無料ブログはココログ

« 邪馬台国なる国があったなどいうのは、でっち上げの産物であり、歴史学的にも信憑性がなにひとつない | トップページ | 死を見るから、生が輝く »

2019年1月 5日 (土)

孫子は駆け引き、謀略、心理情報戦を駆使し、戦力の確保に努めながらも直接的な戦いは可能な限り避けて、味方も敵も利用しようとする

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

森田吉彦『吉田松陰「孫子評註」を読む』(PHP新書)

現代支那は戦略の方法論に孫子を援用していると考えられている。

しかし現代の戦略家エドワード・ルトワックの「孫子の兵法」にたいする評価は低い。

「古代の顔が見えるような狭い世界でのみ通用する戦略に過ぎない」と。

ーー

日本人は、その卑怯な権謀術数に、支那・朝鮮人の生きざまを重ね見る。

だから日本では孫子は、国家安全保障の参考になど用いられず、まして国家百年の戦略論としては読まれてはこなかった。

それゆえ『孫子』は、いわば顔の見える範囲のビジネス、あろうことか経営の指南書として転用されている。

ーー

かくいう評者(宮崎)は、嘗て「それは間違いだとして」孫子を論じた一冊を上梓した。

しかも評者が吉田松陰を書いた時以来、松陰が孫子を論じたことに興味を持っていた。

ーー

『吉田松陰全集』の第五巻に「孫子評註」の全文が収録されており、松陰がどのように孫子を読みこなしていたかが分かる。

いま本書を論ずるにあたり併読をしようと本棚を捜したが見あたらない。

三、四年ほど前に、吉田松陰を書き上げて編集者に引用文献として渡し、後で段ボールに入れて返却された。

それを、そのまま押し入れにしまったままだったからだ。

ーー

ともかく吉田松陰は松下村塾では孔子、孟子に加えて、孫子も教え、仲間と論評し合い、評注を加えた。

そして、野山獄から江戸に送られる直前に『孫子評注』を脱稿し、原稿は久坂玄瑞に託した。

久坂は周知のように松陰の妹と結婚していた。

その後、久坂は京都で「戦死」し、高杉は下関で病に倒れた。

ーー

だが、明治維新がなって、思想的源流としての松陰評価が始まると、松陰の『孫子評注』が世に出た。

この書物に最も感動して私家版を印刷し、有識者に配布したのは乃木希典だった。

日清日露の戦役前、軍幹部らは、これを読んでいたことになる。

ーー

さて本書の著者、森田吉彦氏の名前に記憶がある。

そうだ、若泉敬の評伝を書いた大学教授だと気づいた。

氏は吉田松陰の著作のなかで、『講孟余話』や『留魂録』『幽囚禄』より、この『孫子評注』を代表作と位置づける。

大胆な評価である。  

ーー

もとより松陰は兵学者であり、先師は山鹿素行であり、藩主に講義したほど古典に通暁していた。

しかも鎖国攘夷の過激派と誤解されがちだが、ペリーの黒船に乗り込んで米国へ密航を企てたほど、諜報(インテリジェンス)重視を説いた。

松陰は蛮勇も持ち合わせたことになる。

藩が動かないなら、自ら間者(かんじゃ、スパイ)になろうとしたのだ。

影で松陰を支援し軍資金をあたえていたのは佐久間象山だった。

ーー

森田氏は言う。

一般的な日本人は、孫子から「不信に満ちた人間社会の剥き出しの権謀術数を」読みとる。

それゆえ日本人は「孫子は何と卑怯で悪意ある人間かと呆れてしまった」のだ。

ーー

江戸時代は儒学の影響から孫子を読んでも遠ざけた。

「孫子は駆け引き、謀略、心理情報戦を駆使し、戦力の確保に努めながらも直接的な戦いは可能な限り避けて、味方も敵も利用しようとする」

「その理想型は『戦わずして勝つ』である」

「江戸時代の日本では、『孫子』が武士の道に適わないことがまず懸念され」た。

ーー

しかし松陰は師・山鹿素行とは異なる見解を述べている。

『講孟余話』で「戦う能力を持つから武士なのではなく、国のために命を惜しまない者が武士なのだ」と。

それゆえ著者は、松陰は孫子の範疇を越えているとも指摘している。

ともあれ、30歳になる前に斬首された吉田松陰の卓見には驚くばかりである。

« 邪馬台国なる国があったなどいうのは、でっち上げの産物であり、歴史学的にも信憑性がなにひとつない | トップページ | 死を見るから、生が輝く »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>孫子と吉田松陰
 現代の戦略家として高名なルトワック氏の孫子への評価が低いのは、前提とする状況が古代シナと現代の世界とは、余りに懸け離れているのは誰でも分る話なので、低評価を下すルトワック氏の方の見識を疑いたい。

 孫子を兵法者としてだけ見るのではなく、寧ろ政治家つぃて見れば、国力、特に人材の消耗を極力避けて、国家を富国強兵化しようとすれば、熱戦は下策である事は言うまでもない。

 然し、群雄割拠の戦国時代を勝ち抜いて行く為の献策としては、「戦争で勝つ」事が、最上策なのだが、戦争で勝ち続ける為には、国力を出来るだけ温存しなくてはならず、「戦わずして、権謀術数で勝つ」と言うのは、称賛されて当然でしょう。 日本の戦国大名も結局の処、秀吉も家康も、この結論に辿り着いて居る様に見える。

 二人が、孫氏を読んで居たかどうかは知らないが、彼らが召し抱えていた兵法指南役は、当然の如くしって居たであろうから、ともすれば、「卑怯な作戦」とみえる手段を最終的に選択したのは、総帥である彼ら2人が、「歴史に汚名を遺す事に成る」蛮勇を揮ったと言う事だろうが、それ程、戦争と言うものが齎す悲劇や損失は、大きかったと言う事ですね。

 但し、現代の戦争の大部分は情報戦ですから、大抵は、ルトワック氏が言う、「互いの顔が見える範囲で有効な兵法」だと言うのは、高度な通信機器の発達に拠って、地球の裏側の事すら、数時間で正確に知り得る現実を言い表して居ると言えましょうし、「現代では、参考程度しか役に立たない」と言う低評価は、当たっていると思います。

 私は長州嫌いから、不覚にも60歳になって大河ドラマで知る迄、吉田松陰を良く知らなかったので評価もして居ませんでした。 そういう意味では、歴史教育と言うものは、小学、中学、高校、大学、専門家と段階別に、深度に併せて、歴史情報を整備すべきだと思いますね。

 さて松蔭の怜悧な兵学者としての一面とは別に、態々長州から敵地とも言える関東まで、隠密に出かけて行って、黒船に乗り込んでゆく驚くべき行動力には、彼が熱血漢でもあった事を示して居ると思います。 それも、彼の止むに止まれずの行動の原点に、彼に内在する「知りたい」欲求の強さが感じられますね。

 彼には「孫子評法」と言う、絶筆があったわけで、結果から言えば、彼は、この評法を完成する為に、敢えて死罪の危険を冒して、黒船に乗り込むと言う暴挙を行ったものと考える事も出来よう。 長州の後輩の乃木が、読んで感動するのも分る。

 マァ、こう言うタイプの人物は、得てして長生きは出来ないモノですが、それでも29歳で斬首は勿体無いと言う他は無い。

 安政の大獄を始めとした、一連の処断を下した井伊直弼の不見識ぶりは、歴史的な非難を受けても仕方が無い、是は、15代将軍徳川慶喜も同じで、江戸期の武家の常識としての「お家の存続」に捕らわれ過ぎて居て、国難と言う巨視的なものを見失って居るとしか思えないが、後世の結果論と言えばそれ迄の事でしょうね。

 でも、慶喜が徳川家の安泰を敢えて捨てて、幕府の維持に拘っていれば、江戸は火の海に成ったであろうし、逆に、端から、鳥羽伏見で官軍を取られた時点で降伏・帰順して居れば、江戸幕府は、慶喜に代わって、16代将軍を建てたかもしれないので、歴史に現れた、江戸総攻撃前日に、漢軍の西郷と、幕府軍の勝海舟の会談に拠る、江戸の無血開城が、最善の展開であったと言えるでしょう。

 日本人は、3倍以上の敵兵をものともしない、荒ぶる魂も持ち合わせているが、結局の処、「安寧な世」であり、私心よりも、公に資する行動や考えが、称揚される社会だからこその展開を見せている事を、日本人の子孫達は、学ぶべきであろう。 斯うした、先人達の命を賭けた行動の原点に、この尊く有り難い日本の国体を護らんとする共通した魂が潜んで居る事を、知らなくては、日本人として生きたとは言えない、と私は思いますね。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 邪馬台国なる国があったなどいうのは、でっち上げの産物であり、歴史学的にも信憑性がなにひとつない | トップページ | 死を見るから、生が輝く »

2020年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31