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2019年3月21日 (木)

となると、縄文土器は日本列島域内で誕生した可能性がきわめて高くなる

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

山田康弘『縄文時代の歴史』(講談社現代新書)

現在までに解明された縄文の文化・文明の内容が、詳しく報告されている。

縄文土器が作られた年代を16500年前としており、これが現段階の考古学会の定説のようである。  

ーー

人々が縄文遺跡や遺物へ関心を持ち出し、その熱狂(ブーム)が静かに広く浸透しつつある。

ーー

著者はあくまでも客観的に縄文時代を論じようとしている。

祭器と思われるものの使い道については一切の論評が控えられている。

その形、出土場所のみが記載される。

このように使われたのではないかという表現は強く抑制されているのだ。

だから、読んでいて、もう少し個人的にはこうではなかったかという解説があってもよいのではないかと苛立つほどなのである。

著者は、あくまでも客観的に、明らかになった事柄だけに絞りこんで、縄文時代を論ずる。

ーー

これが考古学の限界というものであろう。

ーー

考古学は当時の遺物の記録に終始する。

当時の人々の心理や集団としての戦闘性(意思)については、不明のまま、推測の域を出ないとして放置されるのだ。

確かにそんなものは現代人には分かりようがない。

縄文人とて、恐らく生老病死に対しては、呪術あるいは儀式を行っていたはず。

しかし、今となっては、彼らが生老病死をどのように考えていたのか分かりようがない。

少しでも推論が混入すると、考古学ではなくなってしまうのだ。

ーー

縄文期には黎明期、前期、全盛期、後期がある。

が、後期には農耕文明が取り入れられ弥生時代との明確な区切りはできないのだという。

地域によっては縄文人が弥生人と同時並行的に農耕を取り入れていたからだ。

(明治維新以来日本の文化は西洋文化を取り入れて激変したがその主体は日本人のままであったように)

ーー

縄文の土器とは現在での鍋のことだ。

土器で煮炊きしていたことが土器にこびりついていた食べ物から分かった。

その他にも、植物から狩猟、漁業を通して、食糧を加工し、保存していたことも分かった。

狩りに使った石斧や石鏃、そのうえ発掘された土器、石器は、当時の縄文人の生きるために作り出したものだ。

いわば縄文人の知恵の結晶である。

ーー

この点で山田氏は重要な指摘をしている。

ーー

「北海道においては草創期の土器がほとんど見つからない」

「これほど発掘調査がおこなわれているにもかかわらず、草創期の土器が見つからない」

「しかも最古級の事例が見つからない」

「ということは、土器が北回りルートで伝播してきたことに対して否定的にならざるをえない」

「また、同様に朝鮮半島においても一万六千年をさかのぼる土器文化は見つかっていない」

「朝鮮半島域で最古の事例は済州島の高山里遺跡出土例でおよそ一万年前である」

「(つまり)支那南部からの西回り経路による日本列島域への伝播を考えることは今のところ難しい」

「となると、縄文土器は日本列島域内で誕生した可能性がきわめて高くなる」

ーー

縄文土器は日本独自のものだ、という結論になる。

ーー

縄文人は何時、いったい何処から来たのか。

ホモ・サピエンスは20万年前にアフリカで誕生したとされる。

その末裔が日本にも渡来したのは氷河期の終わり、海面が現在のそれより、50~100mほど低かった時期とされる。

日本列島はユーラシア大陸そして北アメリカ大陸とも陸続きだったことになる。

ーー

人類は、なにゆえにこれほどの遠距離を移動する必要があったのか?

それは食料であるマンモスやシカを追ってきたからだ。

また本州、四国、九州は陸続きで、瀬戸内海は陸地だった。

現在の間宮海峡も千島列島の南部も樺太とは陸続きだった。

ーー

恐らく当時の気温の所為であろうが、縄文遺跡の多くが北海道と東北に集中している。

三内丸山遺跡にみられるように、大規模な竪穴式住居も建造する能力があった。

「1メートルにも及ぶ柱材を使用するような大型建物をつくる建築技術があり」

「クリ林の管理や漆工芸などをはじめとするきわめてすぐれた植物利用技術があり」

「各地の環状列石(ストーンサークル)や土偶などに見られるように複雑な精神文化があった」

ーー

縄文人は小集団で暮らし、移動した。

当時、使用された黒曜石は、かなり遠くから運ばれた。

産地が信州や富山などに限定される翡翠、琥珀などが装飾品として使われていた。

そして縄文人は丸太船を超える造船と航海技術があった。

(神津島の黒曜石が使われていたのだが、黒潮を横断しないとたどり着けない)

山田氏は言う、「当時の人々が強い海流(黒潮)を横断するほどの航海技術を有した」と。

ーー

ならば縄文人は「原日本人」なのか?

DNA分析の結果、北回りから北海道へ入ってきたのは、シベリアのヨーロッパ系ではなかったのだ。

むしろ東アジアの人々が北回りで渡来したと。

それが四万年から三万八千年前のことだった。

石器時代以前のこととなる。

ーー

そして土器、定住、貝塚という三つの縄文文化の要素が五千年ほどの時間をかけて、ゆっくりと日本に定着していった。

氷河期の終わりに、地球の温暖化が併行して、人類の食物採取空間が拡大し、縄文時代の日本列島の人口はおよそ26万人と推定されるという。

ーー

林房雄はアンデスの学術調査団に加えて貰い、ペルーなどのインカ、アステカ文明の遺跡発掘作業の一団に加わった。

そのとき林は、スペインに滅ぼされた古代文明の復活が、彼らの「国学」の蘇生につながると直感している(『緑の日本列島』、『神武天皇実在論』など)。

ーー

評者(宮崎)はそこまで広汎な国際比較は出来ない。

が、パプア・ニューギニアには行ったことがある。

パプア・ニューギニアの奥地では黒呪術、仮面、妖怪がいまも風習として残っている。

妖怪については、漫画家・水木しげるが漫画でその世界を描いている。

彼は、出兵し戦闘で片腕を失うも、妖怪が住むラバウルから奇跡の生還を遂げたため、それが描けたのだと評者は思っている。

ーー

パプア・ニューギニアには周囲の集落とは隔絶し、自給自足で、しかも呪術による社会が残る地域がある。

ロックフェラー・ジュニアが行方不明となったのもこのような場所であったろう。

お祭りでは仮面をつけ、鰐(わに)のような背中をし、入れ墨をした現地人が踊り、それはまるで石器時代の様である。

ーー

祭祀が重視されたという証拠がある以上、族長が出るのは自然の流れであろう。

本書でも、山田氏は、この点を重視して次のように言う。

ーー

「縄文人も様様なアクセサリーを身につけていた」

「たとえば頭飾りとして、漆塗りの櫛や骨角製の笄(こうがい)」

「耳飾りとして、石製の楔状耳飾りや土製耳飾り」

「多種多様な素材による首飾り」

「鹿角製の腰飾り」

「トリの長管骨や猪の犬歯による足飾りなどである」

ーー

「ボディ・ペインティングなどの装身」

「入れ墨、身体変工」

「抜歯技術もあった」

「しかもこれらは個人的嗜好や趣味ではなく、その集団の習慣であり、強制力を伴ったのである」

「集団社会には秩序が必要であり、かつ指導者が出てくる」

「魔術師、呪術師も出てくる必然性がある」

ーー

考古学で言及できるのはここまでである。

縄文の精神文化の骨格に迫るための方法論はまだない。

考古学による縄文時代の解明作業がどのあたりまで進んでいるのか、本書によって理解できた。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難う御座います。
>>日本の太古を探る
 この山田さんは、オソラク理系の科学的思考をする方なのだと推察します。 科学的と言うのは、固より「猜疑を突き詰める」考え方なのですから、其処には、予断「=曖昧な推測、推定」の様なモノは、存在を許さないのでしょうね。 

 然し、その中に、3万5千年前の炊事場の遺構である事と言われている、種子島の遺跡や、指宿市に有る、28000年前と推定される西多羅が迫遺跡等迄、入って居るのは、やや残年ですし、それが、南から海流に乗って、日本列島に漂着した、スンダ人の可能性に一瞥もしないと言うのは、やや不満ですね。

 1万2千年前に終わった、直近のピュルム氷期の最中は、ユーラシア大陸島の東沿岸は、北から、ベーリング海、オホーツク海、日本海、東シナ海、そして南シナ海と言う内海の連続であったと言う事は、水深を色分けした世界地図を眺めて居れば、と容易に想像が着くと、思いますがね。 

 そして、現在の東南アジアに当たる、浅い海の多島地域が、陸地で有ったと言う事も分る筈です。

 然も、この地域は、日本列島と同じ成因である、火山の造山運動で出来上がった可能性も高い、すると、日本と同じように、この地域の人骨や文化・文明の痕跡は、酸性の土壌で溶解している、或いは、火山灰に埋もれって終った、亦、水没して終った可能性は大であろう。 

 ダカラ、その部分は、「不確定な事」として、纏めて省かれているのであろうと、考える他は無い。 そういう意図で、パプア・ニューギニアの原住民の石器時代的な風習、生活も、遠く、太平洋の向こうに有る南米の太古のシトカ遺跡から、発掘されている遺跡・遺物が、赤道反流に乗って、スンダ・ランドやサフル・ランド経由で齎されたものではないかと言う、是亦、「不確定な事」として省かれていると思いますね。

 18世紀後半に、シュリーマンが、トロイアの遺跡が、ホメロスの創作では無く、先史時代の現実に有った事を、遺跡の発掘で証明してから、世界中で考古学ブームが巻き起こり、死海文書の発見等、次第に、古代文明の様相が明らかになりました。

 けれども、20世紀初頭に黄河文明の発祥地が発見されましたが、それが紀元前3千年と言う、西洋の最古の歴史である紀元前2千年を大きく上回って居たので、途端に熱が冷め始め、西洋文明の古代文明への監視も薄らいでいますね、でも、専門家の意欲は衰えて居ない様ですがね。

 日本の考古学者の科学主義的な、傾向の一つは、この西洋の変化に有った様に思います。 

 人類学の進展で、結局、自分達の祖先は、黒海の畔で狩猟採集や農耕をやって暮らして居た、コーカソイド種の亜種に過ぎない白人であり、全ての人種で一番遅れて文明化した事が分かってから、現生人類「=ホモ・サピエンス」の歴史を遡行して行く事には、すっかり興味を失って居る様に思いますね。

 一時は、トールヘイエルダールの様に、葦の船で、エクアドル~ガラパゴスを往復しようと企てた、学者までいたのですがね。

 過度な科学主義は、こうした西洋文明からの、嫉み・妬みに近い批判を意識しての事では無いかと、思いますね。 まぁ、其れはそれ形に、考古学の科学的な意味を高める上で意味の在る、良い事ではありますが。

 薩摩半島の南岸十数キロの海底火山の終局的噴火(鬼界カルデラを創った噴火)で生じた、大火砕流を伴った大津波が、薩摩・大隅半島全域ダケで無く、熊本・宮崎・福岡・大分にまで、その影響を及ぼして、西~北九州に居た海人族を祖とする熊曽族(肥・筑・豊国の住民)を、朝鮮半島に移住させた可能性が有ります。

 それ程の大噴火で埋もれたものは、全て発掘出来ないと思いますし、指宿は固より、太古の火山の終局的噴火の跡「=カルデラ」に位置している(阿多カルデラ)のですから、遺跡も何も吹き飛んでない可能性が高いですね。 

 でも、太古の昔から人が棲んで居た可能性が有ると思って居ます、しぶといw 

縄文時代の人々は、極めて永い期間を平和に暮らしていました。
それだけで十分に素晴らしいと思いますけれど、その時代を独特の文化で彩っていたことに感銘を受けます。

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