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2019年5月31日 (金)

生きることは死ぬことである

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

関大徹『食えなんだら食うな』(ごま書房新社)

本書は昭和五十三年、山手書房から出た名書の復刻だ。

山手書房と言えば当時、仏教関係から人生論まで手広く手掛けていた。

社長の高瀬広居氏は宗教学者の側面があり、瀬戸内寂聴を「売僧」(まいす)と批判してはばからない剛の人であった。

(じつは評者も十数冊、山手書房から拙著を出して貰っている)

ーー

関和尚は曹洞宗大教師で、世間的には無名だが、禅の奥義を日々の生活に活かせと説き、ひろく庶民の崇敬を集めた。

言うことは破天荒、型に囚われず、奔放な教えを教え諭(さと)す。

その中には耳を疑うような教えがある。
「自殺するなんて威張るな」
「家事嫌いの女など叩き出せ」
「若者に未来などあるものか」
「犬のように食え」
「地震くらいで驚くな」
「死ねなんだら死ぬな」

またこうも説かれる。
「病なんて死ねば治る」
「ためにする禅なんて嘘だ」
「ガキは大いに叩いてやれ」
「社長は便所掃除をせよ」
「食えなんだら食うな」
「生きることは死ぬことである」

ーー

「食えなんだら食うな」は本書の題名になった。

評者は自著『青空の下で読むニーチェ』(勉誠出版)の結語に「死ぬことが生きることである」と、「生きることは死ぬことである」を使わせていただいた。

ーー

関氏は、次のごとくに人生をまとめている。
 人生は六十から。
 七十代でお迎えのあるときは、留守といえ。
 八十代でお迎えのあるときは、まだ早すぎるといえ。
 九十代でお迎えのあるときは、そう急がずともよいといえ。
 百歳にてお迎えのあるときは、時期を見ましてこちらからぼつぼつ参じますといえ。

ーー

解説を書いている執行草舟氏は、数千冊の古今東西の名書を読みこなした読書人でもある。

が、本書を一貫して人生の師として座右の書として、読み続けてきたのだという。

氏は人生で三回の転機に遭遇した。

その都度、運命的な決断は、「この本の言葉が背中を押してくれた」という。

ーー

なぜなら、この本が執行氏にとっての「命の恩人」だったからだ。

そればかりか、執行氏の創業の決意も本書によるとして、「手に取る読者の方々は、ここから新しい人生が生まれると思ってくれていい」とまで推奨する。

だから「死ぬ気で読んで欲しい」「本書自体を食らうのだ」と、解説と言うより凄まじい推薦の言葉である。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>関和尚の金言
 私は、この5年間での体験で、人生観がかなり変わったと自分を眺めて看て、そう思いますね。 5回入院し、4回手術を受け、2回死に懸り、最後に、絶縁状態にあった親父を見送ったと言う、今迄の何十年分が、この5年に纏めて起こって居るので、否応なしに、今が人生の分節点なのだと、気付かされて居ます。

 お蔭で、死生観もかなり変わって来たし、世の中で成功して見せる相手も、モゥ居なくなったので、或る意味、自分が今迄目指して来た人生の目的が何だったのかにも、気付く事が出来ました。

 私は実は、親父に家庭を捨てた事を後悔させて、心底謝って貰いたかったのだと、焼き場で小さな骨片になった親父をみて「間に合わなかったなぁ」と、気付き、己の努力の足りなさ?を、思い知らされました。 

 そして、この弔いの儀を、親不孝な私を参加せて下さり、こうした「気付き」の機会をお与え下さった、生前の親父を支えてくれた人々、ご先祖様、そして、神様に心から感謝いたします。
 
 仏の教えに曰く「世は、縁に因って出来上がって居る」のだそうですから、現世に親子として出されたからには、前世からの因縁の結果である訳で、魂同士でしか判らない、忌避感 や逆の親近感を支配していると思います。

 其処に魂の実坐を感じるのは、私だけでしょうか? 魂の存在が、真理であると感じる事が、日頃多々あるので、私は、「仏の教えは、宇宙の真理であり、仏教は、所謂、西洋に云う様な宗教などでは、断じてない」と思って居ます。

 そして、今日ご紹介」頂いた関和尚等の仏教に携わる方々は、仏教に述べられている宇宙の真理を通して、人間が気付くべき真理の様々な側面を、賢者が膾炙しつつ世に教えてくれているのだと思います。

 命と言うものは、いつ終わるか分らないモノです。 数字を並べて「長生きの家系だ」とか、言って看た処で、事故や流行り病には、未だ人間は無力です。

 然し、そう言った、ハプニングで起こって居る様に見える事も、実は縁(timing)に拠って、起って居るのだと、その縁も、必然があってこそ、起って居るもので、純粋に偶然で起こる事は、皆無だと言って良いと、仏は教えて居ます。

 ダカラ、死は、事象の終わりでありますが、亦、新しい生の始まりでもあるので、決してネガティブな面だけではありません。 唯、因縁は魂に付きまとうので、この世で解決出来無かった事は、来世に持ち越されたと考えるべきでしょうね。

 つまりは「人間は魂が本体で有り、魂は現世で行った罪穢を全て背負って、転生する」と言う考え方ですが、是は、中央平原や黒海やカスピ海周辺に居た半牧半農のアーリア人が、カイバル峠を超えて、インドを侵略して支配しましたが、その考えに端を発していると聞いた事が有ります。

 同じくアーリア人発の宗教とされる、ミトラ教やゾロアスター教にも、此の「輪廻転生」に行き付く、魂の存在は、半端、当然の事です。

 そして今も、インドでは、輪廻転生が、ヒンドゥー教と言う、国教に近い教えの、否、社会常識となって、現存して居ます。因みにインドの人口は、11億人に達して居ます。

 要は、西洋の一神教の様に、民族宗教の軛を引きづって居る様な「宗教」ではなく、何族であろうが、何教徒であろうが、生まれて以後の習俗には関わりなく、一つの魂として人間を看た時に、「如何にして生きるべきか?」つまり、「生きるとは、何か?」を、考えるに、不可欠な事は、まず「自分は、地球の一部である」と言う自覚である。

 ダカラ、同じく地球の一部を構成している他の生き物と、基本的に平等なのだと言う矜持を持つ事です。

 勿論、自然の仕組みと言うのは、弱肉強食の法則に支配された、食物連鎖で出来上がって居るので、他の生き物を自分が生きる為に犠牲にして居ますが、其処には、「強者の弱者依存」と言う背理も、同時に働いて居る事に気付かねばなりません。 自然はそうしてバランスが取れた、世界なのです。

 すると、特定の民族だけを嘉する様な教えは、そのバランスを壊して居るワケで、最初から、デマゴギーで有る事が分りますが、今の人類は、この時点で既に破綻しているのです。

 地球上の生物種は、絶えず、滅び且つ新たに生まれて居ます。 是は地球の新陳代謝だと考える事も出来、地球が宇宙生命体で有る証拠でしょう。 

 地球が生命体である限り、その生命維持が最優先される事は言うまでも無い、従い、地球環境を悪化させ、多くの生物種を絶滅させるような要素は、地球の意思に拠って、排除されるでしょうね。 

 その手段は、或る時は、暴風や、大津波、火山の大爆発と言った自然の脅威で有ったり、原因不明の感染症だったり、地球の一部である人間には、抗い難い方法、例えば、「種の寿命」と言う形で顕現します。

 生活が近代化すると、少子化が始まりますが、是は「予定調和の法則」に拠って、近代化した生活空間は、自然の環境維持力の大きな負担になるので、生きて行ける人間の数が限定されて居るからだと考えれば、腑に落ちます。

 加えて、「皆で力を併せて、問題を解決しよう」と言う志を理解しないで、利己的な行動に走るものは、例え、一時的に勝者となっても、何れ抗い難い力で、滅亡させられるから、祖の繁栄は、僅かに、千年も維持出来ません。 

 つまりは、仏の教えに在る「利他愛」の価値観を理解できないモノは、終局的に生き残れないという事です。 是も自然の、否、宇宙の法則なのですね。

縦椅子様
 
 今日も素晴らしいブログ有難うございます。
2019年5月31日 (金)のタイトル≪生きることは死ぬことである≫死ぬことを絶えず、眼前にちらつかせられながら、それでも生きたい人間の逆境(レジリエンス)に対処する心構えを簡明な表現で書いてくださっている秀逸のブログであるとおもいます。
「死ねなんだら死ぬな」
「食えなんだら食うな」
「生きることは死ぬことである」という覚悟を持って
≪人生は六十から。
 七十代でお迎えのあるときは、留守といえ。
 八十代でお迎えのあるときは、まだ早すぎるといえ。
 九十代でお迎えのあるときは、そう急がずともよいといえ。
 百歳にてお迎えのあるときは≫というのうてんきな教えに励まされながら、今日を精一杯生きたいと思います。

縦椅子様、ブログの更新をありがとうございます。

世の中には、凄いことを言う人がいると思いました。
正に破天荒で、型に囚われない教えだと思います。

その言葉の中に「死ねなんだら死ぬな」と言うのがありました。
これを見て、5月28日の神奈川県川崎市の登戸駅における小学生殺傷事件が思い浮かびました。

この事件、51才の男が小学生16人を含む合計18人を包丁で刺し、39才の男性と初学6年生の女児が死亡したという事件です。
この51才の男は、事件を起こして警察に確保される前に包丁で自タヒしたと言うことですが、自死するなら1人で勝手にやってくれと思いました。

これから、未来のある子供を道連れにするな。子供の親を道連れにするな。自分がタヒぬなら、勝手に1人でタヒんでくれと思うだけです。
これについて、このようなことを言わないで欲しいというようなことを言う人がいますけれど、小学生を殺した人がいるときに言うことはないと思います。
このような事件のないときに言うのは、構わないと思いますが、51差の男性が両手に包丁を持ったとき、小学生の列は無力でしかありません。逃げることも敵わないのです。そして、16人もの小学生が死傷した。この時に、そんなことを言わないで欲しい。
16人の子供達は、理由なく死傷したことを忘れていると思うからです。

日本のマスコミでも時に見られますが、気が付いたら被害者よりも加害者に同情の目を向けるときがあります。
しかし、被害者は加害者よりも可哀想なのであり、まして、小学生の子供達が被害者のとき、これより上位に立つ加害者などいないのです。
その時には、どんな人でも先ず被害者に目をむけて欲しい。
そして、被害者が救われてから、加害者はどうなのかを考えれば良いと思います。

社会福祉士だからと、被害者よりも加害者を優先するとの考え方には、納得できるものではありませんでした。

>ポッポさん ソロです。
>>川崎登戸の通り魔殺人事件
 この犯人汚岩崎某は、犯行直後に自殺しましたが、其れを評して「どうせ死ぬなら、関係の無い小学生やその父兄を巻き添えにしないで一人で死んでほしい」と、このニュースを看た時に、思いましたが、同じ事を持った人が全国に沢山いたんですね、すると、ご紹介の様に「一人で、死ねとか言わないでほしい」と言いだす人が出てきました。

 是って、日本人の病気やと思いますね。 私は日頃から、「死にたい奴は勝手に、他人の迷惑にならんようにして死んでくれ」と思って居ます。 何故そうかと言うと、昔、自殺サイトで、「死んで花実が咲くものか」と、云う調子で、諫めて居たんですが、全部無駄だった様で、その時に「生きて居る事が、死ぬより辛い人も世の中には沢山いるんやなぁ」と、実感したからです。

 生きるのは、固より辛い事で、釈尊も、生老病死を四苦に挙げて居ます。 そして、痛い、辛い、痒い、寒い、暑い・・と言った、感覚の感受性は。人に拠ってみな違うし、比較出来ませんから、他人には、決して分りません。

 其れを、叱咤激励して耐える力を養うのは、自分の決意如何ですが、感覚がほかの感情や恐怖心を励起して居る事もあって、一概にはいえる事では無いでしょう。 

 でも、シノウと決めたのなら、人を巻き添えにせず、一人で死ぬべきです。 端から、人は一人で生まれて来て一人で死んでゆくモノですカラ。 ダカラ、心中なんて、本当は非科学的だと思いますが、一人が病的に怖い人も世の中にはいるもんなんですね。 でも、自分の覚悟の無さを理由に、他人を巻き添えにしてよいと言うのは、決して許さっる話では有りません。

 ダカラ、関和尚は、「死ねないのなら死ぬな」と言って居るのでしょうね。

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