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2019年3月28日 (木)

上杉鷹山の師・細井平洲(ほそいへいしゅう)のお話

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

上杉鷹山の師・細井平洲(ほそいへいしゅう)のお話です。

上杉鷹山は米沢藩主として、藩校を設立しています。

その藩校の名前「興譲館(こうじょうかん)」は、細井平洲が名付けたのです。

ーー

藩校というのは、藩政を担う人材を育てるところです。

藩政を実施する上での心構え、具体的進め方に至るまで、広範な教育を行うところでもあります。

ここで藩士の子弟らは、江戸へ出ても恥ずかしくない武士としての教養を身に着けた。

ーー

「興譲」は「譲(ゆずる)を興(おこ)す」と書きますが、これは細井平洲の教えの根幹となる理念です。

他者を敬い、譲り合う。

そんな生き方をすることによって、良好な人間関係を築き、社会や国を繁栄に導くという思想です。

これは、「自分さえ良ければ」という個人主義や、人を奴隷とし収奪する支那・朝鮮の儒教社会の対極にある思想です。

「譲」という漢字には、「分譲、禅譲、謙譲、譲歩」のように他者に与えるという意味の他に、「責譲(せきじょう)」つまり歪みを責める、不正を許さないという意味があるのです。

「不正を許さない」、これは武士としての心構えです。

ーー

そういう武士としての生き方を藩士に教えたいという、細井平洲の強い願いがあった。

現在でも日本人であれば、たとえば被災しても互いを敬(うやま)い、譲り合います。

だから日本人の避難施設内では、暴行も略奪も起こらない、みんなが自然と互いに協力し合います。

救援活動のために被災地に来た自衛隊員は、温かな食べ物は被災者たちに与え、自分らは冷たい携帯口糧の缶詰を食べていた。

ーー

これらの行動は、自己の権利ばかりを主張したり、並んでいる列に割り込んだりすることを誰であろうと一切許さないという考えの上に成立します。

それが乱されるような状況と断じて戦うために武士は刀を持っている。

証拠のある不条理に対しては、いかなる相手であっても立ち向かい「ぶった切る」、それが責譲です。

そうすることで武士は興譲を実現するのです。

ーー

明治以降の日本は、士族を廃止するのですが、社会にはこうした不正を断じて許さない存在は不可欠だと考えていました。

それは犯罪の取り締まりをする警察とは違った存在です。

その人材を育成したのが、かつての師範学校でした。

師範学校の卒業生は、人の道を説き、実行し、不正を許さないという確固とした信念を持つ人々として社会に配置された。

ーー

戦後は師範学校がなくなり、人の道を説き、実行し、不正を許さないという確固とした信念を持つ人々がいなくなった。

結果として、違法行為以外は何をしてもよい、かつて不道徳とされた、例えば弱いものをいじめる行為が野放しになっている。

ーー

相手のことを考えず、自分勝手な思い込みだけで相手を批判し中傷し断罪する。

これができるのは、「自分が他者よりも上位にある」と考えて、「相手を見下」しているからです。

「思い上がっている」のです。

ーー

カンボジアのPKOで自衛隊が出動したときの話です。

辻本清美はピースボートと称する船を繰り出しカンボジアの自衛隊の駐屯地に行った。

そこで「あなたたちはコンドームを持っているでしょ、出しなさい!」と自衛隊員のポケットを勝手にまさぐった。

隊員用の缶ビールを見つけると、「こんなものを隠してた」と言い、数少ないそのビールを勝手に飲んだ。

ーー

そして阪神大震災のとき、彼女は災害支援に2トン車に荷物を満載して現地にはいった。

しかし荷台の荷物は、印刷機とチラシだった。

チラシには「災害時でも自衛隊の活動を許してはならない」と書いてあった。

ーー

彼女は、自分勝手な思い込みで、支援活動をしていた自衛隊員を批判し、断罪したのだ。

ーー

その後、民主党が政権を取ると、彼女を東日本大震災のボランティア担当大臣にした。

とんだ茶番です。

ーー

しかし、国際政治というのは、実は、こうした茶番のようなことであふれているのです。

要するに誰かの「自分さえ良ければ」という思惑で動いているのです。

残念ながら世界には、相手を思いやり、不正を正すという興譲の精神はないのです。

ーー

何故なら、世界の多くの国が、支那・南北朝鮮と同じ、「上位の者が下位の者を所有する」ような前近代の国であるということを意味します。

当然、そこに人権などありません。

ーー

上位者は、国の財力と武力を私物化し、財を増やそうとして、他国に財を奪い取るために武力を使う。

これが現実の国際政治なのです。

ーー

豊かさというのは相対的なものです。

他者と比べて、豊かであると。

大空襲で焼け出された経験を持つ日本では、いまや庶民が、戦前の超高級セレブたちよりも、豊かな暮らしをしています。

この世界中の人々から羨まれる日本の清潔で豊かで安心できる社会は、日本人がみんなで協力して作り上げたものです。

ーー

細井平洲は、「先施の心」が大切だと説きます。

人が何かをしてくれるのを待つのではなく、まず自分から施しなさい、ということです。

先施が、喜ばれるかと言うと、あちらたてればこちらたたず、かえって批判されてしまう。

細井平洲は、それでも「先施」が大切だと説いた。

ーー

江戸時代、この考えは、「施行(せぎょう)」と呼ばれ、広く行われていた。

施すと、損をしたように感じる、しかし、やがて自分も施される、という思想です。

ーー

戦後、西洋列強の植民地であったアジア諸国が独立します。

植民地であったそれら諸国は、列強の収奪によって国民は貧困のままに置かれていた。

そういうところに、日本企業は次々と工場を建て、現地の人々を雇用して、製品を製造し世界に輸出し利益の一部を賃金として支払った。

日本企業はこのようにしてこれら諸国を豊かな国に変えていったのです。

ーー

東亜諸国の人々は、豊かになり、消費者となり、企業は業績を上げることにつながった。

これが「施行」の結果です。

ーー

上杉鷹山は、19歳で米沢の藩主となると、細井平洲にどうすれば藩を豊かにできるかを問うた。

すると平洲は「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして、何をもって行なわんや」と答えた。

まずは勇気を持ちなさい、と言ったのですが、これでは具体的にどうしたらよいのかわからない。

ーー

細井平洲は、享保13(1728)年、愛知県東海市荒尾町の農家の次男坊として生まれました。

幼いころ、地元の観音寺の義観和尚について学び、相当な悪童で、和尚さんに、罰として何度も木に吊るされた。

この話は、吉川英治の『宮本武蔵』の幼年時代の描写に転用され、また本宮ひろ志の『男一匹ガキ大将』でも、紹介されました。

ーー

元文2(1737)年、平洲は10歳で名古屋に出て学び、15歳で京都に遊学、しかし、高名な先生方は、みんな江戸に出ていて、当時の京都にはいない。

そこで翌年16歳の時、名古屋に帰って中西淡淵に師事します。

中西淡淵は、平洲に長崎遊学を進めました。

17歳で長崎に遊学した平洲は、清国人の教師に就いて漢学を学びました。

漢学の素養を身に付けた平洲は、これを実践に役立てようと、24歳で江戸に出て「嚶鳴館(ろうめいかん)」という私塾を開きました。

ーー

長屋で私塾を始めたのです。

世の中はそうそう甘いものではなく、若すぎる学者ということもあって、なかなか弟子がつかない。

塾は、生徒がいなければ収入がありませんし、生徒も、長屋暮らしの貧乏な人々で、お金にならない。

それでも近所の長屋の住人や子供たちを相手に、平洲は誠実に学問を説き続けました。

ーー

人というのは、良いものはわかるものです。

ーー

誠実に学問を説く平洲のもとには、次第に人が集まりはじめました。

中には、れっきとした藩の若侍たちなども、平洲の教えを求めて集うようになってきたのです。

こうして次第に平洲の「嚶鳴館」は、江戸で有名になっていった。

けれど授業料の督促をしない平洲は、相変わらず貧乏なままです。

ーー

人は理屈よりも財に群がります。

この場合は、誰もが自分が得をしたいと思っていますから、中傷はありません。

けれども理屈に人が群がると、必ず起きるのが中傷です。

ーー

平洲は長崎で学問をおさめたとはいっても、もともと貧農の子です。

「たかが農民風情に学問など語る資格はない」

「所詮は学者もどきの青二才であろう」

「古今の漢書を集めただけの寄せ集めたいいとこどりの俗説にすぎない」

「学問を金もうけに利用しようとしている不届き者」

平洲は盛んに攻撃を受けるようになる。

ーー

平洲自身も悩みました。

自分はこのままで良いのだろうか。

数える弟子もけっして多くはない。

授業料を払える者も少ない。

貧乏しながらこのまま江戸にいて将来どうなるのだろうか。

ーー

死んだ母は、決して楽ではない生活の中で、幼い平洲のために、学費や遊学の費用を出してくれた。

「おまえは世のため人のために役立つ立派な学者に必ずなれる」と信じてくれた。

母の信頼に報いるためにも、ここでくじけてはいけない。

ーー

学問で身を立て、世の役に立とうということは、他の誰でもない、自分で決めたことです。

どんなに苦しくても辛くても、この道を進もう。

やがて平洲は、人々に知られるようになる。

そして西条藩(愛媛県)、人吉藩(熊本県)、紀州藩(和歌山県)、郡山藩(奈良県)などから、藩の賓師として迎えられるようになっていきました。

ーー

ところが平洲は、どこまでも謙虚です。

塾生が来ると、まず自分から進んで生徒たちに声をかける。

はたからみていたら、どちらが生徒でどちらが先生かわからないくらいだった。

ーー

宝暦13(1763)年、平洲が35歳になった頃のことです。

米沢藩の家臣がそんな平洲に興味を持ちます。

彼は、米沢藩の藩邸に帰ると、そこで周囲の者に平洲のすばらしさを語りました。

「平洲先生の教えは、経世済民(世を治め、民を救う)を目的としています、世の中に真に役立つ学者だと思います」

その話が、藩主の元に届きました。

ーー

そして平洲は、上杉鷹山の師となるのです。

ここには実は藩の財政事情もありました。

米沢藩は、上杉家、上杉謙信の家系です。

上杉家は、会津藩120万石・家臣6000人を連れて米沢に転封された、米沢の石高は15万石です。

ーー

このままでは、家臣を食べさせることができない。

上杉鷹山が藩主となったころには、藩の借金は20万両に達していました。

要するに藩には、著名な学者を招くだけの経済的余裕がなかった。

名声があり安くつく平洲は、上杉家にとって、ちょうど良い存在であったわけです。

ーー

こうして細井平洲は、当時14歳になる上杉治憲(のちの鷹山)の師となった。

平洲は、治憲公に「学思行、相須つ(がくしこうあいまつ、学び、考え、実行する、その三つが揃って、初めて学んだことになる)」と説きました。

そして藩の財政を立て直すには、まず、殿ご自身が手本を示すべしと。

同時にすぐれた人材を育てよ、とも説きました。

ーー

鷹山は、この教えの通り、新藩主に就任するとすぐに

民政家で産業に明るい竹俣当綱(まさつな)

財政に明るい莅戸善政を登用し

江戸藩邸における藩主の給料を1500両から、209両に削減しました。

ーー

藩内に漆や桑の木を植えて、米沢の特産物を増やしました。

また、鯉の養殖を奨励しました。

こうした様々な努力によって、藩の財政は徐々に回復し、浅間山が噴火してはじまった天明の大飢饉に際しては民衆のために蔵米の放出ができるようにもなりました。

けれど鷹山自身も、自ら粥(かゆ)をすすって倹約に努めています。

ーー

藩士たちの給料は、全藩士一同が、減俸となりました。

けれどその分、すべての武士たちが自ら畑を耕し、植林をし、鯉を養殖して不足する家計をうるおすことができるようにしていきました。

こうした一連の施策の実施の根幹にあったのが「興譲」だったのです。

「興譲」は、ただ施行(せぎょう)をするというだけではなく、そこには、「それ以外の私物化、私有化を一切許さない」という「責譲」の精神が同時に備わる。

これがあってこそ、はじめて武士の仕事となります。

ーー

寛政8(1796)年、鷹山と出会ってから、32年目。

上杉鷹山は、江戸にいる細井平洲を米沢に招きました。

鷹山は、わざわざ城から10キロも離れた普門院というお寺まで、平洲を出迎えました。

そして鷹山の治世50年の間に、藩の借財は全額完納となりました。

藩の財政は完全に健全化したのです。

ーー

後年、安永9(1780)年、平洲は53歳で、徳川御三家筆頭の尾張藩に招かれました。

そして藩校明倫堂(現、愛知県立明和高等学校)の学長になりました。

百姓の小倅(こせがれ)が、徳川御三家の教育掛の学長に就任したのです。

江戸時代の身分制が、世界にあるような固定的なものでなかったということは、この一事をもってしてもあきらかです。

ーー

学長就任後も、平洲は、請われればどこにでもでかけて行って、身分の差なく、百姓町人たちにも、わけへだてなく学問の素晴らしさ、学び、考え、実行することの大切さを説き続けたそうです。

享和元(1801)年、細井平洲は、73歳でこの世を去りました。

いま、平洲の墓は、米沢市の松岬神社に、上杉鷹山とともに祀(まつ)られています。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難う御座います。
>>細井平洲と上杉鷹山の興譲
 この話は、ねずさんの処で見掛けて、何時かは取り上げて下さるものと、思っておりました。

 日本の中世と言うのは、世界に誇れる事が沢山ありますが、その一つが、身分制度は、職分に拠る農民の地位保全の為のモノで有り、同時に、公平な徴税の基礎になる、土地台帳を作る上で、欠かせない基礎情報で有ったと言う意味で、決して差別を目的に造られたものでは無かったから、身分は固定制では無く、才能の有るモノは、取り立てられて、その才能を発揮した。

 この幕府を始めとする封建領主達為政者の柔軟性は、公「=社会、大衆」第一と言う、スメラミコトの、「民はオホミタカラ」から発しているとおもいます。 この辺りも、現代の歴史は、「江戸期の農民の生活は常に虐げられて悲惨で有った」と言う記述になって居て、大嘘である事が分ります。

 ダカラ、士農工商の身分制度をシナ・朝鮮と同じ種類のものと見做して決め付けて居る、現代の左翼史観は大間違いです。 第一、江戸時代260年間に起った、社会の変化についての言及がないのでは、歴史を教えて居るとは言えないと思います。

 それは、四民の中で税金を納めて居たのは、農民だけですから、社会の富は、実は生産者層の農に有るのが当然であった筈ですが、江戸期は地球全体が小寒冷期に有り、冷夏や旱魃それに、火山の大きな爆発で、凶作になって、飢饉を惹き起こした例も、3件もあります。 

 そういう背景で無ければ、幕府は、米本位制の経済の仕組みを改める事を考えたでしょうね。 すると、武士の零落は起らず、日本は違った歴史を歩んで居たかもしれませんね。

 身分制度は、固より、江戸期に設けられたモノであったから、それ迄は、例えば、豊臣秀吉の様に、才能と運さえあれば、百姓の子倅が天下人にもなれる国で有ったと言う事です。 

 然し、細井平洲の場合、出自は秀吉と同じ百姓の小倅ですが、秀吉の戦国時代とは違って、太平な江戸時代の話です。 土地に縛られて居た「百姓の小倅」と言う現実は、色々学ぶ機会を得る為にすら、経済的なものを始めとして、多くの難を乗り越える必要があったでしょう。 特に家族の苦労が彼を支えて居た事は想像に難くないですね。 

 でも「栴檀は双葉より芳し」と言います。 平洲さんも幼い頃は悪どうだったけれども、何処かで開眼して、10~15歳には周囲から将来を嘱望される様な、利発な少年に育っていたのしょうね。

 私は、人間として強くなれるのは、「自分を信じてくれる人が、存在する事」が、基本になると思います。 平洲さんも、「きっと、世のため人の為に役立つ人になれる」と、自分の将来を信じてくれる母親が居たからで有ろうと、思いますし、彼は、その期待に、見事に応えたのだと思います。

 そして、その経験が後に、「学ぶとは、先ず、学び、人に教え、そして実戦する事で完成する」と言う、次元まで極めて、江戸期の3大名君の一人、上杉鷹山の師となり、御三家の筆頭の尾張藩の教育係の長として、市井の学者として、最高位を務めた事は、彼を生んだ地域の誇りですね。

 然し、この平洲先生に学んだ、鷹山も偉かったと思いますね。「学び得た事を、人に教え、そして実戦せよ。」 と言うのは簡単ですが、具体策となると、皆で考えなくては、妙案は出てこないし、皆の考えがまとまらないと、始まりません。

 特に、藩から俸給を貰って居た武士が、自ら畑を耕したり、鯉を育てたりするのには、人によっては反発もあったでしょうが、見事に、産業化出来たのは、領主鷹山への家臣や領民の信頼感が厚かったからだと言えましょうが、平洲先生が米沢藩に来たのは、出逢ってから実に50年後の事ですカラ、鷹山は、自分で師の教えをかみ砕き、正確に理解し、実践したと言う事ででしょうね。

 江戸期の物価変動が分りませんが、米の価格は開幕当初の
1/3になって居ますから、物価早く3倍になって居たでしょうから、20万両の借金の皆済も、利息が安かった(Max年利15%)
ですから、返し易かったのかもしれませんが、産業も何もない処から始めて、50年以内に皆済したのは、見事だと言えましょう。 途中、天明、天保の大飢饉が有った筈ですからね。

 こうした、英邁な為政者の話は、他所の国では聞かれませんね、大抵は、他国を侵略して領地を広げたとか。海外との交易で、巨利を得たとかと言う話ですが、飽く迄、故人が潤っただけの事。 その分他国の国民を大勢殺したり、苦しめて居たと言う史実は、決して語られませんね、その良い例が、ジョージ・ワシントンの2500万人の何の罪もない先住民インディアンの殲滅でしょう。

 ダカラ、日本は90年代初頭に、バブルが弾けて、企業は東南アジアに、生産拠点を移しましたが、其処で行ったのは、自分達の企業を使って、その国の中産層を育てる事だった。

 つまり、、その国の公に貢献したわけで、その結果、その国の中産階級の人口は順調に増えて、今や、インドネシアの2億6千万人を筆頭に、タイ、ベトナム、フィリッピン、マレーシアでの人口が1億人を超えて居ますし、他の国も順調に増えて居ますが、一番大事なのは、彼らが購買力を持った中産層であると言う点です。

 シナの13億人の12億人は、購買力が十分でない層で、裡9億は、一日1ドル以下の消費力しか無い、世界の最下層の貧民ですから、シナの経済は、1億の購買層と外需に頼る他は無かったのだから、その外需の中心である米国市場と喧嘩しても勝目は、端から無かったのです。

 大消費圏ASEANを創り上げたのは。日本の大企業だと言えましょうが、祖の大企業で構成する経団連が、今や、日本の癌的存在になろとして居ます。 是は偏に、「歴史教育の誤り」だと私は思って居ます。

縦椅子 様  ブログの更新をありがとうございます。

>他者を敬い、譲り合う。

此は、文として綺麗ですし、此を行う人を見ると清々しい気持ちになると思います。
しかし、素晴らしいことだからと、自分もその真似をしようと思ったらとんでもないことで、出来るものではない。自分の不出来と浅はかさを思い知らされることになります。

まして、そこに「不正を許さない」との、武士の心構えを持つとなれば、これまでに不正を見たときの自分の行動を思い出しますと、この生き方を自分だ出来るのだろうかと考えるだけで、不可能でしかないのが情けないことです。
一応、武士であった先祖もいるのですが、ご先祖様は子孫の体たらくに呆れていると思います。


学校教育で江戸時代は士農工商と習いましたが、此の教え方は正しいようで間違っていたと思います。
だって、武士は武士だけをやっていたわけではなく、農民にも、商人にもなっていたし、農民が大名に教えていたのでは、固定された身分制度とは言えません。
日本の士農工商は、その身分を示しているだけで、融通無碍と言えば良いのでしょうか、日本人の柔軟な思考を示していたのだと思います。


辻本清美は、震災の被災地で自衛隊員を断罪し、自衛隊員を侮辱するチラシの印刷機を持ち込んだとのことですが、東日本大震災でボランティア担当大臣になった後、3,800億円余りの資金を担当したと記憶していますが、その報告書はどのようなものであったのかと思います。

様々な噂を聞いたり、ネットで見たりしましたけれども、確たる記録についてマスコミは何も報道しなかったので、色々な想像が出来ましたけれども、それらの文書は保存年数を終わっているとして廃棄されたのでしょう。


上杉鷹山は、藩の経済的苦境に対して自らかゆをすすって倹約し、努力しました。
今、経済的貧困国である北朝鮮は、金正恩一人が丸々と太って独裁的な政治をしています。そして、テレビに放映される人々に、そのように太っている人は見られません。

この一つを見るだけで、北朝鮮の実状が判りますし、コメンテーターの発言によって金正恩は素晴らしい人物だとされていることも判るのですが、中身は自分が優秀だと思っているだけの独裁者です。
良くこんなのを優秀だとして、祭り上げているものだと思います。
左翼は「安倍独裁」との表現をしますけれども、民主党政権だったときの国会運営が、まさに民主党による民主主義を忘れた謂わば「独裁政治」であったと思います。

>他者を敬い、譲り合う、
>不正を許さない。

これらは、日本人の根底に流れる基本的概念と自負したい・・と思います。

「他者を敬い、譲り合う」という想いと行為は、案外無意識に日本人の行動に視られるもので、敢えて力を入れてそうあろうとせずとも自然体でできていると感じます。
  
「不正を許さない」に関してはポッポさんの仰る様に、他人の不正に直情的な意見をしましたら、
とんでもない反撃を喰らう事多く、生業を失う事も有りましょう(経験者は語る、でございます)。

思うに、この「不正を許さない」は
自身に当てはめることが肝要だと思うのです、他人を変えることは困難を極めます。ですが自身が「不正」為る行いをしないという
決意を持つことが、個々人でできることだと考えます。
皆が各々、不正を恥ずべきことと考え、そんな人々が集う国がどんなに素晴らしいか、想像するだけで口角が上がります。

日本人はそういった自戒の可能な民度を持つ、稀有な存在と自負しています。

あるサイトでカンボジアでのタクシー運転手の命を奪った日本人二人の事で日本大事館の方が被害者の葬式に列席し膝を床に付けて謝罪し、礼を尽くす場面の画像が掲載され、それを観たカンボジアの方々の感想に「私も日本人のように在りたい。 このュースを見て、心からそう思いました。」
というコメント発見。
少しずつでも日本人の美点が世界の人々の心に影響するように拡がっていったら、素晴らしいと思うのです。

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