無料ブログはココログ

« そこでトランプ大統領は、日本に韓国へのフッ化水素輸出をやめさせるために、「日米安保条約は不平等だ」と言って見せたんです | トップページ | 日本国と日本人を貶め続ける朝日新聞社 »

2019年7月10日 (水)

奈良の都は当時としては世界的な大都市であった

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

寛平6年(894年)の遣唐使の延期とその長期化、ひいては唐の滅亡による停止(実質上の廃止)に至る背景が延暦・承和の派遣の段階で揃いつつあった。

この遣唐使が廃止されたあとも、日本は、当時の渤海国との間で、交易を行っていました。

これは日本海をめぐる還流を利用して行われていたため、日本海交易と呼ばれいてます。

ーー

西域から絹の道を通って運ばれた品は、渤海国の東京龍原府(現ウラジオストク)に運ばれてきていた。

そこには日本人がいて、その品々と金goldを交換してくれた。

こうしてペルシャ商人らは、一生遊んで暮らせるだけの金を得ていた。

ーー

西域からもたらされた品々は、今も正倉院御物として、大切に保存されており見ることができる。

ーー

唐の首都である長安に品物を持っていっても、税として奪われるだけなので、ペルシャ商人もそんなところへは品を届けなかった。

当時、奈良の都の人口が20万だった。

近年の研究で、当時の長安にはこれまで言われてきた200万人を養うだけの食糧生産力がなかった。

それで、おそらく当時の人口は、20万内外であったであろうと言われている。

つまり、奈良の都は当時としては世界的な大都市であったことになります。

ーー

交易は、儲かるから行われる。

儲からないどころか、奪われ、殺さるだけならば、誰もそのような交易をしません。

現在のところ、絹の道の終点は長安とされています。

ペルシャ商人は、世界最大の都市・長安を目指してはるばるやってきていた、とされています。

しかし、長安は、世界最大の都市であったかは、かなり疑わしいのです。

ーー

ペルシャ商人らは儲けるために旅をしているのです。

長安に行けば儲かったのでしょうか。

当時の長安の名物といえば、山くるみ、スキ餅、金華ハム、鴨の醤油漬け、木彫り、石彫り、茶、紹興酒、杭州シルク、以上おしまいです。

クルミや餅やハム、茶、酒は、ラクダで旅するペルシャ商人たちにとって魅力的な商品とはいえません。

木彫りや石の彫りものは、ペルシャにもあります。

ーー

結局、シルクくらいしか商品はなかった。

だから近年の学者が付けた名前が絹の道だったのです。

そもそも絹の道という名称は、19世紀ドイツの地理学者フェルディナント・フォン・ウィルヘルム・リヒトホーフェンが、命名したものです。

(『支那(China, Ergebnisse eigener Reisen und darauf gegründeter Studien1877~1912)』全5巻の1巻の中で、「Seidenstrassen」とある)

この名称は、遣唐使や渤海交易などのあった8世紀の話とは、何の関係もないのです。

ーー

一方ペルシャ商人が、壺や仮面などのペルシャの日用品を東京龍原府まで運んでくると、そこでは倭人たちが、これを金goldと交換してくれる。

地元では二束三文の壺が、金と交換です。

現在の価値に直すと5千万円、1億円の値がついた。

3つ4つ売れれば、一生遊んで暮らすことができた。

だから、はるばるペルシャからやってきていたと考えたほうが、どれだけ合理的か。

ーー

実際、絹の道の経路を見ると、長安は外れていて、むしろ東京龍原府まで一直線に伸びている。

20190705 スライド3 

ーー

平安時代、いまの石川県、富山県、新潟県のあたり一帯が越の国として、日本海交易の中心地であり、経済的にもたいへん繁栄していました。

紫式部は、父親が越前、越後の国守となったことで、たいへんな財力を付け、その財力によって朝廷の采女(うねめ、天皇の身の回りの世話をする女官)となっていたのです。

ーー

日本の太平洋側が、太平洋ベルト地帯として商業や産業の中心地となっていったのは、江戸時代に日本が鎖国をしてからのことです。

それまでは、日本の経済の中心は、ずっと永く、日本海側にありました。

その日本海交易が、行うべきか行わなわざるべきかといった政治的問題になったことは、我が国の歴史上、一度もありません。

問題にされたのは、対支交易で悪さばかりを行う半島です。

その構図は現在においても全く変わっていないのです。

« そこでトランプ大統領は、日本に韓国へのフッ化水素輸出をやめさせるために、「日米安保条約は不平等だ」と言って見せたんです | トップページ | 日本国と日本人を貶め続ける朝日新聞社 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>ペルシャ商人が本当に真坐した先
 なる程、面白い視点で、流石にねずさんだと思います。 「黄金の国ジパング」と言う評判は、当然、利に敏い大陸島の西に棲んだアーリア人にも、届いて居たでしょう。

 永く厳しく、危険な旅を続けるには、其れ形のモチベーションを必要としますが「途轍もない金儲けが出来る」となれば、是は「夢」ですから「一生を賭けても悔いはない」と言う事に成るでしょうね。

 その情報は、BC3世紀に始皇帝が、日本に関する情報を持って居て、実際に不老長寿の薬を求めて、使節団を送った様に、古くからシナでは、日本の情報は共有されていて、庶民にも常識化して居た可能性すらあります。

 すると、その話の淵源は、列島と氷期の頃から、交流が有った可能性を指摘されている、長江文明だったであろうし、少なくとも、BC20世紀以前となるので、日本はその頃、縄文後期で、金が採れる佐渡、東北、南九州には、蝦夷族や隼人族が棲んで居て、未だ国と呼べるものはありませんでした。

 ですから山を深く掘る必要の有る、金山と言う形の開発は、出来無かっただろうけれども、砂金は川で採れた筈ですので、その源が山に有る事位は予想出来たでしょうね。 世界で金が取れる処は、限られているので、金は希少金属なのでしょうが、用途が無ければ、唯の綺麗な石ころです。

 飢えた時に食糧にもなりませんし、実用具にしようとしても、少量しか取れない上に、柔らかいので、加工はしやすいけれど、大した役に立たなかったでしょう。 装飾品や祭器の材料にした位だったでしょう。

 こうした余剰と過少、物に対する価値観の違いを生み出す「偏在」こそが、交易の妙ですが、金や銀が世界中何處ででも、貴金属として扱われた事は、ピカピカ光るモノと言うのは、人類共通の嗜好なのでしょうね。

 シルクと金は、交易品としては、どちらも魅力的なものですが、どちらが、金になるかとか言えば、断然金に決まって居ます。 その価値は、世界中で違いますが、何より「皆が欲しがるものを持って居る」事が、重要である事は、論を俟ちません。

 それに、もし、黄河文明人「=コーカソイド種の青人」で有る事が、既に知られて居ます彼らが、遠路遥々、長江文明を侵略した目的も、最終的には、ジパングで有った可能性もありますね、世界は我々が考えて居たよりも、ずっと早くから、開けて居たと言う事でしょう。

 日本と渤海の交易は、9世紀の終わり頃の長白山(白頭山)の大爆発で、渤海が解決てきな被害を受けて弱体化した処へ、周辺蛮族から侵略を受けて滅亡して終いましたが、一部の難民は、交易のあった日本の東北部に避難して来て、蝦夷族と同化した様ですね。

 その名残として、秋田や津軽には、赤人と言われる色が白すぎて、血液の色が表面に出て赤く見える、遺伝子を受け継いだ人が、多く居る様です。

 現在の世界の歴史観を創作したのは、ドゥも、白人ですね。 彼らの等々の知識と言うのは、完全に偏って居て、シナ中心です。 是は、白人文明自体の歴史が、千年~3千年しかないので、歴史コンプレックスと言うものが根っこにあると思います。

 この傾向は、ゲルマン人に多く見られ、ねずさんの紹介になる、リヒトホーフェンも、ドイツ人学者ですね。 彼らは、自分達の歴史の3千年を超す様な歴史については、明らかに拒絶反応が有る様に思いますww 是が、青人や白人の選民主義の裏返しであると考えれば、良く分りますね。

 第一に、17世紀の天才学者と称えられるニュートンでさえ「地球の起源は、何時ごろか?」と言う質問に「3千年前以前は考えられない」と答えたとか、是、旧約聖書の天地創造が史実だと、云って居るのと同じ事ですカラね。www

 何時までも、白人が創った「白人の都合で造られた歴史」を、はっきり否定して、人類が、アフリカの大地溝帯を出て、15万年の漂泊を経て、其々に、自然の環境や天候に応じた生活を始めて、その民族性やれ歴史を紡いで来たのです。

 一体彼らは何を目指し、どんな社会を作ろうとして来たのか、其れを考えるのが、歴史学の真の目的ではないのか?

 日本民族の騎馬民族説で、一世を風靡?した、東大教授江上波夫の様に、歴史を曲げて、外国人の為政者に阿って、自分の利益にする様な、曲学阿世の徒が、日本の最高学府の超足り得た事すら、日本人の恥だと思いますね。

 最後に、ペルシャ商人が目指して居たのは、間違いなく「奈良」出あって、長安ではありません。 リヒトホーフェンは、未だ日本を知らなかったダケの話でしょう。

縦椅子様、ブログの更新をありがとうございます。

奈良の人口が20万人で、長安の人口も20万人と考えますと、世界の中での奈良のイメージが大きく拡大されることになります。

日本の中でも現在の奈良は大都市とは言えないので、つい見逃してしまいますが、千年以上も前のことなら、今とは全く異なる世界があったとすると、こちらの発想も切り替えなくてはなりません。(奈良の皆さんごめんなさいです。)


そして、今の日本は太平洋側を主体として考えることが多いのですけれど、千年前の太平洋側は海があるだけで、アメリカのことなど考えなかったでしょう。
しかし、千年前の日本海側は日本海の向こう側に渤海を始め、幾つもの交易をしている国々があったのです。
そう考えますと千年前の日本海側は、現在の太平洋側のように日本の交易の港が各所に点在して、現在日本の太平洋側よりも、日本にとっては大きな位置を占めることになったと思います。

そして、今の日本人はそのことを、忘れていると言うことなのでしょう。

>ポッポさん ソロです。
>>千年前の日本の貿易
 私も、この点に関しては盲点だった様な気がして居ます。 以前から、奈良の大仏の開眼式には、遠くインドから、大僧正レベルの人が、出席したと言う記憶が有ったのですが、知識がバラバラで繋がって居ませんでしたが、このねずさんの視点で、色々繋がって来て居ます。

 例えば、渤海との交易拠点になった港と刃何処だったのか、と言う疑問ですが、私は、津軽半島に有る、十三湊が祖の役割を果たして居たのでは無かったかと思います。

 此処を支配して居たのは、安東水軍と言う、蝦夷族の水軍で、後に、北海道沖で起こった大地震に拠る大津波に港毎呑まれて終い絶滅して居ますが、それまでは、シナや渤海との陽北で取れる金を使った交易を盛んにして居たとの話でした。

 で、その金ですが、一体誰が掘削法を教示したのかと、考えて看たら、越三国に、シナから渡来して来た、長江民では無いのかと、気が着きました。 彼らには、鉱物資源の有る/無しを山の姿や、其処から流れ出る河が運ぶ堆積物に拠って、その場所や、地下資源の質や量まで、判定でき田のではないかと思います。

 地下資源が鉄なら、河口付近には砂鉄がありますし、金なら当然、川底に砂金が、堆積して居ますよね。

 私は、昔の半島でBC5世紀頃、半島の東の山奥の慶州に鉄山があって、シナから逃げて来た長江遺民が是を見つけて、掘り出し、当時戦国時代であったシナに、日本の倭族を通じて売りつけて、国の基礎を創り、新羅となった、と言う私論を持って居ますが、この倭族も、東北の蝦夷族と交流が有ったし、勿論。越の渡来人とも出自が同じだけに、繋がりがあったと思って居ましす。

 3万年と言われている日本の歴史に取って、ほんの千年前の事なのに、全く掘り下げを行わないって、日本の「れきしがっかい」は、全く機能して居ませんよね。 正直、税金泥棒だと思います。

 共産シナも、政治的理由で、長江文明そのものを認めて居ない様ですが、其れって人類の歴史に対する犯罪だと、私は思って居ます。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« そこでトランプ大統領は、日本に韓国へのフッ化水素輸出をやめさせるために、「日米安保条約は不平等だ」と言って見せたんです | トップページ | 日本国と日本人を貶め続ける朝日新聞社 »

2019年8月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31