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2019年3月30日 (土)

敗戦というのは、自らの歴史・神話を失うことなのだ

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

松本徹『無限往来 師直(もろなお、高師直)の恋ほか』(鼎書房)

西行の歌の境地は悲しくも美しい。

慈円は、歴史を紐解くことで、政治にはものの道理が必要だとした。

その心意気には現代人でも共感できよう。

筆者は、悲哀のながれが日本の歴史であるとし、その事蹟を詳細に辿りゆく。

その心根にはいかなる人生観が漂っていのか?

ーー

現代人である著者の松本氏の脳裏には、奈良朝から平安、あるいは戦国時代へかけての歴史上の人物が悲喜こもごも往来している。

そして著者は、その主人公たちの夢幻(ゆめまぼろし)に導かれ、あちらこちらを旅する。

こうして日本の各地で神話との遭遇が記述される。

ーー

冒頭は安倍晴朗の生誕地とそのゆかりの土地の紀行文となっている。

京都の安倍晴明神社はいまやパワースポットとなっていて、幸せな人生を求める若い女性で賑わう。

参詣というよりスマホ撮影に訪れる人たちの、この光景を安倍晴朗が知れば、慨嘆するに違いない。

ーー

さて作者の松本氏はある日、島根県宍道湖付近にいる。

「視界が悪く、少し離れた山々がすっかり霞んでいる」

「翡伊川を渡る」

「別にとりたてて言ふべき特徴のない、あまり大きくもない川だが、国引きの神話の大本となった川である」

「須佐之男命が、箸の流れ下ってくるのをみて川上へと上って行き、八岐大蛇を退治したのも、出雲建が倭建命にだまし討ちされたのも、この川でのことであった」

「出雲神話の中心なのである」

ーー

しかし戦後、GHQの命令によって歴史教科書は墨で塗られ、神話は黒色のなかに消された。

敗戦利得を得ようとして、GHQの走狗となった教育者ら、つまり曲学阿世がいかに多かったか分かる。

というよりも、敗戦というのは、自らの歴史・神話を失うことなのだ。

ーー

「敗戦になって、神話は非科学的な単なるお伽話、といふことになりました」

「それで須佐之命も大国主命も、歴史の世界から追放されてしまひました」

と松本氏のガイドに立った知人がしみじみと語る。

ーー

例外は判官高貞、しかし南北朝も後醍醐も語られなくなり、慨嘆悲憤慷慨ぶりは悲壮な台詞になるのである。

「負ければ、物語を奪われる」

「歴史を奪われるのです」

「古い昔から繰り返されてきたことです」と。

ーー

神話世界では異類との交接がよく物語られた。

狐の花嫁、狐の花嫁はまだやさしいが、大蛇や猛獣とも交接する。

ーー

松本氏はこう書く。

「この異類の女こそ、じつは、男の恋情をより純粋に燃え立たせるに違いあるまい」

「古事記や風土記にも見られるように、ずいぶん古い」

「豊玉姫はワニ、乙姫がカメであり、かぐや姫は月世界といふ異郷の女であった」

「そして、彼女たちは、いずれも、異類の、あるいは異種の女であることによって、一団と蠱惑(こわく)的であった」

「古来から男には、自分と世界を異にした美しい性に、烈しくこころを搔きたてられるところがあるらしい」

ーー

「(そして)女はなほさら美しく、男はより情熱的に純粋になってゆく」

「だから、この世のものとは思われぬ女とは、単なる比喩ではなく、感情の上の真実(である)」

かくして夢幻の文学世界の深甚へ向かって、本書は突き進むのである。

ーー

もうひとつさりげなく本書に取り上げられている逸話がある。

森鴎外は左遷された先で『唯識三十頌』の講義を受け、『生田川』を書いた(明治四十三年)。

以後、鴎外は歴史小説に進んでいく。

しかし鴎外の当該作品と三島由紀夫の『暁の寺』を例外として唯識(ゆいしき)を描いた作品は近代日本文学にはない。

これまた日本人が馴染(なじ)んできた唯識、「色即是空」の考えが失われたという寂しい風景を物語る。        

ーー抜粋ここまで

ーー以下「唯識について」wikipediaより抜粋引用

唯識思想では、各個人にとっての世界はその個人の表象(イメージ、脳が作り上げたもの)に過ぎないと主張し、八種の「識」を仮定(八識説)する。

まず、視覚や聴覚などの感覚も唯識では識であると考える。

感覚は5つあると考えられ、それぞれ眼識(げんしき、視覚)・耳識(にしき、聴覚)・鼻識(びしき、嗅覚)・舌識(ぜつしき、味覚)・身識(しんしき、触覚など)と呼ばれる。

これは総称して「前五識」と呼ぶ。

ーー

その次に意識、つまり自覚的意識が来る。

六番目なので「第六意識」と呼ぶことがあるが同じ意味である。

また前五識と意識を合わせて六識または現行(げんぎょう)という。

ーー

その下に末那識(まなしき)と呼ばれる潜在意識(無意識)が想定されており、寝てもさめても自分に執着し続ける心であるといわれる。

熟睡中は意識の作用は停止するが、その間も末那識は活動し、自己に執着するという。

ーー

さらにその根本に阿頼耶識(あらやしき, ālaya-vijñāna、無意識)という識があり、この識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。

ーー

あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかない(脳が作り出したものに過ぎない)のならば、それら諸存在は客観的存在ではありえない。

それら諸存在は無常(脳の状態によって変化する、例えば恋愛のように)であり、時には生滅を繰り返して最終的に(脳の機能停止とともに)消えてしまうであろう。

即ち、それら諸存在「色」は実体のないもの「空」なのである(色即是空)。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難う御座います。
>>人間の感覚と物事の実相の違い
 ↑の疑問は、私は小学生の頃から悩んで居て、或る時、本を読んで居たら「見えるモノは、目と言う器官を通して、脳が看て居るので、実物は実は違う色だったりする」と書いてありました。

 更に「スペクトルで分る様に、自然光は、様々な色を合成した光で有り、物体は、その素材の性質に応じて、光を吸収するが、吸収出来なくて跳ね返した色が、その物体の色として、見えるのだ」と。

 すると、我々の視覚の色認識は、脳に拠って統御されていると言う事で、脳の機能が別なら、同じものでも違って見えると言う事を知りました。 当時、猫しか友達が居なかったので、とても興味深かったですね。ww

 例えば、昆虫でも複眼を持って居るものは、視界が360°あるものが居るとか、視覚だけは、人間より優れて居る動物、例えば鷹や隼等の猛禽類は、2~3㎞先のネズミでも、見つける事が出来るとかしって、面白くて有頂天になって居ましたね。

 そして、是で、小さい頃から悩んで居た訳が分らないモノが見える(夢の中で、ですが)理由が分かったような気がしました。 

 すると、それ以降は、夢も見なくなりましたね(見て居るのかもしれませんが、不思議だとは思わなくなって居ましたので、記憶に残らなくなった?)

 ですから、自分が見えて居るものとは、別に、実相と言うものが存在していて、その姿は、その生物自身にも、認識出来て居ない。 ダカラ、自分を認識出来る鏡がご神宝なのですね。

 こういう話を、私の曽祖母の葬式の時に、来ていたお坊さんに話したら、お坊さんが面白がって、6識や無意識(マナ識)迄は話してくれましたが、それ以上を知ったのは、高校生の時でしたね。

 仏教との出遭いが、そう言う科学的な話からだったので、私は固より、仏教は宗教だとは思って居ません、寧ろ、科学に近いものだと思います。 

 だって、科学と言うのは、「当たり前の事を疑うと言う処から始まって居る」つまり、「神様の創造物である自然の仕組みを解き明かして行く事で、その仕組みを人間の手で、具体的に再現して、機械や装置と言うものを誕生させた」様に、人間の文明自体、神に導かれて出来たモノで有り、仏教は、その神が自然の中に、仕組まれた、智慧の存在を人に教えて居るものだからです。

 その智慧の在り処に「気付く」のが、我々人類のこの世での命題にしなくてはイケないのでしょうね。

 そして、釈尊が仰有っているのは、「智慧を重ねて行けば、ブッダに至る、ブッダに至れば、輪廻転生の業から脱出できる」と、でも、釈尊は「生きるは、苦也」とも仰有っていますが、その苦があるから、人は達成感を得たり、援けてくれた他人に感謝する事が出来る様になるわけで、生まれて来るのは、その苦を乗り越えて、そう言った喜びや感謝に出遭える事を、愉しみにしてこそ、人生の醍醐味だとも、云えましょう。

 と、つい最近まで思って居ましたが、感覚器官に障害が出て来て、色々不自由になって来ると、「この試練の向こう側には、一体、何が待って居るのだろう」と言う、ワクワク感よりも「出来る事が、狭まって来た事で、俺もソロソロお終いなのかなぁ」と、云う様になって来て居ます。

 まぁ、兼好法師曰く「永らえば、恥多し」のお言葉通り、あちこちで、あれこれ恥を重ねて居ますが、未だ「知りたい」と言う意欲が有る裡は、生きて居たいですね。ww 是だけ号が深かったら、ブッダなんかには到底なれません。 どうやら、来世も、再来世もありそうですねwww

縦椅子 様  ブログの更新をありがとうございます。

>しかし戦後、GHQの命令によって歴史教科書は墨で塗られ、神話は黒色のなかに消された。
>というよりも、敗戦というのは、自らの歴史・神話を失うことなのだ。

日本は、敗戦によって自らの歴史・神話を失いました。
今年は、皇紀2,679年ですけども日本が外国との戦争(役)に負けたのは唯一度、大東亜戦争だけです。
その他は、負けたことがなかったのですが、このたった一度の敗戦は日本から歴史と神話を奪いました。

敗戦後、73年が経過しましたし、サンフランシスコ平和条約の締結で、独立国として復活してからも66年が経過しましたけれど、日本の国史は今も日本歴史として、教えられています。そして、神話は未だに神話として、子供達に教えられていないと思います。

此では、子供達は世界で最も古い国である日本の成り立ちを、知ることなく大人になってしまいます。これは、日本人に日本に対する愛着を醸成しないことに、繋がるのではないでしょうか。
自分の国のこと、故郷のことを知ることは、日本人の国を愛する心を育んでいると思います。
此について、義務教育でもっと時間を取って欲しいし、日本に対して誤った考えを持った者を正す知識が必要だと思います。

そう思っていたら、小学校や中学校の教育はゆとり教育のために学力低下を招きました。アレが始まったとき、仕事場で学校では授業時間が少なくされて、授業以外のことを教えなければならず、時間が余ってしまって困っているらしい。この職場でも協力できることがあれば、やって欲しいそうだ。~このようなことを聞いたことがありました。

そして、ゆとり教育が終わりました。
この時、ゆとり教育の結果、学力は下がった。こんなことも出来ていないと言いましたが、学校の教育によってその子供達の勉強を低下させたのであって、子供達の責任ではなかったのですが、子供達は今苦労しています。

ゆとり教育が終わったら、教育程度がまた戻ったのですけれど、今度は、道徳や英語の授業時間を作るそうです。
でも、授業時間は土曜日の半日授業が、1995年からなくなっています。
ゆとり教育は、1980年度(狭義では2002年度以降)から2010年代初期まで実施されていたのですから、ゆとり教育を辞めただけでも授業時間が足りないのに、その上に新しい教科を作れば教えられる子供達は大変です。
もう数年すれば、ゆとり教育を辞めても子供の学力は回復しないとして、社会的な問題になるのではないでしょうか。

文部科学省の賢い官僚の人には、子供達が頑張れば出来る程度の学力で、勉強させて欲しいと思います。

縦椅子様

 今日も素晴らしいブログ有難うございます。
≪「負ければ、物語を奪われる」
 「歴史を奪われるのです」
 「古い昔から繰り返されてきたことです」と。≫という
 ≪敗戦というのは、自らの歴史・神話を失うことなのだ≫という諦観に敢えて挑戦し、≪著者は、その主人公たちの夢幻(ゆめまぼろし)に導かれ、あちらこちらを旅する。こうして日本の各地で神話との遭遇が記述される≫--その魂との遭遇記が≪松本徹『無限往来 師直(もろなお、高師直)の恋ほか』(鼎書房)≫なのであると、理解いたしました。
 失った歴史や神話をとりもどすのは、大変困難な道のりですが、作者の松本氏は素晴らしい神話の世界に誘ってくださっているのです。本当に感謝です!!
 ≪神話世界では異類との交接がよく物語られた。≫--このことは朝井まかて氏の「雲上雲下」(徳間書店)で再現されています。かっての神話の主人公だった親狐から、子狐へ、龍神から竜の子:小太郎へと物語の主人公は次世代と代替わりし、移行しています。物語がなくなるのを憂い、現代の子供に、物語を残そうと渾身の作:「雲上雲下」をかいてくださっているのです。本当にありがたいことです。
≪日本人が馴染(なじ)んできた唯識、「色即是空」の考えが失われたという寂しい風景を物語る。≫で、 唯識思想の詳しい説明をいただき、 ≪即ち、それら諸存在「色」は実体のないもの「空」なのである(色即是空)≫との結論ーー本当に渾身のブログありがとうございます。お礼申し上げます。  

>ばら様 ソロです。
 日本は確かに、敗戦をした事で、親和を失いましたが、ばら様がご紹介されて居らっしゃる様に、日本人は、新たな物語を考案・創作して、子供達に「日本昔話」とか、新作童話、幼児用絵本等々、そして、童謡の類も例えば、「泳げたい焼き君」なんて、大ヒット曲迄生み出して居ます。 

 是等は、全て子供向けのモノですが、世界二是だけ、子供向けの作品が、制作される国が世界に有るでしょうか?

 然し、神話は国の成り立ちを寓話にしたモノが多く、全てを史実では表せない為に、直喩や隠喩を駆使して、実は凄惨な事件を、後世に伝え遺して居る場合もありますので、失う事自体が、大きな損失です。

 でも日本人の子供を大切にする心、教育を重視する心は、「客観性、公共性、公平性」を持った、「開かれた世界」を、堅持して来た日本文明に取って、子供をそうした社会の継承者として育てる為に、その教材となるモノへの、創作意欲を持った人が、何時の世にも、沢山現れて来ると、私は期待して居ます。

 こんなに、子供への愛情が濃ゆい国は無いと思って居ます。

 否、日本人は今まで通り、日本人らしくあれば良いのですがね。 要は、他人の身になって考える事が出来無い、情の無い人が、人の親になってはイケナイという事だけだと思います。

ナポレオン・ソロさま 

 こんなにおやさしい、すばらしいコメントをいただき、感謝でございます!
 ≪是等は、全て子供向けのモノですが、世界二是だけ、子供向けの作品が、制作される国が世界に有るでしょうか?≫

≪こんなに、子供への愛情が濃ゆい国は無いと思って居ます。≫
ーー

本当にそのとおりでございますね! 日本の人は子供をいとおしく思う愛にあふれた素晴らしいひとたちですね。もうすぐ新元号が発表されようとしておりますが、日本の未来を背負う子供たちにとって、素晴らしい未来が開けますように祈っております!
 

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