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2019年4月24日 (水)

縄文人は抽象的思考や表現そして言語能力を私たちと共有していた?

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

江坂輝彌『日本の土偶』(講談社学術文庫)

夥しい縄文遺跡の発見と、出土した無数の土偶。

こうした縄文土偶は草創期から製作されていたことが近年の縄文考古学でひろく認定された。

しかも縄文土偶は世界的な考古学者、美術史家の関心を集めている。

序文にはセインズベリーの以下の文章が見られる。

ーー

「土偶を作ったのは私たち同様近代的な人間だった」

「縄文人は抽象的思考や表現そして言語能力を私たちと共有し(ていた)」

「また私たちと同じように精巧な職人技や奇抜さを評価していた」

ーー

本書は、300点を超える図版を用いて、縄文土偶を提示し、一万年以上前の日本人の生活や祈り、食事、その文化を考察。

著者は学者だけに推理も想像もなく、淡々と客観的事実だけを列記した。

そして、それとなく推理小説のような解釈をした梅原猛らを言外に批判している。

ーー

三十年前の名書が、折からの縄文時代への熱狂とともに学術文庫に入った。

ーー

評者(宮崎)は中学時代の歴史教科書で、静岡の登呂遺跡が日本で最古の遺跡と教わった。

それが固定観念のように脳裏にこびりついて離れず、高校時代に無銭旅行であちこち旅をしたときにわざわざ登呂へ見学に行った。

近くの小・中学は遠足のコース、遠くからも観光バスで来る人たちもいて、もの凄い人出があった。

連日、登呂遺跡は超満員で周囲にはお土産や、レストランができていた。

自動車で来た人たちは、駐車場が足りないと悲鳴を挙げていた。

ーー

過日、新幹線を静岡で降りて、登呂遺跡を再訪してみた。

前に来てから歳月は流れじつに半世紀以上経ってしまった。

驚いたのはレストランも土産店も閉鎖され、そもそも見学者がほとんど居ない。

駐車場はがら空き、寂れ果てているではないか。

ーー 

地元のタクシーの運転手曰く、「あれから縄文遺跡があちこちに発見されて、登呂遺跡は弥生時代の『新しい』遺跡とされ、いまじゃ、駐車場はいつもあいている」と。

ーー

本書は、全国の縄文遺跡から出土した土偶を中心に、専門家が装身具や祭器などを分析し、その用途に思いを馳せる。

羅列形式で、文章に綾もなく、ひたすら淡々と土偶や装飾品の出土場所、発見日時、発見者、出土したときの状態と形状、寸法などが記述されている。

一万年にわたった縄文時代は草創期から前期、中期、後期に別れる。

その時代の移行に伴って、土偶の形の変化としてあらわれている。

ーー

評者(宮崎)は歴史学者でも考古学者でもないから、素人の発想から以下の個所に注目した。

「1940年頃、奈良県橿原神宮外苑、現在の橿原公苑地区の遺跡の発掘調査に(亀岡遺跡の遮光土偶の影響を受けたと思われる)多数の土偶が出土した」(p191)

「多くは破損していたが、出土品のなかには「耳の位置に小円孔のある土偶」が含まれており、縄文後期のものと認定される」(p211)

装飾品はペンダント、腕輪、イヤリング。

つまり縄文女性はピアスをしていたのである。

ーー

このさりげない文章には重要な意味がある。

橿原神宮は畝傍山麓にあって、神武天皇が祀られている神社であり、同敷地内には神武天皇陵、綏靖(すいぜい)天皇陵がある。

『古事記』によると、神武天皇の即位は紀元前660年であり、世界史的にいえば同時代にはバビロニア帝国が築かれたネブカドネザル大帝の時代に重なる。

日本史では縄文後期から弥生時代の重複期にあたる。

ーー

林房雄が『天皇の起源』のなかで「天皇の原型が縄文中期に成立したという仮説」を述べた。

橿原公苑地区の遺跡から発見されたこれら縄文の遺物は、神武以前の統治者たちの存在を傍証するものと思われたのだ。

集落の長、そして地方の豪族の長を統一していった王、大王、スメラミコトと変貌した統治者が神武以前から何代も続いていたと考えられる証拠の存在に興奮させられた。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難う御座います。
>>では弥生とは一体何だったか
 宮崎さんのご紹介に拠る西洋人が縄文人の先進性を評価し始めて居る点については、とても嬉しいですが、では、登呂遺跡を始めとする、九州や兵庫県にも存在する弥生人に拠るモノと思われる遺構から出土する遺物は、如何なる社会で創られ、使われて居たのかと言う単純な疑問が生じてきます。

 固より、縄文と弥生の違いは、縄文晩期に起った、開聞岳の噴火に拠る堆積物の地層の断面から、明らかに違う土器が顔を覗かせて居るのを、大正時代の初期に、今で言う中学生の歳の子供が、発見して、学校の先生に報告した処、先生は、その2つの土器を京都大学の考古学の権威の人に送り付けた処、2つの土器の時代の差は、100年以内のものだったが、全く別種の民族のモノである事が、判明した。

 つまり、縄文人が開聞岳の降灰に拠って、土地を放棄した後に、外来の異民族が棲み着き、新たな生活を始めた、と言う事に成ろう。

 是が、私の故郷である鹿児島県指宿市の橋牟礼遺跡であり、縄文と弥生が異なる民族で有る事の端緒になった出来事です。 指宿は、今では、寂れた温泉地にすぎませんが、私が小学~中学生の頃は、「東洋のハワイ」と言われて、新婚旅行のメッカでしたね。

 でも、偽ハワイは、その後20年も持たなかったのですが、この橋牟礼遺跡の記念館が私の自家の数百m近傍に有り、調べたら、他に、16,000年前の水迫遺跡や28,000年前の西多羅が迫遺跡も、前世紀末に、発見が相次いで居ます。

 そして、7,400年前の鬼界カルデラを創った海底火山の大噴火に拠る火砕流を伴った大津波の遺構、それ以前の火山の爆発時の遺構と、先縄文、縄文草創期、早期、中期、後期、晩期、弥生草創期、中期、晩期、古墳時代、平安初期・・と、日本の歴史の全ての時代の痕跡が遺されている事が分り、興奮しましたww

 「こんな場所は、世界に2つと無い」と言う思いが、今も、ふつふつと心の中に滾って居ますが、取り敢えず、如何したらいいのか分りません、指宿の発掘は、京大チームのテリトリ―ダと聞いた事が有りますが、指宿自体が、阿多カルデラと言う火山の終局的爆発のあろ地の中に有るので、西側の山を超したところに有る池田湖や開聞岳は、観光資源になっていますが、この日本の歴史の縮図の様な指宿に今一度光を当てて行きたいと思って居ます。

 処で、縄文人が耕作を諦めたのは、無論、激しい降灰が永く続いた事もあるでしょうが、ではその縄文人は、何処へ移住したのか、或いは、代わりに棲み着いた弥生人は、何故、降灰の地に、態々移住して来たのか、と考えて看ました。

 すると、薩摩・大隅に棲んで居たのは、固より、海人族で、其れは、氷期の間、大陸と大陸棚に沿った火山列島に拠って、内海を形成して居た、東シナ海を生活圏とした、スンダ・ランド由来の海洋民が、大陸沿岸に棲むものと、列島に棲むものとに分かれ、其々独自の文明を1万年以上に亘って、展開した結果、大陸島の西から流入して来る黄河文明と言う名の、コーカソイド種と混血して行く裡に、違う民族かの様に変化したのではないかと思います。

 いずれにせよ、大陸から看れば列島は、火山の大噴火が、度々起こる、危険な場所と言う認識が古くからあり、交流はしても、棲み着こうと言うものは、いなかった。

 然し、開聞岳の噴火が、小規模で有った事や、噴煙が途絶えた事を見為計らって、移住して来たのではないか、然し、河内は火山灰だらけだったが、山川港や坊泊港と言った天然の良港があり、沖で黒潮が、2手に分かれると言う好条件もあって、棲み着いたので有ろう。

 遺伝子的には、基がスンダ人であるから、同じなのは、広東の柳江人と、琉球の湊川人が、粗同一の人種で有る事で、仮説は証明出来様。

 然し大陸沿岸に棲んで居た漁労・海産の民が、故地を捨てて、移住を決意するには、其れ形の大きな理由が無くてはなるまい。 それが、縄文後期のBC20世紀ごろに起った、黄河文明人とされる、遊牧民の長江文明侵略で有ろうと思います。

 当時は、数百人が一遍に乗れるような大型の船を造れる技術も、亦、その必要も無かったから、監視の目を逃れて、少しづつ、移動したと思われ、その数は、弥生期千年間で、100万人だと言われている。

 つまり、1000人/年に過ぎないが、当時の日本列島の人口も、10万人以下だから、5年もしない裡に、5千人の集団がある地域に集中的に移住して来れば、縄文人とて、固まって棲んで居ただろうから、結構な脅威になった筈である。

 然し縄文人は、火山の多い降灰の多い土地の活かし方を知って居たので、そう言った、弥生人が棲めない土地で暮らして居たのだろう、ダカラ最初は接触が無く、所為と津も起らなかった。

 然し、神武帝が「東征」を始めて、近畿に拠点を創る事に成功して、王朝が建てられると、九州の弥生系「=渡来系」の海人族である、曾於族や肥(くま)族が、南九州の縄文系の隼人族と、諍いを起し是を鎮めんと、股肱之臣である、久米氏を九州に遣わす。

 然し、肥曾(くまそ)勢力が、強大なために、4代帝・大王であった懿徳帝は、大和をもう一人の股肱の臣である大伴氏に任せて、九州に向けて遷座して、以後300年近くを九州で過ごし、9代開化帝の砌に、肥曾の平定を終え、大和に還る事を決める。

 是が「倭国大乱」に大和朝廷が採った対応策だった。 つまり、弥生人は、元は、同じスンダの海洋民でありながら、陸路伝いに、シナに辿り着いた南蛮系の長江人と、呉越に分かれて、始終揉めて居た.

その虚を黄河文明と言う名の青人系の遊牧民に衝かれ、次第に大陸の支配力を失って、日本列島に移住し始めて居たと言う事でしょうが、呉越の争いは、列島でも展開され、その殆どが死んでしまったと考えるべきでしょう。 

 但し女性は残ったので、弥生人的な特徴は、遺って居ると言う事だと思います。

 こうした話は、時代を超えて語り継がれ、詳細な文書も残って居たが、蘇我氏が、乙巳の変で息子の入鹿が討たれた時に、父親の蘇我蝦夷が家に帰って自刃して、館に火を放ち、歴史書を保管して居た書庫も焼いたので、天武帝は、後に、散逸した資料を掻き集めて古事記を、更には、日本書紀を後世の為に編纂し、遺したので有ろう。

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