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2019年2月27日 (水)

事の是非、敢えてを言はじ いのちかけて 逃げし心を かなしむ吾は

本を読んで書評を書くのはとても手間のいる作業である。

まず著者の主張する内容を把握しなければならない。

そうでないと書評自体が的(まと)外れとなってしまうからだ。

ーー

このブログでよく取り上げる宮崎正弘氏による書評は、原本を読んだ気にさせるほどの力がある。

とりわけ詩人についての氏の評価は正鵠(せいこく、まと)を射ていると感心させられる。

「西郷(隆盛)は詩人であった」という氏の名言と共に、「宮崎氏は詩人に違いない」と思っている。

つまり宮崎氏は「もののあわれ」を知る人なのだ。

ーー

今日もその宮崎氏の「歌人を評した」書評をお目にかける。

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

伊藤悠可『もう一人の昭和維新―歌人将軍・斎藤瀏の二・二六』(啓文社書房)

斎藤 瀏(さいとう りゅう、1879年4月16日 - 1953年7月5日)は日露戦争の奉天会戦で果敢に戦い金鴲(きんし)勲章(武人に与えられた勲章)を授与された。

ーー

参謀少佐として満州の奥地に潜入し軍事探偵という非常に危険な任務を帯びたこともあった。

やがて第十一旅団司令官少将に昇進したが、その時に、支那国民党軍による日本人襲撃、いわゆる済南事件(1928年)が起きた。

その際、支那人らが、「陵辱」という犯罪を、愉しみながらおこなうのを目撃した。

それで齋藤は支那人の暴徒を鎮圧した。

ーー

ところが内地では真っ逆さまの評価で、齋藤は軍務を解かれた。

(まるで現在の国会をみるように)

「(民政党の議員が)残虐な事件に遭遇した邦人の命よりも、齋藤旅団の砲撃によって傷ついたのではないかと済南の文化財を心配し、傷つけたなら日本政府が弁償しなければならないと国会で主張した」

当然ながら国民は政治に不信を抱いた。

ーー

事件の責任を問われ、齋藤は退役、予備少将となった。

北一輝に心酔し、のちに昭和維新に突進する栗原とは親戚づきあいだった。

だが、齋藤は北一輝の思想に疑念を抱いた。

ーー

伊藤氏はこう言う。  

「齋藤の国家観、歴史観と北一輝の国体概念とは相当の距離があっ(た)」

斎藤は「(北一輝の)進化論に基づいた社会改造など新思想の鋳型による不自然な国家観」であるとした。

「民族精神を信じていた齋藤には、北一輝の革命理論と国家改造への共感は遂に湧かなかった」(p170)

ーー

斎藤瀏は維新の精神を深く理解していた。

この文筆家将軍は歌人・若山牧水の親友であり、自身の歌の師は佐佐木信綱だった。

二・二六の蹶起に寄り添って、なお気高く詩歌を詠みつつも、昭和史の裏面を冷徹に、悠々と綴った。

詠んだ歌のひとつはある時、聖上の目にとまった。

ーー

歌人将軍と言われるようになった彼は、若者達の志(こころざし)に同調し蹶起(けっき)直前に青年将校に資金を渡した。

そのため幇助(ほうじょ)罪に問われ、禁固五年の刑を言い渡されるも、病気が進み二年で仮出獄した。

しかし、世間は彼の行為をよく理解していたためか暖かく迎えた。

ーー

伊藤氏は「歌人」としての独特な視点から二・二六に関与した将軍の人生を見つめ直したのである。

評者(宮崎)自身は、二・二六にそれほどの関心がない。

戦後生まれの世代の時代感覚としては先の大戦の追体験が重たく、切迫したものであり、その前のことは歴史的、回想の物語に属するからだ。

ーー

石原莞爾を評価する人が多いが、評者は、やや胡散臭い軍人であり、その評価は過剰であろうと思ってきた。

北一輝に至っては社会主義的革新性が強く、ほとんど無縁の存在であった。

とういうわけで、実はこの物語の主人公である斎藤瀏将軍について何ほどの知識もなかった。

ーー

二・二六といえば、蹶起した将校らの精神を描いた三島由紀夫の諸作品がある。

三島は将校らに「恋闕(れんけつ)」つまり、「天皇への至誠の愛」を見出し、それを鮮やかな筆力で描いた。

井尻千男(いじりかずお)は、明智光秀を論じ、本能寺の変を「義挙」と言った。

そして井尻は「明智の行為と二・二六の将校に近似をみるのだ」と書いた。

ーー

評者(宮崎)は井尻のこの『近似』説に深く思い至る。

それは、義挙を期待し、煽っておきながら、いざ事件が起こり、事態が収束に向かうと、扇動者、指導者とみられた橋本、石原が日和ったことにある。

まさに本能寺の変後、細川、吉田が日和ったことに酷似しているではないか。

ーー

誠仁(さねひと)親王は四日後に明智の義挙を『謀反』と規定した。

秀吉は、それをうまく使い、光秀を主殺(ぬしごろ)しだと言いふらした(宣伝した)。

そして、自らの政治的地歩を固めている。

何時の世にもある巧妙な処世である。

ーー

このように見れば、「本能寺の変」と「二・二六事件」はなるほど酷似している。

ーー

二・二六事件は、二十四時間後に『叛乱』と規定され、決起部隊の周囲を一万数千の正規軍が囲み、東京湾には海軍艦船が陣取った。

世渡りのうまい政治家、軍人はさっと立ち位置を変えた。

一方齋藤は共犯とされ、五年の禁固刑がくだり、軍の戦功、勲章が剥奪され、獄に繫がれた。

ーー

獄で齋藤は歌を詠んだ。

事の是非、敢えてを言はじ いのちかけて 逃げし心を かなしむ吾は

そして獄中で齋藤は本格的に記紀・万葉の世界に浸(ひた)る日々を送った。

齋藤の生き方は哀切かつ悲壮だが、彼は最後まで愛国の志操を貫いた。

ーー

重厚なテーマ、不穏な状況のなかで起きた歴史的事件の数々。

二・二六事件を扱った歴史評論、伝記、史論、小説あまたある、その中でもひときわ労作である。

なれど著者・伊藤氏の文体は爽快、淡泊にして速度があり、読後感はなぜか晴れ晴れとしている。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>2・26事件と斎藤将軍
 私は、この斎将軍と言う人を全く知りませんでしたが、立派な方だと思います。 其れは時流を読む感覚も、判断力も人一倍優れて居乍ら、2・26で蹶起した青年将校たちに共感した、ご自分の心に殉じたと言う点で、私は、逃げて居ないと思いますね、最後まで士(もののふ)であり続けた人だと思います。 橋本や石原は、功名心の方が勝って居たと言う事でしょうね。

 戦前の勲功評価基準は、国家に対する忠勲・功績を諮らるものダカラ、例えば、西南戦争を起こした西郷隆盛は、維新で大功績が有ったのに、永らく国賊扱いでした。 然し、名誉を回復されるや否や、勲1等、正2位ですからね。 明治大帝や国民の支持が大きかったのでしょう。 

 然し戦後の勲功評価基準を考えれば、モゥ滅茶苦茶なので、私などのへそ曲がりは、素直に凄い人だなぁとは、思えません。 戦前の様に、ちゃんと、公の建前と本音の境界が世論にも分る様に改革して貰いたいですね。

 斎藤将軍の様に、金鵄勲章を取り消されたのは、ご本人にとっては、覚悟の上の事なのでしょうし、家族に取っては、年金が入って来なくなったと言う痛手になったでしょうが、家族に異論はなかったモノと推量します。

 斎藤将軍の人生は、最初は苦難は有ったけれど、順調で功成り名を遂げたのだけれど、ご自分の信じる道を試す様な、事件が起こり、その判断で敢えてネガティブでも、自分の心に正直な生き方を選択したと言う事でしょう。

 享年74歳/昭和28年ですから、2・26が有った昭和11年には57歳だったワケですから、現代ならモゥ一花咲かせる事が出来る歳ですが、途中に戦争が有りましたし、終戦後のモノ不足の中では、生きて行くのも大変でしたでしょうね。 でも、キット、日本の行く末を案じながら、あの世に逝かれたと、思います(合掌)。

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