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2019年4月12日 (金)

その際突如彼らは天皇を思い出すのだ

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

小堀桂一郎『象徴天皇考』(明成社)

神武天皇以前の自然崇拝、天皇的存在の原始的浸透、神武天皇の大和朝廷確立と以後の天皇統治、さらには武力を用いた雄略天皇、天皇親政を復活した後醍醐天皇、そして令和改元の象徴天皇。

これらそれぞれの時代を築かれた天皇の差違は説明の必要もないほどに明確である。

ーー

しかし、カムヤマトイワレヒコ(大和の神と呼ばれた男)が、なぜ後世に神武天皇と諡(おくりな)されたのか。

ワカタケはなにゆえに雄略天皇と諡(おくりな)されたのか。

武断政治の象徴から奈良、平安を経て鎌倉時代になると、天皇から征夷大将軍に任じられた男が天下のまつりごとを動かし、以来明治になるまで、その仕組みが続いてきた。

ーー

征夷代将軍を長とする侍にとって帝は権威であり、祭祀王であった。

つまりその時代から天皇は国民統合の「象徴」であり、戦乱から江戸時代の安泰期ともなると天皇は庶民からは忘れられた存在となる。

そしてようやく、徳川光圀の「大日本史」編纂が継続され2百年を経過するころ、侍らに天皇の存在が広く知られるところとなり、井伊直弼の日米修好条約の「無勅許」が問題視されるようになる。

西洋列強と一戦を交えていた薩長の侍たちには、このまま幕藩政治が続けば、列強の植民地にされてしまうという危機感があった。

それゆえ彼らは、討幕そして維新を企てようとし、天皇の存在を思い出すのだ。

そして西郷ら維新の志士たちは、幕府を朝敵にすることで維新回天を産みだす。

ーー

明治天皇は列強との戦う姿を軍服姿でお示しになり、昭和天皇は大東亜戦争には軍服姿で白馬に騎乗された。

まさにソサノオかヤマトタケ、いやカムヤマトイワレヒコ、そしてワカタケである。

しかし仁徳天皇は悠久の平和の象徴であったのだ。

つまり時代によって天皇の印象は激変する。

ーー

今上陛下はまさに平和日本の象徴である。

ーー

新渡戸稲造(にとべいなぞう)、岡倉天心が、本書では天空に突如輝く彗星の如く蘇(よみがえ)る。

そして彼らは西洋にはない天皇の存在について語る。

新渡戸稲造の『武士道』は明治三十二年(1899)に英語で刊行され、世界中の言語に翻訳された。

邦訳が出たのは出版から十年後だった。

このなかで、新渡戸は「我々にとりて天皇は、法律国家の警察の長ではなく、文化国家の保護者でもなく、地上において肉身を有ち給う天の代表者であり、天の力と仁愛とを御一身に兼備したまう」と述べる。

岡倉天心の『日本の覚醒』も明治三十七年に英語で刊行され、江戸時代の天皇認識に触れて、「帝は彼ら<徳川幕府>にとってはシンボリズムであった」と叙した。

ーー

すでに明治の人々にとって天皇は、象徴的存在であったことが分かる。

ーー

本書のもう一つの重大箇所は天皇陛下の靖国神社御親拝に関しての考察である。

小堀氏はこう主張される。

ーー

「(御譲位について陛下自らの御表明は)陛下の個人としてのお考えを法制の上で実現するために、憲法の規定とは離れた次元で、つまり超法規的措置の執行を求めて先ず直接に国民の理解を得ようとされた行動(だった)」

「憲法尊重は所謂建前であって、現に憲法二十条三項に謂ふ国の宗教教育、宗教活動の禁止の条項は宗教学校への国費の補助といふ形で空文化している」

「米軍占領中の神道指令の横暴と同様な酷薄な政教分離原則の要求(は、国法が政治権力の下位に立つという)行政の方便(でしかない)」

ーー

すなわち現行憲法は敗戦国日本が、戦勝国米への「臣従の誓い」のたぐいであり、ときに超法規で臨むべき(遵守しなくてよい)ときがある。

ーー

したがって小堀氏は、下記のようにまとめられる。

「大東亜戦争での戦没者一般への慰霊も<象徴としての天皇の>お務めの一環である」

「とするならば、それは戦没者達の『肉体(遺骨)』の眠る戦跡地に向けてであるよりも、彼らの『魂魄(こんぱく、たましい)』が帰り来て祀りを受けている靖国神社に詣でてこそ十全に果たされるはずだ」

「天皇の靖国神社御親拝は、国家が英霊に対して果たすべき、それこそ是亦言葉の本来の意味での象徴的な慰霊鎮魂の義理である」

感銘深い余韻を味わいながら本書を閉じた。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難う御座います。
>>今語れるべき天皇論
 小堀敬一郎さんの御名前は良く拝見しますが、御姿は見た事が有りません。 然し、理性的な保守として、保革陣営の双方から一定の安定した評価を受けた人と認識して居ます。

 抑、天皇とは、如何なる存在で有ったか日本人に取って、と言う事を、平和と安寧の象徴と武を用いた神武帝以来、崇神帝、応神帝、そして雄略帝に至る迄の時代は、大和王朝を確立させる為の内外の戦いで、毎年の御田植の神事等のスメラミコトの祭り事「=政事」以外は、主に武の首領であるオホキミの務めを果たしたものであった。 

 然し、応神帝が九州の三韓征伐から、大和に還った時、先代仲哀帝が遺していた、河内平野の開墾事業は留守居の大伴氏以下の吉備・播磨系の豪族に拠って、その基礎が創られて居た。 其処で、応神帝は、息子の後の仁徳帝に事業を任せ、この事業を大和王朝の興廃を懸けた事業と位置着けた。

 仁徳帝は、開墾に携わる民がその過酷な労働にも拘らず、食糧の不足から煮炊きする事が稀であった、すると、帝はその苦しさを慮り、税の大幅な軽減、或いは、徴収を一定期間止めた、そうした為政者の仁政に拠って、官民一体となった事業推進となり、開墾が進むに連れ、収穫量も大幅に上がって、民も豊かになっていった。

 処が、仁徳帝のご健康が悪くなると、この仁愛溢れる帝を顕彰する方法は何か無いだろうかと考え始め、開墾で出た残土や点在して居た湖沼をそのまま利用した御陵を建てる事の発案が支持されて、巨大な墳墓である陵が創られる様になった。

 つまり、日本巨大な墳墓は、シナやエジプトの墳墓とは違い、天皇の力の象徴では無く、仁愛と英邁さを称える民衆の感謝の表明で有ったと私は思って居ます。 

 残土や未整備の湖沼が余って居る間は、大きな墳墓が創られたが、次第に小規模になって行ったのでしょう。

 この時代の天皇は、オホキミと言う武の統領であるとともに、スメラミコトと言う、神のご意志を神の言葉を預かる、預言者の2つの役目を担っておられたが、河内王朝は開墾の結果、豊かな穀倉地帯を得て、王朝の力は強大となり、近畿諸国は固より、中国・九州、北陸・東海・中部に至る迄の広範な支配を確立して、シナの王朝に「倭の五王」と呼ばれ怖れられる存在になった。

 然し、武による支配は、武を行使する正義・大義の行方の争いに繋がり、河内王朝末期の雄略帝に拠って、応神帝以降の血筋で、帝の座を狙うものを排除して行く裡に、自分の血筋しか残らなかった。

 その武烈帝が、民を苦しめる暴虐なオホキミであったので、家臣の長である大伴金村が,帝を弑して、後継者を探すが、皆金村を懼れて帝位を拒んだ。

 困った挙句に、金村は、当時対立して居た丹波の豪族の息長氏の王が、雄略帝が排除した、応神帝の血筋を引くものである事を発見、永い交渉の末、そのオオド王に帝位を引継いで貰う了承は得たが、オオド王は警戒して、故地の丹波を出る事は無かったが、武烈帝の姉君を后にすると言う条件を出すと、現在の高槻市に樟葉宮を建て、姉君のお住まいにされたが、帝の即位は、しなかった。

 結局、オオド王が河内王朝を継いで継体帝になったのは、金村の死後であり、武烈帝の死後20年目の事で有ったと言う。

 この事象を見て居れば、大伴金村は、武烈帝を弑した時には、強大な力を持って居たと思われ、彼がその気になれば、帝位を簒奪する事も可能だったが、世が乱れる事を畏れ、其れをせず、主君殺しの汚名を着たままに、一生を終えた。 是は見方を変えれば、希代の忠臣であると云えよう。 この悲劇は後世に深く認識されている。

 後世、同じく壬申の乱と言う混乱を招いた事で、是等の弊害は、天皇の存在が、相反する権力の王オホキミと権威の王スメラミコトの御役目を併立しているカラであると考えた天武帝は、早速、オホキミの座を息子に譲り、自らはスメラミコトに専念する事にした。 是が威力分離の始めであろう。

 爾来、世を安寧に保つには、権力の王が幾ら強大でも、神のお意志を伝える、権威の王の上に立ってはならない、つまり、統治の主権は、飽く迄も神に在る、と言うお考えを示された事に成り、人々もそれを支持したのである。

 ダカラ、最初は雄藩連合での佐幕「=幕府を佐(たす)ける」を唱えて居た、薩摩が、大老井伊直弼が、天皇の勅許を得ずに、勝手に米国と売国条約を結んだ事から、一転して倒幕に変わったのであろう。 

 つまり、古からの威力分離の原則を幕府が破った事が、維新の発端になったと言う事で有る。

 この様に威力分離に拠って護られて来た、天皇の権威であるが、是は則ち、神のご意志の尊重に他ならず、日本国民の神道的な常識は、神武以前から不変である事が分る。

 故に現在、日本は「帝が高齢になられ、職務を熟しきれなくなった」が故に、ご譲位されると言う、多分、先帝崩御と言う弔事を経ない、或いは、政治的恣意に拠らない、初めての御代替わりである。

 目出度い事この上ない間の時期に在るが、我々国民は、先人達が正に死守して来た、日本の国体をこの先、如何に我々の手に取り戻すかと言う事と並行して、皇統の維持について、皇統資格を持つ宮家の復活のさせ方も、十分に、民主社会の常識と併存出来る様、留意すべきであろう。

 単に、11宮家を復活させればよいと言った乱暴なものでは、辞退者が続出したり、不適格者が現れたりした時に、皇室の継続が危うくなる事も考えられる。

 先人達のご意志を引き継いで行く為には、現状に併せた、或いは、未来に関した、伝統に対する改良・改善を加えた対策を講じなければならないが、是がこの時代に生まれた我々の使命・責任である事は、言うまでも無い事で有りましょう。

縦椅子様、ブログの更新をありがとうございます。

>「憲法尊重は所謂建前であって、現に憲法二十条三項に謂ふ国の宗教教育、宗教活動の禁止の条項は宗教学校への国費の補助といふ形で空文化している」

言われてみればその通りで、宗教活動の禁止の条項は空文化しています。
憲法の前文では、「諸国民の協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」としているのですけれど、その諸国民のではないのですが(戦争した相手ではないので)、日本を原爆で沈めると言っている朝鮮半島の国は、終戦後に日本で戦勝国民を僭称して日本人に暴虐に振る舞いました。

とても正義の諸国民とは思えませんけれど、GHQは第三国人という表現でこれを認めました。これもまた、憲法にあり得ない不法な民族でした。
戦争に負けたために、不法無謀の憲法を押し付けられた日本ですが、これも超法規的な存在だったのだと思います。
そして、今なら、現憲法は米国が押し付けたものだと判明していますが、憲法制定時から、行政の方便だと認識されていたことに納得します。


天皇の立場を一国民がどうのこうのと言うこと自体、憚られるものだと思いますけれど、憲法(旧帝国憲法も含めてだと思います。)なんかで、定義づけられるものではないのかも知れません。

だって、天皇は日本の国に125代(2679年)に亘っておられるのですし、その存在は、他国統治者に多い独裁者でも自己の権力のためにいるものではなく、ただ日本国の安寧を願って、国民の平和を祈って下さるのです。

長い歴史の国ですから、天皇の為される行為も変遷してきたと思いますが、日本の法律が出来る前からの存在を、今さら憲法で定義づけてどうするのかとも思います。
今の天皇は日本国民が苦しむとき、一緒に苦しみ、元気づけて下さるのです。
こんな存在は、世界の何処の国にもないことで、有難いことだと思います。
天皇は理屈ではなく、日本人の心を柔らかく守っていると思います。

>「大東亜戦争での戦没者一般への慰霊も<象徴としての天皇の>お務めの一環である」

その通りです。
社会党の代議士が因縁を付けて出来なくした天皇の靖国神社御親拝は、是非とも復活して欲しいと思います。
靖国神社に眠る戦没者は、日本を守るために従軍した英霊ですから、日本の象徴が英霊を慰めなくては、日本の戦後処理が出来ているとは言えないと考えます。

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