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2019年2月28日 (木)

偏見と差別には理由がある

ーー以下「宮崎正弘ブログ読者の声(當田晋也)」より抜粋編集

貴誌5998号の(読者の声1)で鈴木秀寿氏が「今では縄文時代の一万六千年前に遡ることができる」と書かれました。

放射性同位元素の割合による年代推定では1万9千年以上前の縄文土器も見つかっています。

断言はできませんが、いずれ2万年以上前というようになると思います。

ーー

縄文遺跡に関しては面白いことがあります。

縄文中期の遺跡が北海道で見つかっていますが、同時代のアイヌ人の遺跡は見つかっていないのです。

ーー

縄文後期は世界的な気候変動で北海道に人間が住むことが困難になりました。

それ以降の最古の北海道移住民の記録は9世紀で、和人が入植したものです。

一方アイヌ人の遺跡で見つかる最古のものは14世紀のものです。

つまり遺跡から、アイヌ人が14世紀になってから北方領土や北海道に移民してきたと推定できるようになった。

ーー

そしてそこには既に和人が住んでいた(先住民は和人であった)。

つまり北海道に渡ってきたアイヌ人は不法移民であったのです。

先住者の和人は彼ら不法移民を平和裏に受け入れて共生・共存したと考えられる。

ーー

明治32年に旧土人保護法が制定され、アイヌ人の身分は不法移民から日本に帰化した日本人となりました。

また、当時小学校の義務教育は有料でしたが、アイヌ人の子弟は授業料を免除されました。

入植者には開拓地を与えられましたが、アイヌ人には入植者より広い土地が与えられました。

ーー

アイヌ人は狩猟・漁労を行っていて、農業技術を持っていなかったので、入植者に土地を貸して地主となりました。

このような破格の条件で不法移民であったアイヌ人が日本への帰化を認められたのは、日本の国柄でもあり日本人のやさしさでもあります。

(アイヌ人が国会へ請願したこともあります)

ーー

第二次大戦後農地解放が行われた時、アイヌ人活動家が、占領軍にアイヌ人の地主を農地解放から免除するように請願しました。

しかしそれは認められませんでした。

ーー

自民党が国会に上程しようとしているアイヌ法では、アイヌ人を北海道の先住民としています。

先住民は和人であったことが分かった今、アイヌ人を北海道の先住民とする話は荒唐無稽になった。

まさに、ニーチェが言ったように、「この民族、この国民をみよ」と全人類に向かって云わねばなりません。

アイヌ人が和人を差別し続ける限り、彼らは和人による偏見と差別にさらされかねない。

偏見と差別には理由があるということの証明です。

ーー

ーー以下「宮崎正弘ブログ読者の声(落合通夫)」より抜粋編集

當田晋也様の日本古代史のご意見がありました、以下感想です。

1.「古代の帰化」

古代において大陸から人が来るというのは、現代とは違い自由ではなかったと思います。

日本は既に海外で紛争を経験しており大量の外国人を入国させる危険性を知っているからです。

帰化させたのは技術の職人などもっぱら直接役に立つ人間だけでした。

大陸から二十万人もの大量の外国人が入国したという記録は日本書紀には無いと思います。  

2.「百済の話」

古代の日本は朝鮮半島南西部を四百年近く支配しました。

それが百済です。

支那王朝への交通路だったのでしょう。

この地域には多数の日本固有の前方後円墳があるので支配層に日本人がいたと類推されます。

だから百済滅亡時には王族が日本に帰国したのです。

この人達はもともと日本人だから日本語の読み書きは自由だったと思われます。

大仏建立事業では百済王敬福が「陸奥国小田郡」より産出した黄金900両(約13!))を献上したと記録されています。

これは砂金採取だけでなく金抽出の技術職人を連れてきていたのかも知れません。

「天皇(すめらぎ)の御代栄えむと 東なる 陸奥山に 黄金花咲く」大伴家持 

3.「神話と言語」

文化人類学では民族は言語と神話により区別します。

が、日本には朝鮮の神話や朝鮮語は見つかりません。

(民族としては朝鮮半島とは)関係が無かったのです。

4.「通訳の話」

日本と朝鮮は別の言語ですから片言会話の他公的には通訳がいたとみるべきでしょう。

重要な話は片言の外国語では出来ませんから。

ただ身分が低いので歴史記録に載っていないのでしょう。

なお百済は別として新羅に仕えた日本人の話はききません。

新羅も警戒するはずです。

また言葉が出来たから帰国して日本の外交をしていたということはないでしょう。

外交は国防を含む独立国家の最高機密ですから。

そのような記録は聞いたことがありません。    

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経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>古代日本と半島との関わり
 ご紹介の記事を読んでみて、私が考えて来た半島史とは少し相違を感じましたので、書きに述べて看ます。

 抑、百濟の成り立ちは諸説あって、紀元前11世紀に滅んだ、殷の遺臣が、半島に落ち延び、山間部に居た濊族や扶余族を纏めて勢力化したモノで、BC10世紀初頭の発足で有ったと言う説を信じてきましたが、確かに、その頃の百済の勢力は、半島全土にはお読んで居なくて、北西部は高句麗を始めとする遊牧民が、北東部分は靺鞨族と言うツングース系の半農半牧の民族が国を形成する事無く存在して居たと考えます。

 半島の文化の起源は、満州方面から渤海湾に流入する遼河だと言われて居ますが、単純に水資源の在る処には、人類の生活痕が残って居ると言う原理原則に、数点の出土した遺物を以て、文明と称しているレベルに過ぎません。

 簡単に考えて、遼河周辺域では、遼河が陶器は凍結して、飲料水を期待できない事や、畑作等も寒冷過ぎて、作物を収穫するまでに至らなかったと考えるべきだからです。 大陸の寒気は、同じ大陸島の西側のメキシコ湾流と言う世界有数の大暖流の影響は、期待できませんでしたので、半島の気候は、晩くまで、シベリア並みで有ったと考えるべきでしょう。

 つまりは半島の山岳部には、晩くまで氷河が残っており、其処から出て来る融水は非常に冷たく、15℃以上で無ければ実を結ばない、熱帯原産の水稲等の栽培には、カナリ後の時代で無ければ、半島での栽培は無理であったと考えられています。

 列島民が、半島開拓に乗り出したのは、BC74~69世紀頃に九州全土を覆った、鬼界カルデラを創った、海底火山の終局的爆発で、九州の南~中部迄が、火砕流を伴った巨大津波で、埋没し多くの犠牲者を出しました。 生き残った人々も、行き場を失って、已むを得ず半島に耕地を求めて移住したモノを嚆矢とするモノで、BC70世紀の話でしょう。

 その頃既に、列島には水稲が伝わって居ましたが、未だ気候が不安定な状況で、大きな労働力を割かねば栽培出来ない水稲は一歩間違えば、飢饉で全滅の危機を含んで居たので、大規模に行うには、躊躇いが有ったでしょう。 然し、半島で大規模水田耕作の展開を期待して居たかもしれません。 

 然し、半島の気候は冷涼な上に、少雨でしたので水稲耕作は、早晩諦めて、畑作農業が中心でしたが、平野部は氷期明けから手つかずでしたので、湖水地帯、湿地帯が多く、開墾事業が必要でしたから、収量は生活して行くのがやっと状況でした、BC10世紀に誕生した百濟も、この地への関心を持ちませんでした。
 
 百済王は絶えず、シナ本土からの侵略を懼れて警戒して居ましたが、対岸の山東半島付近に長江遺民である南蛮族(苗族)が、戦争の度に、最前線に送られて、その数を減らして居る事を聞いて集団で、移民を受け容れ、半島の最奥部の慶州の山間部に、居留地を与えます。

 処が彼らは、固より火を使う事に長けて、山を焼いて畑地にしたり、陶器を焼いたりできる上、山を看て鉱物資源を堀あてる事も出来る文化創生民でしたから、忽ちの裡に、鉄を堀あてて、当時のシナは戦国時代ですから、鉄は金よりも価値が高かったわけで、その交易ネタの鉄を、海路でシナに運んで、利益にしてくれる手段を持つモノとして、半島南部に遺って居た列島からの古い先住民を通じて、シナと交易が有った海人族に委ねます。

 海人族はBC7~6世紀に、一部の海人族が、近畿を目指して東征して、棲んで居た蝦夷族や長江遺民の呉や越からの遺民も平和裏に平定して、新興勢力としてシナでは、「倭人の国」と呼び恐れられていたので、慶州の長江遺民は海人族「=倭族」に頼る事にしました。

 然し、面白くないのは、この土地を貸与えて居た心算の百済で、最初は、倭に対して抗議をしましたが、全く相手にされない処か、反対に恫喝される有り様。其処で、慶州の遺民に抗議をした処、当然、争いに成って、両国は倭に、仲裁を頼む事に成った。

 こうして、倭が主体に成った鉄貿易の仕組みが出来上がり、半島産出の鉄は、飛ぶように売れて、倭は、強大に成って行ったので百済は、倭に近づいて百済の文物(実はシナ由来の)を売りつけました。 

 一方新羅は、山中で鉄の発掘に勤しむ傍ら、平野部に進出して、湿地帯の荒れ地を開墾して、穀倉地帯を創り上げ、百済と和睦して、国名を新羅と名乗る了解を取り付けます。

 すると、九州の倭族特に熊襲側と、百済・新羅国との親交が深まり、是が、百済・新羅・倭の連合で、近畿の大和朝廷の支配から独立して、鉄貿易の利益を独占しようと言う計画が、仲哀帝の御代に持ち上がり、仲哀帝は御自ら身重の神功皇后と岳父の武内宿祢を伴って三韓征伐に乗り出します。

 紀元3世紀初頭の事です。 この戦いの敵の主力は、当然、九州の熊曽勢力でしたし、九州から半島に遠征した隙に九州を抑えられたら、遠征軍は半島と九州に挟撃を受けるワケで、当然、熊襲平定の方が優先したわけですが、仲哀帝は、熊襲の流れ矢に当たって落命して終います。

 然し、遺された遠征軍は熊襲群を平定したので、遠征軍が半島に問う茶帰した時点で、反乱軍は白旗を掲げ、恭順の意を示しますが、九州勢力の倭族の平定はその後も続き、三韓征伐の途中で出産した応神帝はが、大和に還れたのは30年以上経ってからでしたし、中央に対する反感は、その後も続き、5世紀にも磐井の乱が起って居ますし、8世紀には隼人の乱も、起って居ます。

 都度、半島勢力が関係して居たモノと推察されますが、半島では約千年間掘った鉄資源が5世紀頃枯渇して、鉄貿易が廃れた後、シナ勢力や遊牧民の侵入が始まって、半島の民族が複雑化し始めます。 

 特に、遊牧民の南下が幾度も起ったので、先住民の倭族たちは、島嶼部に或いは、九州に避難し始めたのだと、私は理解して来ました。

 唯、確かに、大和朝廷が百済との関係を深めて居たのは間違いがない事ですが、その意図が不明です。 応神帝以降の、難波潟に続く唯に湿地帯だった大阪平野を大開墾事業の末に、大穀倉地帯を創り上げた事で、河内王朝は、「倭の五王」とシナの宋王朝から畏れられていましたが、固より海人族の大和王朝が、よもや、大陸侵攻の心算が有った戸は思えません。

 百済に、拠点を置き、前方後円墳を遺したのは、鉄貿易を管理して居た倭族である九州熊襲族ではないかと、私は思います。

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