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2019年2月 8日 (金)

荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概と心情を思いだす

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

平成7(1995)年11月6日に産経新聞に掲載された中静敬一郎氏による『やばいぞ日本』という記事を抜粋編集してお目にかけます。

ーー

元ハワイ州知事ジョージ・アリヨシ氏は今年で81歳になられた。

彼は、元日本の進駐軍兵士だった。

彼から手紙(英文)が、記者の手元に届いたのは今(1995)年10月中旬だった。

元知事の訴えは、 「義理、恩、おかげさま、国のために」に、日本人がもう一度思いをはせてほしい、というものだった。

ーー

終戦直後に出会った日本人少年の姿が今も、アリヨシ氏の胸に刻まれているからだ。

手紙によると、アリヨシ氏は陸軍に入隊してすぐの1945年秋、初めて東京の土を踏んだ。

ーー

丸の内の旧郵船ビルを兵舎にしていた彼が最初に出会った日本人は、靴を磨いてくれた7歳の少年だった。

言葉を交わすうち、少年が両親を失い、妹と2人で過酷な時代を生きていかねばならないことを知った。

ーー

東京は一面の焼け野原だった。

ーー

その年は大凶作で、1000万人の日本人が餓死するといわれていた。

少年は背筋を伸ばし、しっかりと受け答えしていたが、見ると空腹の様子は隠しようもなかった。

彼は兵舎に戻り、食事に出されたパンにバターとジャムを塗るとナプキンで包んだ。

ーー

持ち出しは禁じられていた。

だが、彼はすぐさま少年のところにとって返し、包みを渡した。

ーー

少年は「ありがとうございます」と言い、包みを箱に入れた。

彼は少年に、なぜ箱にしまったのか、おなかはすいていないのかと尋ねた。

少年は「おなかはすいています」といい、「3歳のマリコが家で待っています。一緒に食べたいんです」といった。

ーー

アリヨシ氏は手紙にこのときのことをつづった。

「この7歳のおなかをすかせた少年が、3歳の妹のマリコとわずか一片のパンを分かち合おうとしたことに深く感動した」と。

ーー

彼はこのあとも、ハワイ出身の仲間とともに少年を手助けしたものの、2カ月後には、米国で法律を学ぶために日本を離れた。

そして、1974年、日系人として初めてハワイ州知事に就任した。

アリヨシ氏は来日するたび、この少年のその後の人生を思い、メディアとともに彼の消息を探したが、見つけられなかった。

ーー

「私は彼に会いたかった」

「(しかし)妹の名前がマリコであることは覚えていたが、靴磨きの少年の名前は知らなかった」

ーー

記者がハワイ在住のアリヨシ氏に手紙を書いたのは先月、大阪防衛協会が発行した機関紙「まもり」の彼のコラムを見たからだ。

ーー

アリヨシ氏の手紙には、次のように記されていた

「荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概と心情を思いだす」

「それは「国のために」という日本国民の精神と犠牲を象徴するものだ」と。

ーー

今を生きる日本人に伝えたい言葉(メッセージ)が最後にこのようにしたためられていた。

ーー

幾星霜が過ぎ、日本は変わった。

今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。

ほとんどの人びとは、両親や祖父母が新しい日本を作るために払った努力と犠牲のことを知らない。

物については、望めばそのほとんどが容易に手に入る。

ーー

そうした人たちは今こそ、7歳の靴磨きの少年の家族や国を思う気概と苦闘をもう一度考えるべきである。

彼が生きていたのは、義理、責任、恩、おかげさまで、という言葉が生きて機能している環境だったはずだと思い浮かぶ。

ーー

父母が福岡県豊前市出身だった有吉氏の“祖国”への思いが凝縮されていた。

ーー

米海軍カメラマンのジョー・オダネル氏(2007年8月、85歳で死去)の心を揺さぶったのも、靴磨きの少年と似た年回りの「焼き場の少年」であった。

一枚の写真

原爆が投下された長崎市の浦上川周辺の焼き場で、少年は亡くなった弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待っている。

素足が痛々しい。

オダネル氏はその姿を1995年刊行の写真集「トランクの中の日本」(小学館発行)でこう回想している。

「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた」

「小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった」

「少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた」

(略)

「少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる」

「わき上がる熱風にも動じない」

「係員は背中の幼児を下ろし、足下の燃えさかる火の上に乗せた」

(略)  

「私は彼から目をそらすことができなかった」

「少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた」

「私はカメラのファインダーを通して涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った」

「私は彼の肩を抱いてやりたかった」

「しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度カメラのシャッターを切った」

ーー

この写真は、今も見た人の心をとらえて離さない。

フジテレビ系列の「写真物語」が先月放映した「焼き場の少年」に対し、1週間で200件近くのメールが届いたことにもうかがえる。

フジテレビによると、その内容はこうだった。

ーー

「軽い気持ちでチャンネルを合わせたのですが、冒頭から心が締め付けられ号泣してしまいました」(30代主婦)

「精いっぱい生きるという一番大切なことを改めて教えてもらったような気がします」(20代男性)。

1枚の写真からそれぞれがなにかを学び取っているようだ。

ーー

オダネル氏は前記の写真集で、もう一つの日本人の物語を語っている。

激しい雨の真夜中、事務所で当直についていたオダネル氏の前に、若い女性が入ってきた。

ほっそりとした体はびしょぬれで、黒髪もべったりと頭にはりついていた。

おじぎを繰り返しながら、私たちになにかしきりに訴えていた。

どうやら、どこかへ連れていこうとしているらしい。

ーー

それは踏切事故で10人の海兵隊員が死亡した凄惨(せいさん)な現場を教えるための命がけともいえる行動だった。

オダネル氏は次のように述べている。

「あの夜、私を事故現場まで連れていった日本女性はそのまま姿を消した」

「彼女の名前も住所も知らない」

「一言のお礼さえ伝えられなかった」

ーー

苦難にたじろがない、乏しさを分かつ、思いやり、無私、隣人愛…。

こうして日本人は、敗戦に飢餓という未曾有の危機を乗り切ることができた。

それは米軍放出やララ(LARA、国際NGO)救援物資もあったが、自らの努力と気概によるところが大きいと思う。

(国際NGOが世界中に支援しているが自力で復興した国はいまだに存在しない)

ーー

当時、米国民の中には、今日はランチを食べたことにして、その費用を日本への募金にする人が少なくなかった。

日本がララ物資の援助に感謝して、誰一人物資を横流しすることがないという外国特派員の報道が、援助の機運をさらに盛り上げたのだった。

ーー

こうした苦しい時代の物語を、親から子、子から孫へともう一度語り継ぐことが、今の社会に広がる病巣を少しでも食い止めることになる。

(中静敬一郎、産経新聞 平成7年11月6日「やばいぞ日本」より)

ーー

戦後生まれのわたしたちは素晴らしい時代を生かさせていただいている。

私の子供の頃は、舗装道路なんてそんなになかったし、道端には必ず側溝(ドブ)があったし、雨が降れば小学生の長靴など沈んでしまうくらい深い水たまりもできました。

学校給食は、コッペパンに脱脂粉乳で、校舎も木造校舎でした。

ーー

けれど、日本はみるみる豊かになり、学生たちは角帽持って反政府デモをしていた。

その横では、大人たちが黙々と毎日建設に明け暮れ、道に建物を建てる音が絶えた日がないくらいでした。

社会人になると、高度成長経済に浮かれ、入社したての新人OLが、その年の夏のボーナスで南の島やヨーロッパなどの海外旅行に出かけて行きました。

ーー

戦後70年。

その間、日本は戦禍に遭うこともなく、実際に徴兵されることもなかった。

確かに交通戦争とか企業戦争などいう言葉はありました。

おそらく自衛隊や警察官以外の人であれば、ホンモノの銃など見たこともないという人のほうが、圧倒的多数ではなかろうかと思います。

ーー

バブルは崩壊しましたが、日本は食べ物も豊富にあり、レストランに行きお金を払えば、世界中のおいしい料理を外食することができます。

今や誰もが車に乗り、冬暖かく夏涼しいエアコンの効いた部屋に住むことができる。

どこのご家庭にもテレビがあり、電子レンジがあり、冷蔵庫があります。

ーー

戦前の教育を受け、長く苦しい戦いを経験した多くの諸先輩たちが、社会の中核を担って、焼け野原から裸一貫でこの国を立てなおしておられた。

戦後生まれの私たちの世代は、ただ言われたとおりに若さと労働力を提供してきたにすぎません。

ーー

私たちの世代は、子供の頃は戦後の貧しい中で給食のコッペパンが不味いと文句を言っていた。

若い頃は「俺たちは戦争を知らない子供たちだ」といいながら口先だけの反戦を唱えた。

長じては先輩たちが爪に火を灯すようにして蓄えた貯蓄を浪費し、ついにはバブルのマネーゲームに精を出して日本の富を散財させた。

ーー

爺ちゃんたちが若かった頃は、苦しくつらい戦場でした。

オヤジの世代は、自ら汗を流して焼け野原の日本を復興した。

私たちの世代は、いったい何だったのでしょうか。

ーー

もうすこし象徴的に言うならば、

爺さんの世代は、荒れ地を耕しました。
オヤジの世代は、畑を作りました。
私たちの世代は、収穫した作物を腹いっぱい食べた。

ーー

私たちの世代は、親の代までに築き上げられた財産の恩恵にたっぷりと与(あずか)らせていただいた。

私たちの世代は、子や孫に、いったい何を残すのでしょうか。

多少のお金ですか?

そのお金も国がなくなれば、その瞬間にただの紙切れと化すのです。

ーー

敗戦後占領軍は、占領政策として、教育界、言論・メディアを支配して、日本人に「護憲、東京裁判史観、侮日」を強制してきました。

もちろんそれに協力する人たち、在日・反日勢力がいたからそんなことができたのです。

彼らは、日本人から、「義理、恩、おかげさま、お国のために」という概念を、くだらないものであるとして捨てさせた。

ーー

私たちは、子や孫のために、少なくとも教育界、言論・メディアは、在日・反日勢力から取り戻さなければならない。

そして、「義理、恩、おかげさま、お国(国民)のために」という概念を復活させるべきではないでしょうか。

感謝し、恩を忘れず、義理固く、公(国民)に奉じる、そういう精神を取り戻すことこそ、いま日本人に求められていることなのだと思っています。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>日本人が取り戻さねばならないモノ
 私が毎週、2度位歩行訓練を兼ねて、片道2㎞の元町商店街に有る喫茶店に通って居ますが、其処のママさんが、昭和11年か12年生まれの人なので、やってくるお客さんも、祖の世代の人が多くですね。

 でも、年寄の話は、年金と健康の話題ばかりなので、皆えぇ加減に飽きて居るらしく、私の様な、異なる世代の「あんちょん」の話も偶には面白いのか、この前1時間ほど、楽しく話が出来ました。

 その話の中で、今日取り上げて頂いた、「焼き場の少年」の話が出てきましたが、この写真の少年の世代は、2人のお爺さんの世代である事に気が着きましたが、お二人とも、この話をご存じでしたね。

 私が、この写真を看て、野坂昭如が「火垂るの墓」の原作を書いたに違いないと力説して居ましたら、お一人の方が「呍、そうかもしれないね、でも、野坂昭如は、私らよりかなり上の人だよ」と、仰有るので「其れは分りますが、あの作品は、戦争を一方的に悪としてしか見て居ない点で、私は納得出来ません」と言ったら,実は、厳しい反論が帰って来るのかと思いきや、意外にも「そうやね、日本も好き好んで戦争したわけや無し」。 

 そして、モゥ一人の方も「我々の世代は所謂『焼け跡派』と呼ばれている世代で、亦は『ギブミー・チョコレート世代』なんて、有り難くない呼ばれ方をされているけれど、この写真の少年の顔は、一生懸命に生きて居た私らの気持ちを代表して居る様な気がしたね」と、仰有居ました。

 「直面した時代時代で、皆、考えや生き方は、違うけれども、自分だけの為に生きようと、云う人は、少なかったと言う事ですね」と言うと、「マァそれが日本人だと言う事やろね」と言う事で、話が終わりました、後は、糖尿病の経験談の欧州でしたねwww

 この処、「日本人とは如何なるものなのか?」と言う命題に関するエピソードが、私の周りで多く語られ、都度、感動的な話を聴かされて心を揺さぶられて居ます。

 就中、日本人が、子供達に対しては、国籍や人種の分け隔てなく、中には自分の一命を賭してでも、救わんとする、然も、無私・無償の心で、特に女性が男性に負けず、その利他愛を揮って居た話を聴くと、自然に日本人の「無私・無償の利他愛」精神の原点は、日本人の日常の生活から、父母や祖父母の或いは、兄弟姉妹からの身を捨てた愛情・行為の中で育ってこそ、そうした行動を、躊躇なく出来る人間が、出来上がったものだと、確信します。

 腸チフスで死にそうなポーランド人の難民の子供を、我が身の感染の危険も顧みず、「親の暖かい愛も抱擁も知らずに、死んでゆくのは、可愛そうで見て居られない」と、その子を抱いて寝て居ました。

 結果その子は回復しましたが、看護婦の方は腸チフスに感染して亡くなってしまった。 帰国したポーランドの少年たちは、この話を語り継ぎ、日本が震災に遭うと必ず、ポーランドから救援物資や人が来るそうです。

 当時彼らは、お互い言葉が通じ合わない同志だったのに、こうした現実が残っている。 つまり、無私・無償の利他愛は、言葉を必要としない、心に直接届くものダカラ、世界中が共感する。

 つまり神が人間に与えて下さった真理であると言う事です。 釈尊は、2500年も前に、是を説いて居ますが、利他愛が仏教の教えだなんて、学校で教えてくれませんでしたし、全く知りませんでしたね。

 そして共産主義には、利他愛が世界を救う、だなんて事も書いて居ないし、彼らは、自分達より良い生活をして居る者に、とって代わる手段しか、教えて居ません。 利他愛処か、我慾だけダカラ、世界から争いが、無くならないのです。

 日本人が、取り戻さねばならない、日本の徳性とは、やはり、仏教・神道由来の、利他愛であると、思います。

 処で、ジョージ・ソロスが、2月3日に逮捕されたそうです。 内容は詳らかではありませんが、どうも、バチカンが絡んで居て、悪魔儀式に、複数の幼児を生贄に使って居た、と言う疑いの様です。でも彼は、ユダヤ教徒なんですがねぇ、続報を俟ちましょう。

縦椅子様
  今日も素晴らしいブログ有難うございます。

 今も焦土がひろがっている 私の心に
 目に浮かぶ 小学校の地下へ逃げ込み
 苦悶に顔をゆがめて 焼け死ぬ人々が
 戦争は終わっていない

 千日前にアシベ劇場があるかないかの頃
 その隣の墓石が瓦礫化した墓地で
 何故か友人となにかを話していた鮮明な記憶がある

 中学2年は長堀の分校で学んだが 校舎は焼夷弾の痕が
 生々しいバラック建てで、砲弾残る体育館の下は水浸しだった
 
 戦後はみんな生きるのに必死だった
 父母は愛情で一杯だったが、大勢の子供たちを育てるのに
 母は大変な思いをして米を調達したという
 疎開したとき、ミルクを兄弟が取りに行ってくれたり、
 服は手作り、着た切り雀で、汚れていたが、
 心は晴れていた
 
 戦争に負けた そして頑張ってきたが、まだ占領は続いている
 戦後土地を勝手に不法占拠した人達は ますますその陣地を
 拡大し、西成に大中華街をつくるそうだ
 大阪はおかしく変わろうとしている 大変だ!
 神様よ 力をかしたまえ! 大阪をまもりたまえ!

 「焼き場の少年」の少年の写真程痛々しいものはない・・・
 「原爆が投下された長崎市の浦上川周辺の焼き場で、少年は 亡くなった弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待っている」
  死んだ弟の弔いをする兄ー偉い子だ 昔の日本の子供は
 「人が人としてやるべきこと」がわかっていた

 日本は原爆を落とされた 二度も そして焦土と化した
 その焼け焦げた匂いをカズオ・イシグロ氏は作品に描出する
 氏の「遠い山まみの光」は戦後間もない長崎の町の人々の営 みを表した秀逸の作品で、焦げた匂いが再現され、心が痛む

 日本はここまで痛めつけられなければ張らないのか…
 「馬鹿にすんなよ!」と言いたくなるような現状である

そういえば、米国で日本との開戦は、
ソ連の工作のせいではなかったのか、
といったような見直しの話題が上っていると、
チラと耳にしました。
ふ~ん、何気に今後の同盟強化のためにも世論に
対しての補正をやり出すつもりかなと、言う感想を抱くのみ。

>日本はここまで痛めつけられなければ張らないのか…
との‘ばら様’の悔しくてどうしようないやり場のない
お気持ちは察するに余りあります。

単純に、彼らにとって都合の悪い思考を持ち、
そして知恵と力を持ち得る存在が邪魔なだけ
だったんです。

喩として、邪神は善神がお嫌い。
イイ格好をする優等生はいつの世も
多数の劣等生の邪魔もの扱い。
と云った処でしょう。

日本人のような思考の社会が世界に蔓延したら、
我欲の塊にとっては、都合が悪いのです。

某翻訳サイトで、時々日本の事を自分たちとは次元の
違う存在だという意味で、‘惑星日本’と表現していられる方が
いますが、まぁ、冗談抜きでそういう惑星があって欲しいものだ、
なぁんて思ったりもしています。(笑)

とはいえ、あくまで現世は修行の世界です。
簡単に言えば〈苦しむため〉にこちらに来ている訳でして、
泣き言を言ってはいられません。
しっかりと苦しんで、学び、少しでも向上して
還りたいものです・・。

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