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2019年1月 2日 (水)

西洋の画家達は「浮世絵に意味や信仰がない」と誤解し続けた

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

田中英道『日本が世界で輝く時代』(育鵬社)

田中氏は神武天皇による肇国(ちょうこく、建国)からの皇紀を尊重される。

が、本書で日本歴史を論ずるに「一万六千五百年」という新解釈を用いておられる。

すなわち縄文時代を測定し、日本の歴史の曙(あけぼの)は16500年前から拓(ひら)けたとされる。

ーー

このことは評者(宮崎)も、三内丸山、亀岡などの縄文遺跡などをみて確信している。

ーー

神道(しんとう)は自然発生的に、すでに縄文時代のわれわれの祖先達の祈りと祭りの中枢にあった。

そして、日本独自の文化形成に大きな役割を担った。

神道は一万年以上もの間のうちに、日本人の日々の生活に、ひとびとの心の中に浸透していた。

ーー

聖徳太子以来は神仏混合という、独自な多神教の世界が形成され、世界でも稀有の芸術が確立してゆく。

ーー

最近、パリへ講演に出かけた田中氏は、もはや仏蘭西文化が死に絶えていることに改めて失望の念を深くしたという。

ーー

1972年に、評者(宮崎)は、初めて「憧れのパリ」へ行った。

そのときでさえ、『嗚呼、この町は死んでいる、活気がない』と思ったのだった。

モンマルトルの絵描きたちの販売する絵画を見ながら、なんとつまらないとも思った。

ーー

かつて花の都パリは世界の芸術家が集まっていた。

シャンゼリーゼのカフェには綺羅星のように、ヘミングウェイもサルトルも、カミュも藤田嗣治もいた。

ベルサイユ宮殿の設計思想、その城の美はロシアへ、ドイツへ、オーストリアへ伝わった。

ーー

田中氏が留学されていた時のパリは、「欧州文化の粋としてのフランス」だった。

その古き良き時代のパリは劇的に衰退した。

(破壊した最大の元凶は移民だが、そのことを本書では指摘されていない)

ーー

いまのパリは「力の政治、金銭、物質一辺倒の国」だ。

最近もパリに講演に行かれ、反マクロンのデモを目撃してきたばかりの田中氏は、あの「理想のパリのイメージはもはやない」とつい慨嘆するのだ。

ーー

代わりにパリの芸術界を席巻し始めたのが日本文化である。

とりわけ浮世絵の研究が進み、一つのブームでもある。

だが、日本人的には違和感がある。

フランスの画家たちは浮世絵を誤解していると思われてならないのだ。

ーー

田中氏は次を強調される。

「北斎の浮世絵はすべて、日本の伝統的な主題をもっています」

「とくに彼らに最も影響を与えた『富岳三十六景』は、富士信仰という、神道における自然信仰を主題に描かれた」

「フランスの画家達が発見した純粋な形、色の世界ではなかった」

(北斎は純粋な形や色を追求し表現したのではなかった)

ーー

「彼らは、浮世絵に添えられた小さな詞書(ことばが)きを無視した」

「(そのため)それが単純な版画の色面で組みあわされた、純粋な形の世界だとおもった」

「この日本の浮世絵を基礎に『印象派』が誕生し、これまでの西洋絵画を一変させた」

「そしてマネ、モネ、セザンヌ、ゴッホ、などによって、北斎は、世界最高の画家の一人として認知された」

ーー

西洋の画家達は「浮世絵に意味や信仰がない」と誤解し続けたのだ。

ーー

田中氏は次のように総括する。

「フランスは西洋の文化の衰退を象徴するほどに文化的に凋落する一方で、ジャポニズムが深く静かに浸透し、日本文化への理解度は極めて高くなった」と。

パリのジャポニズム展の会場で、リトアニアの美学者が田中氏に告げた、「今や世界の文化の中心は、フランスではなくて、日本だ」と。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難う御座います。
>>西洋文化と日本文化の根本的な違い
 私が中学生の頃、思っていたのは、例えば文学作品で、日本は、自然と人間を別々に描いて、「自然の中の人間」と言う、余白「=読者に想像させる余地」を遺す事で、読者の中に入りこむ効果を持たせているが、西洋の作品は、殆ど人間の心象風景を描き、自然や環境が人間に与える現象を描写して、共感を得て居る様に思って居ました。

 つまり、西洋の芸術は「説明的」であるのに対し、日本の芸術は「余白」や「言外」に有ると言って良い、即ち読み手や鑑賞者の想像力を喚起する事に有ると思います。 その私の確信は、50年経った現在も、未だに変わりません。

 日本の南画や狩野派の襖絵等は、目的に応じて描かれて居ますが、そこにも工夫が凝らしてあり、「何処から見ても正面に見える様な描き方」をした絵等は、観て居る者を飽きさせないと言う、目的も秘めて居ますね。

 斯うした鑑賞者の目を意識した書き方が浮世絵で、何せ、庶民向けの売り物ですから、欧州の様な、王侯貴族のお抱え絵師が、時間を懸けて一枚の絵を描くのとは目的からして大きく違います。 日本の芸術は、庶民で愉しめるモノで無くてはならなかった。

 それにしても、欧州の絵画の宗教への傾倒ぶりは、異常なモノが有ると思って居ます。 大体、ユダヤ教の時点で、神を形象する様なモノは、名前さえ許さなかった、ヤハウェやエホバという呼び名が、母音が無いヘブライ文字であらわす、神「=YHWH」を後世の人々が、勝手に母音を着けて読んだだけと言う徹底ぶりなのだから、絵画は勿論、銅像や石像など以ての外であった。

 然し後のキリスト教を国教としたローマでは、そんな禁忌はお構いなしにイエスの磔刑の姿を、十字架として、信者のシンボルにした。 つまり、この時点で宗教も変質を許されているワケで、本来、ゲッセネ派ユダヤ教に過ぎないキリスト教が、様々な付加を受け容れて、何か別の新たな宗教に変容して居ると言う他は無い。

 本来であれば、ユダヤ族に、宗教的な芸術が存在しない様に、キリスト教にも宗教的な芸術は存在してはイケない筈で有る。 なのに、日本の絵画には、宗教的な要素が欠けていると言う指摘は、余りに歴史を知らなさ過ぎて、頓珍漢であるとしか言いようがない。

 まぁ確かに、日本の神様も形象物を嫌っている、日本の絵画や彫刻や像は、仏教関連のものに限られよう。 それも、仏像は数えきれない程、創られているが、仏画は、殆ど残されて居ないと言って良い。

 恥ずかしながら、浅学な私が知って居るのは、狩野芳崖の悲母観音像位なものである。 何故、仏画は残らなかったのかは、定かではないが、焼失したと言う可能性が一番高いと思われますね。

 其れに、日本の大衆に取って、神仏は身近な物であり、毎日拝む太陽や月の様な、「当たり前の存在」で有って、西洋の様に、教会に行かねば会えないモノでは無かった。 日本では、家に神棚や仏壇を設置してさえいれば、毎日の生活を共にしてくれるのだから、どちらが信心深いかと問われれば、直ぐに答えは出るだろう。

 是は、神様が自然と一体で、人間もその一部であり、時に荒ぶる一面を見せるが、基本的に人間を助けて下さる存在、と言う考えと、神様は人間とは、全く別の存在で、人間を支配し、時には罰する恐ろしさも持って居る、と言うのでは、同じ神様でも、全く別物であると考える他は無い。

 ダカラ、江戸末期に日本に来訪して来た西洋人が、「何故日本にはクリスチャニティが無いのに、人々は道徳的なのだ?」と訝しがったと言うが、それは、図らずも、西洋人の道徳的な規範が、キリスト教しか無かった事の証拠で有り、キリスト教徒で無ければ、野蛮人だと言う決め付けをそのまま信じこんで居る未開な人々であると言う事でもあろう。

 異文化の融合が、この様に滑稽なものもあったのは、微笑ましいが、其れは、日本文化に厚みが有って、庶民レベルでも、西洋風の唯我独尊的な傲岸すら、大きく受け止める事が出来、西洋文明の優れた処を、笑って受け容れる懐の深さが有ったと思いますね。

 然し、例えば、森鴎外林太郎の様に、ドイツに医学を学びに洋行したモノが、有る茶会に招かれたが、其処で、明治政府からお雇い学者として日本に長期滞在して居た、ナウマンと言う学者が、ドウセ判らないだろうと思ってか、日本の悪口を散々云っていたが、森は、その言辞を悉く解して居たので、手を挙げて、反論した。

 「確かに我々はドイツに、異文化を学びに来ている、然し、其れは多寡が500年の洋智に過ぎない。然るに我々日本人は、2500年に喃々とする長きに亘り、神性を磨いて来た。 ダカラ、貴方方の様に、同じ人間なのに、宗教が違う、習慣が違う、容姿が違う、肌の色が違うからと言って、人間ではないかの様な扱いを平気でするが、是は人間として恥ずかしい事であろう。 我々、日本人は、異民族に接するに、寛恕の心を以て接する様に教えられている。 先程から聞いて居ると、ナウマン氏は無礼千万な言辞を弄している。 然るに、武士は恥を忍ぶ事もあるが、公に辱めを受けたままでは、黙って引き下がるワケには、部門の名折れである。 従い、前言に訂正なくば、この場で決闘を申し込む」と、持って居た白い手袋をナウマンに投げた。

 ナウマンは、この反論に恐れ戦き、慌てふためいて謝罪すると共に、その場を早々に逃げ去った、と言う実話が有ります。 正に日本男児此処に在り、で、会場は大きなどよめきと、その後に万雷の拍手で、彼ら日本人留学生を称えたそうですが、一緒に居た、大山巌他は、ドイツ語が不自由な為、何が何だかわからなかったそうです。

 ですから、明治の人は、江戸時代の日本人の誇りを持って居たので、斯う言う侮蔑にも臆することなく、自分の主張を命がけで出来たのです。 我々が、戦後74年間に失って終ったモノが此処にも有る様な気がしますね。 この誇りを、そして気概を我々は、取り戻さねばならないと切に思って居ます。

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