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2019年3月25日 (月)

秀吉は日本をスペイン帝国の支配から守ろうとして朝鮮出兵をした

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

戦後、言論・メディアが、在日・反日勢力によって支配されてしまったために、秀吉の朝鮮出兵については、以下のような低評価あるいは批判する意見が多い。

1、秀吉がもうろくしていたために起こした
2、配下に与える領地を海外に求めたため
3、戦国武士の数を減らすため

ーー

というのも、以下のような意見の存在を、在日・反日勢力が近隣諸国条項を根拠に言論を検閲し、公表させないできたからだ。

(近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること)

ーー

それでは、なぜ秀吉は朝鮮出兵を決断し、それに大名たちは従ったのか。

ーー

このことを考えるためには、当時のアジア情勢を知る必要がある。

当時、スペイン帝国は、世界中に植民地を獲得し、植民地支配によって莫大な富を得て「太陽の沈まない国」と形容されていた。

スペイン帝国は、総督府(東アジア地域の戦略統合本部)をルソン(フィリピン)に置いていた。

ーー

天文18(1549)年、スペイン人が日本にやって来た。

日本は彼らを快く迎え入れ、このとき来日したフランシスコ・ザビエルは、あちこちの大名に招かれている。

なかにはキリスト教の信者になった大名もいたほどなのだ。

宣教師たちの仕事(日本侵略)は順調に進んでいるかに思われた。

ーー

ところが日本は他の国々とは違っていた。

彼らが持ち込んだ武器(鉄砲)を、またたく間に量産してしまったのだ。

(1600年の関ヶ原の戦いでは、当時の世界の鉄砲数の半分にあたる約50万丁が使われた)

ーー

宣教師のイエズス会のドン・ロドリゴ、フランシスコ会のフライ・ルイス・ソテロは、スペイン国王に次のように報告している。

「スペイン国王陛下、陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難です」

「よって福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に喜んで臣従するように仕向けるしかありません」

ーー

スペインは日本より人口の多い南米やインドを攻略し、アジアの堅牢な城塞も攻略済みだ。

それにもかかわらずなぜ彼らは日本について「軍隊の力による侵入は困難」と書いたのか。

それは、「鉄砲の数が圧倒的で軍事力で日本には敵わない」からであったことは確かだ。

ーー

しかしこの事実は国王宛ての上書に書けなかった。

こうしてスペインは日本侵略を目的に布教活動をしていく。

ーー

スペインは、日本だけではなく、明国も植民地にしようとしていた。

実際スペインは、世界最大の武力(鉄砲)を持っていた信長(日本)に「一緒に明国を奪わないか」と持ちかけている。

まだ天下を自分のものにできていなかった信長(日本)は、天下を取ることのほうが先なので、当然この申し出を蹴っている。

ーー

しかし秀吉が天下人となったころには、情勢が変わる。

スペインが明を植民地化し、スペインが明国兵を日本に攻め込ませる虞(おそれ、心配)が出てきたのだ。

元寇の再来だ。

この脅威を取り除くには、明国との間に緩衝地帯を置くしかない。

ーー

こうして秀吉は、文禄の役(1592〜1593)、慶長の役(1597〜1598)と二度にわたる朝鮮出兵を決断する。

同時に秀吉は、スペイン皇帝に対し、「臣下の礼をとれ」と迫った。

文禄の役に先立つ一年前、天正18(1591)年9月最初にこれを行った。

秀吉は、ルソンのスペイン総督府に「日本に入貢せよ」との国書を手渡した。

スペイン本国は、イギリスに対する防衛を優先する必要もあり、総督府だけでは日本に報復する力がなかった。

この翌年、秀吉は、朝鮮出兵を開始する。

ーー

秀吉の兵は朝鮮兵を鎧袖一触(がいしゅういっしょく、簡単に制圧)していた。

スペイン総督府は驚愕する。

しかも朝鮮出兵は、秀吉が数十万の兵を海上輸送する能力があることを示し、いつでもルソンを攻略できることを意味したからだ。

スペイン総督府は、急遽、当時ルソンに住んでいた日本人たちを、マニラ市内のディオラ地区に、集団で強制移住させている。

(これがマニラの日本人町の始まり)

ーー

スペイン総督府は、同年7月に膨大な贈り物を持参し、秀吉に友好関係を樹立したいとする書信を届けている。

秀吉の朝鮮出兵は、狙い通りにスペイン人らを震え上がらせたことになる。

ーー

秀吉はスペインの使者に重ねて以下の書簡を渡す。

「スペイン国王は、日本と友好関係を打ち立て、ルソンにあるスペイン総督府は、日本に臣下としての礼をとれ」

「それが嫌なら、日本はマニラに攻めこむ、このことをスペイン国王にちゃんと伝えろ」

ーー

秀吉の書簡を受け取ったフアン・コーボは、帰路、遭難している。

本当に海難事故で遭難したのか、故意に遭難したことにしたのかは、いまとなっては不明だが、後者ではないかといわれている。

ーー

さらに10月に、秀吉は、原田喜右衛門をマニラに派遣し、確実にこの内容の書簡を総督府に届けさせた。 

マニラに到着した原田喜右衛門は、たまたま在マニラの明国人約2千人(明国から派遣された正規兵)が一斉蜂起して、スペインの総督府を襲っている現場に遭遇している。

スペイン人は応戦するが、多勢に無勢で劣勢になっていた。

これを見た原田喜右衛門は、手勢を率いてスペイン側に加勢し、瞬く間に明国兵を殲滅してしまう。

ーー

これを見たスペイン総督府は日本とは戦っても勝てないと悟る。

それでゴメスは特使の派遣を繰り返すことで、少しでも時間稼ぎをしようとする。

秀吉は、朝鮮出兵を指揮するために名護屋城(現、佐賀県唐津市)を築き、そこにに居た。

その広大な城で秀吉と会見したスペインの特使は、スペインがいまや世界を制する大帝国であること、日本とはあくまでも「対等な」関係を築きたいと申し出る。

ーー

スペイン人は、スペインが大帝国であることを誇示したのだが、秀吉は意に介さなかった。

それは秀吉が、ルソンのスペイン総督府の武力について、原田喜右衛門から詳細な報告を得ていたからだった。

秀吉は、特使に重ねてスペイン国王の日本への服従と入貢を要請している。

当時の世界において対等な関係など存在しなかったからだ。

ーー

秀吉の死去にともなって慶長の役は終わる。

それは、同年9月にスペイン国王のフェリペ二世が逝去し、日本が朝鮮半島を押さえる必要がなくなったからだった。

つまり「朝鮮出兵は秀吉の気まぐれで起きた」というのは在日・反日勢力がばらまいた大きな嘘(間違い)だったのだ。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難う御座います。
>>日本の中世人の見識の高さ
 読んでゆくと、秀吉が英桀の政治家であった事が、納得出来ますね。 彼は希代の戦上手であると言われて居ますが、そうでは無く、人の力を借りるのが上手かった、と言う事と、「人たらし」と言う別名が表す様に「人に好かれる人物であった」と言う事は確実ですね。

 是に対して家康は、可成りの人格欠陥者でしたが、秀吉には勝てないと言う確信が有ったので、唯でさえ警戒されている秀吉に逆らい不興を買って、戦い滅ぼされるよりも、おためごかしと、バレて居ても、豊臣秀頼の後見人と言う座を獲得したのでしょうが、結局、家康が秀吉に勝てたのは、永生き出来たからでしかない。

 スペインのマニラ軍が、明の僅か2千の兵隊に危機に陥って居たと言うのも、其れを日本から偶々護衛兵士(多くとも数百人)で蹴散らしたと言うのだから、日本の兵士が、戦慣れして居たと言う事でしょう。 

 つまり、陸戦をやったら勝ち目がない、と言う事は、圧倒的な海軍力を以て、しなければ。日本攻略は全く出来無いと言う事ですよねww

 そして、間抜けにも「スペインは大帝国で云々」と「対等な関係を結ぶ事」を主張しているが、是では、流石に外交官では無く、唯の宣教師でしかない。

 思うに、それまでの南アジア・東南アジアの諸国は、平和な生活が、続いて居たので、侵略するのは赤子の手をひねる程度で済んだのであろうが、160年も内戦を戦って、勝ち抜いた秀吉の軍隊は、「弱い者いじめ」しか出来ないスペイン軍やシナ人を問題にするワケが無かろう。

 ダカラ、スペインは、先ず、明を攻めて、力を蓄えて。其れから日本を責める心算だったのだろう。

 然し、他の国では通用した宗教に拠る調略も、目先の金目当ての宣教師の愚行によって、その意図を見透かされ、追放されて終った。 スペインにとって、秀吉は、正に目の上のたん瘤に等しい存在で有っただろう。  ダカラ、秀吉が死んだ時は、喚声を上げたであろうが、同時期に、スペイン国王フェリペ二世もこの世を去って、スペインの極東侵略は、画餅に帰したのは、此処にも天佑神助を感じますね。

 このスペインのやり方を同じ欧州勢力でも、苦々しく思って居た、オランダは、宗教をどうs愚にして侵略する手段よりも、日本との交易を重視して、長崎の出島を特別な交易所として開港させたのは、奴隷を持たない社会である日本社会ですから、日本人を奴隷にする事は無理であると、悟ったからでしょう。

 然し、高山右近を始めとする、日本人の若い娘を、火薬一樽50人ですから、オソラク、数千人も奴隷として売ったキリシタン大名は、最低の人間として、糾弾されるべきなのに、今でも、NHKでは、大河ドラマ「黒田官兵衛」で描かれて居た様に、キリシタンを被害者の様に描いて居るのは、許し難い事ですね。

 この先の日本人は、こうした、中世から、行われて来た、欧州勢力の日本侵略を、史実挙げて、正確な史実を教えて、世界の腹黒さをちゃんと認識させなくてはイケませんね。 そうしないと、日本は守れません。 

 現状、世界で最悪最低の民族だと言う事が、分かり始めた朝鮮族やシナ人を、未だに、隣人として親しく付き合う為に、「差別はイケない」とか言って居る、人が大勢いますからね。

 先ず認識するべき葉、その全寮制では無く、常識の違いから起こる危険性や犯罪に対する、罪悪感の無さ、謂わば、遵法精神の無さではないかと思います。

 何故なら、彼らも同じ人間で、その気になれば、何時豹変するか分らないのですからね。

 是はシナ・朝鮮人だけでは無い事も、チャンと心に留めておくべきですが、そう言う認識を周知する為にも、正確な歴史を、日本人に教育する様に、日本を取り戻さねばなりません。

縦椅子 様  ブログの更新をありがとうございます。

日本の義務教育での教え方よりも、ねずさんの書いていることの方が正しいと思います。

そして、近隣諸国条項という外国に配慮して嘘の歴史を、国民に教育する日本の歴史教育が可笑しいと思います。
日本の教科書(学習指導要領を含める。)を訂正して、義務教育では正しい歴史を教えなければならないと思います。

でも、日本が凄い国だと思うのは、大航海時代に世界で最も強力な国家であったスペインに対して、冷静な判断をして一歩も引いていないことです。

そして、キリスト教を隠れ蓑にして布教する宣教師に対しても、遠慮なく注文をつけているのです。
この当時、日本以外にこんな行動をとれたのは、日本だけであると言うよりも、他の国はスペインの武力の前には手も足も出なかったのが実態でした。
此には、日本が戦国時代の終盤期で、強力な大名出会った信長の存在が大きかったと思います。そして、此を後ろから見ていた、秀吉がいたのです。
秀吉はスペインの皇帝に「臣下の礼をとれ」と言ったそうですが、秀吉はその後に明の皇帝にも同じ事を言っていましたから、自信があったのだと思います。

それはともかくとして、秀吉はキリスト教が宗教の裏で日本人を奴隷にしていたことも知っていましたから、スペインにも強く出たと思います。
秀吉の戦い方は、戦闘によるタヒ傷者を出さないことが特徴だったのですから、此の関係から奴隷にも腹が立っていたと思うからです。

日本は、スペインが強力であった大航海時代には戦国時代の軍事力、江戸時代末期にイギリスを中心とする欧州がアジアを植民地としたときには戊辰戦争の軍事力があり、いずれも強力な軍事力であったために、植民地にされずに済んだと思います。
もし、いずれかの時に植民地にされていたら、今も植民地時代が続いていたのかも知れないと思います。

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