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2019年1月 4日 (金)

邪馬台国なる国があったなどいうのは、でっち上げの産物であり、歴史学的にも信憑性がなにひとつない

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

田中英道『邪馬台国は存在しなかった』(勉誠出版)

『魏志倭人伝』は『三国志』の一部であり、四百字原稿用紙換算で五枚にも満たない。

wikipediaによると、『三国志』の成立時期は西晋による支那統一後の280年以降とされる。

現在通行している版本は4種ある。

ーー

百衲本(宋本) - 紹興年間(1131年-1162年)の刻本が現存する最古の底本である。ただし一部欠落があるため、紹熙年間の刻本で補い、張元済が民国25年に編した。

武英殿本(殿本) - 明代の北監本を底本に陳浩らが乾隆41年に編した。政府部局である武英殿書局による欽定本。

金陵活字本(馮本) - 明代の南監馮夢禎本を底本に曽国藩が設立した金陵書局が同治9年(1870年)に編した。

江南書局本(毛本) - 毛氏汲古閣本を底本に曽国藩が設立した江南書局が光緒13年(1887年)に編した。

ーー

日本人が『三国志』を知ったのは、宋以来のことであることがわかる。

(吉川英治の「三国志」は明代に書かれた小説「三国志演義」による)

ーー

しかし今では、支那人が平気で嘘を吐くことは、巷間・広く知られている。

例えば日本人は、敗戦以来、支那人の嘘「南京大虐殺」で苦しめられてきた。

また戦後の日本人は学校で、1949年に興った新興国を5千年の歴史ある中国だと強制されてきたのである。

(多民族の居住する支那大陸には中国(支那)人など居なかったのでその民族の記録も存在しない)

ーー

そして日本では、魏志倭人伝の記述を唯一の根拠に、邪馬台国は北九州だ、いや畿内だと論争喧しく、およそ1000冊の書籍が書かれた。

ーー

読者の声3落合道夫)「邪馬台国について」

皆様ご存じと思いますが、江戸時代新井白石がすでに、『魏志倭人伝』は当時の支那人が日本人から古事記の話を聴いて作成したものではないかと推察しています。  

卑弥呼は「日の御子」の音を漢字化したのではないかという。  

『魏志倭人伝』が『古事記』の伝聞だったとすれば、卑弥呼の話と日本神話が類似しているのは当然になります。

そうなると邪馬台国は高天原(たかまがはら)にあることになり、探査は不可能です。    

ーー引用ここまで

日本書紀には、旧字の台を「と」と読むと記されている。

現に、卑弥呼の妹・台与は「とよ」と読まれている。

しかも、一文字一音で読んでいるにも関わらず、わざわざ台の部分だけ「たい」と読んでいるのだ。

(一部の人は、その字をわざわざ台ではないと言いながらも「たい」と読んでいる)

ーー

田中氏は、まず魏志倭人伝がなぜ書かれたかという執筆動機から説き起こしている。

ついで日本全国どこにも卑弥呼伝説も伝承もなく、まして卑弥呼神社が存在しない。

(昭和57年に、鹿児島県霧島市隼人に卑弥呼神社を建てたバカがいる)

ーー

田中氏は、「邪馬台国なる国があったなどいうのは、でっち上げの産物であり、歴史学的にも信憑性がなにひとつない」と断言する。

ーー

「倭人」とか、「卑弥呼」とか、明らかに蔑称である。

「邪馬台国また卑弥呼という言葉が蔑称であることを一般の多くの人はあまり意識しないようです」

「『魏志倭人伝』は、国の名に『邪』、女性の名に『卑』と、わざわざ侮蔑的な意味の漢字をあてています」

「そこにはすでに、相手を平等に直視しない態度があるのです」

ーー

日本には敗戦後占領軍に協力することで敗戦利得者となった人たちがいる。

ネット上では彼らは在日・反日勢力と呼ばれており、戦後、政財界・教育界・言論・メディア・法曹界を支配した。

だから日本の言論・メディアは、彼らの敗戦利得を守るために、占領軍由来の禁止用語集(ラジオ・プレス・コード・リスト)で言論を検閲し弾圧している。

そして日本人に「護憲、東京裁判史観、侮日」を強制してきた。

ーー

「日本の歴史学者はこのように、我が国についての記述が軽蔑的であっても平気です」

ーー

だからこそ、在日・反日勢力は、日本人に邪馬台国捜しをさせ、卑弥呼が誰かなどという詮索をさせたのだ。

もともとが嘘なのだから、本気で相手をするのは馬鹿馬鹿しい作業でしかない。

ーー

本書では邪馬台国なるものが存在しなかったことを多方面から証明してみせる。

それに対し今のところ、これまで邪馬台国なるものが存在するかのように言ってきた、歴史学者らは沈黙したままなのである。     

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経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

縦椅子様、ブログ更新をありがとうございます。

中国人は嘘を当たり前のように吐きますし、此にを疑うものではありません。

三国志の版元が4種あって、それらはいずれも宋から明の底本で、此を日本の明治時代に偏したと言うことである。
江戸時代の新井白石が、当時の支那人が日本の古事記の話を聞いて三国志の魏志倭人伝を作成したと推察している。

しかし、日本の古事記も天武天皇が支那の歴史書を参考に、編纂するよう命じたとのことを読んだことがありました。
また、台と言う文字を「たい」と読んでいるとのことですが、古田武彦氏は「いち」の字を「たい」と読み誤ったものとの説を立てていました。
古田氏は、「邪馬台国はなかった」との著作を著しましたけれど、古田氏に伺ったところ、「邪馬たい国はなかったけれど、やまいち国はあった。」とのことでしたから、古田氏は文字のことだけは正確に検証したのは間違いないと思っています。

其れが、今度は本当に「邪馬台国は全くなかった。」との説を打ち出す人が現れたのでは、どう考えて良いのかと思うのですけれど、いやはや。

支那は中華思想というのか(中華という文字と意味がいつ現れたのかも検証しなければなりませんけれど)、自国を持ち上げ、多国をしたに見る習性があり、これは、「邪馬台国」、「卑弥呼」、に限らず、「東夷、西戎、北狄、南蛮」もあり、自国を持ち上げる習性は敗戦後の敗戦利得者に阿ったような浅いものではないと思います。
敗戦直後には、「中国」の表現を気に入った蒋介石氏が、その後にこの「中国」を使うことにしたため、日本の「中国地方」の呼称を辞めて欲しいと言ったとのことも読んだことがありました。

従って、ここにプレスコードの影響があるとは、考えにくいです。
「邪馬台国,「卑弥呼」が影響されているとは思いませんが、「中国」と言う現在の呼称の方が、敗戦後のプレスコードの影響だと思えます。

>だからこそ、在日・反日勢力は、日本人に邪馬台国捜しをさせ、卑弥呼が誰かなどという詮索をさせたのだ。

此は、現在の東大は九州説で、京大が近畿説を採るような邪馬台国の存在ですけど、敗戦後に出てきた江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」の方が余程影響を与えたものであったと思います。
ただし、「騎馬民族征服王朝説」は、今では完全に否定されたと思っています。

>それに対し今のところ、これまで邪馬台国なるものが存在するかのように言ってきた、歴史学者らは沈黙したままなのである。 

邪馬台国の存在位置で何十年も論争してきた日本の学会ですけれど、最近は余りにも沢山の説がありすぎて、新説が出てきても其れへの反応が鈍くなっているというか、この論争に疲れてきているような気もします。
それでも、邪馬台国論争は、日本人のロマンになっているのだと思います。

>縦椅子様 
明けましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話に成りました、本年もどうぞ宜しくお願い致します。
>>邪馬台国は、空想の産物
 私は、日本の仲哀帝と神功皇后の三韓征伐が、西暦では一体何ね立ったのか?とか、「倭国大乱」は、何時の事なのか? 其れは如何なる原因で起こり、何故皇統に「欠史八代」が存在するのか? 

 そして神武東征が、大した武力も持たずに、然したる戦争も無く、穀倉地帯の中国地方を抜く事が出来、難波の津「=河内潟」で、長脛彦の軍勢に排撃され、2人の皇子を失い乍らも、紀伊半島を回って志摩に上陸して、何故、見知らぬ土地で態勢を立て直す事が出来て、東から、長脛彦の故地を殲滅する事が出来たのか? と。色々な疑問を持って居ます。

 先ず、東征に参加した九州の軍勢は、大伴氏と久米氏で有り、双方の豪族も出自は、海人族「=東シナ海一帯を根城とする東夷族で倭族はその一派」なので、海上交通路を使って、然も、船に寝泊まりしながら兵站の補給も海上伝いに受けていたから、陸上での徴発古道も無かったので、争いが起こらなかった、と考えます。

 それに、「神武東征」は、武力に頼った征伐では無く、水害に苦しむ水田耕作民に対する、水耕稲作の新たな耕作法や治水技術、或いは、製塩砲法の伝授ではなかったかと思って居ます。 ですから、戦は無かったけれど、水田の耕作技術をちゃんと定着させる為には、少なくとも、一か所3年乃至4年は懸りますから、中国地方を抜くのに、16年を要しているのだと思います。

 つまり、中国地方には、周防~安芸、安芸~吉備、吉備~播磨、播磨~丹波と有るわけですが、長脛彦の棲む近畿に近づくにつれ、水田耕作を行わない、豪族が増え始めて、中々、争い無しには上手く行かなくなったのでしょう。 ですから、九州から援軍を読んだ可能性もあるし、中国の吉備や播磨の豪族が、出兵した可能性もあります。 近畿の長脛彦は、中国の豪族にとっても、東への進出の障害だった可能性が高いのです。
 
 そう考えて行くと、卑弥呼の邪馬台国は、一体どうなるのか? と言う疑問が生じます。「卑」とか「邪」と言う事をあえて使っているのは、魏の歴史書だと言って居るので、シナに言う四蛮と同じく、中華思想の為せる業かと思って気にしなかったのですが、まぁ、他にも、倭「=小さい、小人」とか、「奴の国王」とか、無礼千万なのが、シナ流なのだろうと思って居ました。 

 ですから、上辺は取り繕って居ても、腹の底では、傲岸不遜なのが、シナ人の正体であると、思って居ますし、大連で生まれ大連で育った、私の母親も「漢人は信用ならない」と言って居ましたね。私も、是までのシナ人との付き合いで同じ感想を持って居ます。

 田中英道さんが、「魏志倭人伝は、創作だ」と断じて下されば、私は非常に助かります。 と言うのは、神武東征が行われたのは、BC18~17世紀、或いは、BC7~6世紀ではないかと思っていましたので、神武帝が大和の地に王朝を開いたけれど、固より、武力で従わせたわけでは無いので、吉備勢力と地元の葛城勢力は、対立しただろうし、その均衡を保って居たのは神武帝が連れて来た、九州の豪族達で有った筈。 

 然し、九州の豪族の兵士の中には、交代要員が船で来て居たであろうとは思いますが、国を留守にして居ては、帰りたがるものも多くなり始め、その事で、久米氏と大伴氏の仲が悪くなり、本拠地九州の不安も手伝って、久米氏が、軍勢を引連れて九州に帰って終った。

 是がBC5世紀の終わりごろで、その後に、大伴氏は吉備と葛城勢力との争いの巻き込まれそうになり、神武帝の4代後の皇族は九州に租界しました、ダカラ、その間の記録が残って居ないのでしょう。 この後、畿内を中心として豪族間の争いが、次第に激しくなって、特に丹波や越の国の豪族と、吉備・播磨、葛城・大和勢力3すくみの争いになって、戦いが固定化して終います。 是が倭国大乱の始まりでしょう。

 こんな現実的な流れの何処にも、卑弥呼と言うシャーマニズムの権化の様な存在は、在り得ない様に思います。

 この後4代200年近く九州に王朝が移って「孝」字をおくり名に持つ天皇が続きますが、この間が、本格的な「倭国の大乱」の時代で、久米氏が九州に帰ってから、大伴氏が豪族間の争いを纏め、9代目開化帝が大和に帰って来る迄の315年続いたと思います。 是がBC2世紀だと考えて居ます。

 其れと、モゥ一つ日本史上で語られて居ない、朝鮮半島での歴史が有ります。 是が、百済から匿われた、シナの戦争難民で、実は長江文明の遺民だった新羅が、慶州の山中で鉄山を堀あてて、元は、鉱山も手掛けていた南蛮族の彼らは、鉄を精錬し始め、其れを戦火が絶えないシナに売ろうと画策、然し、陸路では、輸送力に限りが有るので、海路で・・と言う事に成って、船を使った交易をやって居た倭族に依頼しました。

 それが、いつの間にやら、倭族にイニシアティブを執られて、鉄貿易は、完全に倭族のモノに成った、この利権を巡って、百済と新羅の仲が犬猿になって行くが、鉄も売れ化ければ、何もならないわけで、結局、慶州に任那と言う監視機関を置かれる事になった。 

 倭族は、根城を北乃至西九州の海岸地帯に持って居たから、半島との行き来も盛んだったし、済州島は、その貿易の中継点でもあったから、倭族も多くこの島に棲んで居た。 ダカラ、済州島の島民と西九州の漁民とは近縁者も多く、随い戦後起こった4・3事件の後、反日李承晩の標的にされたのだし、日本に難民として雪崩れ込んで来た25万人も、九州のあちこちに潜り込んで居る人達がいると思う。

 三韓征伐は、この百済と新羅が共謀して、倭族の追い出しに懸ろうとしたが、倭族も大和に天皇家を取り返されたのに、年貢だけは、朝廷に収めると言う形を取って居たから、不満が溜まっており、その不満が、九州を治めていた久米氏に向けられて、久米氏の救援要請を受けて、仲哀帝自らが、九州の平定と、新羅の鎮圧に向かったものと思われます。

 仲哀帝は、九州豪族との緒戦で矢に当たり、落命して終いますが、戦い自体は仲哀帝が連れて来た軍勢の援軍のお蔭で、久米氏が鎮圧しますが、朝鮮半島の方は、皇后の父親の武内宿祢の加勢も有ったが、神功皇后が身重の体をものともしない奮戦ぶりで、新羅を簡単に撃破、新羅に付き従って居たダケの百濟も高句麗も、新羅が降伏すると、簡単に降伏しましたので、主敵は、実は九州の豪族であったと考えるべきでしょう。

 然し、此処で謎が一つ出てきます。仲哀帝がお隠れに成られたのが、宮内庁の天皇家系図では、西暦200年と言う事に成って居ますので、三韓征伐も、その頃で、3世紀の初頭でしょう。 祖の戦いの最中にお生まれに成られた応神帝の出生念は、200年か201年と言う事に成りましょう。 でも帝が、即位されたのは、西暦270年になって居るのです。

 此処にも、語られて居ない謎が有ると言う事ですね。 そして、応神帝がお隠れに成ったのは、310年ですから、帝は70歳で即位され、110歳でお隠れに成られたと言う事に成り、ナンボなんでも可笑しいとしか思えませんね。

 以下は、私の私見と言うより妄想ですが、この間に、神功皇后と竹内の宿祢が、大和尊に謀殺された、九州の熊曽の平定を行って、戦いの最中に生まれた応神帝は、その戦いを引き継いだが、70年もかかったのは、九州の豪族と久米氏の和睦が整ったのも、帝が、九州に居る事を条件にしたからだった。 

 実はこの70年間に、2代の帝が九州にいて、大和に帰ったのは3代の後であったが、その不在の70年間に、大和の方でも仲哀帝の御薨去の噂を聴いて、仲哀帝の皇子2人を担いで、空位になって居る帝の座に就けようと、豪族たちが策謀を巡らすが、大伴氏が其れを抑えこんだ、大伴氏の力は、この頃から、兄弟になっていったのだと思いますね。

 ものの本に拠れば、この時代に、卑弥呼の存在を持ってくるものも有って、如何に卑弥呼の話が、根拠が薄いものであるかと言う傍証にもなりますね。 日本人が、自国の帝の代行を務めた方の名に、「卑」と言う字を使うとは思えないので、邪馬台国、大和説もあり得ませんね。

 まぁ、この様に宮内庁出典の天皇家系図にも、謎が多くて、私の説も全く纏まらないんですがww

 但し、鉄貿易を弥生時代とされる時代に、海洋民の倭人が行って居て、その所為で、九州北部、西部と、半島南部は、古くから浅からぬ結びつきが有った事だけは、確かだと思って居ます。 その鉄山の労働者は、後に、吉備や出雲に流入して、鉄を生産し、たたら製鉄法を編み出し、日本のあちこちで、製鉄業を始めていると思いますね。 日本刀の作刀の原型でしょうね。

 正月早々、長くなりました。 ブログ主様、本年もよろしく。

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