

日本人が胴長短足なのはそのためで、逆に肉食になると、腸に負担がかかるのです。

要するに食べ物によって人間の体はできているし、それぞれの民族ごとに、食べ物にもっと合った形に体型までも変化するのです。

そして何千年、何万年という単位で形作られた形質というのは、数百年単位で変化をもたらすことはありません。

このことは、5千年前の白人がいまでも白人のままでいること、黒人もそうであることを考えれば、容易に知れることであろうと思います。

ーー

人口密度が今よりも圧倒的に低くて、日本列島に26万人しか人が住んでいない時代、基本的食材が、気象変動によって獲得が困難になれば、簡単により住みよい土地を求めて移住するのは何もむつかしいことではなくて、当然そうあるべきものです。

高天原(たかまがはら)の所在地を天界だと言ったのは本居宣長からで、それまでは茨城県の日立だったり、奥飛騨であったり、九州であったり、高天原があったとされる土地が全国各地に散らばっています。

要するに気象変動に合わせて、人々が移動した結果、高天原の所在地も全国にまたがるようになったといえるわけです。

ーー

逆に、気象変動に合わせて、食生活そのものを変えるということは、これはほとんど起こりえないことです。

もっとも世界には、征服されたときに、その支配層に媚びて食生活を180度転換させてしまった種も半島にはいます。

が、強い者(モンゴル)に媚びて食生活まで変えてしまったというのは、ある意味すごいことですが、真似したいとは思いません。

ーー

さて、日本が急激な寒冷化を迎えた時代、支那大陸では何があったのでしょうか。

日本の縄文後期にあたる2500年前といえば、支那は周王朝から春秋時代ころにあたります。

周王朝は、コーカソイド(赤毛の人々)だったという説がありますが、きわめて簡単な話です。

気象の寒冷化に伴って、稲作を行っていた揚子江あたりの人々が南下し、一方、満州からモンゴルあたりで遊牧生活を行っていた人々も、同様に南下したのです。

気象条件が変わったのです。

これは当然のことです。

そして、人のいなくなった中原に、北方遊牧民が築いた王朝が周だったというわけです。

ーー

もといた満州からモンゴルのあたりが、シベリアのツンドラ地帯のような極寒の地になってしまった。

それでは大事な家畜たちが死んでしまいます。

だから南下する。

これは遊牧民であれば当然のことです。

国境なんてない時代なのですから。

ーー

その周王朝から春秋時代の主役は、ほぼ黄河流域に集中しています。

南にある揚子江流域で稲作を営んでいた人たちは、周の人たちと食文化が違いますから、これは一緒にはなれません。

この時代の歴史にも登場しません。

これが何を意味しているかと言うと、周王朝や春秋時代の影響を受けていない・・・つまりまったく別な食生活のまったく別な民族が、南側で国を形成しいたということです。

ーー

このことからおもしろい類推ができます。

いまと同じくらいの気温であった日本列島が、北樺太なみの気候になった。

そのとき、日本列島に住んでいた倭人たちががどうするか。

いままでの食文化を保持しようとするなら、ずっと南の地に移住していかなければならない、ということです。

ーー

その移住先となったのが、支那福建省から湖南省のあたり一帯であったのではないかと思われるのです。

そうであるとするなら、稲の品種(abタイプ)が支那福建省から湖南省のあたり一帯で栽培されるようになることは十分に考えられることです。

現在の通説は、この逆の流れになっており、考えにくい。

なぜなら、この時代の日本列島は急速な寒冷化によって気温が低すぎて、稲作に適さないからです。

ーー

ところが2300年くらい前になると、地球気温が急激に上昇します。

これは本当に急激な上昇で、そうなると北方遊牧民が黄河界隈でさかんな殺し合いを続けている福建省から湖南省のあたりではなく、もともと(150年ぐらい前に)ご先祖が住んでいた日本列島に、また船で帰る。

これまたごくあたりまえの選択です。

ーー

弥生時代初期の人口増は、異なる文化を持った大陸からの渡来人たちがやってきたのではなかった。

150年ほどの間、寒冷化を避けて福建省のあたりまで避難していた倭人たちが、気温の上昇にともなって日本列島に帰ってきたことを示している(と私ねずは考えている)。

ーー

繰り返しになりますが、米と小魚と大根が、倭人たちの食生活の基本です。

倭人文化の最大の特徴は、海洋型で船を用いるということです。

このことは縄文時代の遺跡の発掘調査で、必ず釣り針が見つかることからも明らかです。

そして人は移動する生き物です。

だから動物といいます。

ーー

土地の所有という概念がない時代で今よりもはるかに人口密度も少ない。

日本列島全域が、わずか26万人、支那でも秦の始皇帝の時代あたりの人口は、わずか2000万人です。

人が、より住みよい土地を求めて移動したとしても、なんの不思議もない時代です。

ーー

ちなみに支那の人口は、後漢末には約5600万人の人口にまで回復します。

ところが魏蜀呉の三国時代には818万人にまで減少します。

もともと肉食系の遊牧民たちが中原に南下して、互いに争い、気温の変化によってその多くが北方に去っていった。

このため、中原の人口が減少し、これに戦乱が重なって大幅な人口減少がもたらされたといわれているのです。

ーー

この大規模な人口移動については、ヨーロッパでフン族の侵入によるゲルマンの大移動など、歴史時代に入ってからも実際に度々記録されていることです。

ただし、民族移動では食文化は継承されます。

ですから肉食系の遊牧民たちは、やはり肉食を続けるし、農耕民族は農耕生活、漁労民族は漁労を続けます。

ーー

「弥生時代初期に大陸から先進的な文化を持った渡来人たちが日本に大量にやってきた」

この説のとおりならば、その渡来人というのは、中原に住む人達であり、それは遊牧民を中核とする肉食および乳製品を食事の中心に置く人たち人たちでなければおかしいということになります。

そうであれば弥生時代は、肉食文化の時代になっていなければおかしくなります。

ーー

しかし弥生時代は農耕と漁労の時代です。

それが近代まで続いていた。

ーー

もし通説が正しければ、日本人は肉食人たちと入れ替わったはず。

だとするならば、ではなぜいまでも日本人が乳製品を体内で分解できないのか。

肉食に向かない体質の人がいる合理的説明がつきません。

ーー

日本列島はユーラシア大陸の東のはずれに位置しています。

昔から遠くペルシャの方やヨーロッパ方面からも様々な人種がやってきて日本に帰化して日本人として同化していったことは事実です。

しかしそれらは、あくまでゆるやかな同化で、民族がそっくり入れ替わるような極端な出来事は、海に隔てられた日本では起こらかなったと考えたほうが自然です。

ーー

要するに縄文末期から弥生初期に至る人口の激減は、その規模からみて、人々の移住の結果であったと考えるべきだと私(ねず)は考えているのです。

それは日本列島から福建・湖南あたりへの移住であり、その人たちが気温上昇に伴って戻ってきて、弥生時代初期の急激な人口増加が起こった。

そのように考えると、すべての辻褄が合ってくると考えています。

ーー

これまでの常識を疑い、まったく新しい視点で歴史を再検証する。

この場合「近隣諸国への配慮」は、まったく不要であることは言うまでもないでしょう。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>縄文晩期の人口の急減~弥生期の人口回復現象考
 この辺りは、市井の方とは言え、ネット言論界で、独特の日本歴史観を持つ歴史家として支持を受けて居るねずさんの独壇場と言う観がありますね。

 確かに、この人口の急減現象は、年平均気温が2℃も下がると言う、急激な寒冷化がその原因だとされて来ました、然し「生産して居た作物が実らずに、そのママ飢えて死ぬのを待つ様な民族なら、3万年も生き延びられるわけが無い」と考えるのが普通でしょう。

 農耕民ですから、土地に対する執着心は、当然、強いモノがあったでしょうが、移動する他は無いと言う選択肢を衝き付けられたのは、他の遊牧民でも渉猟採集民でも同じ事です。

 我々の祖先は、固より「大陸から太古の昔(12~15万年の氷期以前)に、日本列島に亘って来た人々を端緒とする」と思って居ます、其れは、ねずさんが挙げた、黒潮の向こうに有る神津島の黒曜石が日本中に有る事で、黒資を乗り切る航海術と船、そして、神津島の黒曜石の存在の経験知を持って居た事に成ります。 つまり、海洋民であったと言う事です。

 ダカラ、農耕を始めても、食生活は海洋民の時代のものが残って居て、魚類を捕食して、其れを保存するのに、塩を活用する「農耕海洋民」と言う民族が出来上がった。

 是を、シナでは、東夷族と呼んでいますが、その考え方が出来たのは、実際に、東夷族を知らねばならないし、シナから看手、東に居る野蛮人と言う云い方を何故するのか、固より、こうした民族のルーツの一つには、柳江人や湊川人で有る海人族(別名倭族)であると言う説も有力です。

 とすれば、長江民は、海洋民族である海人族=倭人が、列島に棲んで、農耕海洋民になった事を、知って居る、と言う事でしょう。 つまり、東夷族と言う成分は元は、海洋民・貿易の民だったが、農耕民の要素が加わって、認識が変わったと言う解釈で良いと思います。

 そして、こうした危機に陥った列島の縄文人は、海上交易で親交のあった海人族の手引きで、大陸への移住を決意しますが、南岸に辿り着く為には、南西諸島付近の流れの激しい黒潮を、上手く回避する必要があったし、船も、相当に大きく無ければ、100人/回を超す様な人間を運ぶ事は、難しかったでしょう。

 大型の木造船を作るには、木工技術を支える金属、乃至、黒曜石の様な、木材を自在に加工出来る工具の材料が必要ですが、我々の祖先は、早くからそれを持って居たし、造船技術も完成したものを既に持って居た可能性が高い。

 それに、縄文晩期といいますが、換言すれば、紀元前5世紀頃の話ですから、日本の一部には、BC20世紀の「拓鹿の戦い」に敗れた長江民がシナから逃げて、海路日本に来て、棲み着いていた可能性が高いのです、呉や越の地名が日本に在るのはその所為です。

 ダカラ、列島に棲んで居た彼らも、この気候変動の危機に直面して居た筈ですから、大陸の温暖で安全な場所を知っている彼らが、移住の為の知識と、現地人の状況や交渉法を提供した事でしょう。

 計画発案から実施まで、何年懸ったは分りませんが、凡そ合計10万人以上が移民した可能性が有りますから、相当な時間が懸ったものと推察します。 中には、台風や潮流の読み間違いで大陸に辿り着けなかった人々も大勢いたでしょう。

 何せ、大陸から日本に来るのは、順流・順風ですが、その反対は、逆流・逆風ですから、風の力を利用しなくては、1㎜足り共大陸には近づけませんが、常に都合の良い風が吹くとは、限りません、ダカラ、海は天然の要害なのです。 

 成功率は、次第に上がっていったでしょうが、科学的な気象・海象観測が出来無い状況で考えれば、7割を超える事は無かったでしょうね。 其れは、此の千二百年程後の、遣隋使、遣唐使、を乗せた船も、何回か目の渡航で成功したと言う話を聞きますし、その更に千年後の黒田官兵衛の次男は、朝鮮渡航に失敗して亡くなっています。

 処で私は、既成の日本史観と言うのは、あの「歴史学会」が、戦後に作った、大きく歪めた史観だと思って居るのでw ねずさんのこうした「常識を疑う事」で始める科学的な視点は、大いに支持したいですね。

 特に、シナが「四蛮」として挙げて居る、周辺民族を、その生業や食べ物に拠って、分類しているのは、流石に1万年以上文明を維持した長江民ダケの事は有ると思います。 そして、ねずさんは、それを踏襲して、日本民族の解析から始めて居る。

 つまり、「何を食って生活して来たか?」「日々の生活は、如何なるものだったか?」「その行動範囲は、どの程度で、持って居た世界観は如何なるものだった可?」・・こうした、我々のご先祖様が生きて居た環境をシミュレートしてみて、基本的な日本人像を創り上げています。 

 私は、歴史学の重要な役割とは、為政者の変遷や、民族同士の戦争と言った社会現象を知る事も大事ですが、同時に、こうした、自身の成り立ちをより深く知る事、であると思いますので、基礎的な解析を行って居れば、弥生時代と言うのは異民族の侵入であると言う一面だけに拘泥するのは、明らかに間違いで有る事と思います。

 食べ物や習俗が異なる民族同士が、戦いや摩擦無しに、イキナリ共生する事は、有りえないからです。 然し、其処に争った跡が無いのは、弥生時代とされる時期に日本に来たのは、150年をかけて、予め、同化して居た、農耕民の傾向がより強まった新たな民族だった、と考えるべきでしょう。

 況や、東大の江上波夫教授の様に、肉食で、泳げないので水に対する恐怖心が強い遊牧民が、400~500㎏/頭もある重たい馬を何千頭も運べる船を、どの様にして作り、且つ操船し、無事に着岸~陸揚げできると言うのだろうか、そこに、半島南岸に居た被差別民のk海人族「=倭人」の協力なしには、出来る事では無いのは明らかでしょう。

 そして、元や高麗に、虐げられた彼らの復讐が倭寇であり、高麗が滅んだ一大原因にもなっているのに、江上さんは、その倭族に関する記述は殆どないのでは、日本の歴史とは言えない。

 彼には、ねずさんの様な、日本人の視点が全く欠落して居たと考える他はない。 

 然も、当時の世相から考えれば、共産主義者の疑いがある、米国の支配層に、媚びを売って自分の栄達を謀った、曲学阿世の徒、そのモノとすらいえよう。

 私は殊、歴史学に関しては、東大系の学説は一顧だにする価値も無い、と思って居る。 従って、彼ら「歴史学会」の検定を受けた「検定教科書」の歴史の記述も、史実として確定した年代や事績以外は、否、殊に拠れば、その年代・事績すらも疑わしく、基本的に「疑惑の宝庫」だと言えましょう。

 戦後74年、既に日本人は「学校で履修した歴史を、学び直さねば、本当の日本人を取り戻せない」状態にあると、私はおも居ますね。

 こうした状況を創りだして居る「歴史学会」は、長江文明の存在を無視した歴史しか国民に教えて居ない、共産シナと全く同じで、政治の為に、歴史を書き替える、曲学阿世集団で有る事は、論を俟ちません。

 ダカラ、歴史学の本流から外れた感のある岡田・宮脇教授ご夫婦や、異端視されている古田さんや田中教授を応援しているのです。

世事で周知されている事の主流とは、ほとんどが恣意的に偏向、ねつ造された洗脳目的の似非学術と看做した方が、正解に近いかもしれません。
そうしますと異端児、異端者扱いされている方々の説の方が俄然真実味を帯びてくるようにも感じますね。

人の世は必ずと言ってよいほどに、権力を追求して、欲を満たす動きの中で歴史が繰り返されてきたわけですから、その成り立ちやら行く末など、当時の権力の行使者や行使層に都合よく編纂されたと考える方が現実的でしょう。
その配下として、権力者の為の情報集めと庶民の洗脳を担当してきた者たちが今ではジャーナリストと呼ばれて、いかにも真実を追求する正義漢の職業集団の様に錯覚されてもいますね。(自称している方も存在しますが・・・・。

資力のない庶民の為に活動する振りをして、国家の権力者たちから財と権力を奪いその座から追放する行為の手足として利用する為の情報操作、洗脳、煽動はあっても、慈善の心も利他愛もあった物ではなかったようですが。
国家の結束を破壊せんと画策してきたマルクス主義とやらが主導先導してたのです。

この勢力の影響は今も色濃く現在に残っています。
同じ手が今でも有効であることが、世界のあらゆる騒動や、武力抗争の中に見受けられますね。

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