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2019年7月19日 (金)

だが、まだ2200柱以上の遺骨が祖国に戻れない状況にある

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

早坂隆『ペリリュー玉砕  南洋のサムライ・中川州男の戦い』(文春新書)

硫黄島の栗林中将は有名だ。

大西瀧治郎は特攻隊生みの親として知られている。

が、ペリリュー島で圧倒的な物量によって攻撃してくる米国との激戦を指揮し兵と共に玉砕した中川州男(くにお)・中将(戦死時は陸軍大佐、弐階級特進)の名はそれほど語られることはなかった。

ーー

著者の早坂氏はペリリュウ島の死闘の指揮を執った、この軍人の生涯に挑んだ。

ーー

本書の主人公・中川州男のご先祖は肥後の武士である。

祖父・千前(ちさき)は五百石取り、父親の文次郎は十代ではやくも伝統的な国風思想に開眼し、敬神党に属した。

16歳で西南戦争に参加した。

ーー

維新後禄を失った後の貧窮を祖父は私塾経営で乗り切った。

明治の日本はこれまでの常識が破壊された時代であり、生きていくためには誰もがその変化に堪え、その変化を克服する必要があった。

著者は、このあたりをさらりと流しているが、この上級武士の血統こそは最も重要な中川州男・中将の学識と人格形成の根幹をなしたと評者(宮﨑)には思える。

ーー

なぜなら敬神党とは「神風連の乱」を引き起こす国学者の集まりであり、その神風連が西南戦争の導火線となったからだ。

一家は明治八年に玉名へ引っ越しているため、父の文次郎は神風連の乱に参加できなかった。

その精神的負い目が西南戦争に志願し、反・新政府の側に立つことを選択することになったと考えて差し支えないだろう。

ーー

一方で、維新政府は教育にことのほか力を入れた。

政府は、前途有為な青年を育て、日本をなんとしても西欧列強の侵略からまもらなければならないと考えていたからだ。

だから日本は敗戦必至といわれた日清・日露戦争に勝利できた。

その背景には、国民精神の紐帯が強く、団結できたという事実がある。

ーー

州男は自ら軍人となる道を選んだ。

神風連の血が呼んだのだ。

著者は中川の生誕から青年時代を丹念に調べ上げ、熊本で、これまで特定されなかった小学校の卒業名を発見し、また陸軍士官学校では同期生に岩畔豪雄がいたことを調べ上げた。

加藤隼戦闘隊を率いることになる加藤建夫もいた。

ーー

さて大東亜戦争の敗因は国際共産主義機関(コミンテルン)による攪乱を的確に把握できておらず、国内に敵を抱え込んでいたことに気づかなかったことにある。

このことは戦後の日本社会が在日・反日勢力によって支配されたことからよく分かる。

そして第一次世界大戦で、漁夫の利を得るような形で戦勝国となったため、帝国軍が実践に慣れることができなかったことも影響しているだろう。

だから、将校を選ぶのに、学校の成績がよいというだけの理由で、選ばざるをえなかった。

その結果、現場を知らない将校が机上で作戦を立てることとなった。

ーー

それでも日本軍はあまりにも強かった。

ーー

ペリリュー島は南北六キロ、東西に三キロの珊瑚礁が隆起した島である。

最初にペリリュウ島を視察した中川は、その防備のなさに唖然となった。

どうやって米軍をここで迎え討つのか?

ーー

中川は、地下壕を掘って島全体を要塞化する計画を立てる。

彼はペリリュー島を地下要塞のようにして米軍の攻撃に備えたのだ。

米軍の上陸が予測される前に、住民はパラオ島に避難させた。

そのうえで中川は島全体の洞窟を利用して地下の連絡網を構築した。

ーー

米軍の司令官はマッカーサー、米海軍の指揮をとったのはニミッツ提督だった。

米海軍参謀らはペリリュー島なら3日で落とせると豪語した。

ーー

しかし、ペリリュー島を守る日本兵はあまりにも強かった。

中川州男は成果の少ない「バンザイ攻撃」を禁止し兵を温存したのだった。

そして、飢え、伝染病、湿気と戦いながら、米軍の猛攻に対応した。

ーー

米軍は、74日間の死闘を強いられ、夥しい犠牲者が出た。

ペリリュー島の戦いでは、日本軍の戦死者10022名、生き残りは僅かに34名だった。

本土攻撃を一日でも遅らせるために日本兵は鬼神となって戦った。

用意周到に待ち伏せ作戦を敢行したのだった。

ーー

激戦がおわり、戦争も終わり、戦後日本は連合国軍によって占領された。

占領軍GHQは日本に占領政策を強行し、その占領政策に協力した在日・反日勢力が敗戦利得者となり、戦後日本社会の支配者となった。

彼らは、言論・メディアを支配し、日本人に「護憲、東京裁判史観、侮日」を強制した。

そして彼らは帝国軍人を貶め続けたのだった。

ーー

だが、関係者と遺族は黙々として慰霊を遺骨の帰国作業に没頭してきた。

戦後七十年を経て、ようやく天皇皇后両陛下の慰霊の旅が実現した。

パラオの島民はご訪問を歓迎した。

各地で鎮魂の行事が営まれ、軍人の名誉が回復された。

だが、まだ2200柱以上の遺骨が祖国に戻れない状況にある。

ーー

理由は「不発弾の危険性から二百近い地下壕や洞窟が閉鎖されている状態だが、パラオ政府は今後、それらを開放して遺骨収集に協力する意向を示している」という。

なにしろ「ペリリュウ島に残存する不発弾の総量は、一説には1400トン、手榴弾およそ280万発にも及ぶと推計されている」のである。

戦後七十四年という歳月の濾過装置を経て、淡々とした筆が激戦の事実を追うが、行間から溢れ出る無念の涙がページを濡らす。

ベトナム戦争で地下壕作戦で米軍を苦しめたベトコンの陰に大日本帝国軍人の存在を疑ったのは評者(宮崎)だけではあるまい。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>武人という記憶
 私は、基本的に日本の陸士卒の軍人が嫌いです、就中、インパール作戦の指揮を取った、牟田口蓮也等は、」日本人が選ぶ「戦犯」の筆頭に入ると思います。

 何故かと言えば、10万人余りの部下を、自分の拙い作戦の為に死なせながら、のうのうと日本に帰って来て、余生を送ったからです。 

 他にも、そう言う人が結構いて、例えば、大本営の作戦部長だった服部福四郎なども、その一人でしょうね。 私は2人共、日本人では無いと思って居ます。

 彼らに共通して言えるのは「軍人は、仕事としてやった」ので有って、其処に、人の命を預かる覚悟も、祖国を思う気持ちもなかったと思われるからです。

 つまり、日本伝統の武「=曲がったものを糺す」の使命感や、「日本は、魂が積み上がった蔵識の国」であり、何れ自分もその一部に加わって、国の礎とならん」と言う認識もなかったと思われます。

 日本兵が強かったのは、「死して国の礎にならん」と言う覚悟が、百姓や町屋の小僧に至る迄、持って居たからでしょう。

 ダカラ「自分だけ、助かろう」言う気持ちには、とてもなれなかった。」と、私が知っていた戦地帰りの小父さんは、云って居ましたが、常々、「生き恥を忍んで帰って来た」とも言って居ました。 

 其れは、誇張や自虐では無く、本心からで有る事は、小学生の私にも、良く伝わってきました。 後年、私もあの様な日本人に成りたい、と思ったものでした。

 その覚悟が、陸軍士官学校を出ても、持てないのなら、最早日本人として失格していると言う他は無い。 戦争に負けたのは、こんな人間が人の上に立って、指揮をして居たからだ、と確信して居ます。

 その筆頭が、国際コミンテルンの細胞だった、近衛文麿なのは、言うまでも無い事ですがね、昭和帝陛下のご業績に、瑕疵があるとすれば、此の陛下よりも。10歳年上の、五摂家筆頭の近衛家の総領息子を、信じすぎて、3度も総理大臣にした事でしょう。

 彼は大東亜戦争で死んだ軍民、凡そ400万人の全ての責任者だと思いますから、裁判の前夜に、近衛奏上文と言う陛下宛ての、「云い訳」を書いて、毒を呷って死ぬ等、最後まで卑怯で有った事も、代々貴族だった彼らしいと言えるでしょう。

 然し、例えば東条英機の様に一度は、ピストル自殺を図ったのに、失敗し、結局、陛下のお命を護らんと絞首刑を甘受したのですが、その方が、戦争遂行責任者、国家を預かる総大将として、死者400万人の責任を考え、採るるべき途として、日本の国体維持を図ったのは、称賛出来ます。 そう言う意味では、彼は武人でしょう。

 然し乍ら、この様な武人を日本では、見なくなって久しい様な気がします。

 其れは、日本に、公式の国軍と言うものが無くなったから、日本領の国の成り立ちを教育で、教えなくなったのが一番大きいと思いますがでは、自然権である自衛権に基づく、自衛隊員は、如何なのかとなります。

 此処で思いだすのは、福一原発の水素爆発で、原子炉の冷却水管系が吹き飛んで、炉の冷却不全ン~メルトダウンを起こす可能性が高まって居た時に、自衛隊のヘリコプターが、炉の真上にホバリングして、冷却用の海水を投下する事で、メルトダウンを回避して、世界中の度肝を抜いた事を考えれば、是を行った自衛隊の中に、日本人の武の心は、今も息づいて居ると確信で出来ました。

 自衛隊内での日頃からの「日本人を育てる教育」の賜物であると、感じ入りました。 自衛隊内部での、戦前からの「日本の国体を護る事が、即ち、日本を護ることである」と教えるのは。簡単な様で、実は難しい。 何故なら、現代の士官学校と思しき防衛大学校の卒業生にも、毎年、定数の「任官拒否者」で居るカラです。

 防大は、教育基本本に基づく大学では無いので、毎月給与が出ますので、完全に「食い逃げ」ですね。 私は斯う言う連中は、卑怯者だと思って居るので許し難いおもいです。 私に子供は終に授かれませんでしたが寧ろ、「良かった」と思えるのは、、もし、息子がそう言う事をしたら、親子の縁を切る話に成って居たでしょうからね。www

 「卑怯な真似をしてでも生き延びた方が勝ち」なんて、考え方には、恥も無いし、次の世も無い、来世に引き継ぐ魂さえないと、私は考えるカラで、もし子供が出来て居たら、男女を問わず、惨めでも、格好悪くても、負けても良いので、卑怯な真似だけは、するなと教えただろうからです。

 悔しい結果が出たら、其れをバネに、一つ上を目指す、心に強靱さを持つ事。それが生きて居る上で向上すると言う事だし、同時に、負けたものの悔しさ無念さを知って、相手の身にもなれる利他愛にまで修行を深める事が出来れば、なお宜しいと思いますね。

 武の心は、何かを護り通す強い心と共に、本当に、弱いモノの為になっているかを知る為に、弱いモノの立場にも立ってみなくては、本当に救った事にはならないのだ、と、知れば。真の優しさの原点でも有る事に気が着きますね。

 我々日本人に取って必要なのは、自衛隊員の様に、我々の中に、武の心を取り戻す事なのだと確信して居ます。

縦椅子様
 
 今日も素晴らしいブログ有難うございます。
私にも、記憶する南洋のサムライがおります。娘時代から私の絵の師で、いらした1924年生まれの赤羽恒男先生です。先生は佐瀬穂海軍施設部設営隊としてソロモン諸島のブーゲンビル島に従軍され、1946年復員されますが、復員してすぐ、島に残してきた戦友への思いや、熱い島の様子を絵にすべく、美術研究所に入所されます。絵の研鑽をつまれ、1981年から翌年にかけて、戦時中に従軍していたパプアニューギニアのブーゲンビル島に慰霊とスケッチを目的として訪れ、島の各地の風景画を制作されます。バルビ山、ブカ水道、ミオ河暮景、SOLOMON、ソロモンⅠ・Ⅲは大胆な構図と強烈な色彩で描かれ、亡くなった戦友の苦悶を表現されているかのようです。先生のまぶたにはいつもブーゲンビル島がありました。私は娘時代から2010年ご逝去されるまで、先生の生徒でしたが、先生は本当に武士の魂をもっておられ、ずーつとよき導きをいただきましたことを感謝しています。今日のブログに自分の思いを書き失礼しました。

縦椅子様、ブログの更新をありがとうございます。

ペリリュー島の守備隊11,000名に対して戦死者10,022名で、生き残り34名と言うのは、いかに部隊長の戦闘目的を部隊の兵が把握していたかがよく分かります。

此処には出ていないのですが、ペリリュー島の戦いでは日本兵の舩坂軍曹の勇戦は凄まじいもので、米兵の心胆を震え上がらせたと言っても良いものでした。
舩坂弘氏は勇戦の後捕らえられ、捕虜として帰国されており、帰国後は激戦の地に次々と慰霊碑を建立されました。


日本は終戦後、GHQの占領政策に協力した在日・反日勢力が敗戦利得者となって、戦後日本社会を支配しました。
そして、日本の戦後に大きな影響を与えたのですが、その時代に生まれ、育った戦後の団塊の世代にとっては、誠に災難となりました。

新聞は今のようにネットで嘘と分からないので、日本が何事でも悪いと表現すれば、読者はそれを信じました。
テレビだって、日本の国民を好きなように洗脳し、国民の考え方はマスコミの思う方向に向けられたと思います。

日本の国民が日本の歴史を語るとき、事実の事柄を検証して綴られたことを教えられ、それに誇りを持つことを教育されたいと思います。
少なくとも、役所のトップが面従腹背などと言うような輩でないようにしていただきたいと思います。

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