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2019年2月17日 (日)

日本書紀は、漢字で書いた日本語文である

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

聖徳太子の十七条憲法の第一条は「和をもって貴しと為す」です。

これこそわが国が世界に誇る文化遺産といえるのではなかろうかと私(ねず)は思っています。

日本書紀には「以和為貴」と書かれており、漢文で書かれているように見えます。

だから日本書紀は漢字文化圏に向けて書かれた「史書」と言われています。

ーー

漢字文化圏では、歴代王朝が、それぞれの王朝の正統性を示すために「史書」を作った。

それで、我が国もそれを真似たのだと。

ーー

支那の王朝は世襲ですが、その王には姓があります。

だから、その交代は易姓革命と呼ばれた。

明王朝なら「朱」、それが清王朝の愛新覚羅(満州語でアイシンギョロ)となった。

別な一族が皇帝になるのです。

ーー

ですから、交代した王には、王としてふさわしいという正統性が必要になる。

その正当性を記したものが、各王朝の「史書」なのです。

ーー

ところが天皇には姓がありません。

姓がないのですから、易姓は不可能。

しかも王朝の交代がありません。

神々の時代から万世一系の天皇がシラス国が日本です。

ーー

つまり、わが国には支那の「史書」は、そもそも必要がない。

ーー

そして、「漢文文化圏に向けて書かれた」との説明が成り立たない。

というのも、日本書紀の漢文は、漢文ではなかった。

つまり支那人が読んでも、意味不明の文だった。

たとえば「以和為貴」を、日本人は「和(やわらぎ)をもって貴(とうと)しとなす」と読んできた。

「和」の意味も、日本人は、「人と人との和「やわらぎ)」を意味すると理解してきた。

ーー

ところが支那人の「和(わ、呉音)」は、「貴方と私」、「君とボク」というときの接続詞の「と」にあたる文字です。

また「貴」は、値段が高いことを意味する。

つまり支那人は、「以和為貴」を、「値段が高い接続詞の《と》を用いる」と理解する。

これでは意味不明です。

ーー

ということは、日本書紀は、漢字で書いた日本語文であるということが分かる。

つまり、支那の「史書」とは全く違ったものであり、漢字文化圏に向けて書かれたものでもなかったということです。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>日本書紀の漢文は日本語だったと言うサプライズ
 この話を読んで、「へぇ~」とは思いましたが、対して意外には感じなかったのは、日本には、漢字伝来の相当前から、既に、表意文字が数十種類存在しており、一部は庶民層にも普及して居た様だと言う話を聴いて居たからです。

 基本的に、BC20世紀に起った、長江文明と黄河文明の衝突「=拓鹿の戦い」で、長江文明が滅亡してから以降のシナの文明は、黄河文明と呼ばれます。 

 其れまでに、2万年近い歴史を持つ農耕民の文化であった長江文明とは異なる、狩猟採集民「=北狄」の殷(BC17~11世紀?)や、遊牧民「=西戎」の周(BC11~7世紀?)であったが、是らのコショウである四蛮は、周辺の蛮族をさして生業で類別して、その民族の性向や、文化度を判断できるようにしているのですが、では「周辺の蛮族を四蛮と呼んだのは、誰か?」と言えば、間違いなく長江文明であったであろうと思います。

 つまり、中華文明と言うのは、長江文明の事だと言えますね、

 基本的には自分達で文字は創りだせても、遊牧民や狩猟採集民は、日常の生活で必要な情報と言えば、敵に関する情報が第一ですが、当然危急の場合が多く、文書を作る必要性も薄かったし、字が読めない人間が多過ぎたら、文書に口伝以上の情報価値は有りませんからね。それに下手に記録を遺しておくと逆に不都合な事の方が多かった、と思います。

 然し、長江民は、農耕民ですので、水田耕作法の伝授や気温変化や害虫や病気に対する対策を建てるのにデータを遺して置かねばなりませんので、記録書と言うものが必要になります。 ですから、1万650年前は、未だ熱帯性のインディカ種であった米が、6千年前には、温帯性のジャポニカ種に変わって居たワケでしょう。

 然し、此の変化は、実は日本で、品種改良が行われた可能性が有ります。 と言うのは、同時期に、日本でも、同じジャポニカ種が栽培されていたからです。 米の原種は、熱帯植物ですから、日本には自生して居ませんから、気候に拠って、植物が進化を見せる事に気が着いた人類は、日本に行値の品種改良を委託した、と言う推論を建てて看ました。

 すると、大陸と列島は、1万2千年以上前の氷期中から、濃密な交流の可能性が有った事に成りますね。 日本列島は、塩の向きや風の向きから言って、大陸からくるのには適して居ますが、大陸に行くには、相当の困難が伴います、ですから、古代人は、「行ったっきり」の可能性が高いですね。

 然し、海洋民の海人族は、その辺りは割と自在にこなして居たのでしょう。 そして、その情報のやり取りには、データを書き込んだ文書が必要になったのは、言うまでもない。

 唯、苗を渡されても、意味が分らない。 況してや米が美味しいかどうかは、食べて看なくては分らないが、その苗がちゃんと育つかも判らないし、食膳として低級で切るまでにするには、苗を毎年増やして行かねばならず、何年もかかる仕事だと考えれば、多くの人が情報を共有して居なければイケませんから、記録文書は必須になりますね。

 そして、必要が生じれば、自ずと、勉強が始まり、皆が文字を読めるようになるし、言葉を文字化する試みも成されただろう事は想像に難くない。 つまり、農耕には、情報を共有する必要性があったのである。

 だから、日本書紀の時代に漢字が入って来たのでは無くて、長江文明とのやり取りで、漢字は、大分前から既に一般的なもので有った可能性が有る。

 但し、その頃の日本は、南の隼人や熊曽、日本海沿岸委は、山岳・山麓部に南蛮と北狄の蝦夷族、海岸部には、東夷が棲み着いて居て、生活圏を異にして居たので、大きな争いは無く、それ処か、災害の多い列島の過酷な自然の中で、援け合いで、お互いの生業の特性を活かして、生き延びて居た。

 処が、シナ大陸に伝授したジャポニカ米は、土壌や気候に適性があり、急速に水田耕作が広がったが、水を大量に使う水田交差う方は、平野部は葦野原の低湿地帯で、居水田化するのは、大規模な感慨工事が必要だったが、そんな人手が居なかったと思われます。 

 それに、毎年の台風や大雨では、列島に暮らすものは、常に凶作に拠る飢餓を心配しなくてはならず、折角作った施設も台風で簡単に壊れ、其処に注きこんだ労力の文他の作物がで居ないとなれば、現状の人口を保つのがやっとだったであろう。 

 ダカラ、大規模な水田耕作は、列島民の夢だったのでしょう。

 もう一つ、日本の地形から言えば、河岸段丘を利用した水田造りですが、是は水利の治験的な技術が必要ですが、シナには、平地や湖沼地帯の開墾法は発達しても、川の上流の河岸段丘部を利用した水田造りと言う、限定的な技術は、情報源であったシナにはそれをする必要が無かったので、中々手に入らなかったのであろう。

 ダカラ、段丘部を利用した水田耕作法は、日本独特のモノでは無かろうか。 然し、是はフィリピンの島嶼部で、古くから行われている所謂、棚田の技法を参考にした可能性は大いにある。
 
 では、シナの遊牧民や狩猟採集民王朝が、文字表現法を手にして、凡そ、2千年近い時間が経過したのに、BC3世紀の漢代に成らなければ、文学の萌芽を感じさせる作品がそれ迄現れてこないのであろうか、実は漢代までにも、孫武の兵法書や実用書である「史書」は残されて居たし、就中、孔子や孟子がまとめた、四書五経と言われる漢籍は、シナ文明の象徴の様に謂われているが、是等が編まれたのは、BC10世紀以降の話で有ろう。

 つまりは、未だ文字は、軍略に使う以外には、使う用途が無かったと言う事である。 唯、五経の中に詩歌と言う分野が有るのは、私の勝手な想像に過ぎないが、長江遺民の楚民の手に拠るものではないだろうか。

 遊牧民の戦では、勝った方が負けた方の男性は皆殺し、文化財を含めて、全て焼き払って終うので、文字が庶民のモノに成るには、平和な時代が続く事が不可欠になるのは言うまでもない事である。

 日本の歴史で、戦乱の時代が世界水準との比較で見れば、欧州では3千年の歴史の裡、凡そ2千年は戦乱「=67%」だし、シナの4千年の歴史中平和な時期は合計しても600年足らず「=85%」であるのに対し、日本では、仮に、皇紀2679年だったとしても、戦乱の長さは650年前後「=25%以下」(倭国大乱を500年、戦国時代が160年として計算)である。

 そして是は、日本文明の内容が、庶民発のモノが多い理由にもなるだろう。

 此処で、視点を変えて看ると、日本以外の文明は、平和な時代を継続する事が難しい要素が多かった、と考えるべきで、日本文明は逆に、争わず、援け合おうと言う要素が強かった事に成るだろう。

 其れは、欧州が肥沃な土地と温暖な気候に恵まれて居なかったが故に、食糧や土地を奪い合う事が、生き延びる上で必須だったからだし、シナも、肥沃な大地に恵まれて居たが、内陸部に、飢えた遊牧民たちの脅威が恒常的にあったと言う事は、長江文明を乗っ取ったのが、黄河文明である事で論を俟たないだろう。

 自然は、神がお創りになられたモノで、天与のモノであるが、その中で、如何に人類が、共に生き延びる方法を見出すかは、人類の「気付き」の積み重ねで無くてはならないでしょうか。

 天は我々地球上に、生きとし生けるもの全てに、生命と時間をお与え下さって居るが、この命と時間を使って、我々個々がしなければならないのは、我々の先祖が為して来た様に、「皆で助け合って、平和に暮らす」事である事は、歴史が証明していると言えましょう。 其れでこそ、人類の文明は発達を遂げ、利他愛の大切さに気付ける余裕も、持てるのです。

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