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2019年2月24日 (日)

教員は、人権という言葉にどれほど困っていることか

ーー以下「伊勢雅臣コラム」より抜粋編集

昔、ある中学校で男子生徒が廊下で女性教師に突然ナイフで襲いかかり、刺殺するという事件が起きた。

学校生活には不必要なナイフを持ってこさせないために、生徒たちの所持品検査をしようという意見が唱えられ、多くの人がこれを支持した。  

ところが、マスコミ、教育評論家、そして「人権派」と呼ばれる人々から、所持品検査に待ったがかかった。

「生徒のプライバシーを侵害する」「子供の人権を守れ」と。

結局、検査は実施されなかった。

ーー

実際に殺傷事件の現場となった中学校ですら、「人権上の問題がある」として、所持品検査はされずじまいだった。

ーー

その後、ある私立校の教師が、生徒がバタフライ・ナイフを持っているのを見て、「それ、こわいよ」「持ってくるのをやめてよ」と言った。

すると生徒は、「おれが何かすると疑っているわけ?それって人権侵害じゃん」と言われた、という経験が新聞で紹介された。

新聞は、この教師が「教員は、人権という言葉にどれほど困っていることか」と嘆息した、と伝えた。

こんな状況はどこかおかしいのではないか?

ーー

一体、公民教科書では人権について、どのように教えているのだろうか?

ーー

東京書籍版中学公民教科書(東書)

第2章「個人の尊重と日本国憲法」は「憲法」をメインテーマにした章なのだが、その内容たるや「人権」の一本槍である。

1節 人権と日本国憲法
2節 人権と共生社会
3節 これからの人権保障

と、すべて「人権」が入っている。

ーー

この「1節 人権と日本国憲法」に、憲法の立憲主義、国民主権、天皇の地位、平和主義もすべて入れられている。

「2節 人権と共生社会」は、この「人権」一本槍の章でも、さらに重要なようで、節のタイトルも最後の第6項を除いて「人権」と「権利」がならぶ。

1 基本的人権と個人の尊重  
2 平等権−共生社会を目指して  
3 自由権ー自由に生きる権利  
4 社会権ー豊かに生きる権利  
5 人権保障を確かなものに  
6「公共の福祉」と国民の義務

ーー

「人権」は憲法を教える際の最重要項目の一つであるとは思う。

それが5項目24ページにわたって説(と)かれている。

しかし国民の義務については、6の1項目、2頁というのはいささかバランスを欠いているのではないか。

ーー

この点で、育鵬社版(育鵬)は憲法を論じた第2章を二つに分けた。

第1節では「日本国憲法の基本原則」として、国民主権、基本的人権、平和主義などの原則を説明した。

第2節で、「基本的人権の尊重」を集中的に論ずる、という、東書に比べればバランスのとれた構成になっている。

ーー

第1節の「5 基本的人権の尊重」では「基本的人権の保障」として重要性を述べた後、すぐに「公共の福祉による制限」の項を設け、次のように記す。

ーー

憲法は,国民にさまざまな権利や自由を保障しています。

が,これは私たちに好き勝手なことをするのを許したものではありません。

憲法は,権利の主張,自由の追求が他人への迷惑や,過剰な私利私欲の追求に陥らないように,また社会の秩序を混乱させたり社会全体の利益をそこなわないように戒めています。

憲法に保障された権利と自由は,「国民の不断の努力」(12条)に支えられて行使されなくてはなりません。

憲法では,国民は権利を濫用してはならず,「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任」があると定めています。

ーー引用ここまで

この一節の左には、「自由・権利の保持の責任とその濫用(らんよう)の禁止」と題したコラムで、憲法第12条を引用している。

ーー

この憲法が国民に保障する自由及び権利は,国民の不断の努力によって,これを保持しなければならない。

又,国民は,これを濫用してはならないのであって,常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

ーー引用ここまで

憲法自体に自由と権利の「濫用」の禁止と「公共の福祉のためにこれを利用する責任」が明記されているのだ。

学校でナイフを振り回す「自由と権利」を主張する生徒に対しては、この第12条に基づいて反論できそうである。

「ナイフ保持が安全で充実した学校生活という「公共の福祉」を脅かしてないか」と。

ーー

しかし、そんな反論もまたすぐに「待った」がかかりそうだ。

ーー

東書の、「6、『公共の福祉』と国民の義務」の中身を見ると、まず「『公共の福祉』による人権の制限」というタイトルで憲法第12条を説明する。

が、その結びの一節は以下の通りだ。

ーー

しかし,何が公共の福祉に当たるのかを国が一方的に判断して人々の人権を不当に制限することがあってはなりません。

人権を制限しようとする場合は,それが具体的にどのような公共の利益のためであるのか,慎重に検討する必要があります。

ーー引用ここまで

次に「自由権と公共の福祉」という項目では

ーー

例えば,自由権の中でも経済活動の自由については,行きすぎると住民の生活環境が乱されたり貧富の差の拡大につながったりしかねないため,公共の福祉による制限が広く認められてきました。

これに対して,精神の自由についてはこのような事情がなく,公共の福祉による制限は限定的にしか認められません。

ーー引用ここまで

最後の「国民の義務」に関しては、「普通教育を受けさせる義務」「勤労の義務」「納税の義務」を簡単に説明した後、次の一節で結ぶ。

ーー

憲法に義務の規定が少ないのは,憲法が国民の権利を保障するための法だからです。

国は,憲法に反しない範囲で,国民に義務を課す法律を制定することができます。

ーー引用ここまで

このように、各項とも人権を制限する事に対する警戒心を露わにして結んでいる。

特に「憲法が国民の権利を保障するための法」という憲法観は、「人権」一本槍の構成にそのまま現れている。

ーー

東書のこうした「人権」至上主義はどこから来ているのだろうか。

東書は「人権思想の成立」で次のように書いている。

ーー

特に17世紀から18世紀にかけての近代革命のときには,人権の思想が,身分制に基づく国王の支配を打ち破るうえで大きな力になりました。

そのため,近代革命のときに出されたアメリカ独立宣言やフランス人権宣言などでは,全ての人間は生まれがらにして人権を持つと宣言されました。

ーー引用ここまで

フランス革命は国王・貴族・教会の旧体制を打倒した革命であった。

そのために今までの文化伝統やキリスト教思想からは断絶して、「人は生れながらにして人権を持つ」という主張がなされたのだった。

ーー

そこでは「信教の自由」も謳われていたが、カトリック教会の聖職者や信者には全く適用されなかった。

「公序を乱す」という理由で、革命政権に忠誠を誓わない聖職者たちは国外退去や流刑、死刑が科せられたのだ。

信仰心の厚いヴェンデ地方では40万人とも言われる大虐殺が行われた。

ーー

なぜこんなことになったのか。

この「観念の所産」、「生まれながらの人権」という考え方が、自分たちだけで何事も決められるという「独善性」を解き放ってしまったからだ。

これは、これまでの文化伝統も宗教もすべて無視できるということになる。

ーー

そもそも「生まれながらの人権」とは、幾何学でいえば、定義も証明もない「公理」でしかない。

したがって何が人権で、何が人権でないかを、論理的に決める客観的基準がない。

だから、革命で権力を握った人間たちが、「革命に反対する者には人権はない。殺しても良い」と決めてしまえば、それでも論理が通ってしまう。

ーー

これが歴史伝統を尊重する立場なら「昔から人を殺すのは罪とされている」という道徳も出てくる。

また、宗教的な教えからは「汝殺すべからず」という戒律も介入してくるはずだ。

こうした外的な規律から権力者の独善性は制約を受ける。

ーー

「学校にナイフを持ってくるのも生徒の権利である」という主張も、「人権」という「観念の所産」からくる独善性がもたらしたものである。

「人権」という概念が生徒の独善性を許してしまう。

これが、「教員は、人権という言葉にどれほど困っていることか」という冒頭の教師の言葉の理由なのだ。

ーー

(歴史伝統を尊重する立場なら「先生がダメと言ったらダメ」と簡単に禁止できる)

ーー

「人権」という言葉が、教員を困らせている事情がもう一つある。

それは「権利」にはもともと「戦って勝ち取るもの」という「闘争性」が潜んでいる事である。

ーー

イギリスの名誉革命は、近代的自由の源泉の一つとされる。

時の国王ジェームズ2世の専制に対して議会や諸侯が立ち上がり、王を追放して「臣民の権利と自由を宣言し、王位継承を定める法律」を定めた。

こうした王権と議会のせめぎ合いの中から、権利が確立されていった。

したがって、権利については、それを巡っての争いになりがちなのだ。

ーー

が、歴史伝統や神の教えという外的な規律があれば、それが争いを予防したり、緩和する。

しかし、それらの外的規律を無視して、何が「生まれながらの人権」なのか、戦いの勝者が決めることになれば、歯止めはなくなる。

「生まれながらの人権」を決める立場を得るために剥き出しの闘争となってしまう。

ーー

かつて、北海道のある小学校の教室に「自分の不利益には黙っていない」という標語が掲げられていた。

ここに権利の持つ闘争性という本質がよく現れている。

人権概念がもたらした独善性が、歴史伝統や宗教による外的規律を排除して、その闘争性を解き放ってしまったことがわかる。

ーー

このような「生まれながらの人権」を抑制しうるのは、ただ一つ、他者の「生まれながらの人権」だけである。

逆に言えば、他者の人権を犯さない限りは、何をしようと自分の権利ということになる。

ーー

たとえば、学校で授業をサボって校庭で昼寝していても、屋上でたばこを吸っていても、授業を受けている他の生徒の権利は侵していない。

この考えには個人はあっても、クラスや学校という「共同体」のことはまったく考えられていない。

八木教授は、次のように指摘する。

ーー

つまり「人権」という言葉が示しているのは、いかなる共同体にも属さず、歴史も文化も持たない、また宗教も持たない、まったくのアトム(原子)としての「個人」という人間観、人間像なのである。

あえて「「人間」の権利」と表記するのはそのためである。

ーー引用ここまで

これもきわめてまた非現実的な「観念の所産」ではないか。

ーー

このような特異な「観念の所産」である「人権」概念に実体を与えうる歴史伝統がわが国にはある。

東書では「ハンセン病と人権」というコラムで、ハンセン病患者たちが、「有効な薬」が見つかった後も、国の政策によって隔離され、差別を受けた事例を紹介している。

育鵬もハンセン病をとりあげているが、主張点はまったく異なる。

「ハンセン病の『人間回復』」というコラムでは、次のような一節がある。

ーー

皇室は古くからハンセン病患者の救済に力をつくしてきました。

岡山県瀬戸内市邑久(おく)町にある国立ハンセン病療養所,邑久光明園(こうみょうえん)の名前は,奈良時代の聖武天皇の后の光明皇后にちなんで付けられたものです。

ーー

光明皇后は施薬院を設けられ、ご自身でもハンセン病患者たちの身体を洗い、膿を口で吸い出されたという伝承が残っている。

その光明皇后と同様にハンセン病対策を後押しされたのが、大正天皇の皇后であった貞明(ていめい)皇太后だった。

皇太后が40年近くも陰ながら支えた光田健輔(けんすけ)が、各地に療養所を作り、「有効な薬」の治験も行ったのである。

ーー

国の隔離政策を人権侵害だと学ぶのは良い。

が、同時にハンセン病患者のために生涯をかけた人々がいて、それを皇室が助けられてきた、という歴史も存在する。

その歴史を学んだ方が、中学生たちに「公共の福祉」のために尽くそうという情意を育てるには、はるかに有益だろう。

ーー

皇室が国民を「大御宝(おおみたから)」としてその幸(さち)を祈り、その祈りを実現しようと代々の国民が努力してきた。

そこには西洋で生まれた「人権」概念の独善性も闘争性もない。

そういうわが国の心豊かな「大御宝の理想」をも、明日の公民となる中学生たちにぜひ教えて貰いたいものである。                            

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>人権教育について
 前半の「如何に教育現場は人権と言う問題に困らされているか?」と言うくだりでは、日本の教育全般に対して暗澹とした感想を持ちました。 「こんな教育をされたら、世の中は、公共心の無い人間ばかりに成って終う」と。

 そしてアメリカの様に、「法律の専門家である弁護士が法の抜け穴を探し、医師が患者を使って金儲けを企む、様な、職業を通した、使命感や徳性が皆無な、専門家を育てる世の中に成って終う」と言う危惧も持ちました。

 西洋流の人権思想には、伊勢さんが仰有る様に、首肯出来る点もあります。 然し、西洋文明には、「利他愛」や「滅私奉公」と言った要素が全く存在して居ません。 

 フランス革命など、「革命に反する事は、全て悪である」と言う独善を無理やり通して、革命のやり方に異論を示しただけで、何の罪もないキリスト教信者、40万人を虐殺して居ますが、是では革命自体が犯罪でしょう。 

 ダカラ、欧州人は未開だと改めて思った次第ですが、処が、日本でも、中学生の生徒が女性教諭を学校で刺殺したと言う事件が起こって居るとか、バタフライ・ナイフを見せびらかして居るのを注意したら「生徒の人権の方が大事である」と言う事に成って終って居るとの話を読んで、文科省の官僚の左傾化が原因の大きな一つの様に思いましたし、完全に左巻きの日教組が主犯で有ろうと、私は確信しました。

 固より法は、個人の欲望を抑制・規制して、公の安全を保つ為に有るのに、公の秩序維持よりも、個人の表現の自由と言う権利が優先すると言う、法治主義を完全に否定した考えとしか思えない狂気の判断は、飢饉時に起った、百姓一揆でも法秩序を破った事に変わりはないカラ、予め、刑死するものを迄決めて居た、日本伝統の考え方には、明らかにないモノです。

 完全に「既存の道徳や伝統は破壊せよ」と言う、共産主義者の彼らの主張に沿ったものだし、その活動に対する、教師としての徳性を無視したモノだと言う批判にも「労働者としての個人の権利を主張して居る」と、反論するダケですからね。

 私は、抑々、憲法が個人の権利を保障する為に有るなんて解釈は大間違いだと思います。 憲法が国家の上に有るのではないし、況してや、個人が憲法の上に有るのでもない。

 人が創った国ではありますが、生物全般は、自然の中で生かされているのだと考えれば、国家の規範を定める憲法は、自然の法則に沿った形で、紡がれなければならないでしょう。 

 然るに、自然の法則が目指して居る処は、この宇宙生命体である地球環境の保全・維持に有るのですから、その恩恵を受けて生かされている我々人類も、地球環境を護ると言う公的使命を背負って居る筈です。

 つまり、人類にとって一時的に得な事でも、地球環境を不可逆に悪化させる様な事、もっと言えば、社会環境を悪化させるような事は、禁止されるべきであると言う事です。 

 是が自然の法則、つまりは神の摂理なのです。

 個人の趣味であると言っても、公序良俗を乱す様な行為は、厳しく禁じられている筈です。 バタフライ・ナイフを使った傷害事件や殺人事件が、原に起って居る状況下で、学校にそれを持ち込んで見せびらかせていると言うのは、威嚇行動以外の何物でもありませんね。

 その時何故、こうした反論が出来なかったのでしょうか? 其れは、教師達自身の社会的な実体験が不足しているとか、理性的判断力が、張った須して居ない、或いは、混乱して居るカラと言う他は有りません。 

 例えば、同じ事を、一般社会の会社でやったら、即、解雇されても、文句は云えません。 会社にとって「不必要なものを持ち込んで、他人を威嚇して、業務を妨げた」事に成りますからね。業務妨害は、立派な犯罪ですから、否も応も無いでしょう。

 人権侵害だと訴えれば、長い争議の末に、某かの金にはなるでしょうが、僅かの金の為に、折角ついた仕事を失う上に再就職も出来ず、人生の貴重な時間を浪費する事に成りましょうが、現にこういう人が、世の中にはいますが、所謂ドロップ・アウト「=落ち零れ」として扱われ、アウトサイダー「=社会不適格者」としての道しか残って居ないと言う危機に瀕します。

 昔の先生は、そうなっては、イケナイと、生徒や学生を何とか真っ当な道に戻す、つまり、ちゃんと公共や組織の事を考えて、自分の行動を規制出来る人間に育てる責任感を持って居た様に思いますし、家庭でも「吾子を一人前の、社会に通用する人間に育てる事が、親の務めだ」と言う考え方が有りました。

 公私について、私を公に優先したモノが、如何なる最期を遂げるのかを、子供達は学ぶべきです。 何故なら社会は、公優先で出来て居るカラです、それが現実なのです。

 若い最初の裡は、不当に自分の権利が制限されて居る様に感じますが、お金の為だ、と言う目先の必要に負けて、我慢しているのですが、何処かで、社会での自分の卑小さに気が着き、ルールが、実は自分を守ってくれて居るカラ、普通の生活が送れて居るのだと言う事に気が着きます。

 其れを評して「20代までに左翼的な活動をしらないモノはバカ、50代過ぎても左翼をやって居る者も亦バカ」と私の今年92歳になる親父は言って居ましたね。 彼も運が良かっただけで、遣って来た事は、一種のアウト・サイダーでしたがね。

 何にせよ、現在の赤化した省庁改革は、必須にして、最優先事項だと思いますが、その他にも、マスコミ改革や、左翼の排除や戦後体制の改革も、絶対にやらねばならない事ですからね。

 其れをやって居る安倍政権を、代案も無しに引き摺り降ろそうと言う保守もどきも、このアホゥ共の一員だと思います。

フランス革命の“人権宣言”には例の目玉の御印が
ハッキリ付いていますね。
アメリカのドル紙幣にも勿論ついていますね。
「人権」とは方言として使い勝手のいい、聞こえの
良い最高の武器ですね。

そう謂えばどなたかのブログで、「この世はデーモン
が支配しているようだ」と主張している方がいました。
ある程度、同感。

カール・マルクスは敬虔なクリスチャンから悪魔信仰
に改宗しましたし、お仲間も追随しているようです。

カールは、ユダヤ人弁護士の父からの一般人の
年収の何倍もの仕送りで、学生生活を放蕩三昧で
過ごし、カソリックの小うるさい教えに嫌気を感じた
というのが本音
でした。
サタニストのエゴと放蕩で自由気ままさは彼にとって
魅力的だったのでしょう。
実母や、叔父の落命に拠って得られる遺産を心待ち
にしていたほどの放蕩、金の亡者振り。

揚句、共産主義なる概念を主張し、支配層の持つ資産を
奪取すべく無知なプロレタリアートをだまくらかす論説の
鬼畜振りは、デーモンの名にふさわしいかと。

現実問題として、悪人と善人とでは、悪人が圧倒的に有利
ですね、この世では・・・。なんせ自主性を重んじていますので。

「正直者が莫迦をみる」とはよく云いったものですね。

現世での修行を早々に終えて帰還する魂と、修行が
たんまりありすぎてなかなか帰還できない魂とでは、
寿命の長短が全く違います。
「憎まれっ子、世に憚る」とはよく言ったものです。

然しながら、世のため人の為に尽力するために長命を
得ている者もおります。その点は、一目瞭然でありましょうね。

共産主義者は無宗教で、神を否定する主義と聞き
及んでいます。

曲りなりにも信仰の名の元に神を仰いでいるはずの
宗教も民衆を洗脳し、都合のいい方向に誘導しようと
するものばかり。

ほんとに呆れるほどの劣等生振りに霊界の高級霊たち
はほとほとお困りです。
そこで、一大プロジェクトとして、霊界で80%、現世では
20%の尽力により、刷新の計画を立ち上げました。

この世界から卒業し、高級霊として霊界入りした先達たち
から個人的に通信を送っている例がそこ此処に・・・・・。
米国では原住民であったインディアンの方の霊が多いようです。

地球を統括する担当はイエスさんだそうです。かなり現世界の
宗教は意に反する処だということです。
我々がこの世にやって来た目的の第一は、「無私、無我」で
あります。つまりはエゴを捨てること。

現状、エゴが衣服来て闊歩している世界です。

このプロジェクトに即した行動と思考を持つ者には
見えざる支援が与えられるでしょう。
というより、時勢に伴った行動が運気にも影響を及
ぼすという事になるのでしょうね。

数多の妨害に遭いながら、日本国の存亡すら掛かって
いる舵取りをされている安倍晋三内閣総理大臣の胆力
に感謝し、協力することが本筋でありましょう。

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