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2019年5月23日 (木)

羅とは何を意味しているのだろうか

以下の小論は、知り合いのものだが、許可を得て抜粋編集した。

ーー

清朝皇帝の姓は愛新覚羅(あいしんぎょろ)という。

wikipediaによると、アイシンは「金」という意味の、かつて女真族が興した王朝名であり、後にヌルハチが興した王朝からとった族名である。

ギョロはヌルハチの祖先が最初に定住した土地の名を戴いた姓氏であるという。

愛新覚羅で「金の覚羅一族」を表す。

ーー

しかし漢字は、「新を愛し羅を覚え(よ)」と読める。

この羅とは何を意味しているのだろうか。

羅とは鳥や小動物などを捕獲するための網を意味する言葉だったが、絹で織った網のような薄物を指す言葉にもなったと説明がある。

しかしその説明では、なぜアイシンギョロを愛新覚羅と漢字表記したのかの意味は見えてこない。

ーー

この羅というのはいろんなところに出現する。

まず思いつくのが新羅(しんら)であろう。

ここで新羅は新しい羅と書かれている。

ということは古い羅があったことになる。

初めから古いとは言わないので、それは単に羅と呼ばれていた可能性が高い。

ーー

さて、羅を考えるために、愛新覚が羅を修飾しているのではないかと仮定してみる。

この3文字は一見するとバラバラだが、新の左右にある愛と覚は慈愛と覚醒(悟り)を示す仏教用語であると考えることもできる。

そうすると新は日々新たなりとされる如来ということになる。

つまり、これらは釈迦三尊を示しているのではないか。

釈迦三尊では、釈迦の左に知恵の文殊菩薩、右に慈愛の普賢菩薩がおわす。

愛新覚とぴったり符合する。

ーー

そういえば清朝は仏教用語を使っている。

17世紀前半、朝鮮王仁祖は儒教の華夷秩序に従い、明を高きに置き、新しく興った清を軽んじ、清に臣従することを拒んだ。

清皇帝太祖は、朝鮮に大群を送り平定する。

清はこれを丙子(1636年)胡乱と呼び、太祖は朝鮮王仁祖を殺さずその降伏を許す。

これは大変珍しいことであったらしく、同年これを記念する石碑が建立された。

石碑は、現在もソウル市の一角に現存しており、朝鮮王仁祖が清皇帝太祖に三跪九叩頭の礼をしている姿が浮き彫りになっている。

ーー

これ以降1895年に日清戦争で日本が清に勝つまで、李朝は清の属国となる。

ーー

石碑には「大清皇帝功徳碑」と記されている。

この功徳というのは、仏教用語で、仏教徒が良い結果を得るために行う善行のことだ。

ーー

仏教国タイは、古くはシャムロと呼ばれていた。

何故ならその地には、もともとシャムとロの2か国があったからだ。

やがてシャムがロを併合して単にシャムとよばれるようになったと言われている。

このロは、漢字表記では羅であろう。

ーー

朝鮮半島とタイとは距離が離れすぎている。

それでタイのロは羅ではないかもしれない。

しかし正倉院御物を見れば、1300年以上前に中東の産物が日本にもたらされていた。

このことを考えれば、当時今考えると気の遠くなるような距離との交易がなされていたことになる。

ーー

新羅以前に存在したと考えられる羅は、西暦紀元ごろには存在していたのかもしれない。

そうだとするとこの頃、西洋ではローマ帝国が栄えていた。

ローマの漢字表記は羅馬である。

小生は、現在支那で、アメリカ合衆国が美国と呼ばれているように、ローマ帝国は当時羅国と呼ばれていたのではないかと考えている。

そしてローマ帝国からやってきた人々が、東アジアでも国を作った。

それを羅と称していたのではないのかと思えて仕方がない。

ーー

またイスラエルのラは古代エジプトの神ラーであると言われている。

(エジプトのヒエログリフの中の囲み文字カルトゥーシユの中にisalaerという文字があり、その意味はer(神)la(ラー)sa(の息子)i(アイ、アイはツタンカーメンの後に王位についたと言われている)

ーー

羅は、ローマ由来の人々によって古代エジプトの神ラーの意味を持たせられ、ひそかに神格化されていたのではなかろうか。

それは済州島の古名・耽羅からわかるように、羅に耽(ふけ)る(羅を崇拝する)ものであったのではないのかと。

ーー

日本書紀によると、新羅は、562年に、朝鮮半島南東部にあった加羅諸国(みまな)を併合し朝鮮半島の日本人らを追放している。

新羅の後に興った高麗は、936年半島沖にあった耽羅王国を滅ぼす。

この耽羅王国のあったところは現在の済州島なのだが、古くは耽羅と呼ばれていた。

ーー

小生の結論は、以下である。

ーー

長く言い伝えられた神ラー(羅)が、仏教と習合し由緒ある姓になった。

つまり愛新覚羅の羅はロと発音されているが、この羅というのは、釈迦三尊とラー(ユダヤ、キリスト教、イスラム教の神)の合体したもので有り、期せずして東西最強の言葉になっていたのではなかろうか。

ーー

追記

ソロさんご愁傷さまです。お父様の御冥福を心よりお祈りいたします。

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コメント

縦椅子様
 
 今日も素晴らしいブログ有難うございます。
 ≪長く言い伝えられた神ラー(羅)が、仏教と習合し由緒ある姓になった。
つまり、期せずして東西最強の言葉になっていたのではなかろうか。≫ーーとのことを知らしめてくださりありがとうございます。
 今日夕食時に、息子が収録した「ブラタモリ」とたまたまみていますと、「強羅」という言葉が出てきました。その番組によるとー 「強羅」という石がゴロゴロしている土地を意味し、
現在温泉地ナンバーワンになっている「箱根」は
 この石ころだらけの土地を公園に、さらに公園から、高級リゾート地に開発するために、登山電車がひかれたそうで、その「登山電車」の歌は遠い記憶にあります。
ー強羅温泉とは?ー
-2キロ大涌谷上の大涌谷で火山の蒸気で温泉水を作り、それを木管を通して、温泉地に供給するシステム。 
 大正10年には、強羅温泉までケーブルカーがひかれ、ケーブルカーがエスカレーターのような役割をして、その土地が開発され、さらに大涌谷を望めるロープウェイができ、今のような宏大な温泉地になっています。
 「箱根の山は天下の剣、函谷関もものならず、万丈の山、尖刃の谷 前に聳え・・・」というやまをこんなにも開発したのですから・・・先人のご苦労がしのばれます。
「日本人ってえらいなあ」と畏敬の念が湧いてきます!
ー以上「羅」まつわる話でした。

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
 本日(24日)鹿児島から、帰ってまいりました、弔いも、92歳と言う恒例だった所為か、集まった親類縁者も、皆恒例の為数少なく、勢い、縁者中心になり、滞りなく、寧ろ、故人をしのぶ良い雰囲気の中で追える事が出来ました。 親父も、成仏出来たと思います、弔意のお言葉、有難うございました。

>>「羅」が意味する処
 私もこのテーマには、興味を持って居ました。 然し、挙げられた歴史の背景の中に、長江文明と言う大きなファクターが抜けて居る事を、指摘したいですね。 

 是は縦椅子様の、恣意なのか、それとも、その存在は了解しているが、シナが長江文明に関しての情報を封印して居る為に、良く分って居ない長江文明を避けたのかと思って居ますが、私は敢えて、其処に斬りこんでみたいと思います。

 一説に拠れば、新羅自体、固より半島に棲んで居た民族では無く、山東半島の「済」国ので、BC20世紀の遊牧民の黄河文明と農耕民の長江文明の決戦で有った「拓鹿の戦い」で、長江文明軍が大敗を喫して、済の下層民として喘いでいた、三苗系の長江遺民が海を隔てた処に在る百濟王に救いを求めた処、王は、是に応えて、長江遺民の集団を半島に引き受け、大陸とは一番遠い、慶州の山中に領地を与えた。

 処が固より、文化・文明の素になる、日を使う技術や、天然の地下資源の鉱脈を探り当てる、知見を持って居た長江遺民は、暫くすると、鉄の鉱脈を探り当てたが、当時の鉄は、その需要の頻なるを以て、「金よりも高価」であったので、シナ王朝に売れば、忽ちの裡に、財を成す事は分って居た

 然し、直接売ったり、百済を介したのでは鉄の出自がバレて、シナ王朝に責められる可能性を考えて、亦、陸路で運ぶよりも、海上交通路の方が大量に危険も少ないと言う判断から、当時、大陸と交易ルートを持って居た、倭人=海人族は、長江文明を共に築いて居た東夷族で有り、古き区から連絡のr0ともあった。

 彼らも、シナ王朝の腹黒さは知っていたが、彼らは美優朴民であるシナ王朝が持って居ない大洋を渡る術を祖の特徴として持って居たので、彼らならその出自を疑われる事も無いと判断して組む事にした。

 然し、百濟王朝に入り込んだ倭人族を通じて、この交易が百濟にバレたが百濟には、鉄を製錬する術も知識もなく、結局、交易の結果で上がった利益の一部を、新羅が百濟に支払う事で倭人の仲介で合意したが、長江遺民が鉄の開鑿に成功した事を秘密にして、倭人と密かに交易していた事は、百濟に長江民に対する抜き難い不信感を植え付けた。

 それが、後の百濟・新羅の深刻な対立や、三韓征伐の原因ともなるわけだが、此処は、掲題の「羅が意味する処」を中心に論射て看たい。 

 三国志の中に、諸葛亮孔明が、南方の部族を征伐平定する話が出て来るが、この部族と、本文中に、ご紹介があった、現在のタイに当たるシャムロ王朝とどの様な関係が有るかと考えました。

 長江民族の三苗族が、族長蚩尤を失って、故地である雲南に逃げ帰ったのは、BC20世紀頃でしょうが、そのママ土着の有力勢力として、居着いた可能性が有ります。 そして、何れ捲土重来を期して、再び長江を下って、中原を手にしようと思って居たと考えられますが、

 長江源流地域の四川盆地には、漢の支族である蜀漢が、王朝を持って居たので中々攻め込めなかったが、漢王朝の衰退の噂が広まって、その気になっていたが、諸葛亮の3度戦い、勝利したが、3度とも赦して、恭順させたと言う逸話があるが、そんな出来過ぎた話は信じられませんね。 

 完膚なきまでに打ち破って、それでも、反乱の意を持って居る勢力を厳しく追討したと言う方が説得力としては有りますね。

 ダカラ、この時(AC3世紀)に、三苗の残党勢力は、殆どが一掃されたと考えるべきで、それ故に、新たに起こったシャム族に吸収されたと私は思います。

 因みに、ロ「=羅」と言う呼び名は、三苗族の自称名か、通称名であり、この羅が滅んだと言う話が、遠く、山東省に居た、長江遺民にも伝わって、苦難に耐えて居た長江遺民の王朝再興の夢が潰えたのでしょう。

 が、故に、命懸けで半島に脱出する事への長江遺民皆の同意を取り付けたのではなかろうか? 

 新羅が、他の半島民族とは毛色が変わって見えるのは、その独立心の強さであり、例えば後継王朝の高麗や、朝鮮の様に、目的達成のためには、建国の意志等2の次で、策を弄し王族を後継問題で離反させて、その隙に乗じて、或いは、元の衰亡で、共に衰退傾向に在る高麗を見捨てて裏切り、大国の力に縋って自分の国を売る様な真似は、観られません。 

 対日本・百濟連合に際しては、当時、新興国だった唐と組んで、是に当たるが、勝利して日本・百濟勢力を半島から追放すると、今度は唐を半島から排除に懸ると言った具合で、飽く迄、新「羅」の独立に拘って居る様が見て取れます。

 勿論、その前に、嘗ての盟友だった倭人の国「=日本」との、同盟を何とか、結ぼうとして居ますが、結局、倭人勢力も非海人族の蝦夷族の中に、反新羅勢力が居たと思われますが、其れが、何故、吉備の豪族勢力「=呉系長江民」を背景勢力とする天智帝と、どの様に繋がって居るのか迄は、未だ分りません。

 唯、この時代に、海人系阿多族の本拠地である、薩摩半島の指宿にまで、天智帝我行幸し無ければならなかった理由に、謎を問う家具がある様な気がします。

 そして、其れは、蘇我蝦夷が乙巳の変で、自宅で自害して放火(と言われているが・・)、長江文明以来の日本における、長江民と天皇家の関わりを記した重要書類が蔵われて居たと思しき書庫を、故意に全焼させています。

 この辺りは、自分の本当の出自である大陸系を知られるのを嫌がった、天智帝か、海人族系の天武帝に拠る、放火の疑いも濃ゆいでしょう。

 然し、この焼失した書庫に遭った書類の代わりとして、日本書紀・古事記編纂が必要になった私は考えて居ます。

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