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2019年4月23日 (火)

「公私混淆」は支那人らの『民族的業病』

ーー以下「宮崎正弘ブログ樋泉克夫のコラム」より抜粋編集

竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)より

1949年の中華人民共和国建国直後、1951年11月から52年8月にかけて、毛沢東は「三反・五反運動」と称する運動を全国展開した。

それは、「公私混淆の惡弊打破」を訴えるものであったが、公私混同の弊は一向に減ることなく、この運動は徒労に終わった。

ーー

鄧小平は1978年末に改革開放政策に踏み切った。

そのすぐ後の1980年8月、党幹部らを以下のように非難している。

「幹部らは職権を乱用し、現実からも一般大衆からも目を背け、偉そうに体裁を装うことに時間と労力を費やしている」

「無駄話にふけり、ガチガチとした考え方に縛られ、行政機関に無駄なスタッフを置き」

「鈍臭くて無能で無責任で約束も守らず、問題に対処せずに書類を延々とたらい回しし」

「他人に責任をなすりつけ、役人風を吹かせ、なにかにつけて他人を非難し、攻撃し」

「民主主義を抑圧し、上役と部下を欺き、気まぐれで横暴で、えこひいきで」

「袖の下を使えば、他の汚職にも関与している」と。

(『現代支那の父 鄧小平』エズラ・F・ヴォ―ゲル 益尾知佐子・杉本孝訳 日本経済新聞社 2013年)

ーー

(ここで鄧小平が使っている民主主義というのは、志位の独裁19年の日本共産党が使っている民主主義と同じでdemocracyではない)

ーー

しかしこの非難もまた、徒労に終わり、「公私混同」は一向に改善されなかったのだった。

ーー

1989年6月4日若者たちが共産党独裁反対を掲げて天安門広場に集まった。

そして掲げたのが、共産党幹部による「公財私用反対」だった。

しかしそれは、共産党軍によって、圧殺された。

ーー

習近平は政権掌握から程なく「反四風運動」の旗を掲げ、幹部の綱紀粛正を打ち出した。

「反四風運動」とは、幹部による形式主義・官僚主義・享楽主義・贅沢主義の四つの作風(四風)に反対し幹部の身勝手極まりない振る舞いを厳禁することだった。

(四風、具体的には公金を使っての派手な宴会、カラオケ・レストランのみならずナイトクラブまで併設したような贅沢極まりない庁舎の建設、個人的な贅沢なパーティー、はたまた企業接待による浪費など)

そして農村と都市、都市における富む者と貧しい者の格差の拡大が引き起こす仇富感情を抑え、社会的安定を確立させ、政権への求心力を高めようと企図したものだった。

ーー

 これに加えて外出訪問の簡素化、分不相応な大人数での歓送迎禁止、客を迎える際には絨毯を敷かない、外出訪問時の随員の制限などを定めた「反浪費八項目規定」も用意された。

いわば、なべて平等を旨とする社会主義政権の最高指導者としては、「これでは人民に示しがつかないではないか」という『大苦言』といったところだだった。

が、現在までのところ政権の一強化は進むものの、「反四風運動」は雲散霧消した。

最高指導者の苦言など、党幹部にとっては、暖簾に腕押し糠にクギのようなものだったのだ。

ーー

筆者は今から7年ほど前に雲南省を旅した。

その時、「支那で最もインド洋に近い都市」をキャッチコピーにしていた芒市の市政府役所の壁に「国家工作人員十条禁令」が張り出されていた。

それには以下のように書かれていたのだ。

ーー
一、本来の職務を遂行せず、職務を疎かにすること厳禁。
二、嘘で上司を騙し部下を誑かし、業務をせず引き伸ばすこと厳禁。
三、物資購入の際の横流し、公共工事入札の際の手心厳禁。
四、職務権限をタテに相手業者に金銭、食事を強要すること厳禁。
五、賭博に加わること厳禁。
六、公共の場での麻雀厳禁。
七、飲酒でイザコザを起こし、業務に支障をきたすこと厳禁。
八、勤務時間中に本来業務を怠ること厳禁。
九、公金を高額遊興費に流用すること厳禁。
十、如何なる理由があれ薬物の使用厳禁。

ということは、この種の「公私混淆の惡弊」が横行しているということになる。

ーー

じつは江澤民もまた最高権力者であった当時、「永做人民公僕(永遠に人民の公僕たれ)」の6文字を掲げていた。

つまり、この6文字を持ち出さねばならないほどに「公私混淆の惡弊」が横行していたということになる。

ーー

「公私混淆」は支那人らの『民族的業病』なのであろう。

ーーそして書き足りなくて次のコラムに続ける

明治39(1906)年初から約2年に亘って北京に留学した宇野哲人(明治8=1875年〜昭和49=1974年)は帰国後に『支那文明記』(大正七年 大同館書店)を著す。

その中で、洛陽の県役所の目立つ場所にデカデカと且つ麗々しくも恭(うやうや)しく以下のように書かれた看板が掲げられていたと記している。

「爾俸爾禄、民膏民脂、下民易虐、上天難凌」

(諸君等の俸給は人民の汗の結晶だ、下々の民百姓は適当にあしらえるが、天の目は節穴じゃないぞ。権力を振り回しての不正を天は見逃さないぞ)

ーー

宇野が指摘した「爾俸爾禄、民膏民脂、下民易虐、上天難凌」
建国直後の毛沢東による「三反五反運動」「為人民服務」
開放政策開始直後の鄧小平の苦言
天安門での若者による「幹部による公財私用反対」の声
江澤民が垂れた「永做人民公僕」
芒市政府役所に掲げられた「国家工作人員十条禁令」
政権掌握直後に習近平国家主席が掲げた「反四風運動」

こう並べてみると、彼の国においては「公私混淆の惡弊」は根絶不可能だということになる。

ーー

かくして林語堂の“至言”に思い至る。

曰く、

「支那人はすべて申し分のない善人である」

「北京語文法における最も一般的な動詞活用は、『賄賂を取る』なのである」

私は賄賂を取る
あなたは賄賂を取る
彼は賄賂を取る
私たちは賄賂を取る
あなたたちは賄賂を取る
彼らは賄賂を取る

ーーと。

正直にいうなら太古の昔から、彼の民族にとって官(支配者)に『賄賂を取る』は「常用されていた」ことになる。

ーー

林語堂曰く、「支那が今必要としていることは政治家(支配者)に対し道徳教育を行うことではない」「彼らに刑務所を準備することである」と。

さらに曰く、「官吏(支配者)たちに廉潔を保持させる唯一の方法は、いったん不正が暴露されたならば死刑に処すと脅かすことである」と。

だが、支那人支配者らには「刑務所を準備」しようが、「死刑に処すと脅か」そうが、効き目は全くないのだ。

なぜなら、刑務所を準備するのも、死刑に処すと脅かすのも、それらが支配者らの手の内にあるからだ。

つまり、「(支那人の)公私混淆の惡弊」に付き合っても、所詮は骨折り損のくたびれ儲けなのである。

ならば民族的伝統の牢固たる精華として称揚するほかないだろう。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難う御座います。
>>シナ人の本性
 通読して、納得し切りと言った処でしょうかww

 彼らの社会常識では、権力を持つには、金が必要だし、権力を握ったら金儲けをするのが当たり前と言う考えなので、そう言う彼らの常識に、靡かない考えは「分って居ない」と、切り捨てるのがシナ人だと言うのは、私も数件の実体験で知って居ました。

 日本企業の多くが、シナ市場を目指す前の80年代中盤頃は、未だ、改革開放を打ち出したはいいものの、皆、目先の利権に溺れて、生産性は上がらず、出て来る製品も売り物にならない酷いものだった。

 其処で、日本から、技術指導にベテランたちが、シナの国営企業に大量に送り込まれ、特に、品質管理の面での技術である、米国出自のQC「=quality control」のやり方を現場に叩き込んだ、品質は見る間に上がり、製品が売れる様になって、利益が出る様になった。 多くの国営の生産工場でも同じ現象が起って居た。

 日本も、シナでマトモな製品が出来る様になれば、固より、工賃が1/10程度なので、企業は原価を驚くほど廉価にする事が出来たので、90年代のバブル以後は、大挙してシナに進出する様になり、其れまで、地場産業を形成して居た中小企業は、生き残れなくなった。

 然し彼らが、日本企業に、何を学んでいたのかが、次第に明らかになっていった。 それは、企業の管理者が、製品の材料の質を落とす事で、経費を横領して、自身が出世する為の賄賂に回して居たのである。

 つまり彼らは、工程の何処に、自分達自身の利益になるものが有るか、如何にしてそれを盗んで金にするかを観察して居たのである。 結果、出来たものの形は真面でも、見えない部分に、不正なものが使われていたので、様々な弊害が製品を出荷した先のあちこちで発生した。

 先ずは、日本に輸出された毒入り餃子で、数十人が被害に遭い死者も出た、更には、インスタント・ラーメンを揚げる工程で、普通はラード(豚脂)か、ヘット(牛脂)を入れた食用油を使うのに、工業用の粗悪油を使った為に、是を食べた2人が死亡した、こうした、「見えない処に、不正なものを使うやり方は、食物だけとは限らなかった。

 例えば、米国で幼児用の玩具に、毒性の高い塗料を使って居たり、ペット・フードに、加工段階で毒性のモノが入りこんだりして被害が続出して、シナ製の製品に対する信用が無くなり、製品が忽ち売れなくなった。 日本では、シナ製の食品には、日本の主婦層を中心に、拒絶が定着している。

 然し、例えば日本の、JISやJASの様な基準を独自で創って、その品質を上げようとする行政力を発揮するべきでしょうが、是を全くする気が無いのは、管理する側にも大きな問題が有ると言う他は無い。

 この原因として考えられるのは、彼らの常識の中には、公益性の重視、と言う観点が、見事なほど欠落していると言う事が分る、彼らに取って社会の最大の単位は、国家では無く。宗族なのである。 

 それ以外はすべて敵だと言う認識なのだから、「公」を表す「皆」と言う意味が、自分の周りの社会全般であり、謂わば、「自分以外の全ての生き物」を指して居る様な日本社会の認識は、シナ人には通用しない、否、それ処か、日本の常識は、世界でも特殊なのである。

 全てにおいて、宗族の利益が最優先しているのだから、社会で任せられた、職務は権利に他ならず、謂わば、金儲けのチャンスでしかない、この考えが、上のモノから下のものまで遍く常識として認識されているのが、シナ人社会であると言えるでしょう。

 そして、金は、如何なる手段を用いても儲かれば良く、その価値は、技術や作品の出来栄えに有るのではなく、如何に儲かったかに拠るのである。

 すると畢竟、時間と金が懸るオリジナルなものより、売れる実績があるものを真似ると言う事に成ろう、ダカラ、シナ人のオリジナルの製作者に対する敬意は発生せず、所謂「知財権利の侵害」を平気でやって、莫大なペナルティを要求されているが、コピー業は、星の数ほども居て、取り締まるのは不可能であるから、シナ社会の産品は、コピーだらけで、思わず失笑する様なものばかりになる。

 シナ人の大金持ちに、「一体何で大金持ちになれたのか?」を訊く事は、タブーになっている、「何をやって儲けようが、貴方には関係が無い」と、反論されるのが落ちである。大体は、余程疚しい事をしたのだろうが、「今が金持ちなら其れでいいではないか」と言う考えが、シナ社会の常識なのである。

 自分達の利益の事しか考えないから、川や湖には毒物が溜まり、其処から水を引くしかない、水田の水も汚染している、その所為で、多くの肴や水鳥が死んでも、「労せずして獲物が手に入った」と先を争って、取り込んだり、伝染病が流行し、殺処分になって土中に埋めた家畜を、態々掘り出して、加工して香港経由で海外に出荷しているのである。

 そして、シナの土壌が汚染されて、作物が毒化したり、育たなかったりしても報告し無いし、家畜に奇形が発生しても、肉にして終えば分からないと言った具合に、汚染状況を隠蔽して居るカラ、シナの食品は、今では、シナ人の富裕層自信が手を付けない。

 然し、その危険性を本当に解っているのは、ごく一部と思われるので、この先、経済の悪化が進めば、様々な公害病が発生し、多くの人が死ぬような、公害禍が起るに違いないが、謂わば、自業自涜と言う他は無い。

 そして恐ろしいのは、こうした常識を持ったシナ人が、世界に拡散する事で有ろう。 拝金主義や、選民主義の欧米人にも、公と言う意味は、限定的な民族や人種しか意味しないが、未だ、神を畏れて、公の秩序を保てば、自分達に「平穏な日常」と言うメリットが、齎される事を知って居るダケ、マシである

 シナはこの先、共産党支配以外の、如何な政体に移行基本は宗族主義なのだがら、シナ社会は何も変わる事が出来無いだろう。 是はシナ人が、他所の苦に行っても同じ事で、事、リトル・チャイナと称する華人街を世界中に造って居るのである。

 唯一無かったのが、共産圏だったのですが、巨大な華人街だったとも言える共産シナが経済破綻して、共産党の零落が起ったら、無数の小さな華人街に分かれるダケの事でしょう。

 まるで、4億年も生き続けて来たゴキブリの様な民族だと思うが、彼らが生きて居るのは、この世の地獄なのかもしれませんね。

縦椅子様、ブログの更新をありがとうございます。

支那の「公私混淆」は、「民族的業病」ではなく「民族の業病」だと思います。

>「公私混淆の惡弊打破」を訴えるものであったが、公私混同の弊は一向に減ることなく、この運動は徒労に終わった。

支那4千年でこれを醸成してきたのですから、今さら無くなるはずがないのです。
そして、支那の支配者は此を止めろと時に命じますが、支配者自身がやってきたことを禁止しても、支配されている者が命令を聞くことはありません。

表面でしないように見せても、実際は変わらないのです。時に運の悪い者がバレて、罰せられるだけなのです。
尤も、独裁者の政敵やいずれ政敵になる者は、独裁者から狙われますから、バレる危険性が高くなります。
それなら、やらなきゃ良いのですが、トップになろうとする野望のある者は、野望のためにのし上がるためには資金が必要で、その為には普通に悪弊を行いますから、叩けばホコリが出るのです。

この悪弊の程度は本人の持つ権力に応じたものであり、全ての者が行いますから、それぞれの者は悪弊とは思わず、「社会の潤滑油」程度にしか思っていないでしょう。
日本ならば、「天の声」がこれに相当すると思います。

「公私混淆」は金銭だけでありませんので、特別扱いを要求する事も含まれます。
当時の支那では主席でなく副主席の一人は、天皇陛下への面会を求め、それを戦隊長は日本の宮内庁のルールを無視して実行しました。
他にも、贈賄をした者が有罪で、相手の収賄をした者が無罪などと言う、訳の分からないことが裁判でありましたけれど、不可思議なことがある者でした。


それはさておき、悪弊は今も続いていますし、これからも無くなることもないと思います。東アジアの恥ですが、これは支那だけでなく小中華の朝鮮もそうです。
残念なのは、支那はこの技術を世界に進出する武器にしており、その効果が絶大な威力を発揮していることです。

>ポッポさん ソロです。
 抑々、シナには、公と言う観念が無いか、日本とは大きく意味が違うと思って居ます。 ですから公私混同と言われても、シナ人は、ピンとこないのだろうと推察するわけです。 つまりは、社会常識が、全く異次元な訳ですね。

 公私混同が常態になっているから、宗族主義が成り立つワケですが、日本の武家社会でも、宗族主義的な部分は、有った様で、特に武家の上層部は、「一族郎党」と言う括りが存在しており、一族の主家が栄えると、一門もそのお零れに与る仕組みが、有りましたが、是は武家の場合、戦で~家と言う、一門勢力単位で動いて居たからでしょうね。

 ダカラ、不祥事を起こすと、「家名に傷を付けた」「一門の恥」で、栄養に与れば、「家門の誇り」と言う、宗族単位の評価になったんですね。

 是は、藩内での勢力にも反映して居て、主家がもし、勢力争いに敗れると、主君が、幼少や無能だと、勅許を取り付け、「上意討ち」と称して、相手方の主だった人々を、切腹、自刃に追い込み、所領を奪うと言う事も、有った様ですが、是が幕府にバレ多羅、当事者、主君は切腹、御家は改易・閉門になる、と言う厳しいものでした。 

 この一族郎党の団結も、江戸時代が平和に打ち過ぎ、飢饉に備えたコメの増産に拠って、米価が暴落すると、俸禄の少ない下級武士が食えなくなって、武士を止めて、農民や漁民、或いは、北斎・広重の様に、町絵師(町人)になるモノが増え、崩れてしまいましたね。

 社会構造が全く違う、シナと日本の比較は難しいのですが、やはり、社会の正義の指標になるものが無いと、或いは、有ってもそれを護らず、利己主義だけで一生を過ごして来たからこそのシナで、お天道さまと言う、自然神を、正義の依代にして来たから、現在の日本があるのだと思います。

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