無料ブログはココログ

« 伴天連らは、海賊船と組んで、日本人を拉致、誘拐あるいは武器弾薬と交換し、奴隷として売っていた | トップページ | 秀吉は日本をスペイン帝国の支配から守ろうとして朝鮮出兵をした »

2019年3月24日 (日)

「鯉(こい)」は日本の固有種で、外来種であると言うのは嘘です

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

「鯉(こい)」が外来種であるとテレビなどで言っていますがそれは嘘です。

というのも、日本の「第三紀地層」(6430万年前~260万年前)から野鯉(のこい)の化石が発見されているからです。

鯉は世界中に広く生息する魚ですが、日本にも元からいた、つまり固有種なのです。

ーー

さてそれでは、あの美しい錦鯉(にしきごい)はどこから来たのでしょう。

上杉鷹山(うえすぎようざん)が関係しているといえば、その意外性に驚かれるでしょうが事実なのです。

上杉家は、もともと新潟の上杉謙信を祖としますが、江戸時代に山形県の米沢に改易されました。

それで石高(こくだか)つまり藩の収入が激減します。

それでも、藩士の数は変わらないので、上杉藩は慢性的な財政難に見舞われる。

ーー

上杉鷹山が藩主となると、財政再建のために藩政改革に乗り出します。

その一つとして藩士に奨励したのが「鯉の養殖」でした。

鷹山は、福島県の相馬藩から鯉の稚魚を取り寄せ、藩士に配り、飼い方を教えたのです。

炊事用の水路を整備し、清潔に保ちそこに鯉を放流し飼うように奨励した。

鯉は、炊事のあとの残飯(野菜やコメ・雑穀)を食べて育った。

ーー

冬の米沢は雪に閉ざされます。

そんな時この鯉は、住民の食料となり、また凶作や災害時の非常食にもなった。

つまり鯉を飼う行為が、住民の生活を豊かに支えた。

ーー

飼えることが分かると上杉藩では、藩をあげて鯉が養殖されるようになる。

こうして次の法則が働く。

「全体のレベルが上がると突出したものが現れる」

ーー

藩の全戸が鯉の養殖を始めたことで、その中から、鯉を改良するものが現れた。

そうして野鯉が改良されてできたのが錦鯉だったのです。

長岡を中心に鯉の養殖が盛んになると、色んな色合いを持つ鯉が生まれていました。

この鯉を、さらに米沢で改良を施して、いまのような錦鯉が誕生したのです。

ーー

この鯉について、日本書紀の景行天皇紀に、短い挿話があります。

ーー

景行天皇四年春二月甲寅朔甲子(景行4年春)

天皇幸美濃 左右奏言之(スメラキが美濃に行かれた時)

「茲國有佳人曰弟媛 容姿端正 八坂入彦皇子之女也」(八坂殿に美しい姫がいます)

天皇欲得為妃 幸弟媛之家(という話を聞き八坂殿に姫をめとりに行かれた)

弟媛、聞乘輿車駕 則隠竹林(姫は来宅を聞くと竹林に隠れてしまった)

ーー

於是天皇 権令弟媛至而居于泳宮之(泳宮此云區玖利能彌揶)
(スメラキは姫にククリの宮に来るよう言われた)

鯉魚浮池 朝夕臨視而戲遊(そして宮の池に鯉を放して朝夕お遊びになった)

時弟媛、欲見其鯉魚遊而 密来臨池(姫はその鯉を見ようとして池まで忍んできた)

天皇則留而通之 爰弟媛以為夫婦之道(そこでスメラキは姫に求婚された)

ーー

古今達則也 然於吾而不便 則請天皇曰(お受けするのが昔からのしきたりですができませんと言って姫は、スメラキに言った)

「妾性不欲交接之道 今不勝皇命之威 暫納帷幕之中 然意所不快(私は結婚したくない、無理に嫁いでも楽しくない)

亦形姿穢陋 久之不堪陪於掖庭(また、私はそんなに美しくないので長くスメラキに愛されるとは思えない)

唯有妾姉 名曰八坂入媛 容姿麗美、志亦貞潔 宜納後宮(ただ、私には美しく気立ての良い姉・八坂入媛がいますので妃(きさき)にしてください)」と。

ーー

天皇聽之 仍喚八坂入媛為妃 生七男六女(スメラキは姫の話を受け入れられ、八坂入姫を妃とされ、七男六女のお子をもうけられた)

ーー

景行天皇は、美しいと評判の弟媛(おとひめ)をめとりたいと美濃国の八坂まで来たけれど、弟媛は恥ずかしがって隠れてしまった。

それで、一計を案じて、朝夕にくくりの宮の池に鯉を放して遊ばれた。

すると、その様子を一目見ようと、弟媛が景行天皇の前に現れる。

そこで「お前を私の妻にしたい」と求婚される。

しかし弟媛は「結婚したくない」と景行天皇の求めを拒む。

そして「私には美人の姉がいる」と、姉を妃に推薦するわけです。

景行天皇は、弟媛の提案を受け入れて、姉の八坂入媛(いりひめ)を妃とし、七男六女の子をもうけられた、というお話です。

ーー

ここで登場する鯉は、あることを象徴するものとして登場しています。

鯉は古来より、妊婦の重要な栄養源であったのです。

つまり景行天皇が鯉で遊んだ(鯉を飼った)ということは「妊娠中の妻がいる」という意思表示になります。

それで結婚したくない弟媛は、「ああ、妊娠中の奥さんがいるんだ、求婚されないよな」と考えて竹林から出てくる。

ーー

ところが求婚されてしまった。

それで弟媛は 「私は結婚したくない、無理に嫁いでも楽しくない」というのです。

そして「私には美しく気立ての良い姉がいるので妃にしてください」と提案する。

ーー

景行天皇は「そういうことなら」と、弟媛をあっさりとあきらめて、姉を娶(めと)る。

その姉にしても、本人が嫌だといえば、それっきりのことであることは、弟媛の場合と同じです。

ーー

結局、姉は景行天皇の求愛を受け入れて妻となり、そして七男六女をもうけたというのです。

景行天皇は入媛を生涯愛し続けたことがわかります。

ーー

ここで言えることは、我が国では、天皇でさえ、相手の女性の気持ちを慮(おもんばか)って、妻を得ていたという事実です。

古代においては、世界中どこでも権力者にとって、女性は所有物です。

言うことを聞かなければ、暴力で自分のものにする。

それが世界の常識であったともいえます。

ーー

けれども日本では、イザナキ、イザナミの時代から、男女は対等です。

たとえ権力者であったとしても、女性の同意を得ずに性交に及ぶことは禁じられてきたし、女性はたいせつな国の宝とされてきたのです。

日本書紀にあるこの短い文章は、鯉という妊婦の食べ物という道具立てを利用しながら、男女の対等を見事にあらわした一節だと思います。

ーー

ちなみに我が国で、恋のことを「こい」と呼ぶようになったのは、この景行天皇の逸話がもとになっているといわれています。

恋は対等! あたりまのことですが、とっても素敵なことですね。

« 伴天連らは、海賊船と組んで、日本人を拉致、誘拐あるいは武器弾薬と交換し、奴隷として売っていた | トップページ | 秀吉は日本をスペイン帝国の支配から守ろうとして朝鮮出兵をした »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

>縦椅子様 本日も更新有難う御座います。
>>日本の男女同権意識は古代から
 良いお話ですね。 そして、然も有りなんと納得する話でもありました。

 景行帝と言えば、日本武尊の父君ですが、当時は、3代前の9代開化帝が、九州から大和にお戻りになられて、永らく留守にしていた、大和の立て直し、と言うか、最初から王朝を創り直して居る最中で、この後を引き継いだ、10代崇神帝の御代に、粗、大和や近畿周辺は、平定したと見るべきで、11代の垂仁帝と、この12代景行帝で、地方の平定に本腰を入れ始めたと私は思って居ます。

 是等の軍勢は九州勢力を核に、地元の豪族連合であり、その主は、全て皇族に拠って占められていて、就中、欠史八代「=綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化」と言われていた大和朝廷での空白期に、帝の座に就いていた人の直系の子孫が多い。

 是は、海人族を祖先に持つ大和朝廷の故地である九州の、熊曽族や鉄貿易を九州の海人族組織が、管理している半島勢力の動きが、不穏になって来たので、其を護る為に九州に帰って居た重臣の久米氏の要請があって、熊曽と朝鮮半島の鎮撫の為に、2代綏靖帝~4代懿徳帝までは、九州の度々、遠征を行ったのでしょう。 

 然し、その裡に手が離せなくなって、遂に、九州で513年もの時間を費やした(倭国大乱)事に成ったと言うのが、史実では無かったかと、私は、推察いたして居ます。

 ですから、9代開化帝が大和に帰参する時に、率いて来た軍勢が、四道将軍の軍勢の基になったと考えるのが自然です。  そして、その主は、当然、信頼できる身内である皇族で固めて居たのは言うまでも無い。

 つまり10代崇神帝~12代景行帝迄は、大和朝廷の再建をして居た時期だと捉えれば、とても多忙な人で有った事は勿論で、外征と言う本拠地を開けないといけない仕事は、勢い、長男の武勇に優れた大和武尊をフルに使う事に成ったのでしょ。

 その為に武尊は、西は九州から、東は、北関東の白河の関近くまで、日本全国を股にかけて遠征を行わせて、崇神帝が整備したと言われる、歴代の皇族の子孫で創った、四道将軍「=中国・四国・九州道(吉備津彦命)、北陸道(大彦命)、丹波・北陸道(丹波道主命)、東海・中部道(武淳河別命)」の、今で言う軍区制を取った皇軍の総大将でしたから、政権は盤石なモノに成りました。

 然し、未だ九州や中部・東海、北陸・関東には、「祀ろわぬもの」が居て、武尊の人生は、東奔西走で費やされたと言って宜しいでしょう。

 武尊の死因は流行り病に拠る病死です。 故郷「=ノボナの里」まで、あと数キロと言う処迄、辿り着きながらも、命尽きたのです。 辞世の句にも、望郷の思いが記されて居て、涙を誘います。

 そして、景行帝の指令は非情なもので、九州の熊曽に対しては、最初から、祝いの席で揃った兄弟諸共、女装して酒の席に要りこみ、寝間に入って謀殺を狙うと言う、有無を言わさないモノでした。

 然し、武尊は、カワカミタケルから、その名「タケル」を引き継委でくれる様、頼まれるとか、敵にも、好意を寄せられる人だった様ですね。

 亦、草薙の剣の逸話でも有る様に、関東では周りに火を放たれて焼け死ぬ処だったのですが、是は軍勢を率いて居たのなら、考えにくい情況ですから、武尊が相手から講和と見せかけた謀略に騙されて、危機に陥った話だと思います。

 この話で推察されるのは、景行帝の指令は、固より、祀ろわぬモノ達の殲滅に有り、非情なもので有った事と思います。

 ダカラ、私は、景行帝のイメージとして、暴君では無いにせよ。昔の人に有り勝ちな、敵だけでなく、味方でも自分の意に沿わないモノには、遠慮呵責無い仕打ちをしたのでは無かったかと思っておりました。

 其れなら、帝である自分の求婚を断ったダケでも大層な不敬であるので、お怒りになられたのかと思いきや、姫の提案を受け容れて、姉君を后に娶って、七男六女まで、もうけられた事は、イメージとは真逆ですね。 

 そして、自分の後継は、早逝した武尊の代わりに、四男を、13代成務帝としましたが、その後継の14代仲哀帝は、実は、武尊の息子です。 成務帝が亡き畏兄の武尊に対する、お気持ちが現れて居る様に感じます。

 当時の世の最上層とも言える大和王朝の帝が妃を求めるのに歓心を買う為に鯉を使った策を用いて、態々現地に出向いて迄、求婚すると言う事自体、他の古代世界では、あり得ない話でしょう。

 この時すでに、日本には、男女同権を守るのは、世の常識であり、女性は、力を持ったものの所有物では無く、女性を纏め、子を産み、育てる役割を担った、民族の、否、国の宝であると言う認識があった、と思われます。

 この辺りの認識が、日本では紀元頃には、既に社会に出来上がって居た事が窺えます、其れは、ねずさんも仰っている様に、伊弉諾、伊邪那美のお話からも感じ取れる事です。 

 仮に、その話が、古事記が編まれた時代の創作だったとしても、編者は、古事記の読み手と常識を共有していた筈ですから、少なくとも、日本の7~8世紀では、女性の発言権は、男性と対等レベルに有ったと、私は思います。

 私が上に書きなぐった、日本の「欠史八代記」や「九州王朝説と倭国大乱の真相」、そして、「大和武尊」、「四道将軍」は、宮内庁の天皇家の系譜を基にして書いた、大半は私の妄想ですが、私は、この期間の歴史資料の大半は、蘇我蝦夷が乙巳の変で、自害して家に火を放った時に、焼失した書庫に中に、有ったものと思って居ます。

 古事記や日本書紀は、その焼失した書類の復元努力の結果であったでしょうが、遠く九州に移されて居た時代の事は、流石に復元できなかった。

 15代応神帝が三韓征伐の後、40年も九州に止まって居られたのは、半島と九州の反乱の根を断つ意味も有ったのでしょう。 

 然しこの後にも、26代継体帝の御代527年に、磐井の乱が、44代元正帝の御代720年には、隼人の乱が起りましたが、何れも悪と短い時間で平定されて、ようやく日本は、治まったと言えるでしたね。

 日本はこの後には、東北の蝦夷征伐が始まり、北海道まで日本の政治が存分に行き渡る様になったのは、維新後の話ですね。

 一日も早く、こうした真の日本の歴史が学校で教えられる様になれば好いですね。

縦椅子様
 
 今日も素晴らしいブログ有難うございます
≪あの美しい錦鯉(にしきごい)はどこから来たのでしょう。≫と
錦鯉の古くからの由来を掲載いただきありがとうございます。
≪上杉鷹山が藩主となると、財政再建のために藩政改革に乗り出します。その一つとして藩士に奨励したのが「鯉の養殖」でした。≫
≪藩の全戸が鯉の養殖を始めたことで、その中から、鯉を改良するものが現れた。色んな色合いを持つ鯉が生まれていました。≫
≪この鯉を、さらに米沢で改良を施して、いまのような錦鯉が誕生したのです。そうして野鯉が改良されてできたのが錦鯉だったのです。≫ーと日本人御得意の改良に改良を重ねてできた結果なんですね!今では立派な錦鯉は億という高値で取引をされていると聞きます。それだけ時間と手間をかけているんですから当然だと思います。
≪日本書紀の景行天皇紀に、短い挿話があります。≫ーー
≪日本書紀にあるこの短い文章は、鯉という妊婦の食べ物という道具立てを利用しながら、男女の対等を見事にあらわした一節だと思います。≫ーーとあり、昔から女性がたいせつにされてきたことが伺え、女性としてとてもありがたいことです。感謝!
母は子供が赤ん坊のときよく鯉こくというお味噌汁を作ってくれたことをおもいだします。
青空を背景に、緋鯉、真鯉、子鯉の鯉のぼりが風にたなびく光景はー「日本っていいなあ」「こんな素晴らしい国はない」との感慨です! 「日本よ!永遠に!」


コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 伴天連らは、海賊船と組んで、日本人を拉致、誘拐あるいは武器弾薬と交換し、奴隷として売っていた | トップページ | 秀吉は日本をスペイン帝国の支配から守ろうとして朝鮮出兵をした »

最近のコメント

2019年7月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31